2022/06/04(土)00:19
週刊 読書案内 砂川文次「ブラックボックス」(講談社)
砂川文次「ブラックボックス」(講談社) 歩行者用の信号が数十メートル先で明滅を始める。それに気づいてか、ビニール傘を差した何人かの勤め人が急ぎ足で横断歩道を駆けていく。佐久間亮介は、ドロップハンドルのポジションをブラケット部分からドロップ部分へと変えた。状態がさらに前傾になる。
サドルから腰を上げ、身体を左右に振って回転数(ケイデンス)を上げる。車体は、降られた身体とほんのわずかだけ逆方向に傾くが、重心は捉えている。雨音の合間を縫うようにしてラチェット音が聞こえる。速度が上がるにつれて頬を打つ雨粒一つ一つがチクリとした痛みを伴うようになった。
信号なんかで足止めを食らいたくなかった。
歩行者の信号が赤に変わる。サクマは口をすぼめて腹の底から息を吐きだす。視線を車道の信号に一瞬向ける。ドロップハンドルをさっきより強めに握った。パーテープのクッション感と心地よい反発がグローブを通して伝わってくる。追い越し車線を走る車のブレーキランプが先頭から順々に点灯しだす。車道の信号は黄色。横断歩道まであと少し、左右の景色が流れていく。(1P~2P) 2021年の後期の芥川賞受賞作、砂川文次の「ブラックボックス」(講談社)の冒頭部分です。自転車に乗っている男が前に見える交差点の信号に反応しながら、混雑する自動車の脇を抜けて一気に走り抜けようとしている瞬間の描写です。
交差点の黄色の信号は、ふつう3秒程度だとおもいますが、描写は始まったばかりです。残りの2秒ほどの間に起こった出来事がこのあと3ページにわたって描写されますが、凝縮された時間を描く文章に無駄はなく簡潔で充実しています。この交差点で、なにが起こったのかは本作を手に取っていただくほかありません。
芥川賞の新人作家の文章としては出色の出来栄えで、このあと、作品の結末まで緩むことがありません。
作家は引用部の冒頭、すなわち作品の冒頭では、登場人物を「佐久間亮介」と呼びますが、二度目から結末に至るまで、一人称表記の誘惑にあらがうかのように「サクマ」とカタカナ表記し、ハードボイルドに徹します。感情移入を拒否した、ただ描写の対象であるサクマが描かれ続けていますが、意識の深部からの告白にも似た言葉を読みながら、作家自身がサクマであることを確信する作品でした。
作品冒頭からサクマは信号が黄色から赤に変わる瞬間の交差点を走り抜けようとする運動体としてとらえられていますが、作品全編にわたって、凝縮された時間の中の運動体であり続けようとするサクマが、信号が変わる瞬間の交差点の時間の淀みのような人間関係のブラックボックスの真ん中で前傾姿勢のままクラッシュを繰り返す作品です。
きわどい隘路を一条の光に向けて走り抜けようとする青年に、うまく言えませんが希望のようなものを感じました。ただ、うまくいかないんですよね、こういう生き方って。
自転車便の職場、女性と二人で暮らす家庭、そしてたどり着いた刑務所、それぞれの場所で、決して前傾姿勢を崩そうとしないサクマを描き続ける砂川文次という作家に、年甲斐もなくなのですが、共感の拍手!を贈りたいと思った作品でした。
追記2022・06・02
ただの噂なのかどうかよく知りませんが、ロシアのウクライナ侵攻がはじまって義勇軍に志願して出国した作家がいるということなのですが、この人のことなのでしょうか?何となく、そういう行動をしそうな気がする人なのですが。まあ、どなたであろうとも、無事であることを祈るしかありませんね。