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カテゴリ:読書案内「現代の作家」
小山田浩子「ものごころ」(文藝春秋)
![]() 「ヘンな人」の印象 は変わらないまま10年経ちました。 で、「ものごころ」(文藝春秋社)という短編集を、久しぶりに読みました。 やっぱり、どこか、ヘンな人です(笑)。 どこが、どうヘンかということが言えればいいのですが、これがうまく言えません。まあ、そこが、ボクにとっては変なんですけど。 今回の短編集の目次を貼って見ますが、 「おおしめり」とか、「ヌートリア過ぎて」とか、「ものごころころ」とか、題名が、まず、見るからにヘンだと思いませんか? たとえば、「おおしめり」ですが、こんな書き出しです。 窓を閉めようと手をかけると満月で、大学に通うために親に借りてもらった一人暮らしの部屋は単身向けアパートとの三階、狭い道路を挟んだ目の前に大きな公園があって夜はとても静かで風通しも景色もよくて、窓のそばに別の建物があって景色どころか風も通らないような物件ばかり見ていたからすぐに気に入ってこの部屋に決めて、その分大学からは少し遠くて自転車がないとどうにもならないし雨の日特にカッパでしのげないような強い雨の日はちょっと困るけれど、大学近くの大学生ばかりが住むアパートが並んだ辺りの、右隣も左隣も上の部屋も下の部屋も道を歩いているのも居酒屋やカラオケやコンビニの店員も客も全員が同じ大学生という息苦しさがないのもいい、きれいな満月が地面にも映っていて、地面?公園全体がまるで広い平たい浅いみずかがみのようになっていて(以下略・P58 ) 引用し始めて、後悔していますが、この作品、最後まで写すと そういえばベランダ側の窓を開けっぱなしにしているんじゃないか閉めなくちゃ、(P74) という最後の1行まで一文なのでした。 単行本で17ページの作品なのですが、「。」だから、句点がなかったんですよね。だから、区切りのいいところで引用を切り上げて、ということが出来ないんです。 それって、やっぱり「ヘン」でしょ(笑)。 最初の1行で、部屋の窓際にいたはずの語り手は、この最後の1行では、いつの間にか部屋の窓から見ていたはずの公園の水たまりに移動しているのですが、「語り」は途切れないんですよね。 最初に引用したあたりで、語り手の意識のあった、空間的、時間的、場所が、一つの文の中で、縦横無尽というか好き勝手に移り変わっていきます。でも、句点で文章が切れないわけですから、読み手は戸惑うわけです。 何がしたいんでしょうね? こういう文書を前にすると、40年近く「いつ」、「どこで」、「だれが」、「なにを」、「なぜ」、「どうした」、で、「書き手は何を伝えたいのか」、という問いを問い続ける仕事に従事してきた老人は、困るわけです(笑)。 おそらく「書く」という行為の定型的思考過程というか、今、書きつけた言葉の連なり=文を読み直しながら、次を書いていくという、書くという行為をする限り、作家とかに限らず 誰もが逃れようがないのでは?という、プロセスに対する疑いのような思いがあって、 「純粋に書く=読み直さずに手の動くように書く」べき何かがある、だから、意識に浮かんできたたことをコンテキストを斟酌せずに書くことの場所に、なにか 「ホントウノコト」があるんじゃないかとでもいう試行なのでしょうね。同じ場所にいて、内面の吐露を、読点だけで延々と書くというような作品は、どこかで読んだことがありますが、この作品の場合は、書き手でもあるらしい人物も動きますからね、 句点を使わないということは、文章が終わらないという事です。文章が終わらないという事は、いったいどういうことなんでしょうね。見た目というか、読む側からすると、ひたすら、だらだら話し続ける語りの文体になるわけですが、書いている当人にはなにが見えているのでしょうね。 ひょっとしたら、意識が思考を始める最初の姿を書記化しようという意図なのかもしれませんね。ともあれ、たとえば、ボクが、読みながら想像するのは書き手の内面の動きです。 この作品は、通っている大学から少し離れたところにあるアパートで暮らす大学生の、いわば独り言のような内容で、視点は大学生のもので、造形された書き手はその大学生ですが、そこから動くわけではないのですね。ある種、非常に狭い、閉ざされた世界をボクは感じました。ありようは、今風なのですが出口は予感されません。まあ、読んでいて疲れますね。 感想を書いていても、焦点が定まりませんから、この辺でやめますが、いかがでしょう、一度読んでみませんか。ヘンですよ(笑)。
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