ベランダだより 2022年6月30日 「そしったら咲きました!団子丸!」」
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2022.07.01
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全17件 (17件中 1-10件目) 読書案内「映画館で出会った本」
カテゴリ:読書案内「映画館で出会った本」
週刊 読書案内 是枝裕和「世界といまを考える 3」(PHP文庫)
吉田:是枝さんは「海街diary」のなかでは「真昼の月」(第2巻)のエピソードがお好きだとお聞きしたのですが。 とまあ、こんな会話なのですが、読みながら大竹しのぶと綾瀬はるかの表情が浮かんでくるような話で、そのうえ、マンガと、実写化した映画という表現の違いも面白かったわけです。 川上弘美との対談も面白かったのですが、「天才柳沢教授の生活」のマンガ家の山下和美との実作進行会話もスリリングでした。 是枝:「ランド」はこれまでの作品に比べると、土着というか、歴史を背負っている匂いがするのんですが、ご自分ではいかがですか。 で、話題になっている「ランド」(講談社)の第1巻を取り出して、評判の悪さに納得したりなんかしていると、山下和美の結論はこうでした。 山下:「ランド」は主人公が何に対峙すればいいのかを探し続ける話なんじゃないかな、ということで腑に落ちたんです。逆を言えば「はっきりとした敵を設定して欲しい。出ないと落ち着いて読めない」というタイプの人は「ランド」を好まない。(P93) なんだか、ちょっと耳の痛い結論です。ご存知の方はご存知でしょうが、「ランド」は不思議な設定の時代劇・SF(?)・ファンタジー(?)・マンガで、是枝監督も言っているように、土着というか、もう一つ昔というか、歴史の次元が少しずれた世界を描いていますが、現代と通底しているところがオリジナルな感じの作品です。 マア、映画監督の対談集を読みながら、マンガの世界を広げていただくというのはどうなのでしょうね。現代マンガが映画ととても深い仲だということは手塚治虫以来、まあ、常識なのでしょうが、現代では対等な表象文化として、マンガと映画という等置感覚やマンガから映画へという発想の流れは、もう、当然ということなのかもしれませんが、映画監督と漫画家の関心のありどころの違いの面白さも感じられる対談でした。 ちなみに「目次」はこんな感じです。 第一章 映画監督と語る 細田 守それぞれ、かなり読みでがある対談です。この第3巻では森達也との「ジャーナル」な話題で話している対談が面白かったのですが、映画監督というのが、まあ、森達也との対談に限らず、まあ、当たり前といえば当たり前なのですが、現代社会に対してビビッドであることに、ちょっとホッとしたような次第でした。 ![]() ![]() ![]()
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2021.12.01 22:41:54
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2021.10.04
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週刊 読書案内 阿武野勝彦「さよならテレビ」(平凡社新書)
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2021.10.04 00:15:25
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2021.06.22
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ジュディス・カー「ウサギとぼくのこまった毎日」(こだまともこ訳・徳間書店)
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2021.05.14
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ジェシカ・ブルーダー「ノマド 漂流する高齢労働者たち」(鈴木素子訳・春秋社)
![]() 2021年のアカデミー賞で作品賞、監督賞、主演女優賞をとった「ノマドランド」という映画の原作(?)ノンフィクション「ノマド」(春秋社)を読みました。 現代アメリカで広がり始めている高齢の車上生活者の社会の実情を、なんというか、社会学的なフィールド・ワークを方法としたドキュメンタリーでした。 映画はフランシス・マクドーマンドが演じる、車上生活を余儀なくされたばかりの初心者ファーンを視点人物、主人公として描かれていますが、このドキュメントでジェシカ・ブルーダーが焦点化している人物は、映画にも本人が登場しますがリンダ・メイという女性でした。 ファーンを主人公にすることによって、「ノマドの世界」を「映画」化して見せたクロエ・ジャオという監督は、文句なくすぐれた監督だと思いますが、原作では、映画では描き切れなかったアマゾンやビーツ農場、国立公園の管理といった低賃金で、肉体的にも精神的にも過酷としかいいようのない労働現場の実情や、町ごと廃墟化する「企業城下町現象」の実態、ノマド社会のコミューン化の思想史的過程、車上生活をしている人たちの社会的権利や人生観を、丁寧に、しかし「乾いた」文体で描いたところが本書の「肝」だと思いました。 土地付きの家が欲しいのはどうしてかと訊かれたら、私はこう答えます。独立するため。社会の競争から身を引くため。地場産業を支援するため。輸入品を買わないため。そして、好きでもない人たちを感心させるために、必要でもないものを買うのをやめるためです、と。 過激だと思うけど、アマゾンで働いていると、こんなことばかり感ちゃうの。あの倉庫の中には重要なものなんて、何一つない。アマゾンは消費者を抱き込んで、あんなつまらないものを買うためにクレジットカードを使わせている。支払いのために、したくもない仕事を続けさせているのよ。あそこにいると、ほんとに気が滅入るわ。 これは本書に引用されている、リンダ・メイがフェイス・ブックに投稿したコメントと、その時ブルーダーに送ったメールです。 映画の中で、その「死」が暗示されたリンダ・メイですが、本書に登場するリンダ・メイは、「労働の価値」、すなわち、「働くことの喜び」という、あらゆる「人間」にとっての根源的自由の一つが、いよいよ、奪われていきつつある「後期資本主義社会」の様相を呈し始めた現代社会と、まっすぐに向き合い批判することができる、文字通り「自立的」な女性であることが、この引用で理解していただけるのはないでしょうか。 実在する彼女は、生活のシステム全体の自給自足を目指す「アース・シップ」方式での暮らしを夢みていて、ニューメキシコの砂漠の真ん中の1エーカーの土地に、彼女がたどり着いたところで、本書は終わります。 謝辞 最後にジェシカ・ブルーダーのこんな言葉が載せられていますが、リンダ・メイという「勇気ある女性」と出会い、彼女の心を開くことで、現代アメリカの真相をビビッドに描いて見せた、とても優れたドキュメンタリーだと思いました。 ![]() ![]() ![]()
最終更新日
2021.05.14 00:28:23
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2021.02.26
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町山智浩「映画と本の意外な関係」(集英社インターナショナル新書)
![]() 映画を見に出かけるときには、予告編はともかく、チラシとかレビューとかほとんど読みません。こう書くと、初見の感動にこだわっているように聞こえますが、ただ横着なだけです。最近では、見終わってチラシとか見直して、ああ読んでおけばよかったと思うことも結構増えてきました。 だいたい、「ネタバレ」も「人の感想」も全く気になりません。いやむしろ「ふーん見てみようかな」と思うことの方が多いと思います。多分、映画を見始めた20代の頃に、友達の評判とか映画評論家とかの文章に促されて映画館に通ったという「映画の見方」が根にあるのでしょうね。 映画を見ていて、最近増えたことといえば、チラシに、有名な「原作」が挙げられてると図書館で探したり、ちょっと気になる「セリフ」があったりすると、出どころをとりあえず調べたくなることです。 これも、若い頃、友達の映画好きが、「映画作品」と「原作」との異同や、映画中の「セリフ」の典拠とかを、やたら語って聞かせてくれたことの影響ですね。 今回案内する町山智浩の「映画と本の意外な関係」(集英社インターナショナル新書)という本は図書館の棚で見つけたわけですが、町山智浩の「語り口」が気に入り始めているということがもちろんあるのですが、あの頃の話題の型に似ていて興味をそそります。そういう話がぼくは好きなのでしょうね。 たとえば、この本の第9章は「天墜つる」と題された「007映画」についての蘊蓄なのです。「Sky fall」というダニエル・クレイグという、どっちかというとロシアのスパイみたいな顔の007が活躍する映画の和訳で、ジュディ・デンチがMの役だったことで覚えていましたが、10年ほど前の映画の題から章の題がつけられています。 要するに、数多ある「007映画」で、文学がどんなふうに引用されているか、というか、まず「ことば」、「セリフ」がどんなふうにつくられているかという、結果的には至極まじめなエッセイなのですが、冒頭では、所謂、下ネタが連打されています。 過去のボンドガールの名前にまつわるネタです。 「ゴールド・フィンガー」の、ボンドガール、女性パイロットの場合。 「私はPussy Galoreよ。」 これは説明が要らないようなものですが、「Galore」は「タップリ」という意味だそうです。 「ダイヤモンドは永遠に」のプレンティ・オトゥールさんの場合。 この名前は 「Plenty of tool」と聞こえるんだそうで、「××でいっぱい」という意味になるそうです。何がいっぱいなんでしょうね。 「ゴールデン・アイ」のゼニア・オナトップさんの場合。 この名前は 「Then,you are on the top」 と聞こえるそうで、「次は上で」という意味だそうです。お分かりですね、順番があるんでしょうね。 「ムーンレイカー」の女性科学者ホリー・グッドヘドさんの場合。 名前が 「Holly,good head」 「凄く頭がいい」なのですが、「good head」が曲者で、下ネタ系のスラングの好きな方は、まあ、調べてみてください。 まだまだ続くのですが、まあ、このくらいにしますね。 ここまでお読みになると、なんというか、その手の話で持たせているような「誤解」へと誘導しているようですが、実は違います。 この後、「007映画」について「題名」と英語の格言、詩の文句を照らし合わせながらの解説が始まり、最後には「Sky fall」という23作目の解説をアルフレッド・テニスンという詩人の「ユリシーズ」という詩を引き合いに出してまとめてみせます。 たしかに多くが奪われたが この詩は、映画の中では、引退を迫られたMであるジュディ・デンチが、自らを励まし、盟友ボンドへの呼びかけ言葉として、口ずさむ詩の文句ですが、テニスンの詩で、その「詩句」は大英帝国の誇りと希望を代弁していると指摘して、解説は格調高くしめくくられると思いきや、こんな1行を付け加えることを忘れません。 今回のボンドガールは77歳のMだったことがわかる。熟女ブームとはいえ、熟女すぎだよ! というわけで、笑いながら次の章に進むというわけなのですが、そのほとんどが、見ていない映画に対する蘊蓄なのですが、退屈することはありませんでした。 しかし、中には「太陽がいっぱい」を見た淀川長治が主人公トム(アラン・ドロン)とフィリップ(モーリス・ロネ)の関係を、映画を見ただけで「トムのフィリップに対する恋」の物語だったと見破っていたとか、昨秋見た「インターステラー」という映画の中での博士の最後の言葉「心地よい夜に身を任せるな」というセリフはディラン・トマスの詩の一節であるとか、見たことのある映画や、読んだことのある作家や詩人、知っているエピソードに対する言及に出会うと、当然ですが、ちょっと興奮したりしながらの楽しい読書でした。 ぼくの中の「町山ブーム」は当分続きそうです。 ![]() ![]() ![]()
最終更新日
2021.02.26 00:28:05
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2021.01.23
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週刊 読書案内 町山智浩「町山智浩のシネマトーク 怖い映画」(スモール出版)
![]() 図書館の新刊書の棚で見つけた本です。今でも、そんな言い方があるのかどうかよくわかりませんが、映画評論家の町山智浩さんの2020年の新刊本です。 退職して映画館を徘徊し始めて3年たちますが、昔はよく読んだ映画の解説本、評論をほとんど読まなくなっています。町山智浩という方も、単著としては初めて読む人ですが、読み終わってみて気に入りました。 題名の通り、「怖い映画」についてのお話で、全部で9本の映画が俎上にあげられていますが、多分「町山トーク」というべきなのでしょうね、鮮やかに語りつくされています。 ついでですから9本の映画のラインアップを挙げてみます。 「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」 (1968・ジョージ・A・ロメロ) この中で、多分見たことがあると記憶にあるのは「カリガリ博士」と「ポゼッション」の2本だけです。 だいたい、学生時代はともかく。ここ3年は「ホラー」と宣伝されている映画は見ないのですから(だって怖いから)当然ですが、例えばポランスキーの「テナント」なんていう映画は「アデルの恋の物語」のイザベル・アジャーニという女優さんが主演の映画らしいのですが、日本では劇場公開されていないらしいことを町山さん自身が語っていて、まあ、ぼくでなくてもあまり見られていない映画だったりもするわけです。 さて、「町山トーク」の特徴は、まず「映画をよく知っている」ことですね。その次に「アメリカの映画産業をよく知っている」ということです。まあ、映画にかかわればほかの国のこともよくご存じなのでしょうが、そして「映画を繋がりで語る」ということです。 その結果、ほとんど知らない映画についてのトークがとても面白く読めるのです。平たく言えば「ネタ」の山なのです。 たとえば最終章「狩人の夜」の中のこんな記述はいかがでしょうか。 「狩人の夜」は、名優チャールズ・ロートン唯一の監督作です。「狩人の夜」が興行的に失敗した後は監督作がなく、彼は公開から7年後の1962年に亡くなりました。 とまあ、こんな感じなのです。この後も1955年につくられたこの映画に対しての「引用の系譜」というべき記述が、現代映画を例に挙げてつづくのですが、結果的にこの映画の「よさ」を語りつくしているわけです。 読者のぼくは、本から目を話してネットを検索し、サーフィンしながら、再び本に戻るという、かなり忙しい読書体験なわけで、一読三嘆という言葉がありますが、文字通り三嘆することになるのでした。(笑) もっとも、ポランスキーの「テナント」の章のように、ディアスポラ、どこに行っても「間借り人=テナント」としてのポランスキーを語りながら、町山さん自身の来歴を真摯に語ることで、単なる「知識のひけらかし」ではない批評性の根拠を示しながら、トランプのアメリカやヘイトを日常化している日本の「ネット社会」に対するハッとするような「発言」もあるわけで、読みごたえは十分でした。 装丁はカジュアルで、語り口は軽いのですが、「映画」という表現が、「映画を見た人」によって、受け継がれ、新しく作られていくという「映画史」を語る本として記憶に残りそうです。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
最終更新日
2021.01.25 01:53:47
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2020.12.26
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イェジー・コジンスキ「ペインティッド・バード」(西成彦訳・松籟社)
![]() バーツラフ・マルホウル監督の「異端の鳥」という映画を見て、原作があることを知り読みました。1980年代に角川文庫版が出ていたようですが、今回は西成彦さんの新訳版です。 第二次世界大戦の後、1957年に、ポーランドからアメリカに亡命したコジンスキーという作家が1965年に書いた作品らしいですが、彼自身の少年時代の体験と重なる物語であることは間違いなさそうですが、ドキュメンタリーというわけではありません。 小説は次のような言葉で始められます。 第二次世界大戦がはじまってから数週間、1939年の秋のことだった。六歳の少年が東欧の大都市から、何千という子どもたちと同じように、両親の手によって、遠い村へと疎開させられた。 こういう事情で、東ヨーロッパの田舎の村に連れられてきた6歳の少年である「ぼく」が1939年から1945年に至る流浪の「体験」と、そこで学んだ、その時、その時、生きていくために大切だと思い知ったことを語り続ける物語でした。 作品を読めばわかりますが、作家が「ぼく」として「作中」で語らせている少年が、果たして、田舎の村を流浪しつづけていた6歳から12歳の少年そのものであったとはとても考えらません。そこで語られる「ことば」と世界に対する態度は、「大人」のものです。 ぼくはマルタの家に住み、両親が迎えに来てくれるのではないかと毎日のように待ちわびていた。泣いてどうなるものでもなかったし、めそめそしているぼくに、マルタは目もくれなかった。 これが「ぼく」が語り始めた最初の経験ですが、語っている「ぼく」は、実際の経験から何年も経って、語り始めていることは明らかだと思います。 こうして読み始めて、面白いと思ったことは、実際にこの原作で作られた映画「異端の鳥」では、ぼくの記憶では、ですが、ナレーションが入るわけではありませんから「カメラ」が映し出す映像が「語る」わけです。めそめそする少年と、そういう子どもの様子に何の関心も示さない老婆が、少し暗めのモノクロの画面に映し出されるわけで、映画の中には小説とは、また違った、「荒涼とした世界」に放りだされた少年が、次の瞬間、何が起こるのか全く予想もつかない「生」を生きているという「現在」性とでもいうニュアンスがあるわけで、そこに大きな差があると感じました。 映画に比べて小説で描かれる世界は安定しているという感じをぼくは持ちましたが、描かれるエピソードは、大筋において小説と映画は共通しています。ただ、出来事の、「ぼく」に対するインパクトの印象は、映画のほうが格段に生々しいと言えるということです。 結果的に、読後の印象は、映画を見終わった時とは少し違うものになりましたが、ある意味、当然かもしれません。 小説が描き出す「ぼく」の体験は、映画が映像として描く体験やエピソードを遥かに、詳細で悲惨なのですが、読むことに「不安」や「胸苦しさ」が絡みついてきません。 小説の「語り」の話法が微妙に時間をずらしこんでいるからでしょうか。その代わりにクローズ・アップするのが、語り手の「思想」の変化、つまり、少年の成長でした。 ぼくは自分が一人ぼっちだということにはたと気付いて、ぞっとした。しかし、二つのことを思い出した。オルガは人を頼らず生き抜くためにはその二つのことが大切だと言っていた。一つ目は、植物と動物に関する知識で、何が毒で、何が薬になるか見極めること。もうひとつは、火を、すなわち自分なりの「ながれ星」を持つということだ。 「ぼく」が最初にあずけられたマルタの死の結果、「ぼく」の扱いを衆議する村人たちから買い取ったのが、呪術師・祈祷師オルガでした。 「ぼく」が迷い込んでしまったヨーローッパの辺境の、つまりド田舎の「前時代的」、いや、「古代的」社会の実態が村人たちのオルガに対する「信仰」にも似た崇拝ぶりと、オルガの呪術の奇妙奇天烈な実態の描写で描かれていますが、「ぼく」はオルガから「生きのびるための方法」の本質を学び取りはじめます。 オルガの庇護を失い、いよいよ、一人ぼっちになってしまった「ぼく」は次々と新しい「庇護者」に拾われます。しかし、彼らは、方法こそ違いますが、ほとんど悪魔の所業というべきありさまで少年を扱います。 理不尽で、避けようのない災厄のように降りかかってくる「暴力の嵐」の苦痛を昇華する方法として、「ぼく」が自ら学んだことは「祈り」でした。そして、その年齢の少年が体験するには、あまりに苛酷な体験は、少年に「祈り」教えましたが、ついには「祈り続ける」少年から「言葉」を奪ってしまいます。失語症ですね。 5年間の流浪の末、初めて少年の前に暴力を振るわない人間として登場したのが「赤軍」兵士でした。彼らは神に祈ることが現実逃避にすぎないという驚愕の真実と、自己を振り返る自己批判の精神と、やられたらやりかえすプライドを持つことを少年に教えます。 少年は、少年に暴力をふるい続けた社会に立ち向かう方法として、「祈り」を捨て、たたかう「共産主義」にあこがれはじめます。 戦争が終わり、戦災孤児の収容施設で、「両親と新しい弟」という家族と再会しますが、「ぼく」に「ことば」が戻ってくるわけではありませんでした。 胸の内から「ことば」が溢れてくる感動のラストシーンは、是非、お読みいただいたうえで、味わっていただきたいのですが、それは少年が生まれて初めて、自分に呼びかけられる「声」との出会いの瞬間だったのかもしれません。 もう一度映画に戻りますが、映画では父親の右腕に彫られたユダヤ人収容所の収容番号の入れ墨がアップされ、一方で、一緒に乗っていたバスの曇ったガラス窓に、呼びかけられた「名前」を書く少年の姿が映し出されて映画は終わるのですが、失われていた「名前」と「ことば」、帰還した少年の悲哀と、家族を襲っていた「時代」の悲劇、突如やってくる「許し」の印象はよく似ていますが、少し違うと感じました。 読み終えて、気づいたことなのですが、「ペインティッド・バード」と題された、作家の幼い日の境遇の独白小説は、「田舎の村に紛れ込んでしまった都会のこども」、「黒い髪と黒い瞳のユダヤ人」、「家族になじめない、言葉を失った少年」、と、まさに「異端の鳥」の日々を語っていることは確かなことなのです。しかし、ポーランド人である作家コジンスキーにとっては、そんな「ぼく」だったころの苦闘の日々、ついに「救い主」のように現れ、こっそり胸ポケットに忍ばせていた、「黒い瞳と黒い口髭」の、英雄スターリンの笑顔の「偽り」に気付いた時にこそ、「ぼく」が、やっとのことで見つけた「理想社会」にも、ゆっくり羽を休める枝はなかったという、いわば、究極の「異端の鳥」の悲哀がやって来たのではないでしょうか。 そして、そこに、この作品を彼に書かせた、真のモチーフが隠されているのではないでしょうか。 この作品が「ペインティッド・バード」と名付けられた理由に対する当てずっぽうの推測なのですが、ポーランドからの亡命作家として70年代のアメリカの文学界で頂点を極めながら、58歳で自ら命を絶った「異端の鳥」の生涯を、なんだかとてつもなく傷ましいと感じたのが小説の感想でした。 時間がおありでしたら読んでみてください。 ![]() ![]() ![]()
最終更新日
2020.12.26 00:14:41
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2020.05.20
カテゴリ:読書案内「映画館で出会った本」
四方田犬彦『七人の侍』と現代――黒澤明 再考 (岩波新書)
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最終更新日
2020.12.13 16:41:09
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2020.02.16
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宮崎駿インタビュー「風の帰る場所」(文春ジブリ文庫)
![]() 「ロッキン・オン」社の渋谷陽一がネット上で、自社の雑誌に掲載した「中村哲」のインタビューを公開しているのをのぞきながら思い出した本です。 あのー、ただ自然という現象を描く時に、例えば空気というものも、それから植物も光も全部、静止状態にあるんじゃなくて、刻々と変わりながら動態で存在してるものなんですよね。 なぜ、ここを引用しているのか、わかっていただけたでしょうか。「映画の時間の中で、『風』がとまるのはおかしい。」強迫観念として、そう考える宮崎にぼくは感動しました。背景は「書き割り」として止まっているものだと思い込んできた、ぼくは、初めて動く「風」を彼のアニメで見た時に「ヘンだ」と思いましたから。映像がすごかったんですね。 次は「ナウシカ」の結末についてです。「ナウシカ」にはコミック版がありますが、結末はちがいます。渋谷陽一が、そのあたりを聞いています。 「ナウシカ」は、結局、一番好きな作品なのですが、なんか、すごいことを言ってると思いませんか。実は、もっといろいろ言ってるんですが、その結末についてのこの葛藤は初耳でした。ちょっとうなりました。 これ以外にも、「紅の豚」について語っている「豚が人間に戻るまで」のなかにも、大人向けアニメの「豚」ファンには、なかなか必読の発言がありますよ。ほかのインタビューにも、随所に宮崎駿の自意識のありようや率直な自己暴露が、笑える発言が山盛りなのですが、そのあたりは本書でどうぞ。 実は2013年には、このシリーズの後編「続 風の帰る場所」が出ています。それについてはまたいずれということですね。 ![]() ボタン押してね! ボタン押してね! ![]() ![]()
最終更新日
2020.12.11 08:57:39
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2019.10.12
カテゴリ:読書案内「映画館で出会った本」
高橋ヨシキ「シネマストリップ 戦慄のディストピア編」(スモール出版)
![]() ここのところ、徘徊のお供にカバンに忍ばせているのがこれですね。「高橋ヨシキのシネマストリップ」(スモール出版)のシリーズ。 一応、お断りしておきますが、ストリップのシネマじゃなくて、シネマのストリップですよ。 まあ、図書館で見つけて手に取ったときに、「ストリップのシネマ」と勘違いしていた可能性はないとは言いませんし、その上、この表紙のイラストも、「ふーん」という感じがしないわけではありませんが、読みはじめてみると、これがなかなかやめられない「映画のカワハギ」でした。 高橋ヨシキさんがNHKのラジオ番組でしゃべっていらっしゃる内容の書籍化らしいのですが、映画のちょっとした蘊蓄とか、「この映画なにがいいの?」って感じやすい人にはうってつけじゃないでしょうか。 かくいうぼくは、80年代の中ごろから映画というものを全く見ていない生活で、昨年の四月から、ようやく映画館に戻ってきたような次第で、この本でしゃべっていらっしゃる映画のほとんどは見たことがありません。ふつうは、それが難点になるのですが、読みはじめると、「とりあえずこの章は・・・」と思わせるのが高橋さんの芸というべきなんでしょうね。たぶん、「語り口の平明さ」について、かなり注意を払っていらっしゃると思います。 たとえば、14本目のストリップは「エイリアン」です。この映画はぼくでも知っています。 ホラー映画の世界では、「女の人が最後まで生き残って怪物と対決する」というパターンがあよくありますが、最近はそういう定型を「ファイナル・ガール」と言ったりもしますが、「エイリアン」は「ファイナルガール」ものの決定版でもあります。興味深いのは、1979年の映画にもかかわらず「「ベクデル・テスト」を完全にクリアしているところです。「ベグデル・テスト」は映画において女性がちゃんと(添え物、あるいは性的な対象としてだけでなく)描かれているかを判別する簡単なテストで、「最低でも二人の女性が登場するかどうか」「その女性同士の間に会話があるかどうか」「その会話の中に、男性について以外の話題が出て来るかどうか」が問われます。シンプルなやり方で作品のジェンダーバイアス(性的偏見)を計ることのできるテストですが、「エイリアン」は三項目すべてをパスしています。脚本時点で男性を想定していた主人公を女性にしたことで、そのような結果が生まれたのかもしれませんが、映画製作の人たちも「エイリアン」に倣って、主人公の性別を反対にしてみる…というの試みをもっとやってみる価値はありそうです。 ね、ベンキョウになるでしょ。まあ、映画ファン相手にラジオのようなマスメディアでしゃべるためには、いろんな意味で、「広さと深さ「」、同時に「まとまり」がないとだめでしょうから、市バスとかで読んでいると、「運転手さん、もうちょっとゆっくり走ってていいよ。」ということになるのです。 今回はディストピア編でしたが、「エイリアン」が何故ディストピア映画なのか、首をひねる人もいらっしゃるかもしれませんね。高橋君の結論はこうでした。 人間をある種の「駒」と考え、個人の思惑や生死をないがしろにするるのはディストピア社会の大きな特徴の一つですから、その意味で「エイリアン」は全く伝統的なディストピア映画なのです。 理解していただけましたか?宇宙船ストロモ号の乗組員は全員、まあ、アンドロイドのは別にして、エイリアン捕獲のための撒き餌、すなわち、会社の「駒」でしかなかったって、最後にわかりますね、覚えてますか? この手のはなしのお好きは人はどうぞ。どの解説も、飽きさせないし、おもしろく読みましたよ、ぼくは。ベンキョーになりましたが、すぐ忘れちゃうんですよね。(S) ![]() ボタン押してね! にほんブログ村 ![]() ![]()
最終更新日
2020.12.20 20:12:13
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