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100days100bookcovers 96日目
保坂和志「ハレルヤ」(新潮社) ![]() 前回の山本さんのレビューから、またずいぶん時間が経ってしまいました。なんとなく本を読む気がしない、などというとネガティブな印象になってしまいますが、最近急速に目が悪くなったことを実感していて、裸眼で本を目の前に持って来て読むのが常態化しているのですぐに腕が疲れて、やめてしまいます。つい先日眼科に行ってあれこれ調べてもらったのですが、眼圧も眼底も異常なく、ただ視神経の形が歪で、でもそれは加齢によるものなので異常というわけではなく、全体的劣化以外に原因が見つかりませんでした。情けないことです。 書いているうちに話がどんどん逸れてゆくのはじつは楽しいことなのですが、こんなことをしていると100年経っても終わらないので、とっとと本題に移ります。 私にとっての最後のリレーは、保坂和志か寺山修司にしようと、わりと前から決めていました。ところが、いま、寺山修司の本がなかなかないのです。かつては角川文庫にたくさん入っていてかなり集中して読みましたが、それらは全部実家に置いてあって、家と一緒に先般処分してしまいました。Amazonの中古市場を覗いてみたらあるにはありましたが、私が欲しい本はなく、近所の図書館にもありません。もう、寺山修司を読む人はいないのか。私は「天井桟敷」には行ったことがありませんが、寺山の短歌に感動したり(「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」とか)、寺山の映画を観て「うーむ」と唸ったり、『家出のすすめ』を読んで「家出をしたい」と思ったりするのが青春でした。 でも、本を探しているうちにふと思いました。いま寺山を読んで、私は何か書けるだろうか。もしかしたら、ノスタルジーに乗っかってしか何かを感じることができないのではなかろうか。それは読んでから言えよ、ということですが、そんなことを思っているうちに、 「いまの自分にとってのリアルな感情」 を載っけて何かを書く方が、最後にふさわしいような気がしてきたのです。 ということで、保坂和志の「こことよそ」に進みたいと思います。『ハレルヤ』という単行本に収録されている短編です。山本さんご紹介の『美しき愚かものたちのタブロー』(原田マハ著)との繋がりは、実在の人物が実名で出てくるフィクション、ということになるかと思います。 保坂和志は、いまのところ、一番最近出会った「お気に入り作家」です。6,7年前だったか、たまたまネットで保坂和志のインタビュー記事を読んだとき、わりに抽象的な話だったと思うのですが、言っていることにほぼ納得できる状態で、これは小説を読まんといかん、と思い、『草の上の朝食』だったかを読み、続いて芥川賞をとった『この人の閾』を読んで、ついていこうと決めました。意識の流れを文字化したような文章と、分析的でいながら柔らかい人物描写が、読者たる私を「やめられない止まらない」感情にさせるような小説でした。 しかしながら、未読の作品もたくさんあります。出会ってから短い、ということもありますが、例えば『未明の闘争』とかいうタイトルだと、目の薄くなった婆さんはなかなか手が出ません。それともうひとつ、保坂和志の小説は、年々 「意識の流れの文字化」 が先鋭化してきていて、途中で主語が変わったり、読点を打たないまま話がどんどん逸れていったりすることがふつうになってきているのです。はっきり言えば、少々読みにくい。それでも保坂和志の小説が好きでいられるのは、彼の考え方やものの見方が好きだからで、「作家であること」にとってそれはとっても大切な部分だろうと思えるからです。 「こことよそ」もわりに最近の小説で、意識の流れに逆らわずにどんどん話が広がっていきます。 ストーリーの根幹は、かつての友人だった「尾崎」が死んで、お別れの会に出かけた主人公が、尾崎とのさまざまなシーンを追憶しつつ、彼の不在を飛び越えてありありと彼との時間が戻ってくる体験をする(といえばいいのかどうか、違うような気もしますが)ようすが、まとまりなく描かれています。もうほんと、彼の小説は説明がむずかしい。というか、説明なんかしてはいけないのでしょう。ただ、 「昨日の写真は撮れなくても昨日がなくなるわけじゃない」という一文が、なんとなく心に残りました。当たり前のことを言っているようですが、そうでもないのです。 というのも、この小説が私にとって特別になったのが、これを読んだのが「父の四十九日」で姫路に帰省していたときで、10月の暖かい日に「外濠公園」のベンチに座って読み終えたというのがひとつ、もうひとつは、「父の死」が私にもたらした「死生観の急激な変化」と、この小説が描かんとしていること、 「人が死んでも世界が終わるわけではない」ということが、ぼんやりと、ですがあまりにもタイムリーにリンクして、大げさに言うと、私は「外濠公園」で生まれ変わったのではないかと思うほどでした。「10月の外濠公園」と分かちがたくなることで、小説を読むと、父の死や、そのときの自分の感情を追体験できる。それは、主人公が尾崎のお別れの会で体験したことと、とても似ているようにも思えるのです。 いま上に書いたことを、論理的に説明することはできません。「どういうこと?」と訊かれても答えられない、 「この感じ!」 を言葉にしようとすると実感を裏切る。じゃあなんで書くの?ということをずっと書き続けているのが、保坂和志なのかもしれない、と感じています。 この小説に出てくる実名の人物について。それは映画監督の長崎俊一と、俳優の内藤剛志、古尾谷雅人です。主人公が追憶した尾崎とのシーンの大部分は、長崎俊一の初期の作品『九月の冗談クラブバンド』(1982年)の撮影現場でした。長崎俊一は保坂和志の中高の同級生で、保坂はしょっちゅうエキストラとして長崎の撮影現場に出入りしていました。尾崎は元暴走族で、バイクの暴走シーンの撮影のためにバイクを動員するために呼ばれたのです。 この映画人たちの名前は、ほぼ同世代で私にとっては懐かしく、ある時代の象徴でした。ことに内藤剛志は、脚本を学んでいた私のデビュー作のテレビドラマの主役だった人物で、彼にとってはフィルモグラフィにも入らないような小品ながら、私の生きてきた道のりにとっては特別な名前です(脚本の道は挫折しましたが)。 「こことよそ」は私の過去、現在、未来が繋がってゆく、まさに 「リアルな感情」とともにある小説なんだと、あらためて感じています。 ということで、最後のバトンを小林さんにお渡しします。よろしくお願い致します。 ※ちなみに、表紙の写真は保坂の愛猫「花ちゃん」です。表題作「ハレルヤ」は花ちゃんの死を描いた小説で、これもまた、保坂の「死」と「生」の距離や感触を感じることできる明るい佳作です。(K・SODEOKA2023・11・24)
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