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横尾忠則「飽きる美学」(実業之日本社)
![]() 「絵を描くのに飽きた!」 とまあ、こういう書き出しです。で、まあ、「飽きた」ということについての蘊蓄があれこれあって、たとえば、 三島由紀夫さんの死は結局生きることの意味や必然性がなくなった結果だったのかもしれません。つまり人生に飽きたわけでしょう。 などという、まあ、過激極まりない発言まであって、 飽きない間は不自由なんです。自由が見つからないから飽きないのです。 という展開ですから、 ああ、はあ、そうなん!?と、わかったような顔でもして、うなづくほかないわけですが。結論はこんな感じです。 まあ僕的に言えば、「飽きた!」状態で描く絵はどんな絵なのか、それを見てみたいという好奇心があるのです。ここからが「飽きる」始まりなんです。つまり「飽きる」というのは無意識行為なんです。意識して飽きるのではなくて、気がついたら飽きていたのです。「気がついたら、こんなんできてましたんや」というのが「飽きる」美学なんです。浅田彰さんが僕の作品は「無意識の底が抜けている」と言いました。つまり底が抜けないと「飽きた!」とは言えないんです。無意識の底が抜けるということは他力と自力が一体化したことではないかと思います。 とこうなって、論議は、もう一息続いて 他力と自力が一体化は死とギリギリです。 と、まあ、「飽きる美学」が解説(?)、宣言(?)、いや、ボクには無意識の呻きとして述べられているんじゃないかという感じがしますが、深いような、浅いような、 駄法螺エッセイ(笑)のはじまりです。 このエッセイ集の中で、関西弁の「知らんけど」という、何かわけありげに言った後にくっつける言い回しに言及していらっしゃったのが、ボクには一番面白かったんですね。こういうのが、面白い人には面白いと思うのですがと勧めたところ、うちの同居人は 眠くなる!と言って放り出してました。 そういえば、横尾さん、兵庫県の西脇の人で、高校は県立西脇高校です。実は、昨年亡くなった、同居人のお母さんが、彼と高校の同級生だったんですね。 「おかーちゃん、横尾さんって、さん付けやったけど、あんまり、ええようには言わんかったなあ。」 というのが同居人の記憶ですが、高校時代に「郵便友の会」とかに熱中している男子同級生に、いい思い出を持つ女子高生は少ないでしょうね。知らんけど(笑)。 まあ、それにしても、お元気そうでなによりです、知らんけど。でした。
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