2023/07/05(水)00:20
週刊 読書案内 佐藤優「『ねじまき鳥クロニクル』を読み解く」(青春出版社)
佐藤優「『ねじまき鳥クロニクル』を読み解く」(青春出版社) いまは評論家と呼べばいいのでしょうか、文筆業者と呼べばいいのでしょうか、佐藤優という、元外務省の役人だった人が、出身の同志社大学で授業をなさっていて、その授業の表題が「『ねじまき鳥クロニクル』を読み解く」ということらしいのですが、それを書籍化した講義録でした。 市民図書館の棚に転がっていたのですが、表題にある「ねじまき鳥」という村上春樹が小説で作った鳥の名前に惹かれて借りてきました。
すぐに読めました。「読み解く」と題されていますが、「読み解こうとする」の方が実情に合っている気がしましたが、「悪」をキーワードにしてヒントがたくさん紹介されていてベンキョーになりました。ちなみに目次はこんな感じです。<目次>
第1章 メタファーを読み解く
第2章 資本主義がつくる悪
第3章 軍国主義がつくる悪
第4章 能力主義がつくる悪
第5章 無自覚になされる悪
第6章 自分の悪を受け入れる『ねじまき鳥クロニクル』は、人間の根源悪の問題を考える上で、深い示唆を与えてくれる物語です。(P21) まあ、こんな書き出しです。小説の舞台である現代社会を「資本主義」、「軍国主義」、「能力主義」、「自己責任論」といった鍵言葉を持ち出して分析する方法で読解を進めようという、講義形式の「解説本」です。さすがに、同志社です(笑い)。学生さんの反応は真面目で、よく勉強している印象です。
たとえば「資本主義」であれば、カール・マルクスを紹介しながら剰余価値論の基本が解説され、働くことの積極的な価値の喪失ということが、限りなく進行している現代社会を生きる「登場人物たち」のキャラクターの意味を考えさせようとしているようです。
もうひとつ面白かったのは発表された当時、村上の作品らしからぬ歴史事件として作品世界に出て来たことが話題になった「ノモンハン事件」の紹介から、軍国主義など社会システムが生み出す悪を取り上げているのですが、五味川純平の「人間の条件」(岩波現代文庫)が紹介され、小林正樹監督が仲代達也主演で撮った、映画「人間の条件」を見てくることが課題にされたりしているところでした。
帝国主義下の軍隊の官僚化の経緯が解説され、そこから生まれた歴史的な「悪」の実像と村上春樹の作品の描写のつながりを示唆している読解は佐藤優らしい観点で、面白いと思いましたね。
大日本帝国という国家のアジア侵略史は、60代後半から70代の世代には常識(?)ですが、歴史の書き換えや隠ぺいが闊歩する社会に育ってきた20歳の学生には、驚きかもしれません。また、その時代に対する戦後の「文学」や「映画」に共通する批判的な思潮に、作品の鑑賞を通して若い学生の目を向けさせようとしているところは好感を持ちました。
最終的には人間の存在、存在する限り逃れられない諸関係の中で生まれる悪について、たとえば、「これからの「正義」の話をしよう」(早川書房)、「それをお金で買いますか」(早川書房)、「実力も運のうち 能力主義は正義か?」(早川書房)、なんかで流行のマイケル・サンデルあたりの著作を紹介、参照しながら講義、学生とのやり取りは進むのですが、たどり着くのは「聖書」でした(笑)。
「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ローマ人への手紙) で、佐藤優自身の結語はこうです。いちばん難しいことは、自分の内側にある悪と向き合うことです。この小説をきっかけに、ぜひ自分の内なる悪について考えてもらえればと思います。(P194) さて、この講義が村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』の、具体的にはどこに注目したのかについて、まったく触れないで案内していますが、そのことが気がかりな方は本書を手に取っていただいて、村上の作品を読み直していただくのがいいかと思います。初めての方は、まず、村上の作品からお読みいただいて、面白ければ本書を、という順番がおすすめです(笑)。