2023/07/25(火)22:24
オム・ユナ「マルモイ」元町映画館no62
オム・ユナ「マルモイ」元町映画館
2020年の秋、だから今年の秋ですが、辞書を作る映画を2本みました。1本目は「博士と狂人」というイギリス映画で、オクスフォード英語辞典Oxford English Dictionary、通称OEDの誕生秘話とでもいう映画でした。
登場人物や、映画としての物語についてはここでは触れませんが、辞書を作っている人の「ことば」の集め方が、「失楽園」とか「聖書」とか、書物での使用法の引用をメインにしていたことが印象的な映画でした。
2本目がこの映画「マルモイ」でした。
チラシの副題には「ことばあつめ」と記されています。「マル」は朝鮮語で「言葉」、「モイ」は「集める」という意味だそうです。「言葉+集める」で、朝鮮語では「辞書」という意味になるそうですが、この映画は、文字通り半島全土で使用されている日常語を「集める」様子を描いた映画でした。
文盲で「置き引き」や「すり」を働いて二人の子どもを育てている、刑務所帰りのキム・パンスという男と、留学帰りで、朝鮮語学会を率いるエリート、リュ・ジョサンという、インテリ青年の出会いから映画は始まりました。
キム・パンスを演じる、ユ・ヘジンという役者さんが我が家では人気で、実は、この日も同伴鑑賞でしたが、期待にたがわぬ大活躍でした。
辞書を作ろうかという真面目な人たちや、なぜか、京城中学というエリート学校に通う中学生の息子や、小学校に上がる前のかわいくて利発な娘にかこまれて、「フーテンのトラ」の、渥美清もかくやという大活躍でした。
脚本の力でもあるのでしょうが、本来、抵抗映画として重くなるほかはない映画全体を、彼の存在が明るく、勢いづける原動力となっていて、大したものだと思いました。 映画を見終わって、チッチキ夫人が、ぼそりといいました。
「映画の中のいろんなことが、ああなったのって、日本人がやった事でしょ。映画の中で、頑張っている人に、そうだ、そうだと思いながら、なんだか悲しくなってきたわよ。」
「うん、あの、オニーさんの方が留学から帰国したソウルの駅前で、子どもたちが言うたやろ、日本語で。ぼく、朝鮮語できません、って。それから、小学校に上がる娘が言ううやん。キム・スンヒのままがいい、って。」
「あの子ら、今、80越えてはんねんな。うちのオカーチャンとかと一緒くらいやろ。台湾でもそうやろ。」 そのまま話がとぎれて、帰宅しましたが、気にかかったことがありました。唐突ですが、朝鮮語で「国語」といういい方はあるのだろうかということです。
日本の学校では、今でも、日本語のことを「国語」と言います。でも、この言葉を、直訳で英訳すれば「National language」であって、「Japanese」ではありません。
韓国語では「ウリマル」といういい方があるそうです。「ウリ」は「私たちの」、「マル」は「言葉」で「私たちの言葉」という意味になるそうですが、「ハングル」を指すそうです。日本語の「国語」とは少し違いますね。
で、数年前に読んだ本を思い出しました。「国語という思想」(岩波書店)という、イ・ヨンスクという、一橋大学の学者さんがお書きになった本です。
その本で彼女は、日本語を「国語」と固有名詞化した、近代日本のイデオロギー、政治的意図について詳細に論じていて、スリリングな本ですが、この映画を見て、イ・ヨンスクさんが、なぜ「国語」を研究対象にしたのか、彼女が言う「近代日本のイデオロギー」の正体とは何だったのかが腑に落ちた気がしました。
「国語」と「帝国臣民」を押し付け、「言葉」と「名前」を奪った統治政策の「悪質さ」は、まだ十分に検証されてはいないのではないでしょうか。ヨーロッパの帝国主義諸国も同じことをしたいう人もありますが、果たしてそうでしょうか。「同じこと」とは、実は言えないのではないでしょうか。
ぼくは「国語辞典」を愛用していますが、なぜ、この「国語」という言い方に疑問を持たなかったのでのでしょう。そんなことを考え始める映画でした。
監督 オム・ユナ
製作 パク・ウンギョン
脚本 オム・ユナ
撮影 チェ・ヨンファン
編集 キム・サンボム
キャスト
ユ・ヘジン(キム・パンス)
チョ・ヒョンド(キム・ドクジン:中学生の息子)
パク・イェナ(キム・スンヒ:幼い娘)
ユン・ゲサン(リュ・ジョンファン)
キム・ホンパ(チョ・ガプイン先生)
ウ・ヒョン(イム・ドンイク)
キム・テフン(パク・フン)
キム・ソニョン(ユ・ジャヨン)
ミン・ジヌン(ミン・ウチョル)
2019年・135分・韓国
原題:「Malmoe」 The Secret Mission
2020・11・13元町映画館no62
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