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内田樹「新版 映画の構造分析」(晶文社)
![]() 「おや? おや!」でした。 内田樹「新版 映画の構造分析」(晶文社)です。晶文社がSHOUBUNSHA LIBRARYの1冊としてラインアップしたようです。ただし、新版ですから「第4章」のオマケつきです。 旧版「映画の構造分析」(晶文社)が出たのは2003年、その後2011年くらいに文春文庫で文庫化されていて、多分どちらかがボクの書棚のどこかにあるはずですが、まあ、所在不明ですが(笑)。というわけで、とりあえずオマケの第4章読みたさに借りてきました。 で、おまけに行く前に本編にはまり直しでした。「はじめに」の冒頭で これは映画批評(のような)本ですが、映画批評のほんではありません。というわけで、20代からボク自身がかぶれていたジャック・ラカンとか、ミッシェル・フーコー、ロラン・バルトが引用され、それに伴ってフロイトとかレヴィナスが登場するという、本人がおっしゃるには現代思想の解説らしいのですが、でも、やっぱり、映画論なのですね。 で、今読み直すと、まず、なつかしさで胸が熱くなるような「反物語」とか「徴候」とか「パノプティコン」なんていう、まあ、分かったのか分からないのか分からないまま鵜吞みにしたはずの、あのころの術語の山が、なとなく、すらすらと入ってきて、 面白いったらありゃしない!(笑) なのでした(笑)。 今更なのですが、一つだけ例を挙げると、ヒッチコックの「裏窓」をネタにした語りの結末部分ですが、 「自分はみられることなく、すべてを見る」不可視の権力は、「誰からも見られない」青ざめた、生気のないその似姿を、醜い双生児のように同伴する。これがフーコーの知見のうちでおそらくもっとも重要な点である。 なんだか、やたらときっぱりとした言い草ですが、フーコーの「言葉と物」の冒頭で話題にされるベラスケスの「侍女たち」という絵画とヒッチコックの「裏窓」という映画の動けない主人公が住んでいるはずのアパートの壁の話なのですが、「絵画」であれ、「映画」であれ、共通するのは「見る」という行為なのですね。で、問題は「見る」という行為の意味についての、内田樹の考察の結論部分ですが、ここで最後に彼はこういうのです。 表象秩序を制定するものの不可侵の権力の座を実際に占めているのは、その表象に映り込んでいる私たち自身だということである。「見られることなく私たちをみているもの」は私たち自身だということである。(p189) なんだか、やっぱり、分かったようなわからないような話で申し訳ないのですが、例えば、映画館で画面を眺めている観客であるボク自身は、映画という表現の外部ではなくて内部にいる、刑務所の外賀のような内側のようなパノプティコンから、自らは決してみられることなく、囚人たちを一望している看守の場所に座っているということでしょうか? で、そうだとして、 それは、何を意味するのか?ということですが、ボンヤリ考え続けるよりしようがなさそうですね(笑)。 まあ、そういうわけで、旧版にもあった記事の話で終わってしまいました。とりあえず新版の目次を載せておきますね。 おまけの第4章の話は(その2)に続きます(笑)。 目次
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最終更新日
2025.06.17 22:30:23
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