ゴジラ老人シマクマ君の日々

2024/01/03(水)11:21

週刊 読書案内 幸田文「みそっかす」(岩波文庫)

読書案内「昭和の文学」(25)

​週刊 読書案内 幸田文「みそっかす」(岩波文庫)​​​ ​はじまり  明治三十七年九月一日。暴風雨(あらし)のさなかに私が生まれたという。命名の書には忠文とだけ。第一子は母体を離れぬうちに空しくなったが、これは男子であったそうな。位牌には夢幻童子とあった。第二子は女、歌という。父は三子に男を欲していたという。そこへ私が出て来たのである。​(P9)​​​​ ​先日、順番が回ってきた「100days100bookcovers」で​幸田文​の​「おとうと」(新潮文庫)​を紹介しようと引っ張り出すと、書棚の隣に並んで立っていたこの文庫が一緒に出てきました。やたらとタバコをふかす部屋の本たちの悲惨は、今更いうまでもないことなのですが、​「おとうと」​と肩を並べていた三冊の本が一緒に引き出されて来たのでした。​ ​ 貼りつき合っていたのは​新潮文庫版​の​「おとうと」、「父・こんなこと」​、そして、この、​岩波文庫​​「みそっかす」​でした。要するに長年の煙草のヤニに貼り付けられて、さわられもせずに立たされていた薄汚れた三冊なのですが、久々に人の手に触れて、「我も我も」と日の目を求めて出てきたというわけです。なんだか「あわれ」を感じ、とりあえずティッシュで拭い、開いて読み始めました。​ ​ 出版の記録は​1951年​となっていますが、​昭和24年、1949年​に書かれた作品です。​幸田文​が​「文章家(?)」​になった、最初期の作品の一つで、彼女の出生から小学校の卒業までの生活を綴った随筆ということになっていますが、​​​​​​「自伝小説」​​​​​​ というほうがいいかもしれません。​  上の引用は作品の冒頭ですが、こんな記述が続きます。​  ​恵まれた子を喜ばぬということはもちろんあり得ないけれど、男子を待ち望んだ心には当て外れの淋しさがあったのだろう。産褥の枕もとから立ちあがる父と入れかわりに、葛湯をすすめに行った下婢おもとは、母がほろほろと涙を流しているのを見、「女だって好い児になれ、女だって好い児になれ」と繰り返しているのを聞いたという。お産につかれて敏感になった女心が、すぐに父の張り合いない淋しさを映して、続けて女の子を二人生んだという理由のない間のわるさに涙したものであろうか、あわれに思いやられる。​(P9~P10)​​​​ 生まれてきた女の子が​​幸田文​​自身なのですが、​​​​これが幸田文!​​​​ とでもいうべき筆運びだと思いました。描写の対象との距離の取り方が絶妙で見事なものです。  ついでなので、最後の​「卒業」の章​を写してみます。 ​  卒業  上の学校へ行くものは級の三分の一に満たず、男生徒も半数はなかったのである。入学試験のための特別学習などということも、大したことはなかった。妙なことに卒業が間近くなると、男女生徒のいがみ合いをぱたっととまった。学業を続けるもの、家事にとどまるもの、働きに出るもの、めいめいそのもの同士が極々自然に少しずつ寄り合い、少しずつだんだんに話しあい、相通うものをほのかに感じつつ、なんとなく残り惜しみつつ、やがてさよならをいう卒業式になった。みんないい着物を着て来、おとなしくして騒がない。父兄も大勢来たが、私の父もははも来なかった。校長、村長の、訓辞・祝辞あたりから、みんなめそめそ泣きだし、男の子のないてるのもある。が、私はちっとも悲しくならない。泣かなくては悪いとおもったが泣けなかった。同し土地にこうして知りあって住んでいるものが、なんで別れなどということになるのだか、どうしてもわからなかった。小学六年間の友達が、その後三十年四十年と消息しあうということは、実際あまりない珍しい話なのである。現に私の経験は、百名に近い同級男女のうち大部分のものに、その後一度も相会わないのである。このままでいずれは知らず死んでいくのだろう。かりそめの別れは、ついの別れにつづく。大切な時に釘が一本脱けている私の根性というものは、しょうがないものである。​(P205)​​​ ​明治37年、1904年​生まれの​幸田文​の小学校の卒業式といえば​大正時代​のことで、今から100年以上も前のことですが、小学校を出ると、もう、働きに出るというあたりが今とは全く違います。  戦後生まれのぼくたちの感覚では中学校までが義務教育ですから、この卒業式の感覚は昭和の子供たちにとっては中学校の卒業式の感覚に近いのですが、現代の二十代、三十代の方であれば、高校の卒業式といってもいいかもしれません。 ​​ この後、​幸田文​の小学校の卒業式の話は続きます。​​​​はたして文ちゃんは泣いたのでしょうか?​​ ​​というところで、紹介を終えようかとも思ったのですが、とりあえず、最後まで紹介します。​​​​ ​ 免状の授与になった。みんなが泣くのをやめて伸びあがった。私は総代になれなかった。が、それもさして気にはならず、なぜなら先生に帳面を見せてもらって、ほとんどの順位をずっとまえから知っていたので詰まらなかったのである。式は終わりに近く、卒業生は「仰げば尊し」をうたうのである。泣きぬれて歌えない子もいた。女生徒がそんな風なので、男性とは歌のテンポをおそろしく伸ばしはじめ、オルガンにははるかに外れて、まことにぶざまな合唱である。「身を立て名をあげ、やよ励めよ。」突如、私はどっと襲われた。身を立て!名をあげ!二宮尊徳だ、塙保己一だ、ああなんということだろう。どうして身を立てることなんて私にできるもんか。勤倹力行とか刻苦勉励とかなんていうのは私は大嫌いだった、窮屈で苦手だった。卒業式だというのに、まだ「身を立て名をあげ」の宿題がのこっているとは、どういうわけだろう、できるはずもないのに。それでは到底この学校へは二度と遊びには来られない、と思ってはじめて別離の感が身をつつみ、はげしく泣き、「いざさらば」と唱った。​(昭和二十四年二月)(P205~P207)​​ ​​いかがでしょうか。自らの小学生時代の出来事を40年後に振り返っている文章ですから、当然、「事実そのまま」というわけにはいかないでしょうし、いくばくかの記憶捏造も加わっているに違いないわけですが、こうして書き写していて、面白くてしようがないような文章ですね。  最後の​「どっと」​来て、その後の内心に対する書き込みがあって、​「はげしく泣く」​結末までの「間」なんて、何とも言えないですね。​​ ​​ 今、「自分」のことを書くにあたって、どうしてもゆずりたくないものが、確かにある​幸田文​の「根性」が躍如としていると思うのですが、いかがでしょう。​​  全編にみなぎるのは、その「こだわり」です。普通、そういう文章は読んでいて肩が凝りそうなのですが、凝らないのが彼女の文章の特徴です。  おそらく、対象を見る「視点の高さ(?)」にその秘密があるように思うのですが、「視点の高さってなんやねん?」には上手に答えられません。この作品は自分が相手ですが、自嘲でも、自負や気負いでもない位置から見ている感じですね。できそうで、できないポジション取りだとぼくは思いました。​​​​​  ​ ​ ​​ ​​​​​​​​​​​​​

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