2023/01/03(火)10:56
週刊 読書案内 高橋源一郎「読むって、どんなこと?(その3)」(NHK出版)
高橋源一郎「読むって、どんなこと?(その3)」(NHK出版)
せいぜい100ページ余りの「読むって、どんなこと?」を案内するのに、えらく手間取っています。単なる偶然ですが、引用されているテキストのほとんどがぼくの書棚にもあることがうれしくて読み直しているとかしているわけでもありませんが、案内し始めると立ち止まってしまって、やっぱりこれも書いておこうという感じなのです。
だからと言って、ここに書いていることに意味があるとか言いたいわけではありません。でも、例えば今から案内する6時間目のテキストの詩なんて、やっぱり考え込んでしまうわけです。
で、(その3)は6時間目の紹介です。テーマは「個人の文章を読む」ですが、
国文学者で、詩人の藤井貞和の詩がテキストです。
とりあえず詩を引用します。高橋先生は「いい詩だ。」と言い切っていますが、いかがでしょうか。 雪 nobody
さて、ここで視点を変えて、哲学の、
いわゆる「存在」論における、
「存在」と対立する「無」という、
ことばをめぐって考えてみよう。
始めに例をあげよう。アメリカにいた、
友人の話であるが、アメリカ在任中、
アメリカの小学校に通わせていた日本人の子が、
学校から帰って、友だちを探しに、
出かけて行った。しばらくして、友だちが、
見つからなかったらしく帰ってきて、
母親に「nobodyがいたよ」と、
報告した、というのである。
ここまで読んで、眼を挙げたとき、きみの乗る池袋線は、
練馬を過ぎ、富士見台を過ぎ、
降る雪のなか、難渋していた。
この大雪になろうとしている東京が見え、
しばらくきみは「nobody」を想った。
白い雪がつくる広場、
東京はいま、すべてが白い広場になろうとしていた。
きみは出てゆく、友だちをさがしに。
雪投げをしよう、ゆきだるまつくろうよ。
でも、この広場でnobodyに出会うのだとしたら、
帰ってくることができるかい。
正確にきみの家へ、
たどりつくことができるかい。
しかし、白い雪を見ていると、
帰らなくてもいいような気もまたして、
nobodyに出会うことがあったら、
どこへ帰ろうか。
(深く考える必要のないことだろうか。) 高橋先生は「nobodyがいたよ」という言葉が生まれる場所について「あちらの世界とこちらの世界」を行ったり来たりする「すきまの世界」だといっています。そして、そういう場所にしか存在しえないものとして「個人」という概念を持ち出してきました。
で、その話の続きで引用されるテキストが詩人荒川洋治の「霧中の読書」(みすず書房)というエッセイ集からウィリアム・サローヤンの「ヒューマン・コメディ」(光文社古典新訳文庫)の紹介である、「美しい人たちの町」についてという文章でした。
5時間目の「審判」の主人公は「故郷」から旗を振って送り出された兵士が「帰るところ」を失った話だったといってもいいかもしれません。藤井貞和の詩に登場する小学生は、あっちの「故郷」とこっちの「故郷」の間に立って友だちをさがしています。サローヤンが描いた、「イサカ」という美しい町は戦地で死んだ青年の戦友が、友だちの話に憧れてやってくる町でした。
気付いてほしいことは、それぞれの登場人物たちが、それぞれ「一人」だということだと高橋先生いっているようです。
さて、やっとたどり着きました。「おわりに」の章は、「最後に書かれた文章を最後に読む」というテーマで批評家加藤典洋の「大きな字で書くこと」(岩波書店)から「もう一人の自分をもつこと(2019年3月2日)」というテキストの引用でした。
鶴見俊輔の文章もそうでしたが、このテキストも加藤典洋の遺稿といっていい文章です。「読む」ということを考えてきた授業の最後に高橋先生が取り上げたのは、批評家が書き残した「キャッチボールの話」でした。ボールは言葉だなんていうことを言ったわけではありません。「一人」で生きてきたことを自覚していた批評家が何故、最後の最後にキャッチボールの思い出を書いたのか。そこを考えることが「読む」こととつながっていると高橋先生はいいたかったのかもしれません。
なんだか、ネタをばらさないで書こうとした結果、最後まで意味の分からない文章になりました。 多分図書館で借りることができる本だと思います。「読む」だけなら半日もあれば大丈夫です。興味を引かれた方は是非読んでみてください。まあ、考えはじめれば「尾を引く」かもしれません。少なくとも、子供向けで済ますことはできない話だろいうことはわかっていただけるのではないでしょうか。
いや、ほんと、ここまで読んでいただいてありがとうございました。
(その1)・(その2)はこちらからどうぞ。