2023/11/08(水)23:33
週刊 読書案内 照井翠「龍宮」(コールサック社)
照井翠「龍宮」(コールサック社) 池澤夏樹の「いつだって読むのは目の前の1冊なのだ」(作品社)という書評集に教えられた1冊です。まあ、そうは言うものの、実はかなり以前から照井翠という方の「龍宮」という句集が存在し、次のような句が読まれていることは、何というか、風の便りで知っていました。
喪へばうしなふほどに降る雪よ
春の星こんなに人が死んだのか
なぜ生きるこれだけ神に叱られて
寒昴たれも誰かのただひとり いかがですか。下にも、もう少し引用しましたが、これらの句を紹介しながら、池澤夏樹はこの句集との出会いをこういいます。感情を揺すぶられてどうしようもなくなった。人はたった十七文字を前にして取り乱すこともあるのだと知った。(P207) ボクはボクで、そういう句集があると知りながら、なんとなく遠ざけていたのは、こんな句があることを知っていたからかもしれません。毛布被り孤島となりて泣きにけり もう、ボンヤリした記憶なのですが、1995年の神戸の、どこかの体育館で見たことのある光景だと思いました。アスファルトが陥没して地下鉄の線路が見えていたり、町全体が傾いていたり、石の鳥居が真ん中でおれていたりした光景が一緒に浮かんできて、なんとなく、しんどいなと思ったんですね。
でも、池澤夏樹の解説というか紹介を読みながら、まあ、そうはいっても読んでみるかとなったわけです。 文学に携わる者として、あのような出来事を文学はどうやって作品化するのかずっと考えてきた。自分も含めてたくさんの文学者が三・一一と格闘している。恐怖と戦慄・激情・喪失感、はたまた時を経た後でもまだ残る喪失感と悲哀の思いは文字にできるのか。協調の副詞ばかりをハデに立てても遠くの者には伝わらない。余る思いを容れるにはしかるべき器が要る。
それが、この人の場合は俳句だった。 ボクが手に入れたのは照井翠 句集 新装版「龍宮」(コールサック社)という文庫版で、2021年に出版された本です。池澤が紹介しているのは2012年の角川書店版のはずです。で、角川版にも載せられている、照井翠自身の「あとがき」に、こんな一節がありました。
てらてら光る津波泥や潮の腐乱臭。近所の知人の家の二階に車や舟が刺さっている、消防自動車が二台積み重なっている、泥塗れのグランドピアノが道を塞いでいる、赤ん坊の写真が泥に張り付いている、身長の三倍はある瓦礫の山をいくつか乗り越えるとそこが私のアパートだ。泥の中に玉葱がいくつか埋まっている。避難所にいる数百人のうな垂れた姿が頭をよぎる。その泥塗れの玉葱を拾う。避難所の今晩の汁に刻み入れよう。
戦争よりひどいと呟きながら歩き廻る老人。排水溝など様々な溝や穴から亡骸が引き上げられる。赤子を抱き胎児の形の母親、瓦礫から這い出ようともがく形の亡骸、木に刺さり折れ曲がった亡骸、泥人形のごとく運ばれていく亡骸、もはや人間の形をとどめていない亡骸。これは夢なのか?この世に神はいないのか?(P249~250) 照井翠自身が釜石で被災し、三日目の話です。句集にはその体験を彷彿とさせる句が並んでいます。池澤夏樹が「どうしようおなくなった」作品群です。
ボクは、ボクで、湧き上がってくるなんともいえないなにかと格闘する羽目になりました。某所に座り込みながら、文庫本の句集相手に涙をこらえるなんて、まあ、チョット想像できない事態です。冥途にて咲け泥中のしら梅よ
脈うたぬ乳房を赤子含みをり
双子なら同じ死顔桃の花
卒業す泉下にはいと返事して
ひとりまたひとり加わる卒業歌
初蛍やうやく逢ひに来てくれた
灯を消して魂わだつみへ帰しけり
柿ばかり灯れる村となりにけり
廃校の校歌に海を讃えけり
節分や生きて息濃き鬼の面
半眼に雛を並べゆく狂女
虹忽とうねり龍宮行きの舟
朝の虹さうやつてまたゐなくなる 被災から、ほぼ1年半の間に詠まれた二百句ほどの句が載せられています。ある種の直接性というか、いきなり突き刺さってくるなにかを、何とか受け止めようと踏ん張りながらの読書(?)ですね。詠んでいるご本人も大変だったでしょうね。
ちなみに文庫版には、池澤夏樹の「いつだって・・・」の全文と、「照井さんは今、俳句によってかろうじて人間界とつながっているが、もはや鯛やヒラメは寄せ付けない、一匹の龍なのだ。」 と結んでいる玄侑宗久の解説も載っています。