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ゴジラ老人シマクマ君の日々

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読書案内 「医者や科学者の仕事、まあ科学一般」

2020.02.13
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​​​​​藤森照信「人類と建築の歴史」(ちくまプリマー新書)

 筑摩書房が今年(2005年)のはじめから出し始めた「ちくまプリマー新書」というシリーズがある。中学生に狙いをつけている感じだが、小学校の高学年ぐらいから読むことが出来る。特徴は「漢字」にルビを振っているところにある。
 じゃあ、高校生にはやさしすぎるかというと、とんでもない。むしろ大人が読めといいたくなる内容なのだ。藤森照信「人類と建築の歴史」(ちくまプリマー新書)を読んで特にそう思った。
 ​​​
人類がマンモスを食っていた時代から説き起こし、現代建築まで射程が届いている書き方は流石、建築探偵と言いたくなるが、ポイントは人類が初めて建物を作り始めた時代を建築史のプロの目で見ているところだ。
 マンモス狩りから麦や米の文化に移り変わっていく人類史の中で生まれてきた「建築」。狩猟から農耕への移行の必然性を経済史的な観点から捉えながら、文明の変化を残された道具である石器の形状と作り方の変化、つまり打製石器と磨製石器の材質と用途の違いから説明する所が最初の読みどころ。
 地母神信仰から太陽神信仰が生まれてくる原始宗教の変化から巨大巨石遺跡、たとえば世界各地にある不思議なストーンサークルの謎に迫る所が次のポイント。技術と道具と材料のないところに建造物はありえないが、目的のない建物を人間が作るはずがない。HOWとWHY、この二つの要素をきちんと書いている所がこの先生のバランス感覚というか、学問のセンスのよさ。読者がガキだからといって、手抜きしない。まあ、僕も東大教授に向かってよく言う。もちろん本人の前ではよーいわん。
 
この後、話題は日本の建築物に移り、伊勢神宮、出雲大社、春日大社の三つの神社建築の特徴の説明。コレが実に面白い。
 世界史の中にこの列島の文化の特徴を置いて考える。日本は特別なんて言わない。そこがさわやか。
 時代的に近世以降が駆け足になってしまったきらいがあるのが残念といえば残念。
​​この本を読みながら真木悠介という社会学者が北アメリカのネイティブ・インディアンの文化について書いている「気流のなる音」(ちくま学芸文庫)という本を思い出した。知っている人には、ちょっと不思議な連想に思えるかもしれない。
 藤森は建築という文化現象を、人間が何故建築物を作るのか、という根源的なレベルに目をすえて分析している。一方、真木は魔術のような原始的文化現象に現代社会学の目を向けている。たとえば巨石を運んでくる原始の人々の姿を、建築学と社会学の二人の学者が興味津々、遠くの丘の上から眺めている。そんなイメージ。原始的な営みに対して両者ともチャンと驚いている。
 ​​
​​​最初に真木悠介のこの本を読んだ時には心底感動した。やたら回りに紹介した事を覚えているが、読み直して何にそんなに感動したのかと思わないでもないが、やっぱり近代社会の教育制度の中でしつけられた自分の世界の狭さという事に驚いたのだと思う。
 最近は高校の教科書に載せられていたりするが、「さわり」だけだから授業の中では却って扱いにくい。一冊全部読まないと面白さは分からない。
 かつては普通の「ちくま文庫」だったのに、「学芸」文庫に格上げ(?)されて、値段も高くなった。要するにあんまり読まれていないということなんだろう。元々は社会学に分類される内容だが、大学にでも行って学問でもしようという人なら誰でも、その始まりの時期に読む価値がある本だと思う。
 著者は真木悠介というのが筆名で見田宗介という名前の東大名誉教授。単行本の頃は新進気鋭と呼ばれていたような気がするが、いつの間にか名誉教授。みんな年をとるのですね。
 ​​​
​​​話を元に戻すと、藤森照信には「天下無双の建築学入門」という「ちくま新書」がある。一般向けに建築学というガクモンを紹介した本。「人類と建築の歴史」の親本のような内容だが僕には子供向けの方が面白かった。
 この人はひところ「路上観察学」という冗談のような学問を提唱して、小説家で評論家の赤瀬川原平なんていう人たちと一緒に「トマソン」物件の探索なんかに熱中した人で、なかなか学者の枠に入りきらない人だと思う。でも子供向けの方がのびのびしていて面白いところがこの人の人柄なんじゃないかと思うわけで、ぜひ一度お読み頂きたい今日この頃です。(S)
初出2005・9・5改稿2020・02・​​​11

​追記2020・02・12​

​​​​​ これまた、古い「読書案内」のリニューアル版なのですが、何が懐かしいといって、「ちくまプリマー新書」というシリーズが創刊されたのがこの年だったことですね。亡くなった橋本治が、このシリーズの創刊にかかわったことをどこかに書いていましたが、最初の一冊は彼の「ちゃんと話すための敬語の本」という本で、後の四冊は「先生はえらい」(内田樹)・「死んだらどうなるの?」(玄侑宗久)・「熱烈応援!スポーツ天国」(最相葉月)・「事物はじまりの物語」(吉村昭)というライン・アップでした。仕事柄もあって割合読み続けていましたが、退職して手に取らなくなりました。​​​​​
​​​​​ 筑摩書房には「ちくまプリマー・ブックス」という150冊くらいのシリーズ、その前には、1970年から始まった「ちくま少年図書館」という100冊のシリーズがありました。
 「少年図書館」湯川秀樹(物理学者)・臼井吉見(作家)・松田道雄(小児科医)が監修者でしたが、松田道雄「恋愛なんかやめておけ」という伝説の(勝手にそう思っているだけかも?)名著が第1巻でした。もう、「出会えない本たち」なのかもしれませんね。
​​​​​

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最終更新日  2020.02.13 00:05:44
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2020.01.19
​中井久夫編「1995年1月・神戸」(みすず書房)

​​
 今日は一月十七日です。ぼくには、この日に関して忘れられない本が数冊あります。その中の一冊が、当時、神戸大学の医学部の教授であった精神科医中井久夫さんが編集なさった1995年1月・神戸」(みすず書房)という、阪神大震災における精神科医療の現場報告の本です。​​

​  まず表紙の写真を見てください。一人の少年が、こちらを向いてピースサインをしていますが、この写真を撮ったのは、この本の編集者である中井久夫さん、ご自身です。​
  表紙カバーの裏にこんなキャプションがついています。

  ​兵庫区の歩道に出ていた小さな店を通りかかった時、一人の少年が「ね、食べていってよ、お願いだから」と手を合わせた。いったん行きすぎた私たちが戻ると、黄色い帽子のオジサンが「無理をいったらだめだよ」といった。私は「きみがあんまりかわいいから」といい、ビール(300円)とオデン(250円)を注文した。オジサンは同行の二人の女性に缶コーヒーを出し、決して金を受け取らなかった。
 ポラロイドを1枚ずつ渡すと少年はよろこんでとびはね、だんだん像が見えてくるのに新鮮な驚きを示した。
 一家かと思った人々は、一組のきょうだいと一組のもとの職場仲間とから成り立っていた。少年は「どこかこの辺りの子」であった。つまり彼はこの店のボランティアであった。​
​ ​続けてページを開くと本冊の表紙の見返しには地図が印刷されています。


 ​これが表表紙。次が裏表紙。


 書店の棚で、この本を触りながら、この表表紙の写真と、裏表紙の地図を見て、ちょっと興奮したことを覚えています。
 ぼくは、当時、この地図のちょうど西の端に住んでいましたが、この年の1月から2月の初旬にかけて、西からの電車が動いていたJR須磨駅から神大病院を目標に避難所をめぐって、若い同僚Y君と歩いていました。職場はこの裏表紙の地図のすこし北にありましたが、生徒は避難所にいたのです。
 
​​表紙の写真のようなボランティアの少年は、通りかかる公園や避難所にたくさんいました。1日に10キロ以上歩いていましたが、この期間不思議と疲れたという記憶がありません。
 この地図の行程をめぐって、中井久夫さんと彼を輸送したS病棟長(本書中、白川治の名あり)について、本書の「災害がほんとうに襲った時」の中にこんな記事があります。​

199511710時前後
 臨床の指揮を直接取る立場のS病棟医長は私よりもさらに遠い団地に住んでいたが、間髪を入れず、「オカユ」になった家を後にしてただちに出撃した。
 しかし機敏な彼にして通常は40分以下の行程に5時間を要した。翌日に出た助手の一人は全体の三分の一に5
​​時間を要してついに引き返した。私は運転ができず、ついでにいってしまうとバイクにも自転車にも乗れない。
 到着したSは私に私の到達努力の非なることを連絡してきた。私は結局、最初の二日間を自宅で執務した。
 「渋滞に巻き込まれて進退きわまり、数時間連絡不能になることは最悪」であると彼は言い、私も思った。いつも動ぜず、ユーモアと軽みとを添えてものをいう彼は「いずれお連れしますよ、それまで私がいます」と言った。​
 ​地震初日から、この地図作成に至る悪戦苦闘の始まりを語るエッジの効いた、さすが中井久夫というシャープな文章なのですが、ぼくは、このくだりを読んで思わず笑ってしまったのです。
 というのは、全くの私事ですが、1995年1月16日の深夜のことです。数時間後に大地震が勃発するなどということは夢にも思わない二人連れの酔っぱらいが、三宮からS病棟長の自宅に帰還しS夫人を困らせて騒いでおりました。ようやく、二人のうちの一人、シマクマ君(ぼく)を夫人が車で送り届け、取って返してご機嫌の、もう一人を寝かしつける頃には日付けも変わっていたという出来事があったのです。
 二日酔いであったに違いない(?)S病棟長は、5時46分にたたき起こされ、1月17日が始まったわけです。
 初めて本書を手に取り、この記述に出会った時のことを今でも覚えています。「あの日」大渋滞を起こしていることは言うまでもありませんが、あちらこちらで火の手が上がり、煙が立ちこめ、ガラスの破片がまき散らされている街路にS君はいたのです。5時間かけて病院への道を探し、運転を続けた姿を思い浮かべて、ニヤつきながらも、ある誇らしさを感じたのです。やるじゃないか!
 この本が、ぼくにとって忘れられない理由はこんなところにもあるわけです。
 さて、この本の読みどころは何といっても
​​​​「災害がほんとうに襲った時」という中井久夫さんによる、緊急現場報告です。この文章は2014年、最相葉月さんが中井久夫さんのポートレイトのようなインタビュー集「セラピスト」(新潮文庫)を出版なさいましたが、その出版と相前後してだったと思います、「阪神大震災のとき精神科医は何を考え、どのように行動したか」として無料で(著者・出版社の承諾を得て)公開されています。本書が手に入れられない場合でも、上記のアドレスにアクセスすれば今でも読めるはずです。是非、お読みいただきたいと思います。​
​​​
 さて、ここから本書に収められているのは現場の実働部隊の人々の生の声、参考資料、チラシ、避難所地図など多彩です。
 大学病院の医師・看護師は言うまでもなく、秘書、大学院生、連携した地元の県立病院や個人医院の医師、遠くから救援ボランティアとして来神した精神科医療従事者すべての人の声が収録されています。今でも真摯でリアルな声が聞こえてきます。
 
​​​​​​​​​​そして、最後の奥付を見てください。1995324日 第1刷発行」となっています。地震が起こったのは1995117日です。災害発生から出版までの時間の短さにお気づきでしょうか。たった二ケ月です。「みすず書房」の編集者も大変だったに違いありません。
 しかし、ここにこそ、この本の目的が明確に表れているとぼくは思います。この本は「思い出」をまとめた本ではありません。今まさに悪戦苦闘を続けている被災者や、その救援者に対して、共に戦っている人たちからの励まし、「エール」を伝えるフラグを立てることを目指したのではないでしょうか。
 ぼくは、そこに「ほんもの」の医者、中井久夫の真意があると思うのです。かつて、いや、ほとんど同じ時代に、アフガニスタンで井戸を掘っていた中村哲さんに「生きておれ。病気は後で治してやる。」という名言がありますが、あの年の6月にこの本を手に取ったぼくには、中井さんの「一休み、さあ、ここからが本番だ!」という声が聞こえてきたのでした。
 なにはともあれ、いろんな意味で思い出深い本であることは間違いありません。
追記2020・01・19
 いきなり追記ですが、この本を思い出した理由が、もう一つあります。今日からNHKのテレビ放送で「こころの傷を癒すということ」という、実在で、若くして亡くなった安克昌という精神科医を主人公にしたドラマが始まりました。
 第一回を見ると柄本佑君が主人公を演じていて、なかなかいい感じでしたが、「安克昌」ファンのぼくは、ちょっと泣いてしまいました。
 安克昌さんの「被災地のカルテ」という文章も、この本に入っています。彼の著書「心の傷を癒すということ」(角川文庫)にも収められていたと思いますが、この本で読むことができます。彼の、この著書は「サントリー学芸賞」を取った本ですが、書棚のどこに隠れているのか行方不明で、ここでは紹介できません。見つかれば「案内」したいと思っています。 ​​

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最終更新日  2020.10.31 02:48:41
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2019.12.01
​​​​​​「2004年《書物》の旅(その8)」
《三木成夫「内臓のはたらきと子どものこころ」(築地書館)》
​ ​
 人間の姿をどの方向から眺めると本当の姿が見えるのか。そんなことを考えたことはありませんか。自分の姿を眺めなおしてみるという言い方が、ある場合にはとても比喩的な表現だったりする。鏡を長い時間かけて眺めたからといって、そこに自分の姿を見つけることができるとは限らない。

​​​​​​ 二十世紀を代表するチェコのユダヤ人作家フランツ・カフカはデカイ甲虫になっている自分を発見する小説「変身」(新潮文庫)― 最近では人気のドイツ文学者、池内紀の新訳が白水社からUブックスシリーズで出ているが、高橋義孝の旧訳と読み比べるのもいいかも。これは短い小説だからすぐ読める。― を書いたが、彼の場合は自分に限らず世界の方も意味のよく分からない姿で現れてきたらしい。「城」(新潮文庫)とか「審判」(新潮文庫)とか、一度手にとってみるのも悪くないかもしれない。​​​​​​

​​​ 顔とか、しぐさとか、高校生や中学生の振る舞いが奇妙な出来事として話題にされはじめて久しい。鏡を覗き込んで顔や髪型の製作に余念のない子どもたちの姿に大人がビビル。電車の中で自分の顔を相手にお絵かきしている二十代の女性にくたびれたサラリーマンが唖然とする。
 その辺の世相を哲学的に語って人気者になった人に鷲田清一という阪大の先生がいる。とりあえずというなら「てつがくを着てまちを歩こう」(ちくま学芸文庫)あたりがお手ごろかも。この人、見かけはダサいのに、著書の題名はシャレてる。
 この人の本では他に「じぶん―この不思議な存在」(講談社現代新書)が小論文の参考書にお薦め本としてよく出てくる。これを一読して、わかったと思う人は、かなり、おつむがいい。自信のある人はどうぞ。ははは。
 ところで、この本の出だしに、こんな一節がある。​​​

 さて、ノルウェーの高校の元哲学教師が書いた子供向けの哲学ファンタジー「ソフィーの世界」(ヨースタイン・ゴルデル=日本放送出版協会)がベストセラーになった。この本、一人の少女がある日、郵便受けに一通の差出人不明の手紙を見つけるシーンから始まっている。そこにはたったひとこと、「あなたはだれ?」とだけ書かれていた・・・。そういえばしばらく前には、『わたし探し』ということばも流行した。 

 が、これはなにも新しい問いではない。今からちょうど三十年前、1966年に、マーシャル・マクルーハンはテレビというメディアに関する講演の中で、つぎのように語っていた。「今日、精神分析医の病院の診断用の椅子は『わたしはだれなのか、おしえてください』とたずねる人々の重みにうめいている」と。

 ​いや、十七世紀フランスのひとブレーズ・パスカルは、後に「パンセ」(中公文庫・前田陽一訳ほか)としてまとめられることになる紙片群の一つに、「わたしとはだれか?」という問いではじまる一文を書きつけていた。さらにさかのぼって、古代ギリシャのソクラテスもまた、デルフォイの神殿に掲げてあった「汝みずからを知れ」という神託をきっかけとして哲学的な反省をはじめたといわれる。「わたしはだれ?」という問いはほとんど哲学的思考の出現と同じくらい古い問いのようである。​

​ ​​十年前の本だから、当時、爆発的に流行った「ソフィーの世界」も、『わたし探し』なんて流行語も、今の高校生諸君にとっては「ん?」という感じかもしれないが、主旨は今でも通用するだろう。「わたし」は探され続けてきたのだ。​​

​ さて、今日、案内したいのは、小説でも哲学でもない。養老孟司でその仕事が世間の知る所となった解剖学の先生、三木成夫(みきしげお)の本。東京芸大で芸術家の卵を相手に教えていた解剖学者が保育園の保育士さんや親たちを前にしての講演がまとめられた本、「内臓のはたらきと子どものこころ」(築地書館)。《みんなの保育大学》というシリーズの一冊。​

 「なんで?」といぶかる向きもあるだろう。

「わたしと解剖学、何のカンケーがあるねん?」

 それが、大ありだということは読めば分かる。


 先にあげた鷲田はこういっている。​

じぶんのからだ、などとかんたんに言うけれど、よく考えてみるがいい。わたしたちはじぶんのからだについて、ごくわずかなことしか知らない。背中やお尻の穴をじかにみたことがない。
​ これに対して、三木成夫はこの「からだ」について、塗ったり、描いたり、穴を開けたりしているつらの皮をひっぺがし、受精した卵の時から徹底的に切り刻んで、顔や口からお尻の先まで、何がどうなっているのか調べた人だ。
 生物が何万年もかかって進化してきた痕跡を人間のからだの中に捜し、「こころ」がどこにあるか見つけた人なのだ。
 人間に「こころ」が生まれてくるプロセスを、生物としての形体から探ろうとした人といってもいい。
 ちなみに、「こころ」は脳ではなく心臓にあるらしい。決してはったりではない。しかし、そうなると、「わたし」がどこにあるか、またまた悩み始めることになるのだろうか?疑う方は本書を捜して読んでみるといい。​

​ ​​ 中公新書に「胎児の世界」という名著もある。こっちの方が手に入りやすい。子どもと出会う仕事をしたいと思っている人は、読むとうれしくなる。それは保証する。はははは。(S)
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最終更新日  2020.10.30 01:25:56
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2019.11.30
​​​​増崎英明・最相葉月「胎児のはなし」(ミシマ社)​


​​​「超」おもしろい本に出くわしました。産婦人科の先生、増崎英明さんに最相葉月さんがインタビューした「胎児のはなし」(ミシマ社)です。​​​

 増崎さんは「胎児医療」のエキスパートで、長崎大学の医学部病院の院長をなさっていた方らしいのですが、この本がはじめての出会いでした。

​​​ 聞き手の最相葉月さんは「絶対音感」で評判になったのが、もう20年近くの昔のことなのですが、ぼくは、ちょっとキワモノ的な見方をしていました。
 ところが、数年前、精神科のお医者さんである中井久夫さんへのインタビュー「セラピスト」が面白くて、すっかりファンです。​​​

 で、この本は彼女が生徒、増崎さんが先生という設定のインタビューですが、驚きや感動だけでなく結構笑える内容になっているところが、この本の作り手のお手柄だと思います。

​ さて、内容ですが、読みながら、知ったかぶりで、同居人チッチキ夫人にした質問ごっこを再録してみますね?

1問「赤ちゃんが羊水の中でしないことは次のうちのどれでしょう。」

(ア)夢を見たり、目を瞠ったりする
(ウ)ウンコをする
(エ)笑ったり泣いたりする
(オ)シャックリをしたり欠伸したりする

2問「羊水の成分は、もともと何だったでしょう?」

(ア)オカーサンのおしっこ
(イ)オカーサンの血液
(ウ)オカーサンの汗
(エ)オカーサンの飲んだ水

3問「赤ちゃんはひっきりなしにオシッコをしていますが、羊水がふえないのは何故でしょう?」

(ア)子宮壁が吸収する
(イ)子宮に排泄口がある
(ウ)蒸発する
(エ)赤ちゃんが飲む

第4問「羊水の中で水中生活の赤ちゃんは肺の中まで水浸しですが、いつどこで、その水はなくなるのでしょう?」

(ア)破水と同時に吐き出す
(イ)胎道で搾りだされる
(ウ)出産と同時に空気に押し出される。

5問「妻の出産に分娩室まで付き添う夫が、よくしてしまうことはなんでしょう。一つ選びなさい。」

(ア)泣いてしまう
(イ)怒ってしまう
(ウ)笑ってしまう
(エ)気を失ってしまう
(オ)出ていってしまう

6問「生まれたばかりの赤ちゃんの顔に、オカーサンが手をかざして暗がりを作ると赤ちゃんはどうするでしょう?」

​害7問「オカーサンが左腕で抱っこして頭を左の胸にもっていくと、赤ちゃんの機嫌がよくなるのは何故でしょう?」

  面白がっていても、キリがないのでこれくらいにしますが、実はもっとものすごい話が山盛りで、あっという間に読み終えてしまいます。

 笑える話というのは、なんといっても、増崎先生が、かなり深刻な話でも、笑いながらしているということですね。ぼくが一番笑ったのは、ここですね。

最相「すみません、基本的な質問で恐縮ですが、おっぱいっていうのは、赤ちゃんが生まれてから出るものですよね?」

先生「うん。」

最相「なぜですか?なぜ妊娠中は出ないんですか?」

先生「いらんでしょ。」​

​ ​ちなみに、最相さんは出産の経験がないので、この質問になるのですが、先生の答えが笑えるでしょ。モチロン、この後メカニズム説明がきちんとあるわけで、身近に経験のない読者にもよくわかるはずです。
 胎児医療や、不妊治療の実態について、かなり深刻な話もあります。水中出産の危険性や、胎児にとってのアルコールやタバコの危険性についての厳しい口調のの注意もあります。しかし、その節々に、産婦人科の医師としての仕事に対する誠実さはもちろんですが、、何よりも「赤ちゃん」ひいては「人間」に対する愛情があふれている、おしゃべりなんです。それを聞き出した最相さんも立派ですね。

​​​ 増崎先生はあとがきで三木成夫「胎児の世界」(中公新書)に触れてこう書いています。​​​

 三木先生は「あとがき」に「母胎の世界は見てはならぬものであり、永遠の神秘のかなたにそっとしまっておこう」と書いています。四十年間を胎児の研究者として過ごしてきたわたしにも、同じ思いがあります。子宮の中は、宇宙や深海のように、いつまでも神秘の世界であってほしいのです。
​​​ ​​​三木成夫「胎児の世界」は、40年前の本ですが、名著中の名著だと思います。現代胎児医療の最前線で活躍した増崎英明さんが、ここで、もう一度この言葉をくりかえしたことに、やはり胸をうたれるものがありました。​​​
 皆さんも、是非、おなかの中の「赤ちゃん」の「すごいはなし」を楽しんでください。
文中の問題の答え
問1(ウ)問2(イ)問3(エ)問4(イ)問5目を開けてオカーサンをじっと見る。問6オカーサンの心臓の音が聞こえるから。
​追記2019・12・01​
三木成夫「内臓のはたらきと子供の心」は、増崎さんのこの本と似ています。へ―って、感動する。ぼくの「案内」は適当ですが、「本」は素晴らしい。書名をクリックしてみてください。​


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最終更新日  2020.10.18 12:47:01
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2019.11.08

 ​柳宗民 「日本の花」(ちくま新書)


 
​空き家になっている田舎の家の裏山が崩れました。2018の夏の大雨のことです。一年以上かかって補修工事が終わりました。土砂に流された跡地にサザンカの木だけが残っていて、花をつけていました。ちょっと、嬉し気分を味わいました。
 工事の人の親切で、植え直していただいたようです。ありがたいことです。


 ​​帰宅して「日本の花」「秋の花」のページ開くと、美しい花の挿絵と一緒に出ていた。

 「おっ、あった、あった!」

サザンカツバキはどう違うか?簡単に云えば花時がサザンカは秋、ツバキは木偏に春という国字が作られたように春咲き、ということになるが、サザンカにも春咲き種があるし、ツバキにも秋から冬に咲く種がある。ツバキは花が終わると花は散らずに花ごとポトリと落ちる。サザンカの方は一枚づつ花びらが散り、いわゆる散りサザンカの美しさを楽しませてくれる。ところがツバキんも散りツバキというのがあって、はっきりした区別点とは云い難い。
 この後、雄蕊や雌蕊の形、茶筅型か梅芯型かとか、葉の光沢、の特徴が語られるのですが、なかなか結論に至りません。要するにそっくりなんでしょうね。

 結論はこうでした。

正確な区別点はツバキでは子房や新芽には毛がないが、サザンカには微毛があり、これがはっきりとした区別点と云われる。
 ​続けて読んでいて、子どもの頃、山茶花究という名前のコメディアンがいたことを思い出しました。
 サザンカの漢字表記の面白さに触れてこんなふうに記しています。

サザンカは山茶花と書くがこれは誤りで、先の「花壇地錦抄」では茶山花となっている。いつ、茶と山がひっくり返ったのか。また中国ではサザンカは茶梅といい、山茶とはツバキのことである。やはり茶山花と書いた方が素直ではないか。山茶花、サンサカの語呂がサザンカ似るのでいつのまにか茶山花が山茶花になってしまったのだと思う。どうも漢字名とはなかなか厄介なものだ。
​ ​​「茶山花」では、「サザンがキュー」の語呂合わせの、お笑いの名前にはならないのかなと考えていて気付きました、読みは「サザンカ」なんですね。​​
 いかがでしょうか。街を歩いていて立ち止まるときがあります。小さな花が咲いているけど、名前を知りません。帰ってきて、季節の花を探します。

「あった、あった。ふーんそうか。」

 誰かに話せるわけでもないのですが、この、ちょっとした「蘊蓄感」が楽しいのですね。
 この図鑑は解説の文章がいのちでしょう。文章がいいのは、父親、柳宗悦ゆずりでしょうか。
 載ってる花は60種くらいで、名前は、ぼくは知らないのですが、おそらく誰でも知っている入門編タイプですね。挿絵は相田あずみさんの手書き。これもいい。​

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最終更新日  2020.10.20 21:10:57
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2019.10.23

辻井達一「日本の樹木」(中公新書)


 
秋になりましね。紅葉した街路樹の道を歩くのですが、肩に降りかかる葉っぱの名前なんて気に書けしなかった徘徊老人が、ふと、立ち止まって散っていく風情に気を取られている自分に驚いたりします。
 そういえば
「鈴懸の径」という戦前の流行歌があったはずだと思いついたりもするわけです。​

♪♪友と語らん鈴懸の径 通いなれたる学び舎の街 やさしの小鈴 葉かげに鳴れば 夢はかえるよ鈴懸の径♪♪
​ 若い人は歌そのものをご存じないでしょう。歌われている鈴のような実をつけるらしいスズカケの木(鈴懸?)がそこらにいっぱい植わっているプラタナスという街路樹だということなんて、もちろん、ご存じない。ぼくもそうでした。
 まあ、ちょっと、歌の例が古すぎるかもしれませんね?オバーちゃんの世代でも、ついていけないかもしれない。ともあれ、オバーちゃんや、ヒーオバーちゃんたちは地球温暖化のことはよく知らないが鈴懸けの小道は知っていました。ここが大事なところだと、最近思うのですがどうでしょう。

​​ 辻井達一という北大の植物園長をしていた人が書いた「日本の樹木」「続・日本の樹木」(中公新書)という本がある。
 日本の樹木についてのカタログか図鑑のような本なのですが、ただのカタログとはすこし違いますね。何より文章がいいんです。気取った学問臭がなく、学者の書く生硬さがない。素人には分からない学問用語を振り回す、かしこぶった態度がない。本物の実力を感じさせますね。

​​
​​ たとえばプラタナス」のページは4ページ分です。上にコピーした手書きのイラストと名前の由来が記されています。ちなみに、「プラタナス」和名「スズカケ」の由来についてはこんな様子。​

牧野博士によるとこれは山伏の衣の名で篠懸(すずかけ)というのがあるのを、そこに付けてある球状の飾りの呼び名と間違えてつけてしまったもので、もし強いて書くなら「鈴懸」とでもしなければ意味が通じないそうだ。
​ ちょっと解説すれば、「篠懸」というのは、たとえば歌舞伎の「勧進帳」で、山伏姿の弁慶や義経の丸いポンポンが縦についている、あの装飾のことで、「プラタナス」とはなんの類似もないということらしいですね。
 なんと、命名者が勘違いして付けた名前なのです。この後、探偵シャーロック・ホームズの裏庭で産業革命の煤煙に耐えていたプラタナスについて語りはじめて、話はこんなふうに進みます。​
​ 立地への適応幅はたいへん広くて、地味が痩せた、そして乾燥した立地でも十分に育つ。しかもロンドンでの例で述べたように煤煙など大気汚染にも強いときているのだから都市環境にはもってこいなのである。その意味ではプラタナスが育っているから安全だ、などと考えては困るプラタナスが枯れるくらいだったら、それは危険信号を通り越していると考えなければなるまい。​
​ 締めくくりかたが、なんとも、鮮やかなものでしょう。「環境問題」もここから考える方がきっと面白いと思いますね。

​ 次いでなので、「スギ」の項目はこんなふうです。​

 悲劇の武将、源義経が鞍馬寺の稚児として牛若丸と呼ばれていた頃、夜な夜な木っ端天狗が剣術の指南をした、ということになっているのも鬱蒼たる杉木立がその舞台だ。
​ これが明るい雑木林で栗の実が拾え、柿の実が赤く染まりというのではとんと凄味がなくて餓鬼大将の遊び場である。実際にお相手をしたのは田辺か、奥州の手の者か分からないが、山伏装束でもしていれば間違って通りかかった坊主、村人、杣人いずれにしてもよく見ないうちから天狗の眷属と踏んで足を宙ににげさったことであろう。そもそも怪しげな噂を撒いておいたということも十分あり得る。​
​ こう書いて、つぎに、こう続けています。
 スギの材は建築材に重用されるが、その葉は油を含んでいてよい香りを持ち、どこからの由来か造り酒屋のマークになっていた。スギの葉を球状にまとめたものを軒先にぶら下げるのである。
​​ スギで酒樽を作るから、それから来たものかどうか。これに似た風習はオーストラリアにもある。ここではマツだが、同じように葉を丸くまとめてぶらさげるのが造り酒屋のシンボルだ。​​
​​ つまり「文化人類学」ならぬ「文化樹林学」とでも呼ぶべき時間の奥行と、世界を股にかけた幅で書かれているわけなのです。
 徘徊老人は「街」から帰ってきて、パラパラとページをめくりながら、さっきの立木を思い浮かべ、センスのいい「エッセイ」を一つ二つ読んで、ニヤリとするわけです。どうでしょう、街角で新しい樹木と出会ってみませんか。(S​

週刊読書案内2006no4改稿2019・10・22


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最終更新日  2020.10.15 21:43:08
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2019.08.13
​​​​日浦勇「海を渡る蝶」講談社学術文庫
​​​​
 もう十年以上も昔、こんなふうに、高校生に読書案内していました。その中の一冊です。
​ 運動会も終わりました。朝夕めっきり冷気が立ち込めてくるようになって、秋ですね。この国の伝統文化では月であり、紅葉であり、帰る雁であるという季節です。当然!学校では読書のシーズンということになります。ははははは。
 ところで、校門を入ってすぐのところに車回しがあります。最近そこに二十匹ほどの蝶がひらひらしていることに気付いている人はいらっしゃるでしょうか。蝶といえば春のイメージなのですが、今日この頃のことです。
てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った。

 こういう有名な詩もあるくらいです。たった一行の詩ですが題名もちゃんとあります。詩の題は「春」。作者は短詩で有名な安西冬衛​​​​ですね。

​​蝶の空 七堂伽藍は さかしまに

 こんな俳句もあります。作者はホトトギスの俳人​川端芽舎​。名はもちろん俳号で、ボウシャと読みます。季語は蝶でやっぱり春かな?情景は蝶になって飛ぶと見えてくるかもしれません。これも、なかなか、いいですね。​
 というわけで蝶は春、秋といえばトンボに決まっています。ところが九月に入って一週間ほどした頃から飛び交い始めた薄紫の小さな蝶いるのです。誰か名前を知っている人はいませんか。(なんだ知らないのか。)
 話は変わりますが、​安西冬衛​のこの詩はずっと気になっていました。一匹の蝶がこの列島の最北の海峡を渡っていく姿です。日本名は間宮海峡。世界地理的にはタタール海峡と呼ばれているサハリンと大陸の間の海峡です。「ダッタン」は「タタール」の漢字読みでしょう。一番狭い所で10キロに満たない幅の海峡だそうだですから、そういうことも、つまりチョウがひらひらすることも、あるかと思っていました。
 題が​「春」​だからサハリンから北の大陸に向かって飛翔している蝶のことをうたっているに違いないでしょうが、その姿を思い浮かべると、ホントかなと疑心が浮かんできます。チョウの仕業にしては、あまりに雄大、春とはいえ、北の海の様子としてはあまりに可憐だと思いませんか。​

 夏の間に​日浦勇「海をわたる蝶」(講談社学術文庫​)​という本を読みました。ぼくの疑いは完全にとけました。蝶は空を飛んで海をわたるのです。場合によっては数億匹という群をなして移動することもあるそうです。
 列島周辺の海、大阪湾や伊勢湾、琵琶湖では当たり前の移動で、なかには台風の風に巻き上げられて南のフィリピンや台湾から吹き飛ばされてくるチョウもいるそうです。飛ぶのに疲れると波間に浮かんで翅を休めることもあるというのです。あのモンシロチョウも海を渡ってやって来た種であるとわれると、ちょっと驚きの事実だと思いませんか。

 ナチュラル・ヒストリィ(Natural History)という言葉があります。博物学と訳されています。大英博物館がそのオーソドックスなというか、典型的なイメージですね。
 小学校の頃、理科室に陳列された様々な昆虫や鉱物の標本、動物の剥製、ガラスのビンのホルマリンに潜んでいる気味の悪い、得体のしれない、不思議な生物を覗き込んだ記憶はないでしょうか。
 採集し標本を作り、名前を探す。新しい名前を付ける。人類の知識庫に新しい名前が一つ増える。子どもたちの好奇心を激しくひきつける。博物学とはそういう学問です。

 博物館の学芸員をしていた著者はそれに飽き足らなくなったようです。膨大な知識、物の集積を前にただ羅列しておくだけでは気が済まなかったのでしょう。

​ 発達史的見地からでないと、真に理解することは出来ないのではないか。ナチュラル・ヒストリィのヒストリィという語には、十分な重みがあるのではないか。古い博物学の内容を歴史的に意味づけ、自然史と直訳しなおすことによってその語にふさわしい内容を盛るべきではないか。​​
​ というわけで、歴史の文脈の中に現象をおくことで、全体に対する興味を作り出すことを目論むのです。スゴイでしょ。​
​​  悠久の地質時代にあって、もっとも最近の第四紀と呼ばれる百万年(あるいは二百万年)は、それまでの時代とは違う特殊な時代であり、当時生起した事件は、現在の世界を本質的に規定するものである。気候変動や氷河性水面変動や地表の諸事件に関する知識は、自然史に不可欠であり、ナチュラル・ヒストリィは同時に第四紀学としての性格を備える必要がある。
​​ 第四紀という時代は、地球が、数億年という歴史をかけて作り出した生物自然を、最高度に複雑化させた時代である。一方で海をわたる蝶のような発展段階の高い生物種とそれらが作る生物相を生み出したかと思うと、他方では落葉樹や降雨林などにひっそりと暮らす古いタイプの種及び生物相を、抹殺することなく温存している。
 このすばらしい世界―きびしいと同時にやさしい世界を、私たちは滅茶滅茶に破壊し続けている。坂道を転がり落ちるような破壊の速度をゆるめ、多様性の復権に取り組まなくてはならない。そのためには、自然変化の本質をもっときびしく追及する必要がある。​
​ こうして、博物学の魅力に取り付かれた昆虫少年は、自然史を見据える歴史家になってしまいました。「人類の文化」を振り返ることだけが歴史ではありません。地球規模の生物の歴史をナチュラル・ヒストリィとして見る歴史家だっているのです。
 人間を物差しにして縄文、弥生と調べていくのが列島文化史ですが、彼が歴史を見る時ものさしの役割をするのが蝶だということです。
 今、目の前に飛んでいる蝶がどこから来てどこに行くのか。この列島にいる蝶のどれが元からいて、どれが海をわたってきた蝶なのか。何故北にいたはずの蝶が列島を住処とし、南の蝶が新たにこの地にやってくるのか。
 それを氷河期や、温暖期との関連で論じる。何万年というスケールで蝶相が変化するさまをさぐる。最後には当然、人間の文明が滅ぼしていく蝶たちの姿も見えてくる。
 著者によれば自然変貌の第三段階を迎えている現在の都市型自然は「砂漠型自然」だそうです。コンクリート、アスファルトで覆われた都市は蝶の目から見れば砂漠なのです。蝶は砂漠では生きて行けません。氷河期を生き延びた蝶が文明の砂漠の中で「今」滅ぼうとしているのです。
 本書は1973年に出版された​​「日本列島蝶相発達史」という本のリメイク版だそうです。30年以上たっていますが、著者が発している警告は全く古びていません。1983年に亡くなった著者が現在の都市の蝶相を知ればなんというだろう、読み終えてまじめにそう思いました。(S

​追記2019・08・03​

 この本を紹介したのは十五年以上も前で、生徒さんたちはもう大人になっている。ぼくはただの徘徊ジジイになった。もう一度読み返す元気は今はない。職場の庭にあった面白い形の楠も切られえしまった。樟の葉っぱを食べるアオスジアゲハが、タバコを喫って休憩しているぼくの周りを飛び交うのが夢のように思い出されてくる。
​ 樹齢100年にならんとする大木が、駐車場の邪魔になるという理由で切り倒される。「安全」「便利」「平等」符丁のように言葉は使われて、点数が競われる時代になったが、何を育てているのか忘れた教育に未来はないだろう。学校は「いきものを育てている」場所だということが忘れられて久しい。​
 人間という生き物はたかがか80年ほどの命だが、命のすごさは100年200年生き続ける、庭の植物が教えてくれることだってあるのだ。地面にコンクリートを張って便利を求めることは、そろそろ考え直した方がいいとおもうのだが。


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最終更新日  2020.07.16 18:28:23
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2019.06.24

​​ もう、十数年昔のことです。三年生の教室で出会って、浪人していた人がいました。小論文の入試があって対策に付き合ってほしいという電話が自宅にかかってききました。義理というか、人情というか、まぁ、ぼくにでもできることならお手伝いさせていただきましょうということで、申し出のあった二人の浪人生の相手をしました。二人とも優秀な人でしたから、結果的には志望校に合格しました。しかし、小論文については二人とも劣等生でした。

 二人のうちの一人は医学部を、もう一人は教育学部を志望していましたが、受験大学の過去の問題には「遺伝子操作によって治癒する可能性が高い遺伝的疾患が胎児に発見された場合、医師であるあなたはどのような治療をするべきか述べよ。」とか、「あなたのクラスでいじめが始まったときに教員であるあなたはどうしますか。」といったものがありました。

 受験勉強の常道で過去に出題された試験問題の練習を始めてみると、全くお話にならない状態でした。この時点で彼等が何に苦しみ驚いたかといえば、「生命倫理」「遺伝子治療」「人工授精」「イジメ」「人権」「こころの教育」といったことばの意味どころか、ことば自体を知らないという自分自身のアホさにだったのです。公立としては県内有数(?)の受験校でトップクラスの成績をおさめながら自分が進もうと考える学問分野の最新の課題を何も知らない。受験には現代社会の現場でなにが起こっているのかなんて関係ないと思っていたそうです。​

 社会的関心を失って模試の結果だけに一喜一憂し、やれ、どこの大学がむずかしいとか、どこかの高校は何とか大学にたくさん入ってえらいとかいうことが如何に馬鹿馬鹿しいことか、考えてみればすぐにわかることなのですが、それを考えるという「発想」そのものを受験生は奪われているかもしれません。たとえば、大学見学会なんていう催しが、「オープンキャンパス」と称して昨今はやりですが、建物やクラブ活動の派手さだけを話題にする見学に何の意味があるのでしょうか。つまらんことに感心してないで、在籍する教授の研究業績に興味を持てよといいたくなります。

「じゃあ、受験指導とやらをしている、あなたは、何を知っているのか。」

 彼等が、そのように問い詰めたわけではありません。しかし、お付き合いをしながら、教員である僕自身も自分の関心の狭さを思い知らされたことは事実なのです。とりあえず「イジメ」や「人権」は、一応、仕事関連事項ですからいいとして、実際に遺伝子に起因するどんな病気があるのかとか、遺伝子治療とはそもそもどんな治療であるのかとか、人工授精や遺伝子治療のなにが倫理的に問題なのかなんてことは、正直にいえば「考えたことがない」としかいいようがなかったのです。やれやれ・・・

 無知な浪人生と、無知な高校教員というセットでは受験には勝てません。こういう場合、無知に目覚めた高校教員はどう対処するかというと、手当たり次第、関係のありそうな題の本をひたすら読む。ただそれだけです。言い訳したって始まりませんからね。知識獲得方法に年齢は関係ありません。

 今日紹介するのは、そういうわけで、当時、ジタバタ手に取って読んだ本の一冊。

  林純一「ミトコンドリア・ミステリー」(講談社・ブルーバックス)


「国語」の教員たるもの、そんなきっかけでもなければ、こんな題名の本を読んだりしません。ところが、読んでみると実に良く書けているのです。ちょっと偉そうな言い草ですが、理系の本にありがちな、金釘流というか、ぶっきらぼうで事実が伝わればいいんでしょうというパターンと一味ちがいました。

 著者の林純一が中学校の先生になるつもりで東京学芸大学に進学しながら、ミトコンドリア遺伝子研究の最先端の学者になった経緯から書き始められているところがかなり異色です。この本を書いた当時、筑波大学の教授さんであったらしいのですが、本一冊が、いわば波乱の研究史になっていて実に読みごたえがありました。
 ミトコンドリアとは何かという素人の疑問に簡潔に答えたあと、ミトコンドリアの遺伝子と細胞核の遺伝子の違い、ミトコンドリア遺伝子の遺伝病とのかかわりの謎を世界の研究者との熾烈な競争や、研究現場での失敗や偶然のアイデアのおもしろいエピソードを交えた語り口は、理系の堅物の著書とはおもえませんでした。現場の様子を伝えた理系の本というだけではなく、まず読み物として二重マル。素人の知的な新発見の面白さという面でも高水準だとおもいます。

​​ 同じようなおもしろさに充ちた本といえばリチャード・ファインマンを思い出しましますね。MIT(マサチューセッツ工科大学)で数学を、プリンストンの大学院で物理学を専攻し、アメリカの原爆研究計画で有名な『マンハッタン計画』に二十代で召集され、後にノーベル物理学賞を受賞した素粒子物理学の天才が、研究イタズラ歴をすべてしゃべった「ご冗談でしょファインマンさん(上・下)」(岩波現代文庫)。​​
​​ ファインマンさんの回顧録はシリーズで出て評判になった本です。今では岩波現代文庫に全巻復刊されています。当時、話題の脳学者で、『クオリア』の提唱者である茂木健一郎も、どこかの本で激賞していました。ついでですが、ファインマンがカリフォルニア工科大学で教えていた講義が『ファインマン物理学』(岩波書店)という大学生用の教科書になっていて、評価が高いそうです。大学生協の書店でアルバイトをしていたときに売ったことはありますが、読んだことなどもちろんありません。自信のある方は市立図書館で探してみたらいかがですか?ファインマンは最近話題になっている量子コンピューターを提唱したことでも有名な人です。​​

ともあれ努力家林純一にしろ、あっけらかんの天才リチャードファインマンにしろ、研究が楽しくて仕方がない感じがとてもいい。

 なついて(?)来てくれる受験生諸君によく言ったことです。
​「受験のために読めといっているのではありませんよ。いろいろな世界を知らないまま、やれ進路の、やれ大学のと騒いでいてもしようがないでしょう。手にとった本の向こうに知らない未来があるかもしれない。若さが可能性の塊だということに早く気づいていただきたい。わかる?」​
 どうも、偉そうなお説教になってしまいました。お説教をする相手がいなくなるというのは寂しいことですね。(S)​​​​


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最終更新日  2020.10.25 01:53:01
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2019.06.22
​​​徳永進「自動詞と他動詞」(「図書」2014年6月号)岩波書店​​


​​ ​​​徳永進という名前の医者をご存知でしょうか。「ホスピスケア」・「ターミナルケア」という言葉があります。「終末期医療」ともいわれています。徳永さんは鳥取県で「野の花診療所」という病院を開いて緩和ケアの仕事をしているお医者さんです。下に引用したのは、岩波書店「図書」という冊子に、ずっと昔に書いていらっしゃった文章の一部です。​​​
「自動詞と他動詞」​
 動詞は動きを示す言葉だろう。動きは宇宙に、自然に、社会に、家の中に、自分の体の中、心の中に無数にある。言葉があるというより、生命現象の場には、無数の動きがあり、それを動詞が追っかけているのだろう。

 自動詞は他にかかわらず、他に影響を与えない動詞。自らのうちに生じる現象を追う言葉。

 足なら、立つ、歩く、走る、ころぶ。手なら触る、ちぢかむ、のびる、拍手する。手足なら、這う。会う、笑う、泣く、寝る、起きる、苛立つ、怒る、つのる、いたむ。


 でもどちらかといえば、手、足、目、耳、舌、歯、心、などが持つ動詞は、他動詞であることが多いと思う。握る、蹴る、見る、聞く、味わう、噛む、憎む、愛する。自動詞、他動詞の両方によって身体の運動、心の動きは捉えられている。随意筋と不随意筋によって筋運動が支えられているように。


「伝える」と「伝わる」を臨床で教えられ、自動詞って深い、と知ったが、自動詞がより深い言葉で、他動詞がそうではない言葉、などとは言い切れないことも教えられる。抱く、さする、慰める、励ます、支える、癒す、助ける、救う、いずれも大切な他動詞たちだ。


 生死につての動詞についても考えてみた。「生む」は他動詞、「生まれる」は自動詞。「生まれる」は英語では受動態だが、日本語では受動態とは言えず、自動態というべきだろうか。「殺す」は他動詞で能動態。「殺される」は受動態。「死ぬ」は自動詞、であるのに、「死なれる」という言い方があり、深い言い方だと知った。


 小児科医たちが集まる医局で、「夕方、アキラ君に死なれちゃった」と目頭を赤くして小児科医が言う場合だ。自動詞の受動態。「別れ話をしていたら、彼女に泣かれて」も、泣くという自動詞の受動態。自動詞の受動態には、奥行きがある。

 臨床で大切な「共感」「受容」「傾聴」の名詞は、それぞれ「する」をつけると自動詞になる。自動詞ならどれでも深いとは一律にはいえず、表面的に形式的にその動作をしているなら、それらは浅い。自動詞の「傾聴する」とは「聴く」ことである。聴くは他動詞だ。自動詞の世界で別の言葉を見つけ直すなら何だろう。「聞こえる」か。

 患者さん、家族さんの気持ちを傾聴することはとても大切なことだが、さらに、その向こうで発されているかもしれない聞こえない声を聞こうとする、ない声が聞こえる。このことの方がより大切なことのように思える。自動詞は偉い。だが、詩人の谷川俊太郎さんは「みみをすます」という言葉を使って、聞こえない過去、現在、未来の言葉に触れようとしたことを思い出した。「すます」は他動詞。他動詞の深さも教えられる。自動詞だって他動詞だって、考えてみれば当然、深くもなれば浅くもなる。お互いさまか。


 飽きることなく考え続けた。「見る」は他動詞、「視る」も「看る」も。臨床では大切な動詞だが、「聞こえる」から連想していくと、「見える」という自動詞も大切だと思う、目の前に見える世界だけでなく、患者さんの生活を想像したり、心の中を想像したり、過去やこの先のことを想像して見える世界。「聞こえる」も「見える」も、幻聴や幻視に通じて大切な自動詞の世界なのかもしれない。


​  たどり着いたのは、自動詞、他動詞、それぞれの深み、それぞれの味。反省をふまえ、臨床で大切だと思った言葉をそれぞれから一つずつ。「湧く」、「祈る」。​
​​​​​​  いろいろ考えながら、最後に「湧く」「祈る」にたどりつく。「祈る」はそうなんだなとすぐに納得がいきますね。その前の「湧く」。ぼくにおもい浮かぶ言葉は「哀しみ」。しかし、ほのかな「歓び」かもしれません。​​​​​​
​​  大江健三郎という作家が「リジョイス」という言葉をキーにして小説を書いていたことを思い出しました。もちろん学習塾やパチンコ屋さんの話ではありません。もう少し宗教的というか、生きていることの本質にかかわる言葉ですね。​​
​  リジョイス。そっと呟いてみませんか。名詞なのか動詞なのか、究極の自動詞かもしれません。(S)2014/10/01

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最終更新日  2020.10.25 01:54:36
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2019.06.19

​​​福岡伸一「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書)


​ ぼくの枕もと、つまり、寝転がったままで手の届く範囲には手に入れたけれど読まないままの本が、ちょっと口に出して数をいうのがはばかられるほど、もう、積み上げることが出来ないから箱に入れて何とか背表紙だけはこっちを向けて並べてある。
 あまりのことに同居人に叱られて、アレコレいいわけしながら並べ替えたり、いろいろ、まあ、動かして、さてと寝転んで、で、下から見える背表紙が妙に目新しいのがうれしい。
 まぁ、簡単にいうと「アホか!?」状態。「ああ、こんなのあったっけ?」そう思って手にとった一冊にはまってしまった。
​ この本に関するこの出来事は、もう、かなり昔のことだ。本も、話題になって10年以上たつが、その頃の話。著者も今や有名人。
 著者福岡伸一は分子生物学の学者。手にとって、パラパラやりながら最初の感想はこれ。​

 「うーん、ブサイクな人やなあ!」
 著者の紹介が講談社新書の場合は表紙カバーの裏にある。写真もついている。1959年東京生まれ。
 「フムフム、五才年下か」
 京都大学医学部卒業、ハーバード大学研究員、京都大学助教授、現在、青山学院大学教授。
 「なかなかエライ!」​
 さて、顔写真をしげしげと見る。「うーん、ブサイク!」と、よろこんだぼく ― 何がうれしいねン? ― は横に寝転んでいる同居人に話しかける。
「なあ、一寸この人見てみ、なかなかブサイクやとおもわへんか?」
「ンッ?フツーちゃう?でも、なんの関係があるん?」
「イヤ、まあ、賢い人がオトコマエやとくやしいやんか。」
​「アホか!」​
 まぁ、なんの意味もない会話なんだけど、そういうことがあって、読み始めてみるとこのブ男の文章が実にシャープ。実際、まったく、人間、顔じゃない!
​ この本のテーマは《生命とは何か》。読みはじめると、著者が最初に研究生活を始めたニューヨークにあるロックフェラー大学が紹介される。​
 千円札の顔、「野口英世」という人がかつて所属した研究所だそうだ。本書はその野口英世の成功ではなく、失敗から語り始められる。
 野口は二十世紀の初頭、黄熱病や、梅毒、狂犬病の研究成果で日本人としては最初に、それも数回にわたってノーベル医学賞の候補に上がった科学者で、ぼくたちの世代の科学好きは必ず少年向け伝記を読んでいたような人だ。お札のデザインになった理由はその辺にあるのだろう。
 ​にもかかわらず、現代の高校生や大学生は誰も知らない。世界の科学界でも非常に評価が低く、無視されているのが現状だそうだ。
 その原因は何か? 答えは「ウイルス」なのだ。​
 野口は、当時の光学顕微鏡では見ることのできなかった「ウイルス」の代わりに、目の前に見える細菌を追いかけている犯人だと信じた。そして、新病原菌の発見者の名誉を手に入れた。
 しかし電子顕微鏡の登場と共に虫メガネの迷探偵は舞台を追われた。犯人は別にいたのだ。では真犯人のウイルスとは何者なのか。

ウイルスは、単細胞生物よりもずっと小さい。大腸菌をラグビーボールとすればウイルスはピンポン玉かパチンコ玉程度のサイズとなる。
 栄養を摂取することがない。呼吸もしない。もちろん二酸化炭素を出すことも老廃物を排泄することもない。つまり一切の代謝を行っていない。ウイルスを、混じり物がない純粋な状態にまで精製し,特殊な条件で濃縮すると,「結晶化」することが出来る。これはウエットで不定形な細胞ではまったく考えられないことである。結晶は同じ構造を持つ単位が規則正しく充填されて初めて生成する。つまり、この点でもウイルスは鉱物に似た紛れもない物質なのである。
​ しかし、ウイルスをして単なる物質から一線を画している唯一の、そして最大の特性がある。それはウイルスが自ら増やせるということだ。ウイルスは自己複製能力を持つ。ウイルスのこの能力は、タンパク質の甲殻の内部に鎮座する単一の分子に担保されている。核酸=DNAもしくはRNAである。​
​​ さて、野口英世の名声を奈落の底に突き落としたウイルスとは、果たして生き物といえるのだろうか。それが著者の本書でのメインテーマ。
 そこで、ウイルスが増殖することに目をつけた著者は「生命とは自己複製するシステムである」という一見当たり前の定義を疑うという離れ業に挑むことになる。キイワードは「動的平衡」と「時間」。
 これだけでは意味不明だろう。結果を知りたい人はどうぞご一読を。
​​ ワトソン、クリックといったDNA二重らせん構造の発見した有名人のスキャンダルから、量子力学の天才シュレーディンガーまで登場するが、登場のさせ方が実にうまい。ぼくは一晩寝られなかった。特に「生命と時間」、この一見、哲学的な結びつきを科学的に解説する筆致はすごい。​​
​ この本は、爆発的に読まれた理系の本。人気者になった福岡さんはいろいろ書いていらっしゃるが、これがベスト。間違いありません。​
 インフルエンザに毎年のように苦しむあなた、まあ、本を読めば風邪をひかないわけではないのですが、一度手に取ってみてください。(S)
追記2020・05・19
 そういえば「新コロちゃん」騒動で、この人の名前を耳にしない。専門の領域だと思うのだが、お元気なのだろうか。​​​​


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最終更新日  2020.10.25 02:04:58
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