保坂和志「魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない」(筑摩書房)
市民図書館の棚を徘徊していて見つけました。保坂和志「魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない」(筑摩書房)です。2012年の本で、筑摩書房の「ちくま」に2010年2月~2011年9月に掲載されたエッセイ集です。実はこの本は、ボクの棚のどこかにあるはずなのですが、年のせいもあってでしょうが、混乱のきわみ、だから誰の本がどこにあるかわからない状態の本棚を思い浮かべて「借りたほうが早いな・・・」
で、借り出して読みました。 まえがき
この本に収録した文章は雑誌「ちくま」に『寝言戯言』というタイトルで、二〇一〇年二月号から一一年九月号まで全部で二十回毎月連載したものの中の十八回分で、二回分がどうしてここに収録されなかったかは特別な理由があるわけではないのでいずれ別の機会に別の本に収録することになると思う。
そういうわけなので文中に「昨年」ともし出てきたらそれは現時点からみた「昨年」でなく文章が掲載されたときからみた「昨年」ということだけご理解いただきたい―と、こういう風にわざわざ書かなけれならない、いわゆるエッセイという文章の縛りとはどういうものなのか。この連載が終わりに近づいたところで三月十一日の地震と津波があった。福島第一原発の事故もあった。私は当然それについて書くことになるのだが、それはそんなに“当然”だったんだろうか?私はあの地震のことも津波のことも原発のことも本当に書かないではいられなかったんだろうか。そのとき私の関心は他のほとんどの人と同じくそのことしかなかったんだからそういう意味で当然なのだが、それでもやっぱりそのことが私の心のすべてを占めていたわけではないことを考えると、結局私はまわりの人というよりもむしろ私自身に向かって、「俺だって考えてる。」と、言い訳をしたりポーズを取ったりしていただけなんじゃないか。今回、一冊の本としてまとめるにあたって全体を通して読むと、地震・津波・原発絡みの文章でわたしは退屈した。たぶんたいていの読者にとっては、地震以後に書かれた文章の方がかなりわかりやすいだろうし、その部分の方が本として「読んだ」という実感になるだろうが。そこがいけない。一二一ページのニーチェのくだりで批判したことをまさに私は実践してしまった。(P7~8)
図書館の棚で、この本を手に取って読み直してみようと思ったのは、まえがきこのくだりを読んだからですね。まえがきに何を書いているんだ?
まず、そう思いましたが、これが保坂和志なんですね。だから、その「ニーチェのくだり」を、とりあえず写してみます。 「肉体は一つの大きい理性である」とか、
「ひとの血を理解するのは、たやすくできることではない。わたしは読書する怠け者を憎む。」とか、
「おまえは小さな手でお前のカスタネットを鳴らした、ただ二度。―するとっもうわたしの足は舞踏に熱狂してゆらぎはじめた。」とか、
ニーチェが何者であるか知らずにこんな言葉を読んだら、「バカなんじゃないの?」と思う方がふつうだ。だからエッセイとうのはとてもよくない。書き手は「バカなんじゃないの?」と思われないような拘束あるいは自主規制みたいなものの中でしか書くことができない。それに気づかず、バカじゃない範囲で滔々と、いちいち根拠を示して正しいことばかり書いている人は本当のバカ、というかニーチェ的に言うなら卑屈な飼い犬だ。なんて喩えは犬に申し訳ない。が、そういう書き手ばっかりだ。正しさなんてその場かぎりで、時代と場所が変われば正しさも変わる。(P121)
いかがでしょうか。ついでに地震の後の文章も紹介しようかとも思ったんですけど、興味のある方は、本書を手に取ってお読みください。
まあ、もう一つ言えば、この本は題名がいいですね。そこもやっぱり保坂和志です。
で、まあ、地震騒ぎの中で彼が書いた文章が入っている「パチンコと残り野菜の漬物」という章の結語を引いておきます。
私たちは自分を責めるのをやめて、何よりもまず主体性が奪われていることに気づくべきだ。この社会に私たちが責任を負う必要がない!そう考えればアクションはずっと起こしやすい。(P208)
イミわかんないという人は、多分、読んでもわかんないかもですが、まあ、手に取ってみてください(笑)。
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