2024/10/02(水)00:12
グー・シャオガン「西湖畔に生きる」シネリーブル神戸no271
グー・シャオガン「西湖畔に生きる」シネリーブル神戸 山水映画、「春江水暖」のグー・シャオガン監督ですが、今回は、その山水映画第2弾だそうです。見たのは、邦題「西湖畔に生きる」、原題「草木人間」、多分、「そうもくじんかん」と読むのでしょうね、「じんかん」というのは人間の社会のことですね、でした。
納得でしたね。いや、「春江水暖」は感想を書きあぐねた記憶がありますが、今回は書けそうです。ただ、あれこれ錯綜していて簡単ではありません(笑)。
舞台が杭州ですから上海の近く、川でなくて湖です。茶畑があって、中国の昔の絵のような山や森があって、湖があって、その向こうに超近代的な都市の影が映っています。現代中国の姿ですね。
バスの中で、出奔した夫の死の噂について「ハオ」という言葉で語る女性がいて、青年が森を歩いて茶畑までやってきて、そこで働く女性に「マー」と呼びかけ、行方不明の父をめぐる会話が始まりますが、バスの中の女性が青年の母だったことがわかって映画が始まりました。
いや、本当は、春の山に行列をなして登って行く人々が小さな灯りのとなって点々と薄暗い茶畑に拡がり、山に登る人々の足元の闇の中で、ヘビや虫たちがうごめき始め、人々が山を起こす、この「草木」シーンこそが、この映画の始まりだったことに、実は、見終えて気付きました。
で、映画は、茶摘み仕事から追われた母の、マルチ商法に浸りこんでいく地獄めぐりのような人間(ジンカン)シーンが徹底的に描かれます。
それは、われわれの社会では、90年代半ばだったでしょうか、戦後の経済成長が頂点に登りつめた、あの時代、県立高校の現場にすら出没した、あの、インチキ経済に憑りつかれた人々の姿を彷彿とさせるシーンで、社会主義の理想を捨てた現代中国がさしかかっている、真の姿を実感しながら見ていたのですが、金の亡者と化した母と、それを救わんとする息子の物語の結末が、森の中の蓮池にもどってくるのを見ながら、まあ、両方現実なのですが、金の亡者のシーンが夢だったのか?
今、目の前にある山の水辺が夢なのか? という、ある種の困惑に浸りながら映画は終わりました。
原題にある「草木」と「人間(じんかん)」、自然と社会を重ね合わせた「時間」の描き方に、多分、グー・シャオガンという監督の、らしさ があると感じてはいたのですが。
で、帰りの電車でチラシを見ながら、息子と母の名前に、ボクの困惑に対する、とりあえずの解答があることに気付きました。
この映画では、息子の名前は釈迦の十大弟子の一人、目蓮と名づけられていて、その目蓮が餓鬼地獄に落ちた母を救うという「目連救母」という仏教譚がこの作品の枠組みだったのですね。
あのぉ、日本でも、お盆に、お坊さんが、施餓鬼とかいってお経をあげる行事がありますが、あれの原型譚で、日本の仏教の原型である中国の仏教ではかなりポピュラーなパターン噺ですが、日本人は案外、知らないと思います。
グー・シャオガン監督、前作は漢詩、今回は仏教説話でした。
山の草木の中で暮らす人たちが湖の向うの、いわば拝金主義の人間社会で餓鬼道に落ちるという、時間と空間の設定が、グー・シャオガン監督の味! なのかもしれません。とどのつまりの虎の登場といい、燃え上がる緑の木を思わせる樹木の思想といい、監督のセンスが、ボクは面白かったですね。
まあ、それにしても、母タイホウを演じたジアン・チンチンさんの鬼気迫る演技に拍手!でした。
監督・脚本 グー・シャオガン
脚本 グオ・シュアン
撮影 グオ・ダーミン
美術 ジョウ・シンユー
衣装 リー・ホア マー・ジュオミン
編集 ジャン・イーファン リウ・シンジュー
音楽 梅林茂
キャスト
ウー・レイ(ムーリエン目蓮:息子)
ジアン・チンチン(タイホア苔花:母)
チェン・ジエンビン(チェンさん老銭)
ワン・ジアジア(ワン・チン万晴)
イェン・ナン(ドン・ワンリー董万里)
チェン・クン(ジンラン金蘭)
ウー・ビー(ウー・ビーグイ呉彼貴)
ジュー・ボージャン(チャン・ヨン張勇)
2023年・115分・G・中国
原題「草木人間」英題「Dwelling by the West Lake」
2024・09・28・no124・シネリーブル神戸no271
追記
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