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ゴジラ老人シマクマ君の日々

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読書案内「社会・歴史・哲学・思想」

2020.11.29
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​​内山節「戦争という仕事 内山節著作集14」(農文協)


​​​ フェイス・ブックというSNS上で知り合った方が、「二十四節季の暦」の記事を投稿されていて、ぼく自身も、自宅の「某所」に下がっているカレンダーが、その暦だということもあり、うれしくなったのですが、ちょうど読んでいた内山節という哲学者の「戦争という仕事」というエッセイ集に「断片化」という題で二十四節季をめぐる話がジャストミートしました。​​​
​ とりあえず、その記事を引用してみます。要点を整理すればいいようなものですが、内山節という人の書き方も知っていただきたいので、全文書き写します。​
「断片化」
 いつの頃からか私のなかには、普通のカレンダーの暦と二十四節季の暦とが、二重に存在するようになった。それは、上野村で農業をすようになってからのことで、農事暦や村の暮らしの暦としては、二十四節季のほうが的を射ている。

 たとえば二十四節季では、今年(2005年)は三月五日が「啓蟄(けいちつ)。虫が冬眠からさめる日である。上野村では、ちょうど咲きはじめたフキノトウの花に蜂がやってくる頃で、私も近づいてきた春を感じながら、そろそろ春の農作業のことを考えはじめる。そして三月二十日は春分。私が土を耕しはじめる季節の到来である。今年は十月八日が寒露、二十三日が霜降である。この頃私は、秋野菜のの成長を見守りながら冬の備えを積み重ねる。こんなふうに、村で自然とともに暮らしていると、二十四節季のほうがなじむ。
 ところがその私も、東京にいるときは、カレンダーの暦で暮らしている。仕事のスケジュールなどが、普通のカレンダーの暦でつくられているのだから、それに合わせる他ない。
 このふたつの暦は、私にとってはずいぶん質が違っている。二十四節季から私が感じ取るものは、自然であり、季節、村での仕事や暮らし方、村の様子である。それは、あらかじめつくられている暦なのに、私の一年がつくりだした暦のような気さえする。それに対してカレンダーの暦はまるで私の上に君臨しているような感じで、たえず私を圧迫しつづける。
 二十四節季には、暦とともに、つまり時間とともに生きているという充足感があるのに、カレンダーの暦にむかうと、消えていく時間、過ぎ去っていく時間ばかりが感じられて、時間自体のなかに充足感がなくなる。
 労働は時間とともに展開する肉体的、精神的な活動である。たとえば、私たちは一日の八時間を労働として活動するように、労働には必ず時間が伴われている。ところがその時間の質はひとつではなく、労働とともに時間をつくりながら生きているという充足感に満ちた時間も、消えていく時間の速さに追い立てられるばかりの時間も現れてくる。
 もちろんどんな暮らし方をしていても、人間が時間に追われることはあったに違いない。私の村の暮らしでも、近づいてくる夕暮れに追われながら、その日の畑仕事に精を出すことはしばしばである。だがそれでも、東京の時間=現代の時間とは何かが違う。村では、自分がつくりだした時間のなかに、忙しく作業をこなさなければいけないときが現れてくるのであって、人間の外に君臨する時間に支配され、管理されるわけではないのだから。
 このようなことの背景には、結ばれていく時間と断片化していく時間との違いがあるような気がする。村の時間は、結ばれていく時間である。仕事の時間と暮らしの時間が結ばれ、それは自然の時間や村の一年の時間とも結ばれる。啓蟄になると、虫がでてきて、畑のときが近づき、人間たちの春の暮らしがが始まり、村は次第に春祭りへとむかっていくようである。この結ばれていく時間のなかに、みずからがつくりだしている「生」がある。
 ところが、カレンダーや時計に管理された現代の時間には、このような結びつきが感じられない。仕事は仕事の時間に管理され、それだけで自己完結してしまう。つまり断片化しているのである。暮らしの時間はさらに断片化し、それぞれの個の時間として自己完結する傾向をみせている。自然の時間や地域の時間との結びつきも切断されていく。そして、断片化したそれぞれの時間を、カレンダーや時計の時間が管理する。
 創造的とは、総合的ということとどこかで関係しているのだと思う。村では創造的な農業をやろうと思えば、自然のことも、村や暮らしのことも知らなければできないように、どんな仕事でもそれがさまざまな領域と結びついているとき、仕事の創造性も生まれる。
 私たちは、結ばれていく時間を失ったとき、創造性も失ったのだと思う。断片化された時間から生まれてくるものは、時間の管理であり、それと同時に私たちは、時間をつくりながら生きているという充足感も喪失した。
 そして、だから私たちの前には、豊かなのに豊かではないという現実がある。
                 ​(「戦争という仕事 著作集⒁」P274~P276)​
​ ​内山節​という哲学者は、新コロちゃん騒ぎでウロウロ徘徊することがはばかられるようになって、読み始めた人です。ちょこちょこと読んで、名前は知っていた人ではあるのですが、農文協という所から全部で15巻の著作集が出ていたので、読みでがあるかなという気がして、とりあえず、第14巻「戦争という仕事」を借りてきました。​
​​ 2004年から2005年にかけて、「信濃毎日新聞」に連載された「哲学の構想力―仕事をめぐって」という連載に、「戦争の世紀」、「世界の変わり目を感じる」という2本の原稿が追加されて、まとめられている1冊でした。​​
​ 題名が気に入って、借りたのですが、「哲学の構想力」だったら後回しになっていたと思います。読み始めてみると、内容はかたい書名とは裏腹で、日々の暮らしのなかに話題を見つけたエッセイ集でした。​
​​ 内山節は、著作集にまとめられた思索の過程を貫いて、「労働」、「仕事」、「働くこと」を考え続けている哲学者だと思います。​​
​​​​​ このエッセイでは人間に共通の営みである「働く」ということを考えはじめれば、「時間」ということを考えることは避けてはいられないし、そこで感じている「時間」のなかに、その時々の人間の生きている姿が映し出されているということが語られていると思いますが、ぼく自身、コンクリートの箱に住み、その、冷たい壁に、なぜ、二十四節季の暦をかけて、毎日読み返すのか、なぜ、SNSに投稿される「小雪」とかの記事に心惹かれるのか、少しわかったような気がしました。​​​​​
 読み終えて、ヤッパリ本を手に入れたくなったのですが、叱られそうなので躊躇していますが、どうなることやらという感じです。

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最終更新日  2020.11.29 00:09:21
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2020.11.25
​​​​川上泰徳「シャティーラの記憶」(岩波書店)


 図書館の棚で偶然手にして、2020年の夏の間繰り返し借り出した本です。
 「シャティーラ?なんか聞いたことがあるなあ。」
​ きっかけは、ふと、興味を持ったに過ぎない本でしたが、読み始めると一人、一人のインタビューに引き込まれながら、徐々にレバノンベイルート近郊にあるシャティーラ・キャンプを焦点の真ん中にして、ゴラン高原、ヨルダン川、アッカ、テルアビブ、ガザ、といった地名が、パレスチナ難民キャンプ、中東戦争、サブラ・シャティーラの虐殺、オスロ合意、といった歴史的事件を想起させながら浮かんできます。
 そして、レバノン、シリア、ヨルダン、イスラエルというふうにパレスチナ地方の地図が少しずつ輪郭を得て拡がっていく気もするのですが、やはり、あのあたりというボンヤリとしたイメージが綺麗に拭われるわけではありませんでした。​
​ 著者の川上泰徳は、このインタビューをまとめた本が出来上がる経緯をこんなふうに記しています。​
パレスチナの難民キャンプ「シャティーラ」はレバノンの首都ベイルートの繁華街ハラム通りから南東4キロ、タクシーを拾って渋滞が無ければ15分とかからない。​
​わたしは2015年から18年までの4年間に毎年1カ月から2カ月、延べ6カ月間、ベイルートに滞在し、シャティーラ・キャンプに足を運んだ。​
 1948年の第1次中東戦争で、イスラエルが独立し、70万から80万のアラブ人(パレスチナ人)が故郷を追われ、難民化した。パレスチナ人はそれを「ナクバ〈大厄災〉」と呼ぶ。
 2018年で70年を迎えたパレスチナ人の苦難の経験に触れるために、第1世代から現在の若者である第3世代、第4世代まで約150人にインタビューを重ねた。
​ ​取材と言っても、一人でシャティ―ラ・キャンプに行き、日本人のジャーナリストだと名乗って「パレスチナのことを調べています。あなたの話を聞かせてください」と頼んで、インタビューを行うだけである。すべてのインタビューは私がアラビア語で行った。​
 ​誰であれ、話しをしてくれる人間を探してインタビューを続けた。当然ながら話を聞いて見ないと、相手がどのような体験をしたかは分からない。インタビューでは事件やテーマごとに証言者を探すのではなく、一人一人について子供の時から現在までの経験をたどる方法をとった。人によっては5回、6回と話を聞いた。
​ ​長年、朝日新聞で、パレスチナを担当してきた1956年生まれの記者である川上さんが、新聞社を離れ、一人のジャーナリストとして最初に選んだ仕事がこのインタビューだそうです。​
​​ ぼくはが最初に感じたのは、自分とほぼ同じ時代に学生であり、社会人として「日本」という国で生きてきた彼が、何故、「シャティーラ」にやって来たのか、「シャティーラ」とは、いったいどういう場所なのかという二つの疑問でした。



 上に載せた、年表や地図を繰り返し見返しながら読み進めるうちに、二つの疑問が、少しずつ解けていくように感じました。
​ あなたはいまのシャティーラを見ている。もし、あなたが50年代のシャティーラに来ていたら、テントと小屋を見たでしょう。60年代に来たら石を積んだ壁のある家がありました。70年代には平屋の家が建ち、道路が通って、光がさし、風が吹き抜けていました。80年代に来たら、一面の破壊の跡です。90年代には家が建って、道路が狭くなっていくのを見たでしょう。そして、2000年代になれば、道路はなくなり、風は通らず、太陽も、空も見えない。人々の生活はますます困難となり、窒息寸前となっているのです。​
​ ​​​​​NGO「子どもと青少年センター」の代表であるマフムード・アッバスという人の言葉です。1949年パレスチナ難民キャンプとして設立されたシャティーラの風景の移り変わりが語られています。​​​​​
​ ​​その後、84年シャティーラの虐殺ビデオを見た。その中に映っていた父親が私の母親や弟妹の写真を持っているのを見た。私は6日間の休暇をとってシャティーラに戻った。その時父から虐殺の話を聞いた。虐殺で母や弟妹が殺されたことを初めて知った。​

 88年にキャンプ戦争が終わった後、アラファト派と反アラファト派の戦闘が始まったが、私は参加しなかった。
 私は23歳になっていた。10代のころは人と話すこともできない子供で、撃てと言われれば撃ち、殺せと言われれば殺した。
 しかし、年を経て、命令に従うだけではいけないことを学んだ。戦うことにどんな意味があり、どんな利益があるのかを考えるようになった。パレスチナ人同士闘ってもパレスチナの解放にはつながらないと思って、私は闘うことをやめた。​
​​ 1966年シャティーラで生まれ、11歳で銃の打ち方を習い、戦闘に参加し、今、一人ぼっちで暮らしているアクラム・フセインという人の言葉です。家族や、自らの人生について語っているインタビューの一部です。
​​ シャティーラの生活は大変です。電気もないし、水もない。水道から出るミスは塩水ですよ。電気不足はレバノン全体ですが、政府の電気は4時間の通電の後、4時間または6時間の停電を繰り返します。停電の時は民間の電気業者から電気を買っています。
 私の家の契約は2・5アンペアで、使えるのは電灯と冷蔵庫だけです。夕方のテレビのニュースを見るためには、冷蔵庫の電源を切らねばなりません。それでも電気代は月50ドルになります。
 飲料水は水を売りに来る業者から定期的に買っています。その水代が月に20ドルです。
​ ​​月給800ドル溶接工ムハンマドという人の​妻サマルさん​が口にした、今のシャティーラの暮らしです。​​
​ 新聞記者としてニュースを伝えることを仕事にして生きてきた川上泰徳は、新聞に載る記事を、遠い他国のニュースとして読み流し、悪意も善意も感じない「無関心」な、ぼくのような人間たちに、そこで生きている「人間」の素顔を伝えることで、「同情」ではなく、「共感」が生まれることを願って、この仕事を始めたのではないでしょうか。​
 フト手に取るという、小さな関心から、読者になったぼくは、こんな本が存在することを紹介することから、ぼくの中に生まれた「共感の芽」を育てていきたいと思いました。一度、手に取っていただければ、うれしく思います。



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最終更新日  2020.11.25 12:28:56
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2020.11.16
​​​​​冨原眞弓「ミンネのかけら」(岩波書店)


​ 市民図書館の新刊の棚で、何の気なしに手に取った本です。著者名に、何となくな記憶はありましたが、書名の意味もわからないし、「ムーミン谷へと続く道」という副題に惹かれたわけでもありません。​
​ まあ、誰もさわっていない新しい本がうれしいといういつものパターンで借りてきました。読み始めて、作者の名前に何となくな記憶があった理由はすぐにわかりました。この所、岩波文庫で新訳が出ていることが気にかかっていたシモーヌ・ヴェイユの研究者で、その新しい訳者その人でした。​
​​​ 著者である冨原眞弓さんは関西の田舎町から上京した女性で、本書では、東京の学生寮の書棚で見つけた、フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユとの出会いから始まった哲学者としての半生が語られてきます。
 こう書くと、還暦を過ぎた哲学者が自らの思索の「記憶(ミンネ)のかけら」を呼び起こし、淡々と、素人には面白くもおかしくもないエッセイがつづられていると、まあ、ぼくも想像したのですが、ちがいました。​​​

​​ 書名に出てくる「ミンネMinne」という言葉はドイツ語では「宮廷の愛」にはじまって、「記憶」・「回想」という意味でも使われる言葉のようですが、たしかに「ミンネのかけら」と題されているように、「思い出」がつづられていることは間違いありません。しかし、このエッセイは、彼女の人生そのものを動かした数人の友人との「出会い」と「友情」の物語でもあるのです。​​
​​​​​ この本に登場する友人たちで、特に印象に残った人が四人いました。一人は留学先のパリで出会った女性彫刻家フラン。二人目、三人目は世界旅行の途上、彼女の自宅に泊まったグニーラマリというスウェーデン人の二人の女性です。そして四人目は、あの「ムーミン」の作家トーヴェ・ヤンソンでした。​​​​​
​​​ もちろん、彼女が書物として出会い、研究の対象にしたシモーヌ・ヴェイユや、教えを受けたソルボンヌの碩学ジルベール・カーン、インド人の女性マリ・ドミニクの「思い出」も興味深く語られているのですが、ぼくの印象に残ったのは上記の四人の女性の「生きざま」でした。​​​
​​ 冨原さんは最終章に、友人であるフランスの彫刻家フランのこんな言葉を記しています。​​
​​「神さま、もし、わたしがこの試練を生きのびることができたら、これからは好きなことだけを、そうです、やりたいことだけをやると誓います。ひとの思惑とか、まわりの都合とかではなく。神さま、わたしをいきさせてください。」​​
​​​​「いつもは、自分の帰りを家でじっと待っていてほしいくせに、たまには、はなやかなパーティーとかに、着飾った妻を連れていきたい人だった」夫を捨て、二人の子どもと別れ、彫刻家として生きようとアトリエを探しだしたフランを襲った蜘蛛膜下出血の最中、救急車に載せられて病院へ運ばれていく車中での言葉です。
 フランさんの夫との別れや、病後のリハビリの格闘といった、前後の詳しい経緯は、本書を手に取っていただくほかはありませんが、冨原さんは、続けてこんなふうに書き記しています。​​​​

 わたしはこの言葉に呼応するスウェーデン語の言葉を知っている。その人も芸術家だった。しかも作家でもあったので「ほんとうにたいせつなものがあれば、ほかのものすべてを無視していい。そうすればうまくいく」と自伝小説の主人公に語らせた。
​ この作家、当時85歳のトーヴェ・ヤンソンに、わたしが最後にあったのは1999年の暮れである。​
​​​​​​ 自分の人生を、自分で切り開いていった二人の芸術家の言葉を、重なり合う「ミンネ」として書き記しているところに、冨原眞弓という哲学者の「生き方の流儀」浮かび上がってくるようです。​​
 フランさんの彫刻は冨原さんの住まいの玄関に飾られて​いるそうですが、最後にあった、この日、ヤンソンさん冨原さんにこう言ったそうです。​​

​​「ひみつをひとつ。いい?私はもう小説が書けない。そう、何にも書けない。これはひみつだから、だれにもいってはならない。いいですか?」​​
​ ​​この時、彼女が耳にした、トーヴェ・ヤンソンの最後の言葉です。この言葉をここに記した哲学者冨原眞弓は、おそらく、自らのたどり着くべき場所を思い浮かべているに違いありません。​​
​ 本を閉じて、著者について調べてみて、驚きました。なんと、冨原眞弓さんは、我が家の同居人と同じ高校の出身で、年齢もさほど違わない人だったのです。​
​​ 播州の北部に位置する織物の町で育った、同じような世代の少女が、地球のずっと向う側、フィンランドの町でムーミンの作者と出会う「旅」は、それだけで、かなりドラマチックな「物語」が浮かんでくるのですが、ぼくの前には、そんな女性が新しく訳したシモーヌ・ヴェイユ​という「山」が、まず、立ちはだかったというわけでした。
 いやはや、いまさら「生き方」にこだわる気持ちはないのですが、この女性が、とりあえず、今、たどり着いた場所を、ぼくなりに見定めたいという「誘惑」が、やはり、湧いてきてしまう読書でした。

 
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最終更新日  2020.11.19 10:19:03
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2020.10.09
​​​​​プラトン「ソクラテスの弁明 関西弁訳」(北口裕康訳・PARCO出版)


 偶然というものは重なるものですね。ある日チッチキ夫人が妙なことを所望しました。
​「なあ、『ソクラテスの弁明』って読んだことあるん?」​
「まあ、それは、常識でしょうから、40年ほど前に読みましたけど。岩波文庫でありましたが、あんまり汚かったから、捨てましたな。」
「借りてきてほしいねんけど。」
「はあ、ヤッパリ『よりよく生きる』とか考えなあかんとか、目覚めはりましたん?」
「ううん、そういうわけちやうねんけど。」
「なんや、ちがうんかいな。」
「この本に出てくるねん。」
 まあ、そういう会話がありまして、彼女が読んでいる本のことは、ちょっと置いておくとして、ちょうどフェイスブックを覗いておりますと、「友達の友達は友達だ」とでもいう成り行きで「お友達」にならせていただいた方の投稿にこの本が紹介されていたのです。
 「お、ピッタリやん。」

 「播州弁」の人、チッチキ夫人には岩波文庫版よりお似合いでしょうというわけで借りてきました。
​ ソクラテスが裁判で語っている場面はこんな感じです。
ソクラテス
 
ほんじゃ、メトレスさん、こっち来てわたしの質問に答えとくんなはれ。あんさんのいちばんの想いは、世の中の若いもんが、できるだけみんな、道を踏み外すことなく、立派な社会人に育ってほしいちゅうことやと思うんやけど、ちゃいますか?
メトレス
 そうです。

ソクラテス
 なら、あんさんのお考えがあるはずや。どこのどなたが若いもんの指導者としてふさわしいか、この場におるみなさんに教えてもらえますやろか。
 どないしはりましたん、メトレスさん。恥ずかしいことおまへんか?何もいわはらへんだら、あんさんがこのことについて、ちっとも考えてけえへんだちゅうわたしの言い分が正しいってことになってしまうと思いまへんか?

​​​ 関西弁のモデルは桂米朝の「口演」だそうです。米朝さんは播州の出だったと思いますが、落語でしゃべるのは、いわゆる「船場ことば」ということなのでしょう。
 ただ、こうやって書き写してみると、「音声」なしの関西弁が、関東や九州の人にはどう読まれるのか、そこが、ちょっと面白いと思いました。​​​

 我が家では、シマクマ君は但馬の田舎者です。微妙ですが、どっちかというと山陰方言です。チッチキ夫人は播州の北の端の育ちで関西弁です。
 二人の言葉づかいで、「はし」とか「あめ」とかの二音節の同音異義語はことごとく違っていて、日々の口げんかの種です。
「アメが降ってる言うてるやろ。」
「そんなアメ嘗めといたらよろしいやん。」
「なめてんのか。洗濯もんぬれるっていうてんねん。」
 田舎者が関西弁しゃべってるつもりがこうなります。
 もちろん、普段、話している「会話」全体の「音」の強弱や高低もかなり違います。時々やってくる「愉快な仲間」たちやおチビさんたち加わったりすると、みんな「関西弁」ですから、ジージは孤立無援です。
​​ なんか話がそれていますが、「関西弁」というと、やはり会話なのですが、この本にある、ソクラテスクリトンとのやり取りも紹介してみます。​​
クリトン
 ま、それはそれで置いといて、なぁ、ソクラテス、頼むし、わしのいうこと聞いて、こっから逃げてくれへんか。今やったら、まだ間に合うんやし。おまえに死なれんのは、めちゃ困んねん。二人とおれへん親友失うん、耐えられへんし、それだけやのぉて、わしらんことよぉ知らんやつらがな、金積む気ぃあったら、助けられたやろに、わしが出し渋ったから殺されてまいよるっちゅふうなこと、陰で言いよんねん。ケチ言われんのは、かまへんけど、おまえよりも金取りよったって言われんのが、情けのぉて・・・。
ソクラテス
 なぁ、クリトン。お前、なんでそんな世間の目ぇ気にすんねんな。どぉでもええやつらのいうことなんか、ほっといたらええんや。
​ まあ、こんな感じです。今、現在の「関西弁」とはちょっとちがうような気もしますが、東京とかの人がお読みになると字面だけで、結構、ディープかもしれません。
​​ この本で、ソクラテスを読み直すと、ソクラテスが、ただの「いちびり」で「頑固」なおっさんに見えてしまいます。まあ、そのあたりどうなんでしょうか。​​
 チッチキ夫人は「なんでそんな、国とか、法とか、くどくど、こだわっていうのか、ようわからんわ。」と一喝でした。
​ 哲人ソクラテスもかたなしでんな。めんどくさい、隣のおっさんだったようです。


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最終更新日  2020.10.09 01:06:52
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2020.07.13
​​津野海太郎 「最後の読書」(新潮社)


​ 津野海太郎という名前に最初に気付いたのはいつだったのでしょうかね。いつだったか、劇団「黒テント」のパンフレットで演出家として名前を見た時に「ハッ」とした記憶があるからそれ以前で、多分、学生時代です。​
​ その頃彼は「晶文社」という本屋の編集者だったはずで、この本でも装幀している平野甲賀の独特のロゴで、そして、あの犀のマークで、リチャード・ブローティガンとか高橋悠二「水牛通信」とかを作っていた人ということは知ってた記憶がありますから、まあ、その頃からですね。もう、​40年くらい昔のことです。
 名前は知っていて、作られた本にもお世話になっていて、でも、本人の著書は一冊も読んだことがありませんでした。この本がはじめてです。
​ この本は新潮社のウェブ・サイト「考える人」に連載されていて、評判になっているエッセイが紙の本になったものです。​
 第1回は2017年の58​​日の日付ですかが、「読みながら消えてゆく」と題されて、哲学者​​​鶴見俊輔​​​の最晩年の日々の読書について書き始められています。​​
​ 話しは​​鶴見俊輔​​の書き残したメモから始まります。​

​​ 七十に近くなって、私は、自分のもうろくに気がついた。
 これは、深まるばかりで、抜け出るときはない。せめて、自分の今のもうろく度を自分で知るおぼえをつけたいと思った。(鶴見俊輔「もうろく帖」)
​​

​ ​​その後、このメモはは​「もうろく帖」​と題して「SURE」という本屋から書籍化されますが、津野海太郎はこの本を丁寧に読み解きます。​​
 で、​鶴見俊輔​が生涯最後に書き残した短い文と、その最後の姿にたどり着きます。

​倒れる直前の、最後のメモの日付は20111021日。​
​​「私の生死の境にたつとき、私の意見をたずねてもいいが、私は、私の生死を妻の決断にまかせたい」​​​(鶴見俊輔「もうろく帖」)
​​​ そのあと、星じるし(*)をひとつはさんで、編纂者(もしくは家族のどなたか)の手になるこんな記述が付されている。​​​
​​〔二〇一一年一〇月二七日、脳梗塞。言語の機能を失う。受信は可能、発信は不可能、という状態。発語はできない。読めるが、書けない。以後、長期の入院、リハビリ病院への転院を経て、翌年四月に退院、帰宅を果たす。読書は、かわらず続ける。

 二〇一五年五月一四日、転んで骨折。入院、転院を経て、七月二〇日、肺炎のため死去。享年九三。〕​

​ 名うての「話す人」兼「書く人」だった鶴見俊輔が、その力のすべてを一瞬にして失ったということもだが、それ以上に、それから3年半ものあいだ、おなじ状態のまま本を読みつづけた、そのことのほうに、よりつよいショックを受けた。​

​ ​​​ここから津野海太郎「最後の読書」について考え始めます。もちろん、彼の思考のモチーフとしてあるのは「年齢」あるいは「老化」ということです。
 そして、もう一つは鶴見俊輔に対する敬意であり、そこにこそ、ぼくにとってこのエッセイが手放せない理由がありました。​​​
​ 彼は、少年時代からの「雑読多読」の天才少年鶴見俊輔についてこんなふうに考えて行きます。

 いくばくかの誇張があるかもしれない。でも、たとえそうだったとしても、当時、かれが日本一のモーレツな雑書多読少年だったことはまちがいなかろう。こうした特異な読書習慣は、15歳で渡米したのちは外国語の本も加えて、その後も途切れることなくつづく。そしてその延長として、話す力や書く力を完全に失ったのちも、鶴見は最後まで、ひっきりなしに本を読みつづけることをやめなかった。すなわち発信は不可能。でも受信は可能――。
 ――ふうん、もしそういうことが現実に起こりうるのだとすると、老いの底は、いま私が想像しているよりもはるかに深いらしいぞ。
 ショックを受けてそう思い、またすぐにこうも考えた。もしこれが鶴見さんでなく私だったらどうだろう。たとえかれほど重くなくとも、遠からず私がおなじような時空に身をおく確率は、けっこう高い気がする。そうなったとき発信の力を欠いた私に、はたして3年半も黙々と本を読みつづける意力があるかどうか。​
 いまのところ「ある」といいきる準備は私にはないです。でも鶴見俊輔にはあった。どこがちがうのかね。そう思って晩年のかれの文章をいくつか読んでみたら、2002年(脳梗塞で倒れる9年まえ)にでた『読んだ本はどこへいったか』中の​​「もうろくの翼」​​​という文章で、こんな記述にぶつかった。​

​​​ ふだんは自分の意志で自分を動かしているように思っていても、その意志を動かす状況は私が作ったものではない。(略)今、私が老人として考えているのは、何にもできない状態になって横になったときに、最後の意志を行使して自分に「喝かつ」と言うことはできるのかという問題です。(鶴見俊輔「もうろくの翼」)
おわかりでしょう。
 すでにこの時期、鶴見さんは「何にもできない状態になって横になった」じぶんを思い浮かべ、そのステージでのじぶんの行為が「自分の意志」(自力)によるものなのか、それとも老衰をもふくむ「状況」(他力)にもとづくものなのかを、最後の病床で、実地にためしてみようと考えていたらしいのである。
​ ​ここまでたどり着いて、津野海太郎は鶴見の晩年の読書の「意志」を称えながら、それを支えたある重要な言葉を思い出します。​
​​ それは幸田露伴の娘幸田文「勲章」という作品に書き残しているこんな言葉でした。
​​書ければうれしかろうし、書けなくても習う手応えは与えられるとおもう。(幸田文「勲章」)
​ この文を、鶴見俊輔が誤読しているのではないかという興味と共に、ここからエッセイは2「わたしはもうじき読めなくなる」へと続いて行きます。​
​​​ エッセイストとしての手練れの技というべきかもしれませんが、鶴見俊輔から幸田文へと話がすすめば、鶴見のより深い地点が探られるに違いないという興味とともに、あの幸田露伴の晩年が語られるに違いないのです。​​​
 もう、ページを繰る手を止めることはなかなか難しいのではないでしょうか。
​ 本書にはウェブ版「最後の読書」第​17​​​「貧乏映画からさす光 その2」までがまとめられています。
 そこでは映画「鉄道員」須賀敦子の関係が、彼女の夫ペッピーノや彼の家族の生活、コルシア書店での活動を探りながら語られています。​​​
​ 老化を笑うユーモアを配しながら、「最後の読書」などとうそぶいていますが、選ばれたラインアップは、ぼくにとって「これからの読書」を穏やかに煽る刺激に満ちていました。
 まあ、すでに老眼鏡必携の前期高齢者なのですがね。​


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最終更新日  2020.07.13 00:24:28
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2020.05.31
​​​​​​​​​​​​​​徐 京植「プリーモ・レーヴィへの旅」(晃洋書房)


 1970年代の後半に大学というところでうろうろしていました。普通の人の倍近く、なすこともなく無為に暮らしていた年月があります。モラトリアムといういい方で、何もしない学生を話題にする心理学者がもてはやされていました。本来は金融政策に関する政治学の用語だったはずなのですが、当時の青年たちの心理をそうよんでいました。ぼく自身は、まさにモラトリアムでした。図書館でこの本を見つけて思い出したのは、そのころのことでした。
 
あの頃、「徐兄弟救援」という、カンパと集会参加を呼び掛ける立て看板があったことを、ボンヤリ覚えています。
 徐勝、徐俊植という在日二世の留学生の、兄は無期懲役刑、弟が10年近い禁固刑で韓国の軍事政権にスパイ活動の容疑でとらわれているのを救援するというアピールでした。
 
この本の著者が、その徐兄弟の弟だということに気付いて、この本を借りました。
 あれから50
年経ちました。大学生だった著者は大学で教えているようです。その彼がイタリアの作家、プリモ・レーヴィの墓に詣でる旅のエッセイが本書の内容でした。

死ぬ日まで天を仰いで
一点の恥なきことを、
葉うらにそよぐ風にも
私の心は苦しんだ。
星を歌う心で
すべて死にゆくものを愛さなければ
そして、私に与えられた道を
歩んで行かなければ。

今夜も星が風に吹かれる

​  イタリアへの旅を語り始める第1章にこんな詩句が掲げられていました。
 一九四五年、「治安維持法」違反の容疑で投獄され、福岡の刑務所で獄死した詩人尹東柱(ユン・ドンジュ)の詩の一節です。

​ 死因には「人体実験」の疑いがあるそうですが、もちろん、事実は解明されていません。なんとか遺体を引き取ることができた家族は、死者と共に半島を縦断し、当時「間島」という地名であった詩人の故郷まで連れ帰り、現在の中国東北地方、朝鮮族自治州の龍井市の郊外の丘の墓所に葬ったそうです。
 それから半世紀後、この本の著者、徐京植は​
​異郷で死んだ朝鮮人たちの土饅頭が広がる、その墓所を訪ね、詩人の墓の前に立ちます。
 そして、その時の記憶をたどり直すことから、「プリモ・レーヴィへの旅」の記録を書き始めたのでした。​

 私はいま、真冬のイタリアにいるのだ。
 私の父母はいずれも、一九二〇年代に植民地支配下の朝鮮から幼くして日本に流れてきた在日一世である。私は解放後の一九五一年、京都市で生まれた。尹東柱は自らの言葉である朝鮮語を守って命を落としたが、私はあらかじめ自らの言葉を奪われたまま、支配者の言葉である日本語を母語として育ったのだ。
 
​母は一九八〇年に、父はその三年後の一九八三年に、相次いで世を去ったのだが、長く暮らした京都市の郊外に両親を葬った後、私は世界の諸国を歩きまわるようになった。旅の目的は多くの場合、美術館や古い教会で絵を見てまわることだが、いつの頃からか、事情が許す限り墓地に立ち寄り、有名無名、さまざまな死者たちの墓の前に立つことが習いとなった。​

 さまざまな墓の前で、私は、死者たちの声が聞こえてきはせぬかと耳を傾けてみる。だが、死者たちは何も語らない。墓は無言である。

 「墓は無言である。」しかし、いや、だからこそでしょうか。墓前に立つ覚悟を決めるかのように、​「凄まじい政治的暴力に」さらされて生き、そして自ら命を絶ったプリーモ・レーヴィが残した作品を丹念に読み返します。そこで想起されるアウシュビッツの悲惨が、そして、帰ってきて「向こう側」の記録を書き続けた作家の苦悩が考察されます。
 それらの考察は、二人の息子をを獄中に奪われて、もだえ苦しむように死んでいった父母や、軍事政権によって20年以上も獄中生活を強制された兄たちや、殖民地下の朝鮮人たちへと広がってゆきます。

 あたかも、それは、「お前は何をしてきたのだ」と、在日2世の著者自身の半生を問い返すかのような長い思索の旅の記録です。

​​ やがて、何度も、何度もレーヴィの自死の姿が思い浮かべられます。考察は、必然のように「あなたは何故自ら命を絶ったのか」という問いへと収斂し、レーヴィの墓前へと著者を誘うかのようです。​​

PRIMOLEVI
174517
1919​1987​

​​ ​​これが、たどり着いたプリーモ・レーヴィの墓碑銘のすべてだったそうです。ここでも、やはり、墓は無言でした。​

プリーモ・レーヴィの墓の前に、私は立っている。
これは何という死なのか?
どんな絶望が、あるいは、どんな倦怠が、彼を襲ったのだろう?
死者はもう、何も語らない。墓は無言だ。
墓碑に刻まれた174517という数字・・・
​ 「あなたは何故自ら命を絶ったのか。」
 著者が長い考察の末にたどり着いたこの問いを拒むかのように、墓はそこに在りました。​​

​ どこで生まれ、どこで死んだのか、レジスタンスの闘士でありアウシュビッツの生き残りであったこと、作家であり化学者であったこと、妻や家族の名、何も記されていない。六桁の数字が何を意味するかは、わかるものにしかわからないのだ。しばらくして、はっと気づいたのだが、それはプリーモ・レーヴィの左腕に入れ墨された囚人番号なのである。​

 これは「ニヒリズム」への旅の記録だったのでしょうか。20世紀、世界を覆った悲惨を、過去のことだと、「向こう側」のことだとして忘れ去ろうとしている21世紀の現在があります。我々の暮らしている国も、もちろん例外どころではありません。
 ここに、「向こう側」から奇跡的に生還しながら、「こちら側」の過酷の中で自ら命を絶った「人間」の墓があります。​「向こう側」で入れ墨された「174517」という数字だけを、墓碑として残した「人間」、プリモ・レーヴィの墓です。
 彼は「向こう側」から帰ってきたことによって、「こちら側」にある「向こう側」に、より一層苛まれ続けたのではないでしょうか。
​ いったん「向こう側」の悲惨を経験した人間は、生涯「自由」を奪われる続けるという、考えようによれば、より苛酷な悲惨が「こちら側」に「現在」するということを、墓碑銘に記された174517​」は語っているのではないでしょうか。
 他人ごとではありません。「慰安婦」であれ「いじめ」であれ、レーヴィにとっての入れ墨のように、何年たっても「奪い続ける」のです。​
それを忘れての「明るい」未来や、「わたしの幸福」はあり得るのでしょうか。
 蛇足ですが、本書で、著者が入念に読み返すプリーモ・レーヴィの作品群への考察は格好の書評であり、紹介、レビューでもあります。忘れられつつある作家ですが読みごたえがあることは間違いないと思います。
 ああ、それから尹東柱は、韓国では国民詩人と呼ばれているようですが、詩集は金時鐘の訳で岩波文庫に収められていて手に取ることができます。是非どうぞ。

​​​​
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最終更新日  2020.07.25 23:05:08
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2020.05.23
​​ ​ブレディ・みかこ「子どもたちの階級闘争」(みすず書房)​​

 「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」(新潮社​)を読んで、この人は信用してよさそうだと思いました。イギリスで移民として暮らしながら、子供を育てている日常を書いている「立ち位置」というのでしょうか、事象を見ているポジション取りと、反応の感覚の鋭さに感心しました。

 そんなことを、ぼんやり考えていた時のことです。
 「久しぶりにせいせいしたわよ、これ。」
 チッチキ夫人が台所のテーブルに置いたのがこの本でした。

​ ブレイディみかこ「子どもたちの階級闘争」(みすず書房)です。​

​ ブレイディみかこ2008年から2016年にわたって、イギリスの「底辺託児所」・「緊縮託児所」でヴォランティア保育士として働いていた時に自らの経験を綴り、ブログに載せていた記録のようです。​
 
全体は二部に構成されていて、第一部は「緊縮託児所時代」と題されていて、20153月から、2016年の秋までの記録です。保守党政権下で「緊縮託児所」と彼女が呼んでいる施設が閉鎖されるまでを描いています。
 
第二部は「底辺託児所時代」です。「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」にも少しだけですが、話題として出て来ていますが、無職者・低所得者支援センターにあった「底辺託児所」に初めて通い始めた2008年から2010年までの記録です。
 
特に第二部は、当時、すでに40歳を過ぎていたアジア系の移民であった著者が、まだ幼児だった息子を連れて、ボランティアに通いながら​アニー​という「師」と出会い、資格を取って保育士になるという、新たな決意と行動を促したに違いない、印象的な人との出会いが描かれています。
 
​この本は、第一部では、目の前の「社会」における著者の実践を読み、その後、第二部で「かつて」の経験を読むという構成になっています。
 この構成には、第一部に現れる、一見、過激に見える著者自身の現在の姿に対する読者のためらいや驚きを第二部を読むことで、自然な納得に変えていく意図があるように思いました。
 例えば、ぼくは見過ごしてしまっているのですが、自己責任を謳う新自由主義の嵐は貧しい「子供たち」に対して、より一層苛酷に襲いかかりつつあり、ブレイディみかこの怒りは正当で、かつ無尽蔵だという納得です。​
 
もう、巷では評判の人ですね。これ以上、あれこれ書くのはやめます。第二部にある、あるボランティアの女性​ロザリオ​との出会いのシーンを略述して掲載します。一度読んでみてください。
 
ブレイディみかこの、状況に対する揺るがぬ怒りを支えている出会いの一つがここに記されているとぼくは思います。​

 設立当初から当該センターに出入りしている洗濯場のおばはんの話によれば、ロザリーの母親はヘロイン中毒だったそうで、父親はDVで刑務所から出たり入ったりし、実質的にはロザリーの面倒を見ていた年老いた祖母が、託児所に幼い孫を預けに来たという。
​「でもそのおばあちゃんがまた、盗品を売りさばいて金儲けしてたストリート。ギャングの影の元締めで、警察がしょっちゅう家に出入りしていたから、ソーシャルワーカーがあの子を撮り上げに来たことがあった。ロザリーは泣きながら託児所に逃げてきたんだよ。自分はどこにも行きたくないって言ってね。だから母親が完全にクリーンになって病院から出てくるまで、アニーがあの子を引き取って面倒見たんだ。昔はね、そういうことを許す、上のあるソーシャルワーカーもいたんだよ。」​
 
「綺麗な子だからね、早くからマセちゃって、あの子も手が付けられななかった。普通はね、そこでが機運で、上の学校なんか行かないで生活保護もらうようになって、ここの託児所にガキを預けるようになるのがこの辺の女の常なんだけど、その子の場合は全然違う形で帰ってきた。ここの出世頭だよ。」
​「アニーセーラージョーや、底辺託児所で働く人たちがみんなであの子と母親を支えてきた。今時の世の中にはなくなってしまった、コミュニティ・スピリットがあるんだよ、ここには。」​
  ある日、底辺託児所で他の子の首にかみついた野獣児アリスのところへ、ロザリーが走って行くのを見た。
アリス、やめなさい」
 そういいながら、かみつかれた子を抱きしめようと手を差し伸べたロザリーに、びくっとしてアリスが身を縮める。
 底辺託児所ではよく見られる、被虐待児の特徴である。大人にたたかれ慣れている子供たちは、大人が自分の近くで手を動かすと反射的にびくっと身を縮める
アリス、そうやって怖がるのもやめなさい」
 ロザリーは泣いている子を抱き寄せながら、ぴしゃりとアリスに言った。
「そうやってびくびくすると、それが気に障ってもっとあなたを叩きたくなる人たちがいるから。叩かれたくなかったら、堂々としてなさい。とても難しいことだけど。ずっとそう思って、そうできるようにしていると、そのうちできるようになる。」
 ロザリー。とは、英語でロザリオのことだ。
 同じ祈祷の言葉を幾度も幾度も反復するロザリオ。
 同じ腐った現実を幾度も幾度も反復する底辺社会。
 しかしアンダークラスの腐りきった日常の反復の中にも祈りはある。
 とても難しいことだけど、ずっとそう思って、そうできるようにしていると、そのうちできるようになる。
​ ロザリーはきっとその祈りを全うするためにここに戻ってきたのである。(「ロザリオ」2009710)​
 資格取得の勉強をしながら​働いていた託児所の洗濯場で、洗濯女であるおばさんから、ボランティアとして自分が育った施設に帰ってきて、すでに有能な保育士として活動する大学生​ロザリー​の子供時代の話を聞き、その後、託児所一の暴れん坊少女​アリス​の暴力沙汰を彼女が叱るシーンに遭遇した著者の経験を描いたシーンです。

​  本書が「子どもたちの階級闘争」と名付けられなければならない所以が、ここにあると思いました。​

追記2020・05・23

ブレイディみかこ「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」(新潮社)の感想はここをクリックしてみてください。


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最終更新日  2020.09.29 09:32:53
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2020.05.01
​​​​2004年 書物の旅「ぼくが50歳だった頃、教室で」その22

​牧野信也『イスラームとコーラン』(講談社学術文庫)

                 講談社BOOK倶楽部
 一学期に中国の話が出てきて、ふと、思い浮かんだことがあります。ぼくたちの世代にとって「世界史」というのは「西洋史」と「中国史」だったのではないかということです。

 モチロン地球上にはアメリカ大陸もアフリカもある事を知っていましたし、アジアの中にはインドやベトナムがあるコトも地図の上では知っていました。しかし、高校生であった、その昔のぼくたちにとって世界史の教科書は中国とヨーロッパにしか窓を開けていなかった印象が強いのです。
 当時の大学入試でインド史やアフリカ現代史が出題されるのは奇問の類として話題になるようなことだったのです。要するに頭でっかちの受験高校生にとって意味があるのはフランス革命であり、ローマ皇帝であり、中国の唐や元の文化や王朝交代でした。
 「元」が中央アジアからヨーロッパに至る世界帝国の東アジアでの顔であり、「モンゴル帝国」がキリスト教社会からイスラム社会、現代のインド、アフガニスタンまでをも包含する広大さに関心を寄せることの大切さについて、実に無頓着だったように思います。
 「考えてみればこれはへんな話だ。」
 そんなふうに、最近になってちょっとこれではあかんのではないかと思い始めました。
 たとえば何号か前に鶴見俊輔のコラムを「案内」しましたが、彼が書いていた「イスラム社会に対する我々の無知」についての問題もこのあたりのことと関係すると思うのです。つまり世界に対するぼくたちの無知について、ちょっと真摯にならんとアカンのではということです。
 長い前フリになりましたが、この「読書案内」の大人の読者の方が「高校生諸君へ」と送ってくださった、こんな紹介があります。

 ​牧野信也『イスラームとコーラン』(講談社学術文庫1987発行)​

 ​この本を読んで、何となくすっきりした気分になりました。イスラム教は、日本人にわかりにくいとよく言われます。歴史を振り返っても、キリスト教に比べてなじみがなかったですね。でも、この本の作者は「我々日本人は、イスラム教の伝統を持たない反面、ヨーロッパ人がややもすれば持つイスラム教に対する偏見からは全く自由であり、その意味ではイスラム教を第三者の立場から比較的公平に見ることができる」と言っています。
 同感!砂漠に住むアラブ人は、砂に残る足跡を見、耳を澄まして全体の状況を判断し、具体的かつ即物的に考え行動してきたのだとあるくだりを読むと、全く違うところに住んでいる人々の感覚を少しわかったような気持ちになりました。お勧めします(U)​
​ ​​​​​Uさんはぼくと同じ世代の人です。だからイスラム教に対するUさんの「なじみの無さ」という気持ちにとても共感して、ぼくもこの本を読よみました。
 著者の牧野信也という人は『コーラン』(岩波文庫)を翻訳した井筒俊彦というすごい人のお弟子さんです。といっても、もうお爺さんですがね。
 先生の井筒俊彦がなぜすごいかといえば、『コーラン』というのはイスラム教の経典ですが、元々書かれたアラビア語で読まなければ意味が無いんだそうで、学識もさることながらそんな本を翻訳している所がすごいでしょ。日本語に訳すと意味を失う本なのですよ。
 学術文庫は高校生には少し難しいかもしれません。でも、とてもわかりやすく書かれた文章だから大丈夫ですよ。​​​​​
​​​ イスラムやアラブの社会に対する関心がようやく広がり始めていて、若い研究者の本にも興味が集まっています。

​ たとえば、池内恵『現代アラブの社会思想』(講談社現代新書)は特に最近評判の一冊です。文章はイマイチだと思いますが、エジプトのカイロに住んで報告している内容のリアリティは臨場感に溢れています。
 この人のお父さんは最近カフカの新訳を全集で白水社から出した池内紀というドイツ文学の人です。お父さんの話はきっとそのうちでてくると思いますよ、この「案内」で。実はファンなんです、お父さんの、だから息子さんの本を読んだというわけですね。​​​
 ​
​​ついでといったらなんですが、死んでしまった思想家でエドワード・サイードというパレスチナの人が書き継いでいた『戦争とプロパガンダ』(みすず書房)というシリーズがあります。これはアメリカの大学で教えていながらパレスチナの現状に対してとてもリアルで真摯な意見を、まさに叫んでいる本です。
 彼を一躍有名にした仕事は『オリエンタリズム(上・下)』(平凡社ライブラリー)という本です。その中ではヨーロッパ中心の ─ なぜか日本の教育もこの範疇に入る ─ 近代社会の歴史に対する見方を徹底的に批判しています。
 ぼくたちのようなアジアの片隅の社会の人間が、何故ヨーロッパや北アメリカのキリスト教文化や、ものの考え方、歴史観を唯一絶対の正しいこととして受け入れ、学校でも教育するようになってしまったのか。そんなことを考えさせる力がある本です。
 でも、そう考えはじめると本当に勉強しなければならない対象は、ぼくたちが生きているこの国の歴史というコトになりますね。読書の秋、もっと遠くまで関心の射程を広げてみてはどうでしょうか。近くに対する興味もそこから生まれてくるかもしれませんなりますねよ。(S)​​

​追記2020・04・19
 ​15年という歳月は確実に流れましたね。牧野信也池内紀エドワード・サイード、みんなこの世の人ではなくなりました。池内さんの息子さんの池内恵は、今や、多分、偉い学者さんです。最近は読んでいないからわかりません。
 この国では、事実無根の歴史修正主義が大手を振って登場し、近隣の国々の悪口を平然と煽っています。教育現場では「歴史」の教員や管理職の中に、名前はあげませんが、ぼく言わせれば偽物の「ナショナリスト」たちの「ネトウヨ」本に依拠した発言を教室や集会で「もっともらしく」語る風潮が広がっているようです。
 不気味なことに、彼らは一様に、何の面識もない権力者を「サン」づけで呼ぶのですが、小説「三四郎」の広田先生の言葉を借りれば、この国は「滅び」の坂道を転がり始めているのかもしれませんね。
 まあ、ぼくも、池内さんとか書いているわけですが、「アベサン」とかいうよりは少しマシじゃないかと思っています。

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最終更新日  2020.05.01 01:14:17
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2020.04.01
​​​​​ブレイディみかこ「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」(新潮社​)

 「ハヤリ本」は読まない主義なのですが、「そろそろ左派は経済を語ろう」を読んで、この本を図書館で予約しました。予約した時に待機の順番が100番を越えていました。昨年2019年の秋のことだったのですが、順番が回って来たのは2020年の3月の中旬でした。読み始めたら、すぐに読めました。読み終えた時刻は午前三時過ぎでした。なるほど、流行るわけだと、納得しました。

​ 試しに「ブクログ」という読書サイトを覗いてみて驚きました。なんと、登録している人が4000人を超えていて、500人近い人がレビューを書いているのです。
 ​何がそんなに評判なのだろうと、レビューを読みました。まじめに書かれたレビューがたくさんありました。ぼくがここで書き足さなければならないことはもう無いようです。どうぞ、そちらをお読みください。​(「ブレディみかこ」をクリックしていただけば読めます。ついでですが、ぼくの書棚はsimakumakunの本棚」をクリックしていただければいいかと。)​
 ​とはいいながら、
一つ書き加えたいことがあります。このエッセイの中で、著者は息子の学校の、多分、英語で書けば「teacher」のことを「教員」と書いていて、「husband」のことを「配偶者」と書いています。たったそれだけのことなのですが、そこにこの著者の見識が光っていると思いました。
 配偶者のことを「嫁」と呼んではばからないタレントがテレビ画面でフェミニストぶったり、自ら「教師」と名乗る教員が、教室で「平等」を口にするというのが、この国の現実なのですが、誰も疑いません。むしろ、世間の風潮として広がっています。
 「日本語」が通じない国で暮らす著者が、日本の出版社である新潮社のPR雑誌「波」に書いた、おそらく「日本語」の原稿に、「配偶者」、「教員」と書くには、やはり勇気がいったと思います。その勇気が彼女のイギリスの暮らしを支え、「配偶者」や「息子」からの信頼を勝ち得ているように感じました。
​ 本当は、もう一つ書きたいことがあります。というのは、このエッセイを読む一週間ほど前に「レ・ミゼラブル」というフランス映画を見たのですが、感想がうまく書けなくて困っていました。ところがこの本を読んでいて、ヨーロッパの先進国の「貧困」について教えられ、著者が鋭く指摘する「共感・シンパシー」と「理解・エンパシー」の違いの大切さについて気付かされて、自分が感じていたことがわかった気がしたのですが、それは「レ・ミゼラブル」の感想で書こうと思います。できれば、また、そちらをお読みいただければと思います。(題名をクリックしてみてください)​

 最後にもう一言付け加えれば、根性のまっすぐしている人の文章は「さわやか」だと、久しぶりに痛快な読書体験でした。
 是非お読みください。納得がいく本だと思いますよ。
追記2020・09・29
 いつの間にか我が家の本棚に並んでいる本になりました。チッチキ夫人が買い込んできたようです。すると、思いがけない展開が始まりました。活字の本なんて、あまり手にしそうもないゆかいな仲間の一人が持って帰ってしまったのです。
 何はともあれ、読む人が増えるのがうれしい本ですから、久しぶりに、なんだか痛快な気分になりました。
 


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最終更新日  2020.11.05 10:41:51
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2020.03.31
​​​​​大沢真幸「正義を考える」(NHK新書)​​


 最初にお断りすると、この投稿原稿は、ほぼ十年前のことですが、ぼく自身が学年の担任団から外れて、図書館の係をするようになった頃、授業を受け持っていた高校三年生に対して書かれたものです。
 何だか老人の繰り言になっていますが、図書館の館長という役目には、少し興奮していました。お読みいただければ幸いです。

  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※
 2012年五月。この「読書案内」を読んでくれるであろう高校3年生が、新しくなりまして。一年生のときから三年間付き合った三年生が出て行ってしまって、ぼくはぽっかり空いてしまった穴ぼこのようなココロと一ヶ月ほど向き合っていました。
 四月になって、新しい3年生と出会っても、なんというか、申し訳ないことに、ピンと来ませんでした。三年間付き合った生徒さんたちの卒業を送って、いきなり、もう一度3年生の授業に出かけるのも久しぶりの経験だったからかもしれません。
 もちろん、仕事なのですから、格別困ることがあるわけではありません。学校の中のポジションも変わりました。春休みの間から図書館の司書室でラベルを張ったり、棚の整理をして過ごしているのですが、こっちは三十年の教職生活であこがれ続けてきた仕事なのですから、何の文句もありません。
 文字通り、あらゆる棚や、そこに並んでいる本がホコリまみれなのが哀しいのですが、公立高校としては、かなりな蔵書を相手にする仕事は教員生活最後の仕事としては、悪くないと思っています。なにせ、ぼくは、本が好きです。
 何はともあれ、つまらぬ感傷に浸っていないで、元気を出して、もう一回やってみようという訳で、「読書案内」です。
​​

​​ 新しい読者諸君に、この「読書案内」というペーパーについて一言。
 ここ数年間、ぼくは授業で出会う生徒諸君にこの案内を配布しています。できることなら、ゴミにしないで読んでほしいのですが、まあ、もしもこんなものはゴミだと思っても、教室ではなく、家に持って帰って捨てていただけないでしょうか。名前は週刊と威張っていますが、経験上、年間に15号程度がやっとのようですから、そんなに迷惑はかけないと思います。なんとか通算150号にたどり着きたいというのが目下のところの目標というところなので、一年間おつきあい願いたい。
 ところで、PCを新しくしたせいで写真の貼り付けが思うようにいきません。ここに貼った大澤真幸「『正義』を考える」(NHK出版新書)の写真も、どうも変なのです。まあ、そのうちやり方もわかってくるでしょうから、今回はこれで勘弁してください。​​
 
​​さて、大澤真幸です。現代文の教材で「責任と赦し」というエッセイがありますね。あの、大澤君です。社会学という学問領域で一般向けの本を書いている人というのは、結構多いのですが、その中で、今、最も面白いと思っている人がこの人です。京都大学で教えていたはずなんですが、調べてみると大学の先生をやめてしまっていました。だから今はフリーランサーというわけでしょうか。
 今回の本は腰巻に著者の写真がついていたのですが、これがどうも通販のやらせのオッチャンのような写真で、内容とそぐわないですね。いやいや、逆にそぐうのかもしれませんが、何せ「正義とは何か」なんてことを講義しているわけですからね。​​
 
​​​​​​​​​​​​​​諸君が1年の時だったでしょうか、作家の高橋源一郎、この人もぼくの中では評価が高いのですが、なんかインチキ臭かったですね、まあ、その彼がやってきて、話をしたことがあったことを覚えているでしょうか。
 諸君を相手の冗談のようなおしゃべりだったのですが、あそこで彼がしゃべっていたことは要するに「現代社会に正義は可能か」ということだったと思いますが、忘れてしまったでしょうか。
 あの時、高橋源一郎さんは「最大多数の最大幸福」ということを社会の一つの指標として話を進めながら、多くの人が幸福になるときに犠牲になる少数の人がいる場合、あなたならどうすると畳掛けてきましたね。
 例えば、今、暴走する電車が走っていてポイント(転轍機)を右に切れば工事をしている5人の作業員が死に、左に切れば一人で働いている作業員が死ぬだけだ、さあ、どうしますか?と、まあこういう風に倫理の問題を語ったと思いますが、あの時語られた問題は、生易しい問題ではないですね。
 最近、本屋さんの平台に山積みになっているマイケル・サンデルというハーバードの先生の「これからの正義の話をしよう」(ハヤカワ文庫)という本があります。気付いているでしょうか?高橋君のおしゃべりも大澤君のこの本も、サンデルさんが、その本で火をつけた「正義」の問題に対して答えようとしているところが共通していて、答えがないところもまた共通しているのです。
 なんだ答えはないのかと、思うかもしれませんね。サンデルさんの本の原題は「JUSTICE」ですから本人は自信たっぷりなのですが、日本で出版するときには「これからの」をつけたところがミソですね。
 実は「正義」ということは相対的な問題なんですね。では、相対的とはどういう問題をはらんでいるのでしょう。
それは孟子なら「仁義あるのみ」と答えた問題が、時代や社会によっては、特に現代社会においては、そうとも言えないということなのではないでしょうか。
 大澤真幸はこの本で、マイケル・サンデルの議論を最初に軽く紹介し、そこから角田光代「八日目の蝉」(中公文庫)を、落語でいえば枕、読み手に対する「つかみ」として語り始め、アリストテレス、カント、マルクスと、まあ、そうそうたるメンバーによる「正義論」の歴史を辿りなおしながら、答えのない問題に挑んでいます。
 この本の面白さは、倫理的判断の固有性(ぼくはこう思うというところ)から、いかに普遍性(みんなこう思うべき)へジャンプできるかどうかを試しているところだとぼくは思いますが、諸君はどう読むでしょうね。
 教科書の「責任と赦し」でも見せていた、大澤君のスリリングな語り口がぼくは好きなのですが、皆さんはどう感じるでしょう。
「責任と赦し」は「正義論」を展開するための「入門」のお話のようなところもあります。しかし、両方ともにすっきりこれが正しいという答えがあるわけではないところがだ重要だということに気付いてほしいと思いますね。乞う、ご一読。(S)
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最終更新日  2020.11.04 04:05:28
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