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カテゴリ:読書案内「翻訳小説・詩・他」
斎藤真理子「隣の国の人々と出会う」(創元社)
![]() 2024年の8月の新刊ですが、創元社の「あいだで考える」というシリーズの9巻目の本です。 本の最後のページに創元社の方の「創刊のことば」というページがあります。普段は、そんなところは読まないのですが、立ち読みで読んでみて 「これは、いいんじゃないか?!」 と思いました。 本を読むことは、自分と世界との「あいだに立って」考えてみることなのではないでしょうか。一部の引用ですが、ボクが、反応したのは、 「あいだを生きる」 という言葉づかいですね。サンデー毎日の日々を暮らす老人にとって「あいだ」っていう言葉が、実に魅力的だったんです。 「おわり」じゃなくて、「あいだ」です(笑)。 というわけで読みました。こんな目次です。 第1章「말 マル 言葉」 各章のはじめには、それぞれのハングルについて解説があって、そのあと本論という段取りになっています。まあ、ボクが今使っているワープロソフトではハングルの打ち方がわからないので、具体的な引用は端折ります。で、第5章のはじめあたりにこんな文章があります。 サイは、時間的な「あいだ」と空間的な「あいだ」の両方を指す。ボクが棚の前で期待していた結論にたどりついたようですね。「あいだ」で始まる何かを生きる。韓国語文学の翻訳という仕事において、朝鮮語・韓国語と日本語の「あいだ」に立っている斎藤さんは、そこでの思いをこんなふうに書いています。 朝鮮語にも日本語にも長い長い歴史がある。その中で、この言語を学ぶ誰もが「サイ」である今を生きている。小さく見えるちがいに目をとめて、ときにはマルとクルとソリという呼び方で自分の思いを整理しながら、学んだことを活かしたいと思う。サイを歩いてきた人たちの足を、けとばさないで生きたいと思う。(P145) で、彼女は、けとばさないために、「サイ」から聞こえてくる「ソリ」、すなわち、「あいだ」で暮らし、それぞれのことばを話す人々の声に耳を澄ますことを呼びかて、こんな話を紹介しています。 1982年、初めて韓国に行った時のこと、知り合いになったふたりの幼稚園児を育てている女性と「子ども大公園」行ったときに、彼女との会話の中でのことです。「日本に、サルジモッタヌンピヘンギがあったでしょう?」 韓国の女性の、この、なにげないソリを聞いて、斎藤さんは、ひょっとしたら、日本語を学んでいるという、少し年上であったであろう、その女性のソリ=声を支えている意識の深さ、あるいは、歴史意識とでもいうべきものに対して、 ビックリ仰天された?のではないでしょうか。 80年代に、おそらく、30代だったその女性は、今では70代ということですが、それはボクと同世代です。たとえば、ボクが30代だったころ、自分の父親や伯父の世代の青年たちが神風特攻で命を落としたこと、自分が「生きられない飛行機」を飛ばした「国家」の末裔であることに気付いていたでしょうか。 斎藤さんがこのエピソードを、ここにお書きになっているのは、韓国語を学ぶということは 「奪われた国」と「奪った国」の「あいだ」に立つことだ! というおそるべき発見の体験を、この本を読むであろう若い人たちに伝える必要を感じていらっしゃるからでしょうね。 斎藤真理子さんには、すでに「韓国文学の中心にあるもの」(イーストプレス)という、実に読み応えのある本を書いておられます。韓国文学から聴こえてくる「ソリ」に耳を澄ますために、「サイ」を生きる人たちをけとばさないために、「奪った国」の命令で「生きられない飛行機」に乗せられて以来、「奪われた国」、「生きられない国」の人々の「ソリ」を描いてきた韓国文学の100年を辿った力作です。 まあ、とりあえずは、斎藤さんの案内で 「隣の国の人」たちとお出会い下さい。 おススメです(笑)。
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