2024/06/02(日)12:03
週刊 読書案内 天野忠「しずかな夫婦」(小池昌代「通勤電車でよむ詩集」より)
天野忠「しずかな夫婦」(小池昌代「通勤電車でよむ詩集」より) しずかな夫婦 天野 忠
結婚よりも私は「夫婦」が好きだった。
とくに静かな夫婦が好きだった。
結婚をひとまたぎして直ぐ
しずかな夫婦になれぬものかと思っていた。
おせっかいで心のあたたかな人がいて
私に結婚しろといった。
キモノの裾をパッパッと勇敢に蹴って歩く娘を連れて
ある日 突然やってきた。
昼飯代りにした東京ポテトの残りを新聞紙の上に置き
昨日入れたままの番茶にあわてて湯を注いだ。
下宿の鼻垂れ息子が窓から顔を出し
お見合だ お見合だ とはやして逃げた。
それから遠い電車道まで
初めての娘と私は ふわふわ歩いた。
―ニシンそばでもたべませんか と私は 云った。
―ニシンはきらいです と娘は答えた。
そして私たちは結婚した。
おお そしていちばん感動したのは
いつもあの暗い部屋に私の帰ってくるころ
ポッと電灯の点(つ)いていることだった―
戦争がはじまっていた。
祇園まつりの囃子(はやし)がかすかに流れてくる晩
子供がうまれた。
次の子供がよだれを垂らしながらはい出したころ
徴用にとられた。便所で泣いた。
子供たちが手をかえ品をかえ病気をした。
ひもじさで口喧嘩(くちげんか)も出来ず
女房はいびきをたててねた。
戦争は終った。
転々と職業をかえた。
ひもじさはつづいた。貯金はつかい果たした。
いつでも私たちはしずかな夫婦ではなかった。
貧乏と病気は律義な奴で
年中私たちにへばりついてきた。
にもかかわらず
貧乏と病気が仲良く手助けして
私たちをにぎやかなそして相性でない夫婦にした。
子供たちは大きくなり(何をたべて育ったやら)
思い思いに デモクラチックに
遠くへ行ってしまった。
どこからか赤いチャンチャンコを呉れる年になって
夫婦はやっともとの二人になった。
三十年前夢見たしずかな夫婦ができ上がった。
―久しぶりに街へ出て と私は云った。
ニシンソバでも喰ってこようか。
―ニシンは嫌いです。と
私の古い女房は答えた。 小池昌代さんの「通勤電車でよむ詩集」(NHK生活人新書)を読んでいて、心に残った詩の一つです。
編者の小池さんは詩の後ろに載せられた短い解説で「詩のなかに、いびきをかく女房が出てくる。いや女房とは、いびきをかく者のことを言うのだ。」 と喝破しておられるのですが、その「女房はいびきをかいてねた」の一行が心に残りました。
「あのな、トイレに置いてる詩集やけどな、天野忠っていう詩人な、鶴見俊輔がどこかで話題にしてたような気がするけど、京都の人やねんな。その人のしずかな夫婦というのがエエねんな。」
「どこが?」
「女房はいびきをかいてねたっていうねん。詩のなかで。」
「それで?」
「あんた、自分がいびきをかいてるかもしれんって思うことある?」
「いびきうるさいのんは自分でしょ。」
「いや、それは知ってるけど、自分はどうなん?」
「寝言は気づいたことあるけど、いびきかいてるの?」
「うん、まあ、絶無ではないな(笑)。」
「なに、それがいいたいの?」
「いや、ちゃうちゃう」
「そしたら、なにがどうなん?」
「いや、あそこ置いてるから読んでみ。ええ詩や思うで。」
「わたし、トイレでは読みません!」
「風呂では読むやん。まあ、ええけど、その奥さんなニシン蕎麦いうか、みがきニシンな、京都の蕎麦にはいってるあれな、嫌いなんやて。」
「あっ、わかる。わたしもニシン蕎麦きらいやわ。」 と、まあ、こんな会話になったしというわけです(笑)。天野忠のほかの詩については、またいずれ紹介しますね。ご本人は1993年に亡くなっておられるようですが、編集工房ノアという所から詩集がたくさん出ています。思潮社の現代詩人文庫にもあります。まあ、また、ですね(笑)。