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ゴジラ老人シマクマ君の日々

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映画「ちょっと遠くの映画館」でお昼寝

2020.09.11
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​​クリストファー・ノーラン「インターステラー」109シネマズ大阪エキスポシティ 

​​​​        ​映画.com
 8月のはじめに、初めてIMAX映画を見るために109シネマズ大阪エキスポシティ」という映画館に来ました。二度目が9月の2日、そして今日で三度目です。
 どの映画も監督はクリストファー・ノーランで、「ダンケルク」「インセプション」、今日が「インターステラー」でした。​​​​​
 先の二回は最上階あたりで見ましたが、今日は、なんと、そのあたりが満席でした。横にずれるかどうかで迷いましたが、観客が結構多そうなので、思い切って下の席を選びました。最前列から5列目の、ほぼ中央の右寄りでした。
 覚悟はしていましたが、映画が始まってみると、宇宙船酔い(?)しそうな気分でした。世界そのものが頭の上からのしかかってくる圧力で、体をまっすぐに立てて座っていることができない感じがしたのには驚きました。
 幸い、前後左右に誰もいませんでしたから、かなりのんびりした姿勢で見る事が出来ましたが、人間の視覚というのはあやふやなものだと納得しました。
 この監督の3本目にして、IMAX効果を最も堪能した映画でした。宇宙空間を飛ぶ話だったのですが、実は宇宙ではなくて、「大波」、「氷の世界」、「砂嵐」の映像が面白かったのが意外でした。
 特に壁になって、上から迫ってくる大波のシーンでは、意味もなく体に力が入って疲れました。取り残されたドイル君には申し訳ないですが、シーンが終わって「まあ、可哀そうだけど、仕方がないよ、ぼくは助かったから」と、ちょっと本気で考えてしまいました。もう、実体験アトラクションのノリでしたね。
 SFネタとしては「5次元」が出て来て、「ああ、複数の時間か」という、半分諦めの納得で見ていましたが、書棚のポルターガイストと、娘に残した時計の使い方には感心しました。
 とはいうものの、ぼくにとって面白かったのは、主人公の、実に古典的な「生きざま」の「物語」を映画の骨にしていたことですね。
 見終わってみるとSFを見た感じがあまりしなかったのが不思議ですが、考えてみれば、故郷の「家族」のもとに必ず帰ってくると約束して旅立ったクーパー君は、べつに、荒野に旅立つカウボーイでもよかったわけで、帰ってきた彼が、旅先に置き去りにした「友達」のためにもう一度旅立つのは当然といえば当然ですよね。
 映像のイメージやIMAX的な立体感、スピードは、実に現代的で「新しい」と感じたですが、映画のリアリティを支えているのが「父と子」の、あるいは「家族」や「友情」の「物語」だったことが、続けて見た三つの作品に共通していることを面白いと思いました。
 この監督は、ひょっとすると「古典的」な「物語」を、超現代的な映像、小説でいえば「文体」で書き直そうとしているのかもしれませんね。そこには、今までとは違う「何か」が生まれているのかもしれませんが、よくわかりません。
 ただ、とても強く惹きつけられたことは確かです。次は、新作「テネット」。楽しみですね
​​​

 監督 クリストファー・ノーラン

 製作 エマ・トーマス  クリストファー・ノーラン  リンダ・オブスト
 脚本 ジョナサン・ノーラン  クリストファー・ノーラン
 撮影 ホイテ・バン・ホイテマ
 美術 ネイサン・クロウリー
 衣装 メアリー・ゾフレス
 編集 リー・スミス
 音楽 ハンス・ジマー
 視覚効果監修 ポール・フランクリン
 キャスト
   マシュー・マコノヒー(ジョセフ・クーパー元空軍パイロット)
   マッケンジー・フォイ(クーパーの娘マーフ子供時代)
   ジェシカ・チャステイン(娘マーフ成人)
   エレン・バースティン(娘マーフ老女)
   ケイシー・アフレック(息子トム・クーパー )
   ティモシー・シャラメ(トム幼少期)
   ジョン・リスゴー(クーパーの父ドナルド・クーパー)
   アン・ハサウェイ(アメリア・ブランド宇宙船クルー)
   デヴィッド・ジャーシー(ニコライ・ロミリー宇宙船クルー)
   ウェス・ベントリー(ドイル宇宙船クルー)
   マイケル・ケイン(ジョン・ブランド教授)
   ビル・アーウィン(ロボットTARS
   マット・デイモン(ヒュー・マン博士)
 2014年製作・169分・G・アメリカ 原題「Interstellar
 日本初公開:20141122
 20200910109シネマズ大阪エキスポシティ
追記2020・09・11
​​​「ダンケルク」​、​「インセプション」​の感想は題名をクリックしてみてください。​​


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最終更新日  2020.09.11 02:25:49
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2020.09.03
​​​​クリストファー・ノーラン「インセプション」109シネマズ大阪エキスポシティ

         ​ ​映画.com
 1990
年代に登場し、今も活躍していて、40代以上の映画ファンであるなら常識的な映画や俳優、映画監督を知りません。先週観たジョニー・デップもそうですが、監督なら、この人、クリストファー・ノーランなんていう人もそうでしょうね。
 この監督の作品は、2020年の7月に大阪の109シネマズという映画館でIMAX​映画「ダンケルク」を、初めて見てはまりました。今日は二度目の​IMAX​体験で、「インセプション」という​10年前の映画と出合ってきました。
 万博記念公園の映画館は、やはり遠いですが、この監督のIMAX映画は、やっていたら、とりあえず出かけてみようという気分で出かけました。
 大迫力の画面に対して、下方に座ると画面に覆いかぶさってこられそうなので、一番後方、ですから、当然、上方の席で見ました。
​​​​ 渡辺謙が扮する、老いたサイト―レオナルド・デカプリオコブという名の男が出会うシーンから始まりました。サイト―のセリフが日本語だったことに「オヤ?」と思いましたが、そこから​​​​140分、前半は眠くて困りました。
 まあ、夢の話なので、眠くなっても仕方がないと思うのですが、もう一つの理由は「入れ子」式につくられた「夢」の設定の中で、登場人物たちがお互いに役割を語る会話ついていけなかったからだったと思います。
 率直に言えば、スクリーンにいる人たちが何をどうしたいのかが腑に落ちてこないので、かなりな迫力で迫ってくる音響や映像にも取り残されたままで、夢見心地だった印象です。
 とはいえ、何となく、「ああそういうことか。」という感じはやって来て眠気は去って行きました。
 中盤から、ロバート・フィッシャーをターゲットにした​​展開が一元化して、最後の「オチ」も、なるほどそうですかと納得したところで終わりました。
 わかりにくい設定を一気に「わからせる」かのような、映画そのものの伏線の回収は見事だと思いましたが、登場人物たちの「夢」に潜む、たとえばフィシャーにしろコブにしろ、個々に割り当てられた物語は、案外、古典的な印象で、「ダンケルク」のナショナリズムの描き方と似たところがあると思いました。
 結果的に、映画が語る多層化している「夢」の構造は​​
​、そこそこ理解できたと思いますが、「誰の夢なのか」という、いわば「夢」の主体が曖昧だったのではないかという疑問は解けないままでした。
 個々の意識の所産であるはずの「夢」を連繋するという発想は、「時代意識」というような言葉で歴史を語る発想に似ているところにとても興味を惹かれましたが、いずれにしても主体のゆくへの問題は残るということでしょうか。
 とはいえ、この映画で最も印象に残ったのは「夢」そのものの生成や崩壊の過程の映像でした。IMAXの効果も抜群だと思いました。たとえば、上に貼ったポスターの都市の生成シーンは感動的でしたね。まあ、ぼくの夢では一度も見たことのない夢のようなシーンでした。
 ということで、次は「インターステラー」を観ることになりそうですね。

​ ​監督 クリストファー・ノーラン
 製作 エマ・トーマス  クリストファー・ノーラン
 製作総指揮 クリス・ブリガム  トーマス・タル
 共同製作 ジョーダン・ゴールドバーグ
 脚本 クリストファー・ノーラン
 撮影 ウォーリー・フィスター
 美術 ガイ・ヘンドリックス・ディアス
 衣装 ジェフリー・カーランド
 編集 リー・スミス
 音楽 ハンス・ジマー
 特殊効果監修 クリス・コーボールド
 視覚効果監修 ポール・フランクリン
 キャスト
    レオナルド・ディカプリオ(コブ)
    渡辺謙(サイトー)
    ジョセフ・ゴードン=レビット(アーサー)
    マリオン・コティヤール(モル)
    エレン・ペイジ(アリアドネ)
    トム・ハーディ(イームス)
    キリアン・マーフィ(ロバート・フィッシャー)

    トム・ベレンジャー(ブラウニング)
    マイケル・ケイン(マイルズ)
    ディリープ・ラオ(ユスフ)
    ルーカス・ハース(ナッシュ)
 2010年・148分・アメリカ 原題「Inception」
 20200902・109シネマズ大阪エキスポシティ​

追記2020・09・05
​大阪の「猫軍団」が東京の某球団(名前を書くのも腹立たしい)に、やっとのことで勝ち逃げた夜、まあ昨晩のことですが、見ていたテレビで番組欄をいじっていたチッチキ夫人「インセプション」をやっているのを見つけました。
「これちゃうの。このあいだ観てきたやつ。」​

「ああ、ほんまや、このシーンは半分くらい済んでるな。」
「観る?」
「ふーん、ちょっと点けといて、もう一度見たいシーンがあるねん。もうすんでんのかな。」
しばらく一緒に見ていましたが、チッチキ夫人が言いました。
「わたし、アカンやつやわ。こういうの。」
「メンドくさい?あっレオナルドやって。」
​「ああ、デカプリオのファーストネームね。」​
 彼女は立ち上がって、向こうに行ってお茶碗を洗い始めました。ぼくはゴロゴロしながら見続けましたが、期待した夢の設計のシーンは、もう終わっていたようです。
 テレビ画面とIMAX画面は、確かに違いますね。まあ、当たり前ですが。二度目ということもありますが、IMAX画面は、ようするに、その場での解釈を待ってくれなかったという気がしました。映像で起こっていることが畳みかけてくる印象でしたが、テレビはのんびり進行しています。
​ 例えば、突如現れた雪山のシーンも、要するにそのように設計されていただけなんですよね。そう思うと、最後にコマが回っていますが、デカプリオ自身がその場で回したわけですから、夢ととっても現実ととっても、観ている人にお任せで、解釈は自由なわけです。​
 途中で、夢を見せている老人が「現実は夢の中にある」といいますが、映画の終わりにその伏線を回収したということなのでしょか。
 まあ、ぼくは「夢」の方が面白いと思いますが。
 というわけで、結局最後まで見直してしまいましたが、だからと言って良く分かったわけではないところが、この映画のいいところなのでしょうね。
 それにしても大阪まで行って観てきた映画を、次の日にゴロゴロしながらテレビで見るというのは、なんかちょっと「不条理」を感じましたね。

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最終更新日  2020.09.05 11:57:08
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2020.08.23
​​​​​クリストファー・ノーラン「ダンケルク」109シネマズ大阪エキスポシティ

            ​映画.com

​​​​​ 今日は最先端(?)らしいIMAX映像を見るために、万博公園にある映画館までやって来ました。映画はクリストファー・ノーラン「ダンケルク」です。
 IMAX映画がいかなるものか、クリストファー・ノーランという監督がどんな映画を撮っている人なのか全く知りません。  ​​
 少しだけ知っているのは、ダンケルクの撤退という歴史についてだけでした。この戦いから4年、ノルマンジーで、連合軍が再上陸するまで、ヨーロッパ大陸にはナチスの風が吹き続けたはずです。
 それにしても、まあ、映画館でチケットを購入し、会場に入って驚きました。画面が半端じゃないのです。前方の壁一面がスクリーンでした。
 予告編が始まってIMAX初体験です。テロリストに襲われた劇場のシーンがテンポよく展開しますが、異様な気分になりました。「これがIMAXか」と思いながら、ほぼ最上階の席を選んなことを正解だったと思いました。なんというか、画面が大きいだけということではなさそうです。
 美術館で展示されいる絵を見るときに額縁に顔を突っ込むようにして見ることがありますが、あんな感じです。絵の場合は筆づかいや、色の重なり、画家が描いているその瞬間の臨場感を味わいたい、そういう見方ですが、このスクリーンは、もっと空間的です。
           ​映画.com
​ そんなことを考えていると本編「ダンケルク」が始まりました。迫真の臨場感と展開のスピードに翻弄され続けて映画は終わりました。これで、立体横揺れ蟻では、とてもではないですが付いていけないと思いましたが、ちょっと試してもいいかなというのが正直な感想でした。
 展開の面白さについては多くの人が書いていらっしゃるので端折りますが、映画の始まりから終わりまで、引っ掛かり続けたことがありました。
 この「戦争映画」には「今・ここ」しかないという印象のとても強い映画でした。「今・ここ」しかないのが「戦場」であるという「リアル」は映像技術の効果もあって思う存分味わえます。
 突如、連射される銃弾、爆撃機は見えないのに降ってくる爆弾、スピット・ファイア―の操縦席、これ以上やると、観客が嫌がるのではないかというくらいの迫力です。たしかに、IMAXはすごい。
​ しかし、「今・ここ」しかない「戦争」というものはあり得ません。予告なしに、降って湧いたように起こるテロや自然災害の現場と戦争は違うのではないでしょうか。
 ましてや、歴史的撤退作戦として記録に残されている「ダンケルク」です。​
​必ず敵がいて味方がいるはずです。政治があって、作戦がある筈なのです。
 「ダンケルク」であれば、目の前の大魚を逃してしまいそうなドイツ軍と、国家と政治生命の危機に青ざめているチャーチルの姿を何故映し出さないのでしょう。​

 歴史的事実として、この海岸に集結した40万の連合軍兵士の、三分の一はフランス兵だったはずです。映画に登場した、たった一人のフランス兵は、なぜ、死ななければならなかったのでしょう。
 数万人の兵士がドイツ軍の捕虜になり、フランスが降伏するという結果について、何事とも語られないにもかかわらず、スピット・ファイア―のパイロットは何故あれほど英雄的に描かれていたのでしょう。
​ たぶん、クリストファー・ノーランという映画監督に意図がそこに在ったからに違いありません。
​ 面白いことに、イギリスの漁港からダンケルクの敗残兵の救出のために出港する「民間」の小型船に乗り組む三人の男を映し出すプロットに答えがあるように思いました。
          ​映画.com
 戦死した兵士の父親が船長で、次男である兵士の弟、そして、同じ村の青年が乗り組んでいる小型船が戦場に向かうシーンです。
 興味深いのは、この船上のシーンは
IMAXの空間的な映像効果がほぼ不必要な印象のシーンだということです。
 この小さな民間船は転覆したボートの上で漂流している兵士を救い、ダンケルクから船いっぱいの兵士を輸送して港に帰りつきますが、その間の船上の出来事を丁寧に映し出し、映画全体の、そして、この「戦争」と「戦場」のいわばナレーションの役割を負っていると感じました。
 頭上で行われている空中戦は「ロールス・ロイス」「ベンツ」のエンジンの戦いであること。戦争を始めたのは自分たちの世代であること。戦場の恐怖は、ただ震え続けるだけでなく、味方の若い船員を事故死させてしまうほどの暴力的であること。
 そして、老船長は恐怖にかられる兵士と若者たちに向かって、救出に行く理由を語ります。
​​ 敵地の浜辺で死に晒されて「震えている息子たち」を救いに行くのは、軍人であろうがなかろうが、「親たち」の当然の仕事だというのです。
​​
 このセリフが語っていることは、チャーチルの政治的意図とも、ドイツ軍の作戦とも、なんの関係もない、「今・ここ」で起こっている出来事に出くわした「家族」の論理でした。
 ぼくには、衝撃的で、おそらく、この映画を忘れられないものにしたセリフだったと思います。
このセリフのリアリティのために、方法としてのIMAXが動員されていたかのようでした。
 しかし、手放しで称賛していいのでしょうか。​クリストファー・ノーランの「鬼才」が、チャーチルの政治生命を救った歴史的瞬間をドキュメントして見せたことは事実ですが、歴史を知らない多くの観客に、国民総動員、「ナショナリズム」の論理を、ある「正しさ」として刷り込んで見せたことも事実なのではないでしょうか。

 この映画が「あと味」として残した、この「正しさ」に対する「イヤな感じ」について考え始めると、この映画の感想はかなり書きづらいものでした。ただ、この監督については、強く惹かれるものを感じたのも事実なのです。当分、追っかけるしかないようですね。
 監督 クリストファー・ノーラン
 製作 エマ・トーマス  クリストファー・ノーラン
 製作総指揮 ジェイク・マイヤーズ
 脚本 クリストファー・ノーラン
 撮影 ホイテ・バン・ホイテマ
 美術 ネイサン・クロウリー
 衣装 ジェフリー・カーランド
 編集 リー・スミス
 音楽 ハンス・ジマー
 視覚効果監修 アンドリュー・ジャクソン
 キャスト
  フィオン・ホワイトヘッド(トミー・英国陸軍二等兵)
  ハリー・スタイルズ(アレックス・英国高地連隊二等兵)
  アナイリン・バーナード(ギブソン・無口な兵士、実はフランス兵)
  ジェームズ・ダーシー(ウィナント陸軍大佐)
  ケネス・ブラナー(ボルトン海軍中佐)
  マーク・ライランス(ミスター・ドーソン・民間救助の船長)
  トム・グリン=カーニー(ピーター・ドーソンの息子)
  バリー・コーガン(ジョージ・ピーターの友達)
  キリアン・マーフィ(ドーソンに助けられた英国兵)
  ジャック・ロウデン(コリンズ・スピットファイア―パイロット)
  トム・ハーディ(ファリア・・スピットファイア―パイロット)
  マイケル・ケイン(スピットファイア―隊長・無線通信の声だけ)
  2017年・106分・アメリカ原題「Dunkirk
  20200805 109シネマズ大阪エキスポシティIMAX

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最終更新日  2020.08.27 09:23:44
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2020.07.27
​​ステファノフ & コテフスカ「ハニーランド 永遠の谷」十三シアター・セブン​​

​ 
 毎日の雨模様と開幕以来やたら負け続ける、どこかの球団のせいで、すっかり出不精になっていましたが、この映画「ハニーランド」が神戸には来ないと知って、大慌てで十三のシアター・セブンまで出かけてきました。
 早く着き過ぎたので、30分ほど淀川の河川敷を歩きました。薄曇りでしたが、汗だくになりました。劇場のトイレでシャツを着替えて着席です。着替えたのは正解で、汗だくのままだと風邪をひいていたと思います。
 30人ほど入れる小さなホールに客は数人でした。北マケドニアという国があるそうです。マケドニアといえばアレクサンダー大王という名前しか知りませんが、紀元前の話ですね。
 断崖の絶壁から眩暈がするような谷を覗き込むようにして、ロングスカートの女性が岩の中に入っていきます。
 岩の狭間に手を差し入れ、岩盤を外すようにするとミツバチの巣が出てきました。なにやら群れ飛ぶ蜂に語りかけているようです。

​​​半分はわたしに、半分はあなたに。​​​

 ​チラシにもある決め文句を口にしたようですが、自然との共棲に関心のある人ならだれでも知っている言葉でした。
 この映画は、監督が撮ろうとした「物語」に対して、信じられないほどのベストマッチな俳優を、偶然でしょうか、キャストとして得て、生活そのままに演技をさせた結果、目指していた以上の「物語」が出来上がったというべき映画だったと思いました。
 要するにドキュメンタリーとしては話が出来すぎていて、制作過程において、所謂「やらせ」の要素が「0」であるなら、奇跡としか言いようがない展開なのです。上に書いたセリフも、かなりきわどい境界線上の、むしろ、映画のために用意された「セリフ」というべき言葉ではないかと感じました。
 事実はわかりませんが、もう少し、穿ったことを言うと、主人公の女性が住む「廃村」、彼女と年老いた母以外には人の気配のなかった高原の谷底にある「村」に牛の群れを追いながら、トラックでキャンピング・トレイラーを引いて大家族のトルコ人一家がやって来ます。
 彼らも、この映画を「物語」として見るには、欠かせない不幸をもたらす「客人・マレビト」の役柄を演じきり、3年ほどの滞在で去って行きます。
 「過度の人口増加と貧困」、「最後の辺境を探し求める資本の論理」、「文明による自然破壊」、「同種交配の繰り返しによる疫病の蔓延」、そして「隣人との繋がりの喪失」。
 一家が演じて見せるのは、マケドニアの僻地にまで、突如、闖入してくる「現代社会」の「欲望の化身」そのものでした。
 もう一つ「穿ち」を付け加えるとすれば、招かれざる隣人が嵐のように去ったある日、沈黙が支配する闇の中でラジオのヴォリュームを調節しながら「聞こえる?」と声をかける、母との永遠の別れのシーンの迫力は、ドキュメンタリーであるからこそなのですが、果たしてこんなシーンが実際にドキュメントできるものなのかどうか、疑い始めれば際限のないことになりそうです。
 ドキュメンタリーとしてのこの映画を貶めるようなことばかり書きました。しかし、この作品は制作過程の経緯やジャンルの分類に対する疑いを超える映画であったことは事実なのです。

 マケドニアという、ヨーロッパの辺境の自然の中で、おそらく親の言いつけにしたがい、60年を越える生涯、自然養蜂を生業とし、独身で過ごした女性が、老いて片目を失っている老母を介護し、その死を看取った夜、悪霊退散の松明をふりかざし、他には誰も住んでいない廃村の辻々を一人で練り歩く姿には、世界宗教以前の「孤独な人間」の自然に対する「信仰」と「畏れ」が息づいていました。
 隣人も去り、家族も失った彼女の姿が、高原の夕日の中で愛犬と連れ添うシルエットとして映し出されるシーンには、文明の片隅で生きているぼくの中にも、ひょっとしたら流れているかもしれない「神話的な時間」を想起させる力がたしかにあると感じました。​

​​半分はわたしに、半分はあなたに。​​

​ ​やがて来る、彼女の自然な死と共に、この世界から永遠に失われる「あなた」を描いたこの作品は、やはり「すぐれた作品」というべきではないでしょうか。​

 

監督 リューボ・ステファノフ & タマラ・コテフスカ
製作 アタナス・ゲオルギエフ
撮影 フェルミ・ダウト  サミル・リュマ
編集 アタナス・ゲオルギエフ
音楽 Foltin
2019年・86分・北マケドニア

原題「Honeyland
2020・07・21 シアターセブン


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最終更新日  2020.07.27 12:31:40
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2019.12.15
​​土本典昭  「パルチザン前史」 淀川文化創造館 シアターセブン​​
​ 映画館情報を検索していて、1969年、50年前の出来事を映したドキュメンタリー「パルチザン前史」の上映を見つけた。​
「懐かしいなあ、滝田修やって。土本典昭やって。40年まえに見たなこれ。京大の時計台や。もう、見る機会ないなあ。どないしょうかなあ?」
「やっぱ、行きましょう。」

 朝から高速バス、阪急と乗り継いで、やってきました十三シアターセブン


 「オイッチニ、オイッチニ」暗い画面を集団で駆け足する映像が流れ始めて、それが、当時、軍事訓練と呼ばれた行動であることを思い出した。思い出しながら、悲しくなった。馬鹿としか言いようのない幼さ。
 大学生になったばかりの頃、この映像をまじめに観たことを覚えている。でなければ、今日こんなところで見直そうなどと思わなかったはずだ。たしかに、まじめに観た自分の幼さがありありと浮かんでくる。
 百万遍の交差点の市街戦があり、時計台の落城があり、滝田修の素顔や、アジテーションがあり、全共闘諸君の議論があり、敗北を乗り越えるはずのパルチザン理論の実践があった。
 遅れてきた青年の一人であったぼくに、それらは、強烈に陰気な印象を残したことも思い出した。陰気になった理由ははっきりしている。連合赤軍事件と呼ばれた一連の出来事の顛末を知っていたからだ。
 それから、40年。映像を見ながらフィルムというものの「恐ろしさ」とでもいうものを実感しながら、しかし、一抹の感動というべきか、羞恥というべきか、いかんともしがたいやるせなさとともに見終わった。
 たとえば、ドラム缶に突撃してゲバ棒とやらで突き転がすことを軍事訓練だと、大まじめに京大生が考え、実践している愚かさは、竹やりで藁人形を突き倒して鬼畜米英を叫んだ、戦時中の町内会の人々と、完全な相似形だということを、今、映像が雄弁に語ってしまうのはなぜか。
 このドキュメンタリーを土本典昭は学生たちの議論の幼さや、行動の愚かさを告発するために作ったわけではないだろう。むしろ、彼らの真摯さや、反権力の正当性にたいする、連帯感のようなものが色濃くにじんでいる映像といってもいい。
 にもかかわらず、今、無知で愚直な青年たちの悲劇というよりも、世間知らずなボンボンたちの喜劇として見せてしまうものは何だろう。
 この映像に登場する青年たちの、その後の略歴をエンドロールとして流せば、映像の印象をかえた力の正体もはっきりするのかもしれない。彼らは、生きていれば70歳を越えているはずだ。
 かつて、陰気な気分で映像に見入っていた青年の略歴だけはよく知っているが、観客であった青年に限らず、フィルムが期待した未来を、パルチザンどころか、平凡な生活の略歴として生きることができた青年が、この映像には一人もいないのではないだろうか。
 それを悲劇と呼ぶのか、人の世の常と呼ぶのか、あまり興味はない。しかし、時間の経過とは何の関係もなく、映像の中には、半世紀前の、20代の青年たちの幼い表情や裸の思想が、そのまま、そこにあることに胸を揺さぶられながら見終わった。
 暗くなった、小さな映画館で、不思議な感覚を味わいながら、周りを見回した。数人の観客の中に一人だけ二十代の青年がいた。

 ​「あの人は、どう思ったんかな。」​

 近所のパチンコ屋の前で煙草を吸いながらそう思った。

 監督 土本典昭
 製作 市川隆次  小林秀子
 撮影 大津幸四郎
 録音 久保田幸雄
 1969年 日本 120分
​2019/02/26
追記2019・12・15
 私的な欲望が、「政治的な表現」として噴出している。「公共性」という言葉が滅んで行く姿を目の当たりにしているような気がしている。あの映像が伝えていた、50年前の、幼い理想は、いったいどこに行ったのだろう。恥とか、外聞とか、当時、旧時代の遺物のように批判されていたと思うが、本当にそうした意識さえもが死に絶えた世界が、ここから広がっていくのだろうか。​

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最終更新日  2020.10.22 21:50:11
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2019.11.28
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​森達也「i 新聞記者ドキュメント」十三第7芸術劇場​​


 久しぶりの十三徘徊ですね。お目当ては第7芸術劇場、映画は森達也監督が、今、話題の​望月衣塑子さん、東京新聞社会部記者を追いかけた​「i 新聞記者ドキュメント」です。
 森達也といえば、オウム真理教を題材にしたA」「A2、佐村河内守を題材にしたFAKEなんかが評判ですが、書籍化されたものは読んだことがありますが、映画は初めてです。今回は森達也初体験というわけで、ワクワクしながらやってきました。
 映画館は結構混んでいました。
 映画が始まりました。沖縄の現場取材のようですね。​望月さん​の仕事上の日常が追われて行きます。印象的だったのは、いつもトランクを曳きずっている事でした。まあ、何が入ってるんだろう、あんな大きなものを、という感じですね。
 内閣官房の記者会見のシーンは、今やネット上では有名を越えている事件ですが、権力者が勝ち誇ったような表情をしてるのが、不快な印象を越えて、なんだか「気味が悪い」のですが、さほど興味を惹かれるわけではありませんでした。
 首相官邸の周囲で、カメラマンの森さんに、執拗に絡む警察官の善意めかした顔も、言葉遣いも、同じでしたね。こういうことが、日常化していくときに、警察官って、どう思うのかとか考えてしまいます。命令があって、黙ってしたがうということなのでしょうかね。
 最後のシーンは選挙演説のシーンでした。今日は大きなトランクは持っていないのかなと思って見守っていて、ようやく気付きました。
 望月さんは、堂々と「一人」なんですね。堂々と「一人」であることを支えているものは何か?森達也はそれを撮りたかったに違いありません。
 一人で立っている「​望月衣塑子」のシーンで映画は終わりました。


 映画館が暗くなって、チラシの真ん中に、朱書きの「i」があったことが思い浮かびました。小文字なんですね。なんだワカラナイ、その他大勢を顎で指図して、私利私欲のしたり顔が、社会に充満し始めています。何だか、立派そうにふるまっている皆さん、どなたも、大文字の「I」を生きるのに、夢中なのかもしれませんね。
 ​小さな「i」が​「まともである」ことを支えるのは、、たぶん、「それはしない」という形で、誰もがこっそり持っている小さな「モラル」だと思うのですが、個々の小さな「モラル」は、その人ものですよね。だから、大文字のI」に怯む必要もないし、「一人」で立つこともできるわけです。
 「一人」で立つ「小さな人」として、
​望月衣塑子を撮った森達也は、どうも、ただ者ではなさそうですね。
​ それにしても、一人で立っている望月さんの姿が寂しく思い浮かぶ「時代」になっていることに、なんだか悄然としてしまいますね。
 十三の駅前で、いつもの「酒饅頭」を、お土産に買いました。​

​​​​​​​​​

 ​​監督 森達也
 撮影 小松原茂幸  森達也

 キャスト  望月衣塑子

2019年 113分 日本 20191127

​​​
​​​​追記2019・11・29
フィクションのほうの藤井道人「新聞記者」の感想はこちらからどうぞ。

追記2020・01・01

 2019年の年の暮れのことです、新聞などのマスメディアの「首相番」の記者たちが、総理大臣と、税金で、忘年会をして、ツーショットして喜んでいるという記事をどこかで読みました。嘘か本当か知りませんが、ありそうだと感じるところに、このドキュメンタリーが追いかけた「望月」記者の孤独の深さを感じました。

追記2020・10・18

 なんと、「大物」の提灯持ちで成り上がった方が、超大文字の「I」座を手に入れましたね。御機嫌取りをしながら世間を渡った人には、そうしない人間は邪魔です。「
あほボン」では思いつけなかった、もっと「悪質な手口」が横行するのでしょうね。まあ、なった瞬間から始まっているようですが、こうなると、森さん望月さんの仕事に、やっぱり期待してしまいますね。
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最終更新日  2020.10.18 13:12:01
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2019.09.27
​​​​​  ​​​塚本晋也「野火」シネ・ヌーヴォX​​


​​​​​​​​ ​作品の名前は聞いていました。見たことはありませんでした。監督が塚本晋也です。彼の映画も知りません。夏の定番なのだそうです。「野火」です。大阪九条の「シネ・ヌーヴォX」という映画館​にも、今回初めて伺いました。
 分隊長の前で最敬礼している田村一等兵が、罵声を浴びせられ、殴られているシーンから映画は始まりました。次に野戦病院のシーンでした。
  映画が公開された当時、グロテスクで残虐ということが話題になったと聞きましたが、さほど感じませんでした。一方で、「リアル」という感じもあまり湧いてきません。想像しうる限りの戦場のリアリズムというより、ある種、「象徴化されたデフォルメ感」が、残ったというのが正直な感想です。​​​​​​​​

​​​​​​ 大岡昇平の原作「野火」をお読みになった方は気づかれると思いますが、この映画は「エピソード」や「会話」が原作にかなり忠実に作られていると思いました。
 喀血した田村が、所属部隊から捨てられ、野戦病院からも追い出され、ジャングルを彷徨するほかない運命へ追いやられることから始まり、教会での住民の殺害、人肉嗜食をめぐっての同僚の殺害、捕虜となって生き延びる境遇まで​、「あらゆるものから捨てられた一人の人間」の、過酷といえば、あまりにも過酷な戦争体験を、「人間」が「人間」をやめる「血みどろの姿」として描き切った
監督塚本晋也​​​に脱帽しました。
 しかし、かすかな不満も残りました。
 それは、一旦「人間」をやめさせられて戦場をさまよい、それでも帰って来た田村の苦悩と「妻」との描き方です。
 この映画のラストは、苦悩する田村の姿を、覗き込む「美しい妻」の姿ですね。そこには戦場から帰ってきた「人間ではないもの」に対する、ある「冷酷さ」が漂っています。しかし、監督はそれ以上描くことはせず、映画は終わります。
 小説では、精神病院に、自ら、逃げ込んだ田村のこんな言葉があります。​​​​​
​​
 私の家を売った金は、私に当分この静かな個室に身を埋める余裕を与えてくれるようである。私は妻は勿論、附添婦の同室も断った。妻に離婚を選択する自由を与えたが、驚くべきことに、彼女はそれは承諾した。しかもわが精神科医と私の病気に対する共通の関心から感傷的結合を生じ、私を見舞うのをやめた今も、あの赤松の林で媾曳しているのを、私はここにいてもよく知っているのである。
​ どうでもよろしい。男がみな人喰い人種であるように、女はみな淫売である。各自そのなすべきことをなせばよいのである。​
​​​​​​​​ 復員した田村は、「美しい妻」からも捨てられるのです。「PTSD」という概念があります。帰国したベトナム戦争従軍の兵士たちの症状から、アメリカの精神医学界で、1980年代に確立されたと思いますが、大岡昇平は1940年代の後半、すでに、「従軍兵たちを最後に奈落へ突き落とすのが、帰ってきた『平和』な社会であること」を見破っていたのではないでしょうか。
 「映画は最後に口籠った」という印象をぼくは受けました。そこが、この映画に対する不満と言えば言えます。「グロテスクな平和」という視点は、ないものねだりでしょうか。
 ところで、この映画を見ながら、涙が止まらなくなったシーンがあります。


​​​​​ 田村一等兵がどこまでも広がるジャングルを、丘の上からずっと見るシーンです。涙の理由はいうまでもありません、この後ろ姿の兵士こそ、大岡昇平その人だと、ぼくには見えたからです。​

​ 大岡昇平の文章は端正で理路整然とした翻訳文的な記述にその特徴があると思いますが、もう一つ、「描写の空間性」とでもいえばいいのでしょうか、「兵士の眼差し」による空間的な「世界把握」にこそ、その文体の独自性があると思います。​
​ 今、ここが、地図上のどこであるのか、煙は、どの方角に上がっているか、それを見損じれば命にかかわる空間認識が、彼の文章には常に伏在しています。
 映画を見ているぼくには「美しいジャングルの遠景」としか見えません。しかし、さまよい歩く兵士にとっては、明らかに苛酷で命がけの見晴らしに広がるこの風景が、「帰ってきた」作家大岡昇平の脳裏に、生涯、何度、去来したことでしょう。​

 ぼくにとっては、最も尊敬する作家​大岡昇平​の、戦場での孤独を彷彿とさせた「このシーン」を撮ったこの映画が「忘れられない一本」になったことは間違いありません。​​​​​​​​​​​

監督・製作・脚本・編集 塚本晋也
原作 大岡昇平
撮影 塚本晋也 ・林啓史
音楽 石川忠
助監督 林啓史
キャスト

 塚本晋也(田村一等兵)
 リリー・フランキー(安田)

 中村達也( 伍長)
 森優作( 永松)
 中村優子(田村の妻) 
 ​山本浩司(分隊長)​

 ​​2015年 日本 87分 2019・9・12シネ・ヌヴォー​​

​追記 2019・09・26​
​​​​​​​​ 徘徊を始めてから買わないことにしていたのに、思わず買ってしまったパンフレットに、評論家の佐藤忠男が書いていました。
 テーブルに放り出していたパンフレットを読んでいたチッチキ夫人が突如、こういいました。
​「大岡昇平さんって、戦争に『参加』したの?この書き方って、なんか変じゃない?」​
「えっ、どういうこと?」
​​「参加って、変じゃない?大岡さんが生きてたら、キレれるでしょ。せめて、参加させられたでしょうよ。運動会じゃあるまいし。」​​
 マジギレしていました。
 指摘されて、初めて気づきました。佐藤忠男という人の映画評論は「黒澤明の世界」をはじめとして、たくさん読んできました。にもかかわらず、何だか、気持ちの悪い、この言葉遣いに、啞然としました。最近の世間の風潮とも、何となくつながっている感じがしました。
 佐藤忠男自身も予科練出身の戦争体験者だったと記憶しています。彼は戦争に「参加」したのでしょうか。そうかもしれないですね。
 しかし、映画は「野火」。パンフレットには、原作者が一兵士として「参加」した太平洋戦争と書いてあるのです。大岡昇平は、戦争に「参加」したのでしょうか?
 ぼくとチッチキ夫人は変なことにこだわっているのでしょうか。
 当時、戦場に連れていかれた兵士は山のようにいると思います。しかし、「参加」した兵士が、そんなにいたのでしょうか。自分から「参加」したのなら「苦悩」や「悲惨」は、ナルシズムか事故ということで、いいんじゃないでしょうか。
 そう考えながら、ぼくは思います。ヤッパリ「戦争に参加」なんていいかたは、間違っています。そう思ったことは、書き留めておこうと思います。読む人に、不愉快を感じさせることはあるかもしれませんが、これに関しては仕方がないことです。​​

​​​​​​ いろんなところから、いい加減がにじみだしてきているようで、とても嫌なんです。
追記2020・08・01
 今年も八月になりました。大阪九条のシネ・ヌーヴォ―のプログラムには「野火」があります。小さな名画座がこの映画を毎年上映する心意気に拍手を送りたいと思います。
 もっとも、ぼく自身は「新コロちゃん騒ぎ」の最中でもあり、地理的にも少し遠い大阪ということもあって、とても出かけてゆく元気はなさそうです。とほほ・・・。
追記2020・10・13
 大岡昇平「靴の話・戦争小説集」「成城だより」を久しぶりに読み直す機会がありました。思い出したのはこの映画で小説を書いている、復員した田村の後ろ姿でした。小説の「野火」では、狂気の人として描かれていますが、作家の大岡昇平は「理性の人」として戦争を描き続けました。しかし、一方では「花影」の作家でもあったわけです。
 個人的な思い入れですが、もう一度、この作家の作品を読み直す時期がやって来たように感じました。
 
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最終更新日  2020.10.13 11:10:23
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2019.08.03
​土本典昭 「水俣 ― 患者さんとその世界〈完全版〉」 淀川文化創造館 シアターセブン​​

 今週、二度目の​シアター・セブン​。やっぱり、高速バス、阪急特急と乗り継いで、でも、前回より30分くらい早く到着。上映までには、小一時間あるけれど、50席あるかないかの小さなホール。その上、今日は​土本典昭特集​最終日、傑作の誉れ高いドキュメンタリー。とりあえず入場券を確保しようとチケット売り場へ。
「おっ、2番や。そんなに混まへんのかな?」
「先週は、結構、満員でしたけど。」
「そうか、そうやんな、上映してんの気付くの遅かったから。他のも見たかってんけど。パルチザンとこれしか、あかんかってん。」
「ああ、火曜日いらっしゃってましたね。」
「うん、見るの、これも、初めてちやうねんけど、見納めやな。」
「昔、見てはるんですか。」
「うん、大昔やな。」
 モギリのお嬢さんとおしゃべりできて、すっかり上機嫌。
 べつにエロじじいというわけではない。今週、一週間、同居人以外と口をきいたのは、どうも、初めて‥‥。
 いや、お隣りのおじさんと「よっ!」「元気?」とか、会話したかもしれない。
 ああ、そういえば、明石駅で通りすがりの、ちょっと知っている高校生に声をかけられたな。あれもうれしかった。
 そんなことを考えながら、結構すいている座席に座った。
 スクリーンで映像が動き始める。海が映っている。お経か?御詠歌か?はっきりしないが、そういう、かすかな声が聞こえている。
 海に船が浮かんでいる。白黒のフィルムだけれど、天気がよくて、青い水平線が上の方に見えている。
  丘の上で、海を見ながら、交渉の行く末を悩む人がいる。寄合で集まって、どうするのか、男や女が相談している。こっちの方で寝転んでいる人もいる。
 海の中を歩いてタコを獲る老人がいる。つかまえたタコの急所は目と目のあいだ。そこを噛んで、腰にぶら下げていく。海が透きとおって、揺らいでいる。

 少年が笑って、カメラを見ている。少女が大勢で遊んでいる子供たちのところに、よろけて歩きながら出かけてゆく。子供たちは、こっちを見ている。
 母親がスプーンで、抱きかかえた娘の口に食べ物を運ぶ。繰り返し吐き出す食べ物を、繰り返し口に運んでいる。食卓で子供たちが食事をしている。


 夏ミカンの畑で収穫をしている。兄が、弟を抱えて家まで連れて帰ってくる。石のボールでおばちゃんと野球をしている。なかなかバットに当たらない。当たると、おばちゃんがうれしそうに笑う。
 工場の煙は、町の空の上に広がっている。黒い排水溝が見える。そこから広がっている海も黒い。モノクロの画面が、イメージをいろんな方向へ広げてゆく。
 それぞれが、ちいさな鐘を掲げ持って御詠歌の練習をしているおばさんやおじいさんの中で、若い石牟礼道子が、所作が上手にできなくて困っている。たぶん、歌の文句も知らなかったのだろう。彼女もインテリだった。御詠歌を懸命に唱えるなんて、最初はできなかった。
 白装束と菅笠姿で歩いている。黒い生地に「怨」と染め抜いた幟がはためいている。初めて学生の集会に座った時、隣の女の子がつぶやいた言葉を、40年たっても忘れられない。
 「あの、幟の文字、怖いよね、ほんとに。」
 裁判所、電車、大阪のビルの街。株主総会。社長はズボンのポケットに手を突っ込んだまま壇上に立っている。今でも、立派な会社の社長はああやって「苦情」を聞いている。信じられないくらい何も変わっていない。
 光る海に船が浮かんでいる。
 胎児性とクレジットが出ている、ぼくと同い年か、ほぼ同世代の子供たちだ。森永のヒ素ミルク中毒の子供たちも、ぼくと同い年だった。
 五十年の歳月が流れているはずのフィルムに映し出される子供たちは、今でも子供のままで懸命に生きている。硬直したり、反り返ったりしている手首や足首は、五十年後も、やはり硬直している。
 やはり観てよかった。涙はこぼれなかった。こうして、たしかに生きていた、この子供たちの姿を忘れてしまうのは、まともなことではないだろう。できればまともでありたい。
 何度でも見直して「まともでありたい」と思ったことを思い出すこと。
 忘れてはいけない。


製作:東プロダクション
監督:土本典昭
製作:高木隆太郎
撮影:大津幸四郎
録音:久保田幸雄/浅沼幸一
日本 1971 2時間47分
1973年度(第1回)世界環境映画祭グランプリ/マンハイム映画祭デュキャット賞
1972年度ベルン映画祭銀賞/ロカルノ映画祭第3位/優秀映画鑑賞会年間第3位


2019/03/01

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最終更新日  2020.10.28 14:36:30
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2019.07.13
​​​​今日は梅田の「ブルグ7」という映画館に出かけた。久しぶりの大阪駅前ビル界隈だった。



  映画「ちいさな恋のうた」で​、ちょっと空振りだったM​ONGOL800​のドキュメンタリーをやってるのが、神戸からだと、ここしかなかったからやってきた。

​​​MONGOL800-message-」


 映画はシンプルで、正直だった。ぼくは最初の曲から、歌がかかるたびに泣きっぱなしだった。涙がこみあげてきてどうにもならない。
​ 画面では、18歳の少年たちが歌い始めて、40歳のおっさんたちが語っていた。おっさんたちは20年続いた伝説のバンドの始まりを語り、今、終わろうとしているバンドについて語っている。​
 儀間崇が脱退の決意の苦しさを語り、ドラムの高里悟が三人のバンドであることが変わらないことを語り、​清作君​がバンドマンであることを語る。
​監督の​​山城竹識​​何の技巧も凝らさず、シンプルに三人を、そのまんま撮った​。それがこの映画のもっともすぐれたところだと思った。​
 
​三人のおっさんたちの正直さがすがすがしい。全くウソがない。ぼくにはそう見えた。清作君は18歳の時に、いや、彼だけではない、三人ともが、こんなおっさんになるとは思っていなかったにちがいない。​
「高校生の頃と、あんまり変わったと思っていない。」
心に残ったセリフだった。でも、時は流れてしまうのだ。65歳のジジイは涙もろくて仕方がない。その上、泣くしかない曲が演奏されるときている。
 最後に名曲「小さな恋のうた」が、もう一度、最後まで演奏されて映画は終わった。2019年2月の武道館。何人いるのだろう、超満員の観衆たちが声を張り上げ、メンバーを指さして歌っている。

「夢ならばさめないで♪ 夢ならばさめないで♪」​
​​​


 映画館を出ると、ビルの林立する、その上に上弦の月が輝いていた。



 監督 山城竹識
 キャスト 

   上江洌清作(MONGOL800)

   儀間崇(MONGOL800)
   高里悟(MONGOL800)

追記 2019・07・15

 ぼくは、我が家の「ゆかいな仲間たち」に教えられて、彼らの音楽と出会った。ぼくが繰り返し「モンパチ」を聞くようになったのは、「ゆかいな仲間たち」が家を去ったあとのことだ。PCにヘッドホン・ジャックを差し込んで繰り返し聞いてきた。
 ぼくには彼らの曲は、二度とかえってこない「我が家」のある時代を、聞くたびに連れてかえってくれる曲なのだ。大きな音で聞くと、かならず涙が流れる。だから、小さな音でしか聞かない。
​ 映画館で「大きな音」のモンパチを聞いて、久しぶりに思い出に浸った。こんな聴き方は、あんまりよくないのかもしれない。でも、音楽って、そういうもんじゃないか。最近、よくそう思う。​


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最終更新日  2020.10.27 02:11:56
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2019.06.12
​​​​​​​​​​​​​​​アルフォンソ・キュアロン 「ローマRoma」 イオンシネマ加古川


 今日はJRに乗って西向き。東加古川駅で降りて、南に出る。​​​
「さて、イオンモールはどこかいな?きっと、あっちやな。」​
 知人が住んでるはずの街で、昔、一度来たことがあるが、JRの駅を降りるのは初めて。ウロウロ南東に向かって2号線までやってくると、かなり西のかなたにイオンシネマの看板発見。
​「えーっ、けっこう遠いやん。」​
たどり着いた映画館は加古川イオンの南の端、何だか人が少ない。席に着くと、画面も客席も広い。大きなホール。500人は入れそう。予告が始まりかけていて、誰も来ない。
​「エーっ、ここに、一人かあ。」​
 10列目くらいのほぼ中央。
「フフフ、こうなったら社長気分やな。」​
 暗くなる直前に二人。学生風の女性と、30代の男性。徘徊映画鑑賞歴最少の3人鑑賞会。
 灰色の画面には石タイルの床が映っていて、水を撒く音がしている。やがて水が流れてきて、タイルの表面に泡が立っている。床の水面に光っている空が映っていて、水面の空を泡が落下傘のように降りてくる。水はだんだん増えていって、上方から打ち寄せる波のように流れてくる。そして、また、上方に向かって退いてゆく。誰かが水を撒いている。
 水面に映った空に、白い飛行機が飛んでいる。
​​​​​​​​ 少女(クレオ)ともう一人アデラクレオが家政婦か女中として働いているようだ。白人の家族(医者の夫アントニオ、妻ソフィア、男の子が三人ペペ、トリオ、パコ、女の子が一人ソフィ、子供たちの祖母テレサ)とは言葉(字幕で分かる)と肌の色が違う。​​​​​​​​
​​ 子供たちは、明るく騒がしい。夫婦は何だか怪しい。クレオにはフェルミンという恋人がいるが、素っ裸で棒を振り回している、ちょっとぶっ飛んだバカ。​​
 ​ヤレヤレ・・・​
​ 物語が動き始めたと気づくのはクレオが身ごもるところからだ。メキシコらしい街の様子が騒然とし始めて、世の中のせいばかりではないが、劇中の人の関係が次第に壊れていくシーンと重ねられているように見える。それぞれのシーンを、ほとんどカットなしで、辛抱強く撮り続けるので、見ていて緊張する。​
​​ 「コーパスクリスティの虐殺」の最中に、虐殺者としてフェルミンが​登場し、暴力が振るわれる現場に偶然出くわたクレオ。その場で流産してしまうクレオ。そこから赤ん坊の遺体を抱く彼女の姿まで、映画の最初のクライマックス。​​​カメラは切れ目なくそれぞれの人を映し続ける。何だか疲れ果てた気分でシーンに見入りながら思う。
 「さあ、ここからどうなるんだ?」​
​​ 夫が去っていく場面に立ち会うことを嫌がって、海岸への家族旅行を思い立ったソフィアは、病院から帰ってはきたものの、ボンヤリしているクレオに、子供たちと一緒に行くことを促す。​​
​​​ 波が次第に激しくなる海岸で、ぺぺソフィが流される。寄せては返す波をカメラは執拗に撮り続ける。二人の子供が、波のどこにいるのか、いつまでもわからない。助けようと、我を忘れているクレオも波をかぶって危ない。
 観ているぼくもドキドキする。​​​
 「ああ、ここで、破局か!?」​
 しかし、クライマックスは、ぼくの予想とは違ったシーンで用意されていた。​​やっとのことで二人を助けたクレオに、ソフィアと子供たちが重なり合うように抱きついていく。(チラシのシーン)​​
 その時、彼女はが口走るのだ。
​「欲しくなかったの。生まれてほしくなかったの。」​​
​ ​命を投げ出すようにして、子供たちを救くおうとしたクレオの心にやってきたものを何と呼べばいいのだろう。​
​​ あの時、心臓を止めたまま生まれた赤ん坊と生き返らせようとする医者をじっと見ていたクレオの心にあったもの。それを見つめ返すなにかがここで、クレオのこころに生まれている。​​
 それを何と呼ぶべきなのか、うまくいえそうもない。「回心」とか「愛」とかいうことかもしれないが、少し違う。人が生きていくためにあったほうがいい、何か小さなことだ。
「私たちクレオが大好きよ。」​​
​ ​​その場でソフィアクレオを抱きしめてそういった。​​​人の外側から言うなら、そんなふうにいうしか、しようがない。しようがないことをいうソフィアもまた痛むこころに苦しんでいる。人のこころが人のこころを包む瞬間が映し出されている。
 ぼくはぼくで、流れ始めた涙がとまらない。​
 海から帰ってみると、父親が去って空っぽになっていた家で、子供たちは取り合えず泣きだす。泣きながら、やはり、騒がしい。黒い犬は相変わらず、やたらと糞をしている。犬の糞の掃除のために水をまいていたのが始まりのシーンだったのだ。
​ 用事のあるクレオが階段を上がっていって屋上に消える。その上に空が広がっている。そこから始まったクレジットの後ろに、白い飛行機の機影が動いているのが見える。​
「ここから、また、彼女や、子供たちの生活が始まる。クレオは洗濯を始めたのだろうか。」
 外に出るともう暗くなっていて、中空に半月が輝いていた。2号線沿いに歩きながら、振り返って写真を撮った。


​ お土産にはイオンのパン屋で「台湾ドーナツ」「メロンパン」を買った。今日も、なかなか、いい一日だった。


 ​夜になった東加古川駅があった。​​



 監督 アルフォンソ・キュアロン Alfonso Cuaron
 製作 ガブリエラ・ロドリゲス  アルフォンソ・キュアロン
    ニコラス・セリス
 脚本 アルフォンソ・キュアロン
 撮影 アルフォンソ・キュアロン
 美術 エウヘニオ・カバレロ
 衣装 アンナ・テラサス

 キャスト
  ヤリッツァ・アパリシオ(クレオ)
  マリーナ・デ・タビラ(ソフィア)
  マルコ・グラフ
  ダニエラ・デメサ
  カルロス・ペラルタ
  ナンシー・ガルシア
  ディエゴ・コルティナ・アウトレイ

原題「Roma」 2018年 メキシコ・アメリカ合作 135分 2019/03/14 

追記 
​ 最後まで分からなかった「ローマ」という題は、メキシコの地名らしい。それから、この映画の監督をぼくは女性だと思い込んでいた。なぜそう思ったかのか、何となく自分ではわかる気がするが、男性だった。だから、どうだっていうのだということはここでは、もう書かないが、いろいろ考えてしまうことになりそうだ。

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最終更新日  2020.10.25 02:57:43
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