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ゴジラ老人シマクマ君の日々

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2020.11.29
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​​​​​内山節「戦争という仕事 内山節著作集14」(農文協)
​​​​ フェイス・ブックというSNS上で知り合った方が、「二十四節季の暦」の記事を投稿されていて、ぼく自身も、自宅の「某所」に下がっているカレンダーが、その暦だということもあり、うれしくなったのですが、ちょうど読んでいた内山節という哲学者の「戦争という仕事」というエッセイ集に「断片化」という題で二十四節季をめぐる話がジャストミートしました。​​​​
 とりあえず、その記事を引用してみます。要点を整理すればいいようなものですが、内山節という人の書き方も知っていただきたいので、全文書き写します。​​
​「断片化」​
 いつの頃からか私のなかには、普通のカレンダーの暦と二十四節季の暦とが、二重に存在するようになった。それは、上野村で農業をすようになってからのことで、農事暦や村の暮らしの暦としては、二十四節季のほうが的を射ている。

 たとえば二十四節季では、今年(2005年)は三月五日が「啓蟄(けいちつ)。虫が冬眠からさめる日である。上野村では、ちょうど咲きはじめたフキノトウの花に蜂がやってくる頃で、私も近づいてきた春を感じながら、そろそろ春の農作業のことを考えはじめる。そして三月二十日は春分。私が土を耕しはじめる季節の到来である。今年は十月八日が寒露、二十三日が霜降である。この頃私は、秋野菜のの成長を見守りながら冬の備えを積み重ねる。こんなふうに、村で自然とともに暮らしていると、二十四節季のほうがなじむ。
 ところがその私も、東京にいるときは、カレンダーの暦で暮らしている。仕事のスケジュールなどが、普通のカレンダーの暦でつくられているのだから、それに合わせる他ない。
 このふたつの暦は、私にとってはずいぶん質が違っている。二十四節季から私が感じ取るものは、自然であり、季節、村での仕事や暮らし方、村の様子である。それは、あらかじめつくられている暦なのに、私の一年がつくりだした暦のような気さえする。それに対してカレンダーの暦はまるで私の上に君臨しているような感じで、たえず私を圧迫しつづける。
 二十四節季には、暦とともに、つまり時間とともに生きているという充足感があるのに、カレンダーの暦にむかうと、消えていく時間、過ぎ去っていく時間ばかりが感じられて、時間自体のなかに充足感がなくなる。
 労働は時間とともに展開する肉体的、精神的な活動である。たとえば、私たちは一日の八時間を労働として活動するように、労働には必ず時間が伴われている。ところがその時間の質はひとつではなく、労働とともに時間をつくりながら生きているという充足感に満ちた時間も、消えていく時間の速さに追い立てられるばかりの時間も現れてくる。
 もちろんどんな暮らし方をしていても、人間が時間に追われることはあったに違いない。私の村の暮らしでも、近づいてくる夕暮れに追われながら、その日の畑仕事に精を出すことはしばしばである。だがそれでも、東京の時間=現代の時間とは何かが違う。村では、自分がつくりだした時間のなかに、忙しく作業をこなさなければいけないときが現れてくるのであって、人間の外に君臨する時間に支配され、管理されるわけではないのだから。
 このようなことの背景には、結ばれていく時間と断片化していく時間との違いがあるような気がする。村の時間は、結ばれていく時間である。仕事の時間と暮らしの時間が結ばれ、それは自然の時間や村の一年の時間とも結ばれる。啓蟄になると、虫がでてきて、畑のときが近づき、人間たちの春の暮らしがが始まり、村は次第に春祭りへとむかっていくようである。この結ばれていく時間のなかに、みずからがつくりだしている「生」がある。
 ところが、カレンダーや時計に管理された現代の時間には、このような結びつきが感じられない。仕事は仕事の時間に管理され、それだけで自己完結してしまう。つまり断片化しているのである。暮らしの時間はさらに断片化し、それぞれの個の時間として自己完結する傾向をみせている。自然の時間や地域の時間との結びつきも切断されていく。そして、断片化したそれぞれの時間を、カレンダーや時計の時間が管理する。
 創造的とは、総合的ということとどこかで関係しているのだと思う。村では創造的な農業をやろうと思えば、自然のことも、村や暮らしのことも知らなければできないように、どんな仕事でもそれがさまざまな領域と結びついているとき、仕事の創造性も生まれる。
 私たちは、結ばれていく時間を失ったとき、創造性も失ったのだと思う。断片化された時間から生まれてくるものは、時間の管理であり、それと同時に私たちは、時間をつくりながら生きているという充足感も喪失した。
 そして、だから私たちの前には、豊かなのに豊かではないという現実がある。
                 ​(「戦争という仕事 著作集⒁」P274~P276)​
​ ​内山節​という哲学者は、新コロちゃん騒ぎでウロウロ徘徊することがはばかられるようになって、読み始めた人です。ちょこちょこと読んで、名前は知っていた人ではあるのですが、農文協という所から全部で15巻の著作集が出ていたので、読みでがあるかなという気がして、とりあえず、第14巻「戦争という仕事」を借りてきました。​
​​ 2004年から2005年にかけて、「信濃毎日新聞」に連載された「哲学の構想力―仕事をめぐって」という連載に、「戦争の世紀」、「世界の変わり目を感じる」という2本の原稿が追加されて、まとめられている1冊でした。​​
​ 題名が気に入って、借りたのですが、「哲学の構想力」だったら後回しになっていたと思います。読み始めてみると、内容はかたい書名とは裏腹で、日々の暮らしのなかに話題を見つけたエッセイ集でした。​
​​ 内山節は、著作集にまとめられた思索の過程を貫いて、「労働」、「仕事」、「働くこと」を考え続けている哲学者だと思います。​​
​​​​​ このエッセイでは人間に共通の営みである「働く」ということを考えはじめれば、「時間」ということを考えることは避けてはいられないし、そこで感じている「時間」のなかに、その時々の人間の生きている姿が映し出されているということが語られていると思いますが、ぼく自身、コンクリートの箱に住み、その、冷たい壁に、なぜ、二十四節季の暦をかけて、毎日読み返すのか、なぜ、SNSに投稿される「小雪」とかの記事に心惹かれるのか、少しわかったような気がしました。​​​​​
 読み終えて、ヤッパリ本を手に入れたくなったのですが、叱られそうなので躊躇していますが、どうなることやらという感じです。

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最終更新日  2022.03.25 00:11:33
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