2024/09/04(水)12:49
マリヤム・モガッダム ベタシュ・サナイハ共同監督「白い牛のバラッド」シネ・リーブル神戸no145
マリヤム・モガッダム 、ベタシュ・サナイハ「白い牛のバラッド」シネ・リーブル神戸
不思議な白い広場の真ん中に白い牛がします。正面には窓が横並びにあって、白い壁の建物の上に見えるのは鉄条網のようです。右と左の壁に沿って黒衣の人間が並んでいます。刑務所の中庭でしょうか。音はしません。
映画の中で、このシーンがフラッシュバックのように、何度か映し出されます。この映画を見終えて、記憶に浮かんでくるのは、まず、そのシーンでした。
主人公はテヘランの牛乳工場に勤めるシングル・マザーで名前はミナです。夫ババクは殺人罪で逮捕され、1年ほど前に死刑でなくなっているようです。遺影だけの登場です。今、彼女がともに暮らしているのは小学生の娘でビタちゃんです。聴覚障害なのでしょうか、彼女は手話で話しかけてくるのですが、最近「コーダ」という映画を見たばかりのシマクマ君は、妙に親近感を感じました。
この母と子が二人で、バス停だかのベンチに並んで座っている姿が、記憶に残った二つ目のシーンです。何気ないのですが、胸打たれるシーンでした。 ある日、裁判所に呼び出されたミナに、夫の死刑が冤罪で誤審の結果であったことが告げられます。そこからがこの映画のストーリーなわけですが、あまりに無理やりな筋運びについていけませんでした。
誤審の判決を下した判事レザが「身分」を隠してミナの元を訪れます。
「夫、バハクからの借金を返す」
偽りの理由を口にして、金を渡します。彼には悪意はありません。そのうえで住むところに困っていたミナ親子に住居を提供するなど、次々と親切の限りを尽くします。
シマクマ君としては裁判官であるレザのこの心情は理解の範疇内ですが、行動は理解できません。我々の社会のシステム運用上の常識から考えてあり得ませんね。判事として判決を下した責任性は彼一人が負うべきものではないし、負うこともできません。ここに、この映画の「なんだかなあ?」があったように思います。
一方、夫の冤罪での死を知った絶望と怒りの最中、職場の人員削減で失職したミナは、賠償金を当てにしてたかり始める夫の母や兄弟からのがれ、レザの親切にすがるのですが、彼女が心の中で求めていることは裁判で死刑判決を下した判事の謝罪でした。
やがて、ミナが恋するようになり、ビダちゃんもなついていく身分不詳の親切な男は、夫の裁判の判事であったという話なのです。
映画のサスペンスは「すべてを知っている男」と「何も知らない女」のあいだの「齟齬」、あるいは「行き違い」がいつ暴露されるのかというところにあるわけですが、設定そのものにリアリティがありませんから、見ているシマクマ君はついていけません。
で、男と女が破局をむかえた、そのあとのラストに母と子二人のバス停のシーンが映し出されます。話の筋はハチャメチャだと思うのですが、このシーンの迫力は半端ではありませんでした。
まあ、そういうシーンに対する好みもあるのですが、この映画には彼女たち母と子を追いつめてゆく社会の制度や風習に対する抗いのようなのもずっと流れていて、社会の圧力の中に座る二人のさびしい姿を映し出しているところは、やはり一見に値すると思いました。
その抗いは、この映画ではイランという社会を背景に描かれていますが、わたしたちの社会にも通用する普遍性を感じさせるものでした。
哀しい母と子を演じたマリヤム・モガッダム(ミナ)さんとアヴィン・プルラウフィ(ビタ娘)さんに拍手!でした。
刑務所の広場(?)の白い牛は、ミナの頭の中の光景だと思いましたが、あの牛が、果たして夫の象徴なのかどうか、そのあたりがなかなか後に残るところだと思いました。
監督で主演のマリヤム・モガッダムは、自らの父を死刑で失った女性で、母の名前がミナだったそうです。そのあたりも意味深ですね。
監督 マリヤム・モガッダム ベタシュ・サナイハ
脚本 マリヤム・モガッダム ベタシュ・サナイハ
撮影 アミン・ジャファリ
キャスト
マリヤム・モガッダム(ミナ)
アヴィン・プルラウフィ(ビタ娘)
アリレザ・サニファル(レザ)
プーリア・ラヒミサム(義弟)
2020年・105分・G・イラン・フランス合作
原題「Ghasideyeh gave sefid」
2022・02・28-no24・シネ・リーブル神戸no145