エドワード・ヤン「恐怖分子」シネリーブル神戸
「海辺の一日」という初期の作品が上映されたので初めて見て「ふーん・・・」とか思っているとこの作品も上映されたので見ました。 エドワード・ヤン監督の「恐怖分子」です。
小説を読むときに、この描写の書き手は?ということが気になる読み方をするようになって久しいのですが、映画館を徘徊し始めて10年近くたって、最近、ようやくですが、このシーンは誰が見てるの?ということが気になり始めました。
小説なら、作家が書き手ですが、プロット、プロットでは、作家による創作人物が語るということが組み合わされて「書かれた世界」が、読み手の意識の中で立体化するわけですが、映画であれば「映像」ですね。
上のチラシで、ビルの窓から拳銃が出ていて何かを狙っているようなんですけど、普通、この拳銃は、誰が誰を狙っているのか、なのですが、ボクの場合は、ここの、このシーン、誰が見てるの?という疑問です。
このシーンは予告編でも映されていて、実際、映画の本編の中にもありました。でも、このシーンが誰の目によって見られているのか、ボクには最後まで分からなかったんですね。
この映画には出来事の視点人物としてカメラ小僧とでも呼ぶべき少年が登場して、目の前で偶然起こる事件にカメラを向けて夢中になりなりながら、被写体である不良少女に心を奪われるという、本筋を支える裏筋ともいうべきストリーが配置されていて、ややこしいことこの上ない展開なのですが、じゃあ、このシーンを見たのはカメラ小僧なのかといえば、ボクは怪しいと思うのです。
このあたりがエドワード・ヤンという監督の才能というか、映画的感性の図抜けた所なんでしょうね。
中国語では「恐怖份子」という題なのですが、份子なのですね。いうならば、ナレーション的なこのシーンを挿入することによって、映画が描く「恐ろしさ」を観客に負担させる、分担させるとでもいう意図なんでしょうかね。実に面白い発想でしたね。拍手!
ただ、ボクは、そういう映画的作為には、大いに喜んだのですが、映画そのものには、それほど感心しませんでした。まあ、ボクの好みというか、感じ方のせいだと思いますが、最後に銃に弄ばれた主人公といい、作家である女性といい、まあ、こういってなんですが、ありきたりというか、通俗だと感じちゃったんですね。
なんていうか、人って、こういうふうに、こういうことに振り回されて、死んだり生きたりしているんですかねえ・・・
という感じですね。しんどいですね。
普段は、そんなに遅くまで外にいることが少なくなった夜、午後9時を過ぎた帰り道で、映画の作意を反芻しながら、何だかこの世界のむなしさに浸りました(笑)。 しかし、まあ、よく考えられた作品であったことは事実なわけで、やっぱり、拍手!ですね。
監督・脚本 楊徳昌エドワード・ヤン
製作 リン・トンフェイ
脚本 シャオ・イエ
撮影 チャン・ツァン
美術 ライ・ミンタン
編集 リャオ・チンソン
音楽 ウォン・シャオリャン
キャスト
コラ・ミャオ(周郁芬 作家)
リー・リーチュン(李立中 医師)
チン・シーチェ(沈維彬 編集者)
クー・パオミン(警察官)
ワン・アン(不良少女)
マー・シャオチュン(カメラ小僧)
ホアン・チアチン
リウ・ミン
1986年・109分・香港・台湾合作
原題「恐怖份子」英題「The Terrorizers」
2026・08・31・no161・シネリーブル神戸no409