2024/03/10(日)21:51
週刊 読書案内 阿部公彦他『ことばの危機―大学入試改革・教育政策を問う』(集英社新書)その1
100days100bookcovers no45(45日目 その1)
阿部公彦他『ことばの危機―大学入試改革・教育政策を問う』(集英社新書)
大変遅くなってすみません。今月買ったばかりの本です。
KOBAYSIさんの紹介の池谷裕二の2冊の『怖いくらい通じるカタカナ英語の法則』・『一気にネイティブ! 魔法の発音 カタカナ英語』とその取り上げ方がとても愉快でしたね。
「カタカナ英語」が通じるか、どなたか試されましたか。それで思い出したことがあります。日本に5年住んでる英国人の知り合いが言っていたことです。日本人女性と結婚していて流暢に日本語を話し、漢字の読み書きも多少できる人でした。
「日本語にカタカナいるの?ひらがなと漢字だけで充分。あちこちにカタカナで書かれているものがたくさんあって、読むのが難しいな。ひらがなを最初にマスターして、漢字も日常生活に必要な程度はわかるのに、カタカナで書かれるとわからない。カタカナで書くならひらがなと両方書いてほしい。いっそカタカナなくてもいいのに。」 日本人は外来語はカタカナってすぐに反応するけれど、英国人にとってはカタカナより、もともとのアルファベット表記の方がすぐわかるのに、何を七面倒な ということでしょうね。
もう15年ほど前の話です。そのころ、日本人の奥さんとの間にベビーもできたし、そのまま日本で暮らしてたらカタカナを覚えたかなあ。もし覚えたとしたら、いまはどう考えているのかなあ。私自身は、彼のおかげで日本語を今までとは違った眼で見たりすることを少し理解できたかな。
日本語にカタカナがなかったらどうだったんだろう?カタカナがこの世から消えてしまったら?外国語を取り入れるのは不便にはなるけれど、不便なものを相手にするために、もっと言葉を大事にするという効用もあったのでないかしらと思うこともあります。
「言葉を大事にする」っていえば、いつからか「説明責任」という言葉をよく聞くようになりました。でも今になって思うのは、「説明責任」とは号令ばかりで、全然言葉が大事にされていない風潮がどんどん強くなってきているように感じるのは私だけでしょうか。
おりしも、学術会議から推薦された新会員の6名を首相が任命拒否したというニュースが流れてきました。党員投票もやらず自民党国会議員選挙で党総裁になり、ほぼ自動的に首相になった菅首相という方は官房長官の頃から、頭も切れ意地もあるという評判でしたが、「そのような指摘は当たらない。」とか「全く当たらない。」という言葉で記者会見を済ませてしまう、言葉を大事にされないように見えていました。
今回の任命拒否の件についても記者会見で「総合的・俯瞰的活動を確保する観点から判断したもので、学問の自由とはまったく関係ない、」を繰り返すばかり。その後も任命拒否の理由は全く説明されないまま。世論が「学術会議のあり方の問題」にすりかわっていくように巧妙にしかけているのかと邪推してしまいます。言葉は信じられていないのでしょうか。言葉が信じられない社会の、学校で国語の授業をするとはどういうことなのか混乱しています。
ことばの危機でしょうか?もう聞き飽きたかもしれませんが、そういうタイトルの本を今回は取り上げます。一緒に考えていただければ嬉しいです。
『ことばの危機―大学入試改革・教育政策を問う』
阿部公彦・沼野充義・納富信留・大西克也・安藤宏 東京大学文学部広報委員会(編)
集英社新書 2020年6月22日第1刷発行
この本は2019年10月19日の東京大学ホームカミングデイ文学部企画の「ことばの危機―大学入試改革・教育政策を問うー」というシンポジウムでの講演と討議を基にして編集されています。
このところ、大学入試の新テスト導入での様々な混乱が起きています。英語の民間試験の導入や、数学国語の記述式問題の是非をめぐり世論も高い関心を示し、とりあえず導入が見送られることになりました。今回は受験生の負担や不公平といった現場を軽視してきたことにたいして実施面で世論が反応しました。しかし、これから高等学校の国語という教科が大きく変わることになっています。
現行の「現代文」という科目がなくなり、「論理国語」「文学国語」のどちらかを選択することになります。来春入学する高校生から適用されます。
「現代文」の教材には小説、詩、短歌、俳句、評論、随筆などが含まれていました。しかし、これからは日本語で表現されたものを「論理国語」「文学国語」と分けてどちらかを選ぶのですが、大学入試対策を講じると、多くの学校が「論理国語」を選択することになるかと思います。
今のところ、教科書見本はまだ学校現場には届いていません。現場の国語の先生たちも教科書の中身も見たこともないままカリキュラムを作ることに苦慮しています。2年生以降、『山月記』『こころ』『舞姫』など全くやらないで評論だけやって生徒の興味関心を持たせられるのか?会議の議事録や契約書の読み方を2年間やり続けることに???という状態です。
このような大きな改変について考えていただくための東大文学部関係者による講演録です。
構成です。
はじめに (安藤宏/国文学)
第一章 「読解力」とは何か――「読めていない」の真相をさぐる(阿部公彦/英語英米文学)
第二章 言葉の豊かさと複雑さに向き合う――奇跡と不可能性の間で(沼野充義/スラヴ語スラヴ文学)
第三章 ことばのあり方――哲学からの考察(納富信留/哲学)
第四章 古代の言葉に向き合うこと――プレテストの漢文を題材に(大西克也/中国語文化)
第五章 全体討議 日本の子どもの学力が落ちた。読解力が落ちた。数学や英語を学ぶにしても国語が基礎なのに、それがない。私の狭い学校世間やテレビからよく漏れ聞こえてくる声です。世間では通説になっているのでしょうか?
この本では、「読解力」問題が世間で注目された2例を挙げています。経済協力開発機構(OECD)の国際学習到達度調査(PISA)での日本人の順位の低下のニュースと、新井紀子著『AI vs.教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社、2018年)が話題になるという現象です。この本は「人工知能はすでにMARCH合格レベル 人間が勝つために必要なこと」と帯に書かれ、教科書も読めない子どもは将来AIに仕事を奪われるのではないかと思わせられました。
この「読解力低下」問題にどう対策を講じるか。その対策として、国語を「論理国語」と「文学国語」と分離することが考えられたというのが、安藤宏や阿部公彦の立場です。
この問題の背景については充分に考えられないまま、“説明のつきやすい”原因探しをして、問題点を発見し、早急な対策を立てようとした結果、充分な根拠のないまま拙速な対策となり、結果的に「人文知」がないがしろにされてしまうのではないかと危惧しています。私はここで「人文知」の持つ「わからなさ」を大事にしたり、「わからなさ」を包摂しつつ生きる「知」の面白さを大事にしろというメッセージがおもしろく思えましたが、あとは引用を上げます。
(長くなるのでこの後は「ことばの危機」その2(安藤宏・阿部公彦)・その3(納富信留)に続きます。)
追記
この記事のその2、その3はリンクを貼りましたので、ここをクリックしてくださいね。
追記2024・03・08
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