中野量太「兄を持ち運べるサイズに」パルシネマ新公園
久しぶりにパルシネマの2本立てを見ようと思って出かけましたが、映画館でお友達と出会って、1本見て帰ってきた映画がこの作品です。中野量太監督の「兄を持ち運べるサイズに」ですね。 村井理子という方の「兄の終い」という、評判になったらしいエッセイを原作にして作られた作品のようです。
なんだか、なつかしい柴崎こうさんとオダギリジョーくんの妹と兄というコンビで、「家族」の再確認!
を描いたヒューマン・コメディーというわけですが、なんだか、それで?
という印象が残った作品だったですね。 見終えて、本来ならもう1本というところなのですが、朝から2本見たお友達が、まあ、当然ですが、帰るというおっしゃるので、久しぶりにおしゃべりもしたいしという気持ちも募って、一緒に席を立ちました。
映画に関しては、眼鏡をかけた「作家さん」(まあ、この言い方が作中でも出てきてアホらしくなったのですが)の役を演じていらっしゃった柴咲コウさんが、ある時期の桃井かおりさんに似ていらっしゃるということに対する驚きだけが記憶に残りましたが、物語として描かれている、家族の肖像の薄っぺらさ
というか、たとえば、この上のチラシの写真は、残された息子のリョウタ君が、突然亡くなってしまったお父さんとの思い出の場所の一つとして、「キリン」と呼んでいる多賀城の港のクレーンを、叔母さんにあたる理子さんと眺めるという、とてもいいシーンなのですが、映画としては何かが足りないというか、説明過剰というか、なんとはなしに物足りない印象
が残ってしまうんですね。もしかしたら、理子ちゃんには、あの人の知らないところがあるのかな?
お兄さんの奥さんだった加奈子さんがふと口にするセリフなのですが、相手のことを知らないのが理子ちゃんなのか、死んでしまったお兄さんだったのか、それはともかく、たとえ、親子、兄妹、夫婦であっても知らないことしかないんですよね。そういう意味では、いいところをついているんですけど・・・。 多賀城という東北の海沿いの町の震災後の復興の姿を、死者をめぐって家族との確執に苦しむ、親子、兄妹、夫婦のこころに重ねている構成も、わるくはないのですが、なんだか、ご都合主義がにおいましたね。 分かりやすさが「深さ」を失っていく
というと、言いすぎでしょうか。いい話なのですが、なんだか、上滑りする現代社会そのままの印象
で、疲れる作品でした。 「オダギリジョーって、ああいう役、よく似合うね(笑)」
神戸駅まで歩いた帰り道で、ボクなんかより日本映画とかもよく見ていらっしゃる、お友達がおっしゃった言葉ですが、ナルホドですね。映画はその余裕で見ないと面白くないんですよね。
監督・脚本 中野量太
原作 村井理子
撮影 岩永洋
編集 瀧田隆一
音楽 世武裕子
キャスト
柴咲コウ(村井理子)
オダギリジョー(兄)
満島ひかり(兄の妻だった人)
青山姫乃(兄の長女)
味元耀大(兄の長男)
2025年・127分・G・日本
2026・03・05・no44パルシネマ新公園no50