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カテゴリ:読書案内「翻訳小説・詩・他」
マルコ・バルツァーノ「この村にとどまる」(関口英子訳・新潮クレストブックス) ![]() 「なに?これ?」 で、借りました。読み始めてみたら、 一晩で、一気読み! でした(笑)。 表紙の写真は北イタリアのクロン村、イタリアとオーストリアとスイスの国境辺り村らしいですが、その村があったあたりにレジア湖という湖があって、その湖面から突き出ている教会の尖塔です。 原題は「Resto Qui」で、「ここにとどまる」というイタリア語のようです。 で、ボクが鷲摑みされたのはこんな書き出しです。 書き手はクロン村の指物師の娘として生まれたトリーナという女性で、生き別れになっている娘マリカにあてた手紙でした。トリーナと、娘のマリカがなぜ生き別れになってしまったのかというあたりは、まあ、読んでいただくほかないのですが、小説は最初から最後まで、その村で暮らし続けた一人の女性による、娘にあてた長い長い手紙でした。 全編を読み終えて、最初の、ここに戻ってきて、ボクが考えたのは、 この文章は、果たして、イタリア語で書かれているのか、ドイツ語で書かれているのか? という、翻訳を読んでいる限り永遠にわからない謎でした。 というのは、書き手であるトリーナが生まれ、手紙を書いている今に至るまで暮らしてきたクロン村というのはイタリアの国内にありますが、ドイツ語を話す地域で、彼女は村の小学校で「村のことば=ドイツ語」の教員になろうと、高等学校を出ましたが、ちょうど、ムッソリーニのファシスト党がドイツ語の使用を禁じた時期であったために仕事につけなかったというエピソードの意味は、世界の様々な地域の「文化」を考えるうえで、思いのほか重要なんじゃないかと思ったからです。 手紙に書かれた、様々なエピソードは、1930年代に始まります。今、ボクが、この小説を読んでいる2025年に彼女が生きていれば100歳を優に超えているはずですから、老年に差し掛かった彼女の語り口から想像するに、手紙の現在は1970年代くらいだと思います。 彼女が生きてきた、その40年ほどの間、「この村」で暮らした彼女はどんな人生を歩んだのか、いったい、何があったのか。 北イタリア、多分、アルプスの山間の小さな村でうまれ、そこで暮らす少女であり、娘であり、実直な農夫の妻であり、突如、娘の失踪を経験し、ヒットラーに憧れる息子と夫の関係に気を揉んだりする母であり、戦争を忌避した夫とアルプスの山中を逃げ回わったあげく、ようやく戦争が終わって、やっとのことで学校の先生として勤め始めたのもつかの間、村がダムの底に沈んでいく、まあ、それは戦前からあった「開発計画」だったのですが、村を、元の姿のまま守りたいという抵抗運動の中で夫と死別した未亡人となり、老いを目前にした女性が、湖に突き出た教会の尖塔が観光名所になった村に暮らしながら、幼い日に村を出て行ってしまった「娘」にあてて手紙を書いているのです。 この小説は、彼女がとどまりつづけた「この村」を1978年生まれのマルコ・バルツァーノという男性作家が、2014年にこの村の湖の尖塔を見た結果、書き始められた作品のようです。 「湖の底に沈んだ歴史の暴力」 端的に言えばそういうことになりますが、あらゆる「情報」が、スマホひとつで自由自在に操れるかの「今」という時代に、 失われていく「歴史」の姿 を、その場所と時代を生きた 一人の女性の「手紙」 によって、真摯にを問いかけようとするすぐれた作品だと思いました。ボクは、胸打たれましたよ(笑)。
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