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100days100bookcovers 97日目その2
内田樹「ためらいの倫理学」(角川文庫) ![]() 内田樹『ためらいの倫理学 戦争・性・物語』(角川文庫) 内田樹の名前を知ってその文章に触れたのは、2000年の少し後あたりだと思う(Wikiの著作発行年を参考にして推測すると、2002年末から2003年の前半だろうか)。ネット上で誰かがリンクしていた本人のサイトを初めて訪れたときだった。 一読して、ずいぶんおもしろいと思った。おそらくそれは本書「まえがき」で著者も書いているようように、 「「専門家」ではなく、「素人」でもなく、その中間くらいの言葉づかいで評論的な文を作る人間に対する需要」 が私にもあったからだろう。なによりわかりやすかった。 そのウェッブ・サイトは、現在のサイトとは違って、もっと素人っぽい、手作り感あふれるものだった。 それで、その後しばらくそのサイトを何度も訪れては、未読の文章を読んでいた。さらに、当時出版されていた書籍を買って読み始めた。多分最初に読んだのは『「おじさん」的思考』(晶文社)だったと思う。それから『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)とか『期間限定の思想 おじさん的思考2』(晶文社)を手に取っていく中で、デビュー作の『ためらいの倫理学』(冬弓舎)も読むことになった。 デビュー作だからかどうか、その後の、というか現在の文体よりやはり硬いものが多い。含まれている論文は元々そういうものだが、それ以外でもいくぶん硬さを感じる。が、その分、著者の思想、思考の性格がより読み取りやすくなっている。 親本が出たのが2001年だから、年齢的には著者が50歳あたりか。 その後、改稿を経て角川文庫になって再読した。単行本を読んで、文庫化されて再度読むということはほとんどないので、初期の著作に中でもかなり強い印象を抱いていたはずだ。 ちなみに、私には、ブログやSNSができる前に、手作りのサイトを作って主にロック系音楽の感想を書いていた時期があるのだが、そのときに、リンク先に内田樹のサイトを入れようと思って(本人のサイトに「リンクフリー」と記されていなかったので)、サイトに記されてあったメールアドレスに念のため、リンクの許可を求めるメールを送信したら、 「もちろんリンクは構わないです。確かにリンクフリーって記しておいたほうがいいですよね」 みたいな文言の、本人が書いたと思われる(実際はわからないけれど)内容の返信があって、ちょっと驚いたことがあった。きっと多忙だろうし、本人から返信はないだろうと思っていたから。それで 「へぇ、いい人やん」 と「好感度」も上がった。 それで今回、この文庫版をいくらか時間をおいて通して都合2度再読してみた。印象はまったく薄れることはなかった。同じくらいの「強度」をもって私にそれは届いた。おそらく何某か、こちらが求めるものが内包されているのだ。 先に引用した「『専門家』ではなく、『素人』でもなく、その中間くらいの言葉づかいで評論的な文を作る人間に対する需要」について、著者はその後さらに続ける。 「私が『ためらいの倫理学』という書き物を通じて試みていたのは、おそらくそのような「批評性の硬直」状況から何とか抜け出ることだったと思う(あと知恵だけど)。「生活者の実感」のステレオタイプにも、「専門的知見」のステレオタイプにも回収されない、「ふつうの人の、ふつうの実感」に基礎づけられた平明な批評の語法を私は見出したかったのである(たぶん)」(たぶん)それが読者である私に届いたということだ。 無理のない論理性と、自然な、言い換えれば人肌の倫理性、つまり、人間の感情や情緒に沿った論理や倫理を感じるからだと思う。あまりうまく言えないけれど。著者のあとがきによると、収録されたテキストのほとんどはウェッブ・サイトで発表されたという。その中で全26本の原稿の一本一本の原稿について初出を記しているが、講義の文字起こしとか大学紀要に掲載された論文、新聞・雑誌への寄稿もいくらかあるが、たしかに多くはない。 本書は、 「なぜ私は戦争について語らないか」の4章によって構成されている。ちなみに文庫版「解説」は高橋源一郎。 本作中、"当為と権限の話法"について触れてみる。 ここには「岡真理 『記憶/物語』を読む」という副題が付いている。つまり基本的には、書評である。 この書物から一部を引用した後、著者は、息苦しさを感じたと述べる。 「その文章がほとんど全編「当為の文法」に律されているのである」 つまり、「~しなければならない」「~だったはずだ」「~のために」が何度も使われ、それ以外にも「~ではなかっただろうか」「~なのではないか」も出てくる。動詞では、「できる/できない」「し得る/し得ない」が多い。つまり「must」と「can」、言い換えれば「当為」と「能力」に焦点化したディスクールである。 これは教化の語法、軍隊の語法、政治党派の語法だと言ってもいい。それは 「「他者」の声がもっとも聞き取りにくい場、<出来事>がもっとも暴力的に隠蔽される場、まさに私たちがそこから逃げ出ようとしている当の場なのである」 そして 「岡自身、自分がどういう言葉遣いによってそのような思想を語っているかについて、もう少し敏感にならなくてはならないと私は思う」 と批判し、この文章を次のように一旦閉じる。 「もちろん私が今言った「あなたに届くように語る」というのも一種の修辞、一つの物語にすぎない。けれども私はそれがフィクションだということを知っている。この部分もそれはそれで重要なことを言っているところではあるが、ここで言いたいのはそれではない。 一旦このように締めた後で、「追記」と称して、この稿はもう少し続く。 「なんとなく気持ちが片付かない」と著者は続ける。 岡真理に対する自らの批判について、 「ある命題を語る言葉遣いそのものが命題を否認していることがある。(中略)私はそれと同質のものを岡の文体に感じて「息苦しい」と文句をつけた。(改行)けれども、この私の文句の付け方は、どこかで聞いたことがある」 として、かつてジャック・デリダが書いた長大なレヴィナス論(著者はレヴィナス研究が専門の一つ)で、 「レヴィナスに致命的と思われた批判を浴びせかけたときのくちぶりをそのままなぞっているのだ」 と言う。 デリダのその批判について著者はもう少し述べているが、ここでは省略する。 私は自分でも気がつかないうちにデリダの「ウェポン」を拝借して、人の言葉遣いのあげあしとりをしていたのである。(改行)これは致命的だ。誰だって、次のような批判をすぐ思いつくからだ。 と結ぶ。 私の、そう豊かではない読書経験の中でだが、こういう自己批判というか反省文を読んだ記憶は、それほど多くない。これが最初だったかどうかはわからない。おそらく前回紹介した小田嶋隆にも似たような文章はあったように思う。いずれにせよ、これを読んでやはりこの著者は信用できると改めて思った。 提示される「内容」はむろん重要だが、それと同じくらいその提示の仕方、身振り、マナーに意識的になることが大切であり、しかし意識しすぎると「何も言えなくなる」こともまた道理であることもわかった。 他に、加藤典洋の『敗戦後論』をめぐる、加藤と高橋哲哉の論争を主たるテーマにした「戦争論の構造」、フェミニズムの論客ショシャーナ・フェルマンの著書『女が読むとき、女が書くとき』をテーマにしてより普遍的なテーマに触れた「「女が語ること」のトラウマ」、 「徹底的に知的な人は徹底的に具体的な生活者になる。そこしか人間の生きる圏域はないということを知っているからである。哲学者は「物語」の渦巻く俗世間に別の「物語」をたずさえて戻ってくる。(改行)けれど、それは、「どこかに<真理>という終点があるはずだ」という儚い希望を完全に切り捨てた、深い、底なしの、終わりのない「物語」である」という結びが印象に残る「物語について」、冷戦終結以後の世界の有り様を「他者論」として考察した「越境・他者・言語」、そして、アルベール・カミュの思想をテーマにした表題作「ためらいの倫理学」も、記憶に残った。今後、また読み返すことになると思う。 改めて、個人と公共性、公共性は自然や環境を含む他者とのネットワークにつながる――について考えるきっかけになった2冊だった。 では、DSGUTIさん、次回よろしくお願いします。T・KOBAYASI 2024・02・18
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