2023/10/14(土)23:31
週刊 読書案内 鮎川信夫「近代詩から現代詩へ」(詩の森文庫・思潮社)
鮎川信夫「近代詩から現代詩へ」(詩の森文庫・思潮社) 神戸の元町の古本屋さんの棚にありました。腰巻もついていて、新品といっていい状態ですが、2005年ですから、ほぼ、20年前の本です。もっとも、親本は1966年に思潮社から出された「詩の見方」という本らしいですから、半世紀以上昔の本で、まあ、純然たる古本です(笑)。
著者の鮎川信夫は1986年に亡くなりましたが、ボク自身にとっては、学生時代に、だから1970年代ですが、そのころに出た「鮎川信夫著作集 全10巻」(思潮社)を、買おうか、買うまいか 本屋さんの棚の前で悩んだ結果、結局、買わなかったという思い出の人です。ようするに、ボクは親本の「詩の見方」の世代なのですね(笑)。
どんどん古い話になります(笑)。実は、後ろに引用した「あとがき」にもありますが、創元社から1960年くらいに刊行された「現代名詩集大成」の解説で書かれた文章を集めた本です。「現代名詩集大成」とか、あの頃、図書館で見かけた気がして市民図書館とか近所の大学の図書館の蔵書で検索しましたがありませんでした(笑)。図書館も新陳代謝するのですね(笑)。
で、内容ですが、それぞれの詩人について、なんというか、一筆描き風のポートレイト集になっています。ボクのように、思い出に浸るタイプには、ちょうどいい加減なアンソロジーです。
まあ、若い人には入門のための石段からの風景、お年寄りには思い出の小道の眺めふうで、チョット、いいんじゃないかという案内です。
この本自体も古いので目次を探してもネット上に見つかりません。折角ですから書き上げてみました。島崎藤村から安西冬衛まで、50人です。読んだことのない詩人も数名いらっしゃいましたが、おおむね懐かしいラインアップです。明治の詩人
島崎藤村 おくめ 若菜集序詞 8
土井晩翠 星落秋風五丈原 14
薄田泣菫 ああ大和にしあらましかば 20
蒲原有明 朝なり 24
北原白秋 邪宗門秘曲 接吻 27
河井酔茗 魚の皿 32
木下杢太郎 築地の渡 34
三木露風 接吻の後に 36
大正・昭和の詩人 Ⅰ
高村光太郎 道程 典型 40
山村暮鳥 岬 46
日夏耿之介 心を析け渙らすなかれ 48
堀口大学 砂の枕 50
千家元麿 自分は見た 52
佐藤春夫 秋刀魚の歌 54
室生犀星 小景異情 60
西条八十 胸の上の孔雀 63
萩原朔太郎 竹 小出新道 67
宮沢賢治 春と修羅 71
佐藤惣之助 ふしぎなる大都会を欲して 77
大手拓次 藍色の蟇 80
吉田一穂 死の馭者 82
尾崎喜八 大地 85
大正・昭和の詩人 Ⅱ
金子光晴 女たちへのいたみうた 90
高橋新吉 壊れた眼鏡 93
萩原恭次郎 日比谷 96
小熊秀雄 蹄鉄屋の歌 99
壷井繁治 風船 103
小野十三郎 工業 106
中野重治 しらなみ 109
草野心平 聾のるりる 111
中原中也 正午 春日狂想 115
八木重吉 明日 119
岡崎清一郎 仮寓春日 121
逸見猶吉 ウルトラマリン 冬の吃水 123
尾形亀之助 五月 125
山之口獏 数学 128
大正・昭和の詩人 Ⅲ
三好達治 雪 駱駝の瘤にまたがって 134
丸山薫 鴎が歌った 141
田中冬二 蚊帳 142
立原道造 やがて秋 145
富永太郎 恥の歌 147
菱山修三 夜明け 懸崖 149
伊東静雄 わがひとに与ふる哀歌 151
西脇順三郎 失われた時 155
村野四郎 塀のむこう 体操 161
北園克衛 煙の形而上学 166
北川冬彦 馬 174
安西冬衛 春 172 いかがですか?同世代の方はくすぐったいんじゃないでしょうか?「日夏耿之介 心を析け渙らすなかれ」なんて、詩人の名前はともかく、題が読める方は相当ですね(笑)。ちょっとパラパラしてみたいになりませんか?
で、チョット、読書案内も兼ねて、この本でラインアップされている詩人と詩の内容を、それぞれ、まあ、ボクが気に行ったり、面白がったりを案内しようと思います。上の目次の名前をクリックしていただくと、そのページについての案内につながるという趣向です。よろしければクリックしてみてください。最初は八木重吉です。
親本「詩の見方」のあとがきが入っていたので、後半を載せます。懐かしい鮎川信夫がいるとボクは思いました。
あとがき
(前略)
七、八年前、創元社から刊行された「現代名詩集大成」の解説を依頼されて引き受けたときの私の気持は、ただ明治以降の新しい詩の概念が、個々の詩人においてどのように発現しているかを、この機会に調べてみたいということであった。それはまた、近代の個々の詩人の努力が、読者のいかなる期待と結びついているかをさぐってみたいということでもあった。
そのような機会は、詩の特殊な専門家でないかぎり、そうたびたび訪れるものではない。現代詩に関する自分自身の考えからはなれて、いわば任意気ままに他人の詩を読んでみるのもおもしろいかもしれないといった気楽な気持ちで引き受けたのであった。
もちろん、私は純粋に鑑賞的態度に終始した詩の見方が可能であるとは信じていない。たとえ、早急な価値判断を抑制して、能うるかぎり作者の意図と結果の領域にのみ分析の範囲を限定したとしても、おのずから「ある評価」によって左右された感情のバイアスはあらわれるのである。
しかし、それにもかかわらず、自分自身の詩的基準や価値判断からはなれて、他人の詩の領域に自由に立ち入ってみたいという気持ちは強かった。それまでの自分の興味の限界に、あるあきたらなさを感じていた、ということもあった。近代詩の成果といわれているものに故意に背を向けていたわけではないが、自身の詩的経験からして、積極的関心を持つに至らなかったという事情もある。
人は誰でもそれぞれ違った詩の観念を持っている。近代詩にあっては、特にその傾向がつよい。位置や姿勢の違いにすぎなくても、根本的な立場の違い、詩概念の違いとなってあらわれてきて、相互に全く理解しえないというような、混乱した状況を呈することがある。ちょっと先入観を抱いているだけで、評価がまるで逆になるというようなこともしばしば経験するところである。
詩に何を求めるか、ということも、もちろん大切である。だが、そのまえに詩とはどういうものかを、ありのままにさぐってみる必要があるであろう。個々の詩人の仕事についてそれを見れば、詩は個性的経験の高度の凝集であることの証であり、時代の影響、流派の制約を越えた表現である。そのことを信ぜずして、詩を読んだり、書いたりすることは、およそ無意味であろう。
解説的な文章を私に書かせた心理的背景を要約すれば、だいたい以上のようなことに尽きる。(1966年10月) 繰り返し、思い出に浸ったことをいいますが、ボクは、こういう啖呵の切り方をする鮎川信夫が好きだったんですね。懐かしいです(笑)。