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カテゴリ:読書案内「翻訳小説・詩・他」
サンダー・コラールト「ある犬の飼い主の一日」(長山さき訳・新潮クレストブックス)
![]() 心臓が鼓動している―ヘンク・ファン・ドールンは目を覚ましたそう思う。そして血液が流れている、と。心臓について、これ以上賢明なことはいえないはずだ。(P5) これが書きだしです。ここからヘンク・ファン・ドールンという男性の一日が始まります。彼はベッドの中で考え続けます。 一日のはじまりに考えることとしては奇妙だし、—もどってきた意識はそんなふうにはじまるとは信じがたい。それでもとんかく、〈はじまり〉にふさわしく―〈つづき〉をほのめかしているにはちがいない。最初の考えに、〈新たなデータ〉が加わる。彼のいる場所〈寝室〉、時間〈八時と九時のあいだ〉、そして天気〈晴れ〉。〈新たなデータ〉元気に飛び出してくるのではなく、まるで起きたばかりの不機嫌なティーンエイジャーが不愛想な顔をして、朝食の並ぶテーブルにつくような感じで現れる。また今日も新たな一日に見舞われるのは迷惑だ、とでも言うように。ヘンクはまだぼんやりとベッドに横たわったまま、〈新たなデータ〉を少し離れたところから観察する。今日は土曜日だ。スフルク(ならずもの)は昨夜調子が悪そうだった。なにか変なものを食べてしまったのかもしれない。あとで、今日が誕生日の姪のローザに電話しなくては。情報量の増加によって彼の意識も増し、彼という男の存在も増していく。ヘンク・ファン・ドールン、集中治療室(ICU)看護士、五十六歳。(P6) というわけで、主人公が56歳の男性で独身、職業は看護師、名前はヘンク・ファン・ドールン、スフルクは題名にある「飼い犬」の名前ですね。 で、ここから、 今日一日のヘンクの暮らし が、170ページにわたって綴られていきます。書き手、いや、語り手というべき人物は、ヘンクという、今、登場した主人公の子ども時代から90幾つで息を引きとるまでの実生活、その上、読書傾向から、心の動き、思考パターンにいたるまで、すべてについて知っていて、その場、その時の、ひらめき、所謂、フラッシュ記憶のようなものまで、懇切丁寧に語り尽します。 人の好い、平凡で正直な五十男の一日が、まあ、こんなに分厚いものか!?と堪能できます。もちろん、何の変哲もない、 ある土曜日の一日 ですが、記憶の中に彷徨いこんで自分がどこにいるのかわからない気分との遭遇もあれば、人生で初めての経験もあります。 たとえば、本屋の書棚の前で始まった 「記憶の嵐」の経験 について、語りはじめると、止まりません。 記憶というものの常で、ひとつの記憶が別の記憶を呼び起こす。ヘンクは自らの記憶に突如、強く引きずられて、しばしば考えに耽る。なにげないことからなにかを思い出すことがヘンクにはよくある。記憶が、彼の人生の糸を行ったり来たりする杼を動かす。動きは次第に速くなり、わずか数秒で一連の記憶が編みこまれる。彼の人生の物語の切れ端が突如、ごちゃごちゃしたタペストリーのように目の前に現れる。(P40) と、まあ、こういうふうに、シマクマ君は大喜びなのですが、「錯綜する記憶」をめぐる描写がまだまだと続きます。 本屋で戦慄に襲われたのも偶然ではない、とヘンクは気づく。長いあいだ、自分に確固としたものが欠けているのは読書欲のせいだと思っていた。読書によって他人の考えおよび感情の世界に入り込むと、エンパシーは豊かになるが、自らの個性は希薄になる-そう彼は捉えていた。誰かといっしょにいると個性を失うように。一冊読むごとに自分のなにかを失う。-そう彼は捉えていた。彼の〈ヘンク性〉は読書欲の祭壇の上でハムレット性やラスコーリニコフ性、ブルーム性に捧げられる。(以下略・P43) 書き写していると、まあ、おもしろくて際限が亡くなってしまうの、このあたりで止めますが、要するに、本屋の書棚の前で読書論に浸っていらっしゃる趣です。アホですね(笑)。 で、ようやく、自分が何をしにここに来たのかを思い出して、 彼は立ち上がり、ある棚の前まで歩いていって、手を上に挙げる。わずかなためらいもなく。ローザにどの本をあげたいか、はっきりとわかったからだ。 ちなみに、ローザというのは姪っ子の中学生ですが、今日が誕生日です。彼女へのプレゼントを買うために本屋に来て、もう、数ページにわたって、多分、他人から見ると ボーっとしていらっしゃった(笑) わけですが、ようやく立ち上がって…というわけです。 たった一日のお話しですが、読んでいるのが老人ということもあって リアル! なんです。まあ、若い人にはわからないかもしれませんね。ボクだって、主人公と同じころ、だから、15年ほど前にこの作品を読んで、今と同じように面白がれたかというと、ちょっと、怪しいですね。 このあと、小説は、この日に起こる 初めての体験! という山場に向かって展開します。そちらは、まあ、お読みになってお確かめください(笑)。 しみじみと胸を打つ「感動作!」と言ってかまわない小説だとボクは思います。 最後に作家と訳者の紹介を貼っておきますね。 作家
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