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黒川創「京都」(新潮社)
![]() 京都を舞台にした小説で、書名は「京都」です。もうそれだけで、京都の好きな人は手に取ってみようか、というところがあるかもしれませんが、目次には四つの町名が載っていて、最初の二つは読み仮名がないとわかりません。 一つ目が「ふかくさいなりおんまえちょう」で、伏見稲荷の門前町です。二つ目が「よしだいずみどのちょう」で、京都大学の医学部のあたりの町名です。ついでなので、残りの二つを説明すると、三つ目が「きっしょういん、くぜばし」です。南区の桂川沿いの住宅地です。四つ目はJR京都駅の東、河原町通りを南に下ってきた市電、今なら市バスが大きく右にカーブするあたりから南に広がっている町です。で、目次にはその四つの町の名が並んでいるというわけです。 町の名前が、それぞれの作品の名前で、たとえば、「深草稲荷御前町」の冒頭シーンから引用するとこんな感じです。
最初の「深草稲荷御前町」と題された作品の、ほぼ冒頭です。主人公はトオル、駅前の喫茶店の店主で、子供のころからこの町で暮らしてきました。大阪の万博の話が出てくるところを見ると、還暦に差し掛かっているらしいのですが、それはこれらのの作品の書き手である1961年生まれの黒川創の年齢と、ほぼ重なっているようです。 引用した文章のように、それぞれの作品の冒頭のあたりに、その町の由来や歴史が書きこまれています。で、ちょっとした京都案内のおもむきなのですが、紹介されている「町」は、観光客が誰でも知っていて、という町ではありません。京都に暮らしている人にも、おそらくすぐには思い浮かばない、行ってしまえば、かなりディープな地名といっていいでしょう。 上で引用した一つめの作品「深草稲荷御前町」は、街の名前は白永、場所ならだれでも知っている伏見稲荷の門前の町ですが名前が知られているわけではありません。。二つめの「吉田泉殿町」は鎌倉時代の貴族の別荘跡の池のある、いわば由緒正しい町名ですが、地方から来た京大生がこの地名を知っているかどうか。「吉祥院、久世橋付近」、「旧柳原町ドンツキ前」となると、そこで暮らしている人たち、暮らしたことのある人たちにとっての町の名ですね。そうです、この作品集は、観光名所としての「京都」の、だから、今や、国内どころか、世界中からやって来る 「観光名所の京都を見たい人たち」 の視線から、少しずれたところにある京都という町で暮らしている普通の人びとの暮らしを描こうとしている作品です。もう少し言えば、忘れられ、失われていく町の名とともに、そこで暮らした少年を作家に育てたある時代の姿を作品として残そうという意図を感じさせる作品でした。 内容については、まあ、好き嫌いもあるでしょうが、手に取っていただきたい作品ですね。1960年あたりから、高度経済成長とやらの時代を暮らして大人になり、金だけが価値の尺度のような社会を生きてきて、今、70代に差し掛かっているボクのような年齢になって、ようやく気付くことなのかもしれませんが、京都に限らず、この50年余りの時の経過の中で、いろいろな町や村で、多くの「古い地名」が姿を消したわけですが、 「地名」が失われていくということの意味について考えさせられた作品群でした。ただの観光小説ではありません(笑)。
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