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ゴジラ老人シマクマ君の日々

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読書案内「映画館で出会った本」

2021.12.01
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​週刊 読書案内 是枝裕和「世界といまを考える 3」(PHP文庫)​​


 映画監督の是枝裕和の対談集、「世界といまを考える」というPHP文庫を見つけて、第3巻からパラパラ読んでいます。
 「対談集」というのが好きです。作家や哲学者の対談でもそうですが、当然、本にするに際して構成とか校正とかで整理してあるのでしょうが、小説作品や評論の文章にくらべて、「はだかのままの言葉」が出てきている気がして、素直に「ああ、そうなのか」と、気楽に読めるからです。
 この本の場合、ここのところ、ぽつぽつとその作品を見ていて、印象に残っている是枝裕和という映画監督は何を考えているのだろうという興味で読みました。
 マア、そういうと、何か考え事をしているようですが、ほんとはパラっと見たときに、作家の川上弘美とかマンガ家の吉田秋生の名前が出ていたので、そっちにひかれて読んだにすぎません。(ああ、川上弘美は第3巻ではありません。第2巻です)
 是枝監督の映画「海街diary」の原作者は吉田秋生で、二人の対談は2015年に是枝監督が映画化した際に「フラワーコミック」の掲載された対談のようです。
 読みながら、面白いなと思ったのはこんなところでした。

吉田:是枝さんは「海街diary」のなかでは「真昼の月」(第2巻)のエピソードがお好きだとお聞きしたのですが。
是枝:ええ、大好きです。
吉田:実は私も好きなエピソードなんです。幸が久しぶりに会ったお母さんと、和解したわけではないけれど、「まあ、しようがないか」と思うところが描きたかった。昔の私だったら描けなかったと思います。なんて厭な母親だろう、と思ったはず。
是枝:映画では、そのオトナになりきれない母親役の大竹しのぶさんが絶妙で・・・・。
吉田:母親であって娘でもある、というところを見事に演じていらっしゃいましたね。
是枝:「出来の悪い娘で…」と大竹さんがいったときに、(幸を演じる)綾瀬さんがふっと母親を見る感じがとてもよかった。原作には「そうか、この人も娘だったんだ」という台詞があるのですが、それを口に出さずに目線だけでどれだけ伝わるかにチャレンジしました。(P59)
 とまあ、こんな会話なのですが、読みながら大竹しのぶ綾瀬はるかの表情が浮かんでくるような話で、そのうえ、マンガと、実写化した映画という表現の違いも面白かったわけです。
 川上弘美との対談も面白かったのですが、「天才柳沢教授の生活」のマンガ家の山下和美との実作進行会話もスリリングでした。
是枝:「ランド」はこれまでの作品に比べると、土着というか、歴史を背負っている匂いがするのんですが、ご自分ではいかがですか。
山下:歴史を背負っている・・・・、たぶんそれすらも覆すと思います。
是枝:引っ繰り返っていく?
山下:引っ繰り返っていくと思います。人が歴史だと思っていたものが実は植えつけられていたものだったりとか、自分の過去の記憶すら当てにならない感覚だったりというか・・・。(中略) 
 それをどうしたら上手く表現できるか、いま試行錯誤しています。でも、1巻の時は大変でした。編集部でも評判が悪くて…(苦笑)
是枝:そうなんですか?(P93)
​ で、話題になっている「ランド」(講談社)第1巻を取り出して、評判の悪さに納得したりなんかしていると、山下和美の結論はこうでした。
山下:「ランド」は主人公が何に対峙すればいいのかを探し続ける話なんじゃないかな、ということで腑に落ちたんです。逆を言えば「はっきりとした敵を設定して欲しい。出ないと落ち着いて読めない」というタイプの人は「ランド」を好まない。(P93)
​ なんだか、ちょっと耳の痛い結論です。ご存知の方はご存知でしょうが、「ランド」は不思議な設定の時代劇・SF(?)・ファンタジー(?)・マンガで、是枝監督も言っているように、土着というか、もう一つ昔というか、歴史の次元が少しずれた世界を描いていますが、現代と通底しているところがオリジナルな感じの作品です。
 マア、映画監督の対談集を読みながら、マンガの世界を広げていただくというのはどうなのでしょうね。現代マンガが映画ととても深い仲だということは手塚治虫以来、まあ、常識なのでしょうが、現代では対等な表象文化として、マンガと映画という等置感覚やマンガから映画へという発想の流れは、もう、当然ということなのかもしれませんが、映画監督と漫画家の関心のありどころの違いの面白さも感じられる対談でした。
ちなみに「目次」はこんな感じです。
第一章 映画監督と語る 細田 守 
第二章 マンガ家と語る 吉田秋生、山下和美 
第三章 学者と語る 原 武史、斎藤 環、宮台真司、野田正彰、福岡伸一 
第四章 演出家と語る 水田伸生、三谷幸喜、蜷川幸雄&笠松泰洋、森 達也、鴨下信一 
 ​それぞれ、かなり読みでがある対談です。この第3巻では森達也との「ジャーナル」な話題で話している対談が面白かったのですが、映画監督というのが、まあ、森達也との対談に限らず、まあ、当たり前といえば当たり前なのですが、現代社会に対してビビッドであることに、ちょっとホッとしたような次第でした。
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最終更新日  2021.12.01 22:41:54
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2021.10.04
​​​​​週刊 読書案内 阿武野勝彦「さよならテレビ」(平凡社新書)​
 チッチキ夫人が食卓のテーブルの上の「読みかけ本」、積読山の上に、新たに載せてくれていた本です。彼女が出勤して、一人で冷めたコーヒーを飲みながら何の気なしにページを開いて読み始めて止まらなくなりました。雨が続き、コロナが蔓延していた夏の終わりの朝でした。
​​ 新書ですが350ページ、著者は阿武野勝彦、書名は「さよならテレビ」(平凡社新書)です。​​
​ 著者の阿武野勝彦という人は1959年生まれ、現在も(?)東海テレビのゼネラル・プロデューサーという役職にあって、テレビのドキュメンタリー番組を作っている人のようです。
 書名の「さよならテレビ」というのも、製作者である著者がテレビにサヨナラするという意味ではなくて、2020年、おそらく阿武野勝彦の最新の仕事である映画化され、劇場公開されたドキュメンタリー「さよならテレビ」の題名が使われているようです。​

​ ここまでお読みになって、ピンとこない方でも、実は彼は2017年、テレビドキュメンタリーの映画化作品としては、驚異的(?)ヒット作となった「人生フルーツ」のプロデューサなのですといえば、ひょっとしたら「ええ、そうなの?!」とおっしゃるかもしれません。​
 この本は、その阿武野勝彦がたずさわった23本のドキュメンタリー映画について、それぞれの作品の制作の現場で、制作者しか知らないエピソードを綴った、まあ、回想録です。
 目次に見出しとして出ている23本の作品のうち、見たことがある作品は「人生フルーツ」ただ1本だけでしたが、「ああ、あの映画の人か」と思って読み始めると、その映画が2013年に企画され、カメラが回り始め、ナレーションが樹木希林にきまり、考えてみれば不思議な「タイトル」が提案される、そのプロセスにまつわる「苦労話」が回想されていくのですが、この映画の制作の「山場」は何といってもここという話が出てきました。
 二〇一五年六月。私は、土砂降りの鹿児島、『戦後70年樹木希林ドキュメンタリーの旅』のロケを終え、ホテルへ戻るワンボックスカーの中だった。知覧の特攻平和会館の重い空気がまだ車中に充満していた。私の携帯が振動する。名古屋からだ。動揺がわかるような声だった。
「津端さんが、亡くなりました」
「そうか。お父さん?お母さん?・・・・」
「あっ、修一さんです。・・・・・」
 妙に間の空く会話の中で、、昼寝に行ったまま修一さんがい起きてこなかったということがわかった。敬愛していた実父をなくした息子からの電話のようだと思った。訃報を受け取る私も身内のような心持だったが、車窓の強い雨に目をやりながら、冷徹に言うことにした。
「亡骸を、葬式を、焼き場を、全部撮影させてもらえるか・・・・」
「はい。お願いして、お許しをいただきました」
​(中略)
 窓の外。いつの間にか雨はやんでいた。夕暮れの錦江湾を眺めながら、「またしてもお出ましだ」と思った。作品をコツコツ拵えていると、目に見えない何かがフッと降りてきて、現実が大きく展開する。まるで、ドキュメンタリーの神様がいるかのように・・・・・。
​(第2章「大事なのは、誰と仕事をするか」P55~56)
​ 映画をご覧になった方はご存知でしょうが、この作品は老年の夫婦を記録したドキュメンタリーです。で、その主人公(?)の津端修一さんが、制作過程で亡くなるという大事件です。
​​ この事件について阿武野勝彦「神様」という言葉を使っているところに、正直な人だと思いました。それは、記録の対象であるご夫婦にとっては「不幸」な出来事ではあるのですが、制作過程にあるドキュメンタリー作品に、降ってわいたような、絶対的なリアリティーを与える事件だったに違いないのです。​​
 しかし、カメラが撮ってしまった「死」を、いかにテレビで放映するかという難問との遭遇でもあったようです。ドキュメンタリーが「本当の出来事」に遭遇し、それを記録することが「テレビ」というメディアとの戦いを誘引するという経験は、この映画の「死との遭遇」の記録が初めてではなかったようです。
 本書を「さよならテレビ」と題した阿武野勝彦のドキュメンタリー制作者としての「ドキュメンタリー論」・「反テレビ論」は随所に述べられていて、それがこの本の「肝」でもあると思います。しかし、にもかかわらず、彼が東海テレビという会社で撮り続けたのはなぜかと、自らに、問いかけ続けながら書き上げているところに、この本の「人間的」な魅力があるのではないでしょうか。
 ところで、長くなりますが、現場の裏話といえばこんなエピソードも書きつけられています。
 徹夜明けの参拝。希林さんは、真新しい正殿に向かって進む。カメラが、石段の下から後姿を追う。新旧正殿の違いはあるが、初参拝と同じ構図だ。
「何もお土産、新築祝い、持ってきませんでした‥‥」
二拝二拍手一拝。その時、正殿の御帳(みとばり)の大きな白い布が、ファッ、ファッ~。風に大きく舞った。またらしい神様のおうちが、希林さんの眼前に現れた。石段を下りてくるその姿は少しリズミカルで、表情は少女のようだった。それがロケのクライマックスとなった。
 名古屋に戻る大きなロケバス。車内は、ゆったり、希林さん伏原ディレクターの三人だった。伊勢を出ると、ほどなく睡魔に落ちた。そして、目を覚ますと、高層ビル群が見えた。振り返ると、バスの後部座席で希林さんは完全に横になっていた。名古屋駅までまだ五分ぐらいあるだろうか。ぎりぎりまで寝ていただこう。
ロータリーに車が入ったところで声をかけた。
「希林さ~ん。希林さ~ん。」
「ええ?何?」
「名古屋駅です」
ガバッと体を起こし、外をキョロキョロ‥‥。
「え~と。あのー。名古屋駅に・・・・。」
「なあに、突然、名古屋駅って。私は女優よ~」
(第4章「放送は常に未完である」P110~111)
​​ ​実は、彼の作品に数多く出演している樹木希林についてのエピソードは、他にもたくさん書かれていて、​樹木希林​についての「女優論」とでもいうべきところが本書のもう一つの読みどころだと思うのですが、中でも「これは!」というのが引用したところです。「神宮希林」という2014年に制作され作品のエピソードだそうです。​​
 ぼくは「テレビ」をあまり見ません、だからなのか、にもかかわらずなのか分かりませんが、読みでがある「回想録」でした。今後は、彼の作品が映画館にかかるの探すことになるでしょう。


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最終更新日  2021.10.04 00:15:25
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2021.06.22
​​​ジュディス・カー「ウサギとぼくのこまった毎日」(こだまともこ訳・徳間書店)​​
​​ 
​​「ヒトラーに盗られたウサギ」という映画を、偶然見ることがあってジュディス・カーという人の名前を思い出しました。1923年6月14日、ワイマール共和国ベルリンに生まれ、家族とともにイギリスに亡命し、のちに、絵本作家として名を知られている人です。​
​ 映画は1933年ヒトラーが政権を取った年、10歳だったジュディスが生まれて暮らしていたベルリンから、兄と両親の4人で、スイス、フランスを経由してイギリスに逃げていく話なのですが、一緒に連れて逃げることのできなかった、大切だったぬいぐるみのウサギが、ナチスによるユダヤ人迫害の現場に取り残された、あどけない「子どもの心」のシンボルのように描かれていました。​
​​ 今日紹介する「ウサギとぼくのこまった毎日」(徳間書店)という童話は、そのジュディス・カー2019年、95歳で亡くなったそうですが、その時、彼女によって書き残された最後の作品だそうです。​​
​​​​​
 お話を聞かせてくれている「トミーくん」は、小学校の上級生のようで、「ウサギ・ダンス」が得意な妹の「アンジーちゃん」は2年生。お父さんは、売れない俳優さんらしくて、お母さんは学校のセンセイになるための勉強中という4人家族です。​​​​​

​​​​​ その、トミー君の家にいたずらウサギの「ユッキー」がやってきて、てんやわんやの大騒ぎ、とどのつまりはアンジーちゃんは熱を出して寝込んでしまうわ、「ユッキー」は遊ばせていた庭から姿を消し、行方不明になってしまうわ、「ああ、トミー君、どうしたらいいんでしょ!?」​​​​​
 というわけで、お話は読んでいただくとして、この本には、こんな献辞が表紙の裏にありました。
孫のアレクサンダーとタチアナへ
愛を込めて―ジュディス・カー
​ ​​95歳のオバーチャンの、思い出の「ウサギ」に込められた「20世紀を生きた言葉」ですね。10歳だった​ジュディス・カー​「心のウサギ」が、最後の本にも帰ってきて、それをお孫さんたちをはじめ、世界中の子供に届けたいという気持ちを感じますね。
 彼女の作品を読む子供が、世界中にどんどんふえたら、ほんとにいいですね。

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最終更新日  2021.06.23 12:32:01
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2021.05.14
​​​​ジェシカ・ブルーダー「ノマド 漂流する高齢労働者たち」(鈴木素子訳・春秋社)
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​ 2021年アカデミー賞で作品賞、監督賞、主演女優賞をとった「ノマドランド」という映画の原作(?)ノンフィクション「ノマド」(春秋社)を読みました。​
 現代アメリカで広がり始めている高齢の車上生活者の社会の実情を、なんというか、社会学的なフィールド・ワークを方法としたドキュメンタリーでした。
​​ 映画はフランシス・マクドーマンドが演じる、車上生活を余儀なくされたばかりの初心者ファーンを視点人物、主人公として描かれていますが、このドキュメントでジェシカ・ブルーダーが焦点化している人物は、映画にも本人が登場しますがリンダ・メイという女性でした。​​
 ファーンを主人公にすることによって、「ノマドの世界」「映画」化して見せたクロエ・ジャオという監督は、文句なくすぐれた監督だと思いますが、原作では、映画では描き切れなかったアマゾンビーツ農場国立公園の管理といった低賃金で、肉体的にも精神的にも過酷としかいいようのない労働現場の実情や、町ごと廃墟化する「企業城下町現象」の実態、ノマド社会のコミューン化の思想史的過程、車上生活をしている人たちの社会的権利や人生観を、丁寧に、しかし「乾いた」文体で描いたところが本書の「肝」だと思いました。
 土地付きの家が欲しいのはどうしてかと訊かれたら、私はこう答えます。独立するため。社会の競争から身を引くため。地場産業を支援するため。輸入品を買わないため。そして、好きでもない人たちを感心させるために、必要でもないものを買うのをやめるためです、と。
 今、私は大手オンラインショップの巨大倉庫で働います。扱っている商品は、すべて、どこか外国で―児童労働法もなく、労働者が食事もトイレ休憩も与えられず、一日十四時間~十六時間働かされているような国で―つくられたもの。二万八〇〇〇坪の広大なこの倉庫に詰め込まれた商品は、ひと月ももたないようなものばかり。すぐに埋立ごみになる運命です。この会社にはそんな倉庫が何百もあります。
 アメリカ経済は、中国、インド、メキシコなど安価な労働力の第三諸国で働く奴隷の上に成り立っているんです。私たちはそういう人たちと知り合うこともないまま、その人たちの労働の成果を享受しています。
 「アメリカ」という私たちの会社の奴隷保有数は、たぶん世界一でしょう。
                      (リンダ・メイのFB投稿記事)
​​ 過激だと思うけど、アマゾンで働いていると、こんなことばかり感ちゃうの。あの倉庫の中には重要なものなんて、何一つない。アマゾンは消費者を抱き込んで、あんなつまらないものを買うためにクレジットカードを使わせている。支払いのために、したくもない仕事を続けさせているのよ。あそこにいると、ほんとに気が滅入るわ。
                     (リンダ・メイからのメール)

​ これは本書に引用されている、リンダ・メイがフェイス・ブックに投稿したコメントと、その時​ブルーダー​に送ったメールです。​
​ 映画の中で、その「死」が暗示されたリンダ・メイですが、本書に登場する​リンダ・メイ​は、「労働の価値」、すなわち、「働くことの喜び」という、あらゆる「人間」にとっての根源的自由の一つが、いよいよ、奪われていきつつある「後期資本主義社会」の様相を呈し始めた現代社会と、まっすぐに向き合い批判することができる、文字通り「自立的」な女性であることが、この引用で理解していただけるのはないでしょうか。​
 実在する彼女は、生活のシステム全体の自給自足を目指す「アース・シップ」方式での暮らしを夢みていて、ニューメキシコの砂漠の真ん中の1エーカーの土地に、彼女がたどり着いたところで、本書は終わります。
謝辞
 三年間にわたる二万四〇〇〇キロの旅で、たくさんの出会いがありました。今この本があるのは、出会った人たちの協力のおかげです。知恵を授け、悪い冗談を教え、キャンプファイヤーやコーヒーをともにしてくれたすべての人に感謝します。
 なかでもリンダ・メイにはだれよりも感謝しています。人を信じて自分のことを話すのは、簡単なことではありません。とくに、その相手がメモ帳に何か書きなぐりながら三年もの間周りをうろつき、娘の家の外で車中泊をし、キャンプ場の整備中にゴルフカートの後ろを走ってついてくるような場合は。
 リンダのしなやかな強さ、ユーモア、心の広さが私の心を打ったように、読者の心を動かしてくれることを願っています。

​ ​​最後にジェシカ・ブルーダーのこんな言葉が載せられていますが、リンダ・メイという「勇気ある女性」と出会い、彼女の心を開くことで、現代アメリカの真相をビビッドに描いて見せた、とても優れたドキュメンタリーだと思いました。​​
​​ 車に乗って、廃墟になった町から出て行ったファーンリンダの姿は、拝金主義に堕した現代社会を生きるあらゆる人間にとって、他人事ではないことを教えてくれる好著でした。
 最後に、蛇足ですが、車に乗って暮らし始める人たちの多くが「高齢者」であることに加えて、この本では触れていなかったと思いますが、いわゆる「有色人種」の姿がほとんどないという事実の中には、「アメリカ」、ひいては、「現代社会」の、もう一つの真相が潜んでいるのではないかという​予感を感じたことを付け加えておきたいと思います。

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最終更新日  2021.05.14 00:28:23
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2021.02.26
​​町山智浩「映画と本の意外な関係」(集英社インターナショナル新書)


 映画を見に出かけるときには、予告編はともかく、チラシとかレビューとかほとんど読みません。こう書くと、初見の感動にこだわっているように聞こえますが、ただ横着なだけです。最近では、見終わってチラシとか見直して、ああ読んでおけばよかったと思うことも結構増えてきました。
 だいたい、「ネタバレ」も「人の感想」も全く気になりません。いやむしろ「ふーん見てみようかな」と思うことの方が多いと思います。多分、映画を見始めた20代の頃に、友達の評判とか映画評論家とかの文章に促されて映画館に通ったという「映画の見方」が根にあるのでしょうね。
 映画を見ていて、最近増えたことといえば、チラシに、有名な「原作」が挙げられてると図書館で探したり、ちょっと気になる「セリフ」があったりすると、出どころをとりあえず調べたくなることです。
 これも、若い頃、友達の映画好きが、「映画作品」「原作」との異同や、映画中の「セリフ」の典拠とかを、やたら語って聞かせてくれたことの影響ですね。
​​​ 今回案内する町山智浩「映画と本の意外な関係」(集英社インターナショナル新書)という本は図書館の棚で見つけたわけですが、町山智浩の「語り口」が気に入り始めているということがもちろんあるのですが、あの頃の話題の型に似ていて興味をそそります。そういう話がぼくは好きなのでしょうね。​​​
​​​​​ たとえば、この本の第9章「天墜つる」と題された「007映画」についての蘊蓄なのです。「Sky fall」というダニエル・クレイグという、どっちかというとロシアのスパイみたいな顔の007が活躍する映画の和訳で、​ジュディ・デンチ​Mの役だったことで覚えていましたが、10年ほど前の映画の題から章の題がつけられています。​​​​​
​​​ 要するに、数多ある「007映画」で、文学がどんなふうに引用されているか、というか、まず「ことば」「セリフ」がどんなふうにつくられているかという、結果的には至極まじめなエッセイなのですが、冒頭では、所謂、下ネタが連打されています。​​​
​ 過去のボンドガールの名前にまつわるネタです。​
「ゴールド・フィンガー」の、ボンドガール、女性パイロットの場合。​
​​「私はPussy Galoreよ。」​​
​ ​​これは説明が要らないようなものですが、「Galore」「タップリ」という意味だそうです。​​
​​「ダイヤモンドは永遠に」プレンティ・オトゥールさんの場合。​​
 この名前は​
​​「Plenty of tool」​​
 ​と聞こえるんだそうで、「××でいっぱい」という意味になるそうです。何がいっぱいなんでしょうね。

​​「ゴールデン・アイ」ゼニア・オナトップさんの場合。​​
 この名前は​
​​「Then,you are on the top」​​
​ と聞こえるそうで、「次は上で」という意味だそうです。お分かりですね、順番があるんでしょうね。
​​「ムーンレイカー」女性科学者ホリー・グッドヘドさんの場合。​​
​ 名前が​
​​「Holly,good head」​​
​ 「凄く頭がいい」なのですが、「good head」が曲者で、下ネタ系のスラングの好きな方は、まあ、調べてみてください。​
 まだまだ続くのですが、まあ、このくらいにしますね。
 ここまでお読みになると、なんというか、その手の話で持たせているような「誤解」へと誘導しているようですが、実は違います。
​​​​ この後、「007映画」について「題名」と英語の格言、詩の文句を照らし合わせながらの解説が始まり、最後には「Sky fall」という23作目の解説をアルフレッド・テニスンという詩人の「ユリシーズ」という詩を引き合いに出してまとめてみせます。​​​​
たしかに多くが奪われたが
残されたものも多い
昔日、大地と天を動かした我らの力強さは既にない
だが依然として我々は我々だ
我らの英雄的な心はひとつなのだ
時の流れと運命によって疲弊はすれど
意志は今も強固だ
努力を惜しまず、探し求め、見つけ出し、決して挫けぬ意思は
(アルフレッド・テニスン「ユリシーズ」)​​
​​​​ この詩は、映画の中では、引退を迫られたMであるジュディ・デンチが、自らを励まし、盟友ボンドへの呼びかけ言葉として、口ずさむ詩の文句ですが、テニスンの詩で、その「詩句」は大英帝国の誇りと希望を代弁していると指摘して、解説は格調高くしめくくられると思いきや、こんな1行を付け加えることを忘れません。​​​​
​​今回のボンドガールは77歳のMだったことがわかる。熟女ブームとはいえ、熟女すぎだよ!​​
​ というわけで、笑いながら次の章に進むというわけなのですが、そのほとんどが、見ていない映画に対する蘊蓄なのですが、退屈することはありませんでした。
​​​​​​​ しかし、中には「太陽がいっぱい」を見た淀川長治が主人公トム(アラン・ドロン)​フィリップ(モーリス・ロネ)​の関係を、映画を見ただけで「トムのフィリップに対する恋」の物語だったと見破っていたとか、昨秋見た「インターステラー」という映画の中での​博士​の最後の言葉「心地よい夜に身を任せるな」というセリフはディラン・トマスの詩の一節であるとか、見たことのある映画や、読んだことのある作家や詩人、知っているエピソードに対する言及に出会うと、当然ですが、ちょっと興奮したりしながらの楽しい読書でした。​​​​​​​
 ぼくの中の「町山ブーム」は当分続きそうです。

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最終更新日  2021.02.26 00:28:05
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2021.01.23
​​​週刊 読書案内 町山智浩「町山智浩のシネマトーク 怖い映画」(スモール出版)


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​図書館の新刊書の棚で見つけた本です。今でも、そんな言い方があるのかどうかよくわかりませんが、映画評論家町山智浩さんの2020年の新刊本です。​
​ 退職して映画館を徘徊し始めて3年たちますが、昔はよく読んだ映画の解説本、評論をほとんど読まなくなっています。町山智浩という方も、単著としては初めて読む人ですが、読み終わってみて気に入りました。​
​ 題名の通り、「怖い映画」についてのお話で、全部で9本の映画が俎上にあげられていますが、多分「町山トーク」というべきなのでしょうね、鮮やかに語りつくされています。​
 ついでですから9本の映画のラインアップを挙げてみます。
「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」​ (1968・ジョージ・A・ロメロ)​
「カリガリ博士」​ (1920・ロベルト・ヴィーネ)​
「アメリカン・サイコ」​ (2000・メアリー・ハロン)​
「ヘレディタリー・継承」 ​(2018・アリ・アスター)​
「ポゼッション」​ (1981・アンジェイ・ズラフスキー)​
「テナント・恐怖を借りた男」​ (1976・ロマン・ポランスキー)​
「血を吸うカメラ」 ​(1960・マイケル・パウエル)​
「たたり」​ (1963・ロバート・ワイズ)​
「狩人の夜」​(1955・チャールズ・ロートン)​
​ ​​​​​​この中で、多分見たことがあると記憶にあるのは「カリガリ博士」「ポゼッション」の2本だけです。
 だいたい、学生時代はともかく。ここ3年は「ホラー」と宣伝されている映画は見ないのですから(だって怖いから)当然ですが、例えばポランスキー「テナント」なんていう映画は「アデルの恋の物語」イザベル・アジャーニという女優さんが主演の映画らしいのですが、日本では劇場公開されていないらしいことを町山さん自身が語っていて、まあ、ぼくでなくてもあまり見られていない映画だったりもするわけです。​​​​​​
 さて、「町山トーク」の特徴は、まず「映画をよく知っている」ことですね。その次に「アメリカの映画産業をよく知っている」ということです。まあ、映画にかかわればほかの国のこともよくご存じなのでしょうが、そして「映画を繋がりで語る」ということです。
 その結果、ほとんど知らない映画についてのトークがとても面白く読めるのです。平たく言えば「ネタ」の山なのです。
​ たとえば最終章「狩人の夜」の中のこんな記述はいかがでしょうか。​
「狩人の夜」は、名優チャールズ・ロートン唯一の監督作です。「狩人の夜」が興行的に失敗した後は監督作がなく、彼は公開から7年後の1962年に亡くなりました。
​ その後、「狩人の夜」はテレビで放映されて、その不思議な感覚に多くの人が衝撃を受けました。その中にはデヴィッド・リンチ、ブライアン・デパルマ、マーティン・スコセッシ、コーエン兄弟、スパイク・リーなど錚々たる巨匠たちがいます。彼らは「狩人の夜」に影響を受けた作品をとっています。​
 例えば、「狩人の夜」で、未亡人を狙って殺すニセ牧師のハリーは、いつも「主の御手に頼る日は」という讃美歌をハミングします。コーエン兄弟「レディ・キラーズ」(2004年)で、老婦人を殺そうとする男(トム・ハンクス)は同じ賛美歌を歌うんです。それにコーエン兄弟の傑作西部劇「トゥルー・グリット」(2011年)では、この讃美歌が物語のテーマとして使われます。
 とまあ、こんな感じなのです。この後も1955年につくられたこの映画に対しての「引用の系譜」というべき記述が、現代映画を例に挙げてつづくのですが、結果的にこの映画の「よさ」を語りつくしているわけです。
 読者のぼくは、本から目を話してネットを検索し、サーフィンしながら、再び本に戻るという、かなり忙しい読書体験なわけで、一読三嘆という言葉がありますが、文字通り三嘆することになるのでした。(笑)
​​​​ もっとも、ポランスキー「テナント」の章のように、ディアスポラ、どこに行っても「間借り人=テナント」としてのポランスキーを語りながら、町山さん自身の来歴を真摯に語ることで、単なる「知識のひけらかし」ではない批評性の根拠を示しながら、トランプのアメリカやヘイトを日常化している日本の「ネット社会」に対するハッとするような「発言」もあるわけで、読みごたえは十分でした。​​​​
 装丁はカジュアルで、語り口は軽いのですが、「映画」という表現が、「映画を見た人」によって、受け継がれ、新しく作られていくという「映画史」を語る本として記憶に残りそうです。


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最終更新日  2021.01.25 01:53:47
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2020.12.26
​​イェジー・コジンスキ「ペインティッド・バード」(西成彦訳・松籟社)​


​​​ バーツラフ・マルホウル監督「異端の鳥」という映画を見て、原作があることを知り読みました。1980年代に角川文庫版が出ていたようですが、今回は西成彦さんの新訳版です。​​​
​ 第二次世界大戦の後、1957年に、ポーランドからアメリカに亡命したコジンスキーという作家が1965年に書いた作品らしいですが、彼自身の少年時代の体験と重なる物語であることは間違いなさそうですが、ドキュメンタリーというわけではありません。​
 小説は次のような言葉で始められます。
​ ​第二次世界大戦がはじまってから数週間、1939年の秋のことだった。六歳の少年が東欧の大都市から、何千という子どもたちと同じように、両親の手によって、遠い村へと疎開させられた。​​
​​ ​こういう事情で、東ヨーロッパの田舎の村に連れられてきた6歳の少年である「ぼく」が1939年から1945年に至る流浪の「体験」と、そこで学んだ、その時、その時、生きていくために大切だと思い知ったことを語り続ける物語でした。​
​ 作品を読めばわかりますが、作家が「ぼく」として「作中」で語らせている少年が、果たして、田舎の村を流浪しつづけていた6歳から12歳の少年そのものであったとはとても考えらません。そこで語られる「ことば」と世界に対する態度は、「大人」のものです。
 ​ぼくはマルタの家に住み、両親が迎えに来てくれるのではないかと毎日のように待ちわびていた。泣いてどうなるものでもなかったし、めそめそしているぼくに、マルタは目もくれなかった。
​ ​​これが「ぼく」が語り始めた最初の経験ですが、語っている「ぼく」は、実際の経験から何年も経って、語り始めていることは明らかだと思います。​​
​ こうして読み始めて、面白いと思ったことは、実際にこの原作で作られた映画「異端の鳥」では、ぼくの記憶では、ですが、ナレーションが入るわけではありませんから「カメラ」が映し出す映像が「語る」わけです。めそめそする少年と、そういう子どもの様子に何の関心も示さない老婆が、少し暗めのモノクロの画面に映し出されるわけで、映画の中には小説とは、また違った、「荒涼とした世界」に放りだされた少年が、次の瞬間、何が起こるのか全く予想もつかない「生」を生きているという「現在」性とでもいうニュアンスがあるわけで、そこに大きな差があると感じました。​
​ 映画に比べて小説で描かれる世界は安定しているという感じをぼくは持ちましたが、描かれるエピソードは、大筋において小説と映画は共通しています。ただ、出来事の、「ぼく」に対するインパクトの印象は、映画のほうが格段に生々しいと言えるということです。​
 結果的に、読後の印象は、映画を見終わった時とは少し違うものになりましたが、ある意味、当然かもしれません。
​ 小説が描き出す「ぼく」の体験は、映画が映像として描く体験やエピソードを遥かに、詳細で悲惨なのですが、読むことに「不安」や「胸苦しさ」が絡みついてきません。
 小説の「語り」の話法が微妙に時間をずらしこんでいるからでしょうか。その代わりにクローズ・アップするのが、語り手の「思想」の変化、つまり、少年の成長でした。
 ​ぼくは自分が一人ぼっちだということにはたと気付いて、ぞっとした。しかし、二つのことを思い出した。オルガは人を頼らず生き抜くためにはその二つのことが大切だと言っていた。一つ目は、植物と動物に関する知識で、何が毒で、何が薬になるか見極めること。もうひとつは、火を、すなわち自分なりの「ながれ星」を持つということだ。
​ ​​​​​​​​​「ぼく」が最初にあずけられたマルタの死の結果、「ぼく」の扱いを衆議する村人たちから買い取ったのが、呪術師・祈祷師オルガでした。
 「ぼく」が迷い込んでしまったヨーローッパの辺境の、つまりド田舎の「前時代的」、いや、「古代的」社会の実態が村人たちのオルガに対する「信仰」にも似た崇拝ぶりと、​オルガ​の呪術の奇妙奇天烈な実態の描写で描かれていますが、「ぼく」オルガから「生きのびるための方法」の本質を学び取りはじめます。​​​​​​​​​

​​ オルガの庇護を失い、いよいよ、一人ぼっちになってしまった「ぼく」は次々と新しい「庇護者」に拾われます。しかし、彼らは、方法こそ違いますが、ほとんど悪魔の所業というべきありさまで少年を扱います。​​
​ 理不尽で、避けようのない災厄のように降りかかってくる「暴力の嵐」の苦痛を昇華する方法として、「ぼく」が自ら学んだことは「祈り」でした。そして、その年齢の少年が体験するには、あまりに苛酷な体験は、少年に「祈り」教えましたが、ついには「祈り続ける」少年から「言葉」を奪ってしまいます。​失語症ですね。
 5年間の流浪の末、初めて少年の前に暴力を振るわない人間として登場したのが「赤軍」兵士でした。彼らは神に祈ることが現実逃避にすぎないという驚愕の真実と、自己を振り返る自己批判の精神と、やられたらやりかえすプライドを持つことを少年に教えます。
​​ 少年は、少年に暴力をふるい続けた社会に立ち向かう方法として、「祈り」を捨て、たたかう「共産主義」にあこがれはじめます。​​
​​ 戦争が終わり、戦災孤児の収容施設で、「両親と新しい弟」という家族と再会しますが、「ぼく」「ことば」が戻ってくるわけではありませんでした。​​
​ 胸の内から「ことば」が溢れてくる感動のラストシーンは、是非、お読みいただいたうえで、味わっていただきたいのですが、それは少年が生まれて初めて、自分に呼びかけられる「声」との出会いの瞬間だったのかもしれません。​
​​​ もう一度映画に戻りますが、映画では父親の右腕に彫られたユダヤ人収容所の収容番号の入れ墨がアップされ、一方で、一緒に乗っていたバスの曇ったガラス窓に、呼びかけられた「名前」を書く少年の姿が映し出されて映画は終わるのですが、失われていた「名前」「ことば」、帰還した少年の悲哀と、家族を襲っていた「時代」の悲劇、突如やってくる「許し」の印象はよく似ていますが、少し違うと感じました。​​​
​​​​​​ 読み終えて、気づいたことなのですが、「ペインティッド・バード」と題された、作家の幼い日の境遇の独白小説は、「田舎の村に紛れ込んでしまった都会のこども」、「黒い髪と黒い瞳のユダヤ人」、「家族になじめない、言葉を失った少年」、と、まさに​「異端の鳥」​の日々を語っていることは確かなことなのです。しかし、ポーランド人である作家コジンスキーにとっては、そんな「ぼく」だったころの苦闘の日々、ついに「救い主」のように現れ、こっそり胸ポケットに忍ばせていた、「黒い瞳と黒い口髭」の、英雄スターリンの笑顔の「偽り」に気付いた時にこそ、「ぼく」が、やっとのことで見つけた「理想社会」にも、ゆっくり羽を休める枝はなかったという、いわば、究極​「異端の鳥」の悲哀がやって来たのではないでしょうか。
 そして、そこに、この作品を彼に書かせた、真のモチーフが隠されているのではないでしょうか。​​​​​​

​​ この作品が「ペインティッド・バード」と名付けられた理由に対する当てずっぽうの推測なのですが、ポーランドからの亡命作家として70年代のアメリカの文学界で頂点を極めながら、58歳で自ら命を絶った「異端の鳥」の生涯を、なんだかとてつもなく傷ましいと感じたのが小説の感想でした。​​
 時間がおありでしたら読んでみてください。

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最終更新日  2020.12.26 00:14:41
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2020.05.20

四方田犬彦『七人の侍』と現代――黒澤明 再考 (岩波新書​)


​​ 四方田犬彦の登場は眩しかった。1980年代の初めころ「構造と力」(勁草書房)「チベットのモーツアルト」(せりか書房)中沢新一「映像の召還」(青土社)四方田犬彦というふうに、ニューアカ御三家の一人として登場した。年が一つ上なだけの青年の文章に愕然とした。要するに、繰り返し読んでもわからなかったのだ。​​
​ あれから、なんと半世紀近くの時が経ち、久しぶりに彼の映画解説を読んだ。「『七人の侍』と現代」(岩波新書)という、いわば、初心者向けの入門・解説本だった。​
 50年前に、同世代を蹴散らした記述は鳴りを潜め、懇切で丁寧な語り口に笑いそうになった。四方田犬彦の上にも時は流れただということを実感した。
 一章は黒澤の死をめぐっての個人的な感想ではじめている。そこから「映画ジャンルと化した七人の侍」と章立てして二章に入り、1960年にハリウッドのジョン・スタージェスによって、「荒野の七人」(原題Magnificennt Sevenn:気高き七人)としてリメイクされたところから話を始めて、あまたのアジアの映画から果てはアニメ映画「美女戦士セーラームーン」に至るまで、影響関係を解説・紹介したうえで、「七人の侍」という映画が成立した1954年という時代背景にたちもどるという展開だった。
 1954年とは、平和国家を標榜する一方で自衛隊がつくられ、第五福竜丸の被爆が「死の灰」という言葉を生み、本多猪四郎が「ゴジラ」を撮った年であることに言及したうえで、黒澤の「構想」と苦難の「制作」過程を解説し、革命的「時代劇」として大ヒットするまで。いわば「七人の侍」成立の「映画製作史」を論じたのが五章「時代劇映画と黒澤明」でした。ここまでが、いわば本書の前半です。
 
後半では戦後社会の新しい観客を前に超大作として登場した作品の内容が俎上にあげられる。
 
六章、七章では「侍」、「百姓」、「野伏せ」という階層・階級の戦後映画論的な意味を指摘したうえで、まず、個々の「侍」たちの背景を暗示し、個性を強調した演出の卓抜さが論じられる。
 続けて、戦乱の中で「百姓」から、浮浪児となったに違いない、「菊千代」が母親を殺されて泣き叫ぶ幼子を抱きしめて「こ、こいつは…俺だ!俺も‥‥この通りだったのだ!」と叫ぶ姿が、1950年代の観客に呼び起こしたにちがいないリアリティーと親近感のありか、「農民」の敵として登場する「山岳ゲリラ」、すなわち「野伏せ」たちの描き方に宿る日本映画のイデオロギーに対する批判と、それに縛られていた黒澤の孤独について、それぞれ論じられている。
​ 映画の細部についての言及は、筆者の博覧強記そのままに、さまざまな映画や、歴史資料を参照しながら繰り広げられて、興味深い。さすがは四方田犬彦だというのが、ぼくの率直な感想だった。



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最終更新日  2020.12.13 16:41:09
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2020.02.16
​​​宮崎駿インタビュー「風の帰る場所」(文春ジブリ文庫)


​​​「ロッキン・オン」社渋谷陽一がネット上で、自社の雑誌に掲載した「中村哲」のインタビュー​を公開しているのをのぞきながら思い出した本です。​​​
​​​​  渋谷陽一が編集長をしていた(多分)「CUT」とか「SIGHT」という雑誌に、その時、その時、掲載された、「宮崎駿」のインタビューを、雑誌掲載時には、やむなくカットした部分もあったらしいのですが、完全ノーカットで収録した「風の帰る場所」と題されたジブリ文庫です。​​​​
​​ 2013年に出版された本ですから、もう、かなり旬を過ぎているかもしれません。2013年といえば、「風立ちぬ」を作った宮崎駿が長編アニメーションからの、何度目かの引退を宣言した年ですが、宮崎駿に今でも興味をお持ちの方にはお薦めです。​
 ​
​​​​​​​​​​​​この文庫には、5回のインタビューが入っています。宮崎駿の作品のアーカイブにそっていえば、『風の谷のナウシカ(1984)』・『天空の城ラピュタ(1986)』・『となりのトトロ1988』・『魔女の宅急便1989後のインタビューが「風が吹き始めた場所」(199011月)です。ジブリ・スタジオの設立から、宮崎アニメの特質まで、かなり基本的なポイントがつかれています。
 『紅の豚1992の公開直後がのインタビューが「豚が人間に戻るまで」19927月)です。
 このアニメは珍しく「大人向け」なんですよね。もともとは日航の機内サービス用の短編の計画だった辺りから、大人向けの「宮崎」の本音が面白いインタビューですね。
『もののけ姫1997の公開後が「タタラ場で生きることを決意したとき」19977月)ですが、この辺りから、いろんな意味で「超」がつき始める、ジブリなのですが、宮崎本人の苦悩も深い、そんな感じですね。
 「ナウシカと千尋をつなぐもの」20017月)・「風の谷から油屋まで」200111月)の二つのインタビューは、それぞれ『千と千尋の神隠し​2001​』の公開のあとですが、特に、後者は出発からの回想風に構成されています。
 渋谷陽一は本書の「はじめに」で「なんでこんなに喧嘩腰なのか、自分でも呆れる」と書いていますが、インタビュアーとしての遠慮会釈なしの構えが、宮崎駿を刺激しているのでしょうか、率直で正直に自分をさらけ出している感じがして、「破格」に面白いインタビューになっていると思いました。
 当時、一番旬の時代の、世界の宮崎駿に、媚びることも怖ることもない渋谷陽一もかっこいいですね。​​​​​​​​​​​​
 
あれこれ引用し始めるときりがないので、とりあえず、宮崎アニメの肝ともいえる「風」について一つ引用しますね。

あのー、ただ自然という現象を描く時に、例えば空気というものも、それから植物も光も全部、静止状態にあるんじゃなくて、刻々と変わりながら動態で存在してるものなんですよね。
 ええ
 それを見ている人間も歩いている自分も、その感受性も刻々と変化するでしょう。いつもなら「いいなあ」と思える気色が、今日は条件が全部揃っているのに全然目に入ってこないとかね。それから、何でもない下らない状況なのに、やたら気色がよく見えるとかね(笑)
(笑)
 それは、みなさん経験していることだと思いますよ。そうすると、こう「いい景色ですね」って言うときに、ただ一枚絵を書いただけで済むっていうものではないはずだっていう、そういう強迫観念はありますね。
 ふーん
「魔女の宅急便」の冒頭に風が吹いているなんていうのは、あったかいポカポカした風景で「わあ、ステキね」っていうんじゃなくて、騒がしくて、それでちょっと冷たい風が、僕は吹いててほしいっていうふうに思ったんです。ええ、ええ、それが、「行こう!」っていうふうに決める時の、そういう彼女にとってふさわしい風景じゃないかと思ったもんですからね。だから、湖も立ち騒いでてほしいとかね。あんまり立ち騒がなかったですけど(笑)
ははははは。
(風の吹き始めた場所)
​ なぜ、ここを引用しているのか、わかっていただけたでしょうか。「映画の時間の中で、『風』がとまるのはおかしい。」​強迫観念として、そう考える宮崎にぼくは感動しました。背景は「書き割り」として止まっているものだと思い込んできた、ぼくは、初めて動く「風」を彼のアニメで見た時に「ヘンだ」と思いましたから。映像がすごかったんですね。
  次は「ナウシカ」の結末についてです。「ナウシカ」にはコミック版がありますが、結末はちがいます。渋谷陽一が、そのあたりを聞いています。​
​​

渋谷
 アニメーション版「ナウシカ」のラストなんですけれども、あれは非常に宗教的な終わり方をしていて、それに対して、以前、反省があると宮崎さんはおっしゃってたんですね。僕はすごくよかったと思うんですけどね。
宮崎
 
いや、あれは宗教的に終わらざるを得ないんです。今やってもやっぱりね、そういうところに持っていくだろうと思うんですよ。だから、それに対しての自分の備えがあまりにも浅かったっていうことですよね。
(中略)
 
ただ僕は、あのとき映画の大ラストのところで絵コンテは進まなくなっちゃたんですよ。なぜ進まないかっていったらね、王蟲を一匹も殺したくないんですよね。「もう殺したくない!人間は殺しても王蟲は殺したくない」っていう気持ちが強くて(笑)。それで最後、パクさんが、「殺しャアいいんだ!」って怒鳴ってね。「じゃあ殺す!」って、それであっという間に絵コンテができたんですよね。とにかく自分は偉大な生き物だと思ってるんですよね。だから、「殺したくない。そんな映画の手管のために殺したくない」って(笑)。逆上状態って言うんでしょうけど、そういうふうなことを自分が生きている上で、一番大事な問題だと思い込んじゃうんですよね。だけど、映画って逆上状態になって作るものですからね。だからもう初めから。ああ云うふうに終わるのは予感としてあったんですけれども、最後の最後は迷いました。
​​(「風の谷から油屋まで」)​

 ​​​「ナウシカ」は、結局、一番好きな作品なのですが、​なんか、すごいことを言ってると思いませんか。実は、もっといろいろ言ってるんですが、その結末についてのこの葛藤は初耳でした。ちょっとうなりました。
 これ以外にも、「紅の豚」について語っている「豚が人間に戻るまで」のなかにも、大人向けアニメの「豚」ファンには、なかなか必読の発言がありますよ。ほかのインタビューにも、随所に宮崎駿の自意識のありようや率直な自己暴露が、笑える発言が山盛りなのですが、そのあたりは本書でどうぞ。​​​

 ​実は2013年には、このシリーズの後編「続 風の帰る場所」が出ています。それについてはまたいずれということですね。​


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最終更新日  2020.12.11 08:57:39
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2019.10.12
​​高橋ヨシキ「シネマストリップ 戦慄のディストピア編」(スモール出版)


 
ここのところ、徘徊のお供にカバンに忍ばせているのがこれですね。「高橋ヨシキのシネマストリップ」(スモール出版)のシリーズ
 一応、お断りしておきますが、ストリップのシネマじゃなくて、シネマのストリップですよ。
​まあ、図書館で見つけて手に取ったときに、「ストリップのシネマ」と勘違いしていた可能性はないとは言いませんし、その上、この表紙のイラストも、「ふーん」という感じがしないわけではありませんが、読みはじめてみると、これがなかなかやめられない「映画のカワハギ」でした。

​ 高橋ヨシキさんがNHKのラジオ番組でしゃべっていらっしゃる内容の書籍化らしいのですが、映画のちょっとした蘊蓄とか、「この映画なにがいいの?」って感じやすい人にはうってつけじゃないでしょうか。

 かくいうぼくは、80年代の中ごろから映画というものを全く見ていない生活で、昨年の四月から、ようやく映画館に戻ってきたような次第で、この本でしゃべっていらっしゃる映画のほとんどは見たことがありません。ふつうは、それが難点になるのですが、読みはじめると、「とりあえずこの章は・・・」と思わせるのが高橋さんの芸というべきなんでしょうね。たぶん、「語り口の平明さ」について、かなり注意を払っていらっしゃると思います。
 もう一つは、内容の広がりですね。

​​​​ たとえば、14本目のストリップは「エイリアン」です。この映画はぼくでも知っています。
 内田樹さんが「映画の構造分析」(文春文庫)だったかで、アメリカ映画のフェミニズムについて分析されていて、面白がっていたら、風丸良彦という人が「村上春樹短編再読」(みすず書房)という本の中で、ほとんどパクリのような引用をしていたので覚えているのですが、興味をひかれた人はそちらをお読みいただくとして、ストリップの本文はこんな感じです。​​​​

​ ホラー映画の世界では、「女の人が最後まで生き残って怪物と対決する」というパターンがあよくありますが、最近はそういう定型を「ファイナル・ガール」と言ったりもしますが、「エイリアン」は「ファイナルガール」ものの決定版でもあります。興味深いのは、1979年の映画にもかかわらず「「ベクデル・テスト」を完全にクリアしているところです。「ベグデル・テスト」は映画において女性がちゃんと(添え物、あるいは性的な対象としてだけでなく)描かれているかを判別する簡単なテストで、「最低でも二人の女性が登場するかどうか」「その女性同士の間に会話があるかどうか」「その会話の中に、男性について以外の話題が出て来るかどうか」が問われます。シンプルなやり方で作品のジェンダーバイアス(性的偏見)を計ることのできるテストですが、「エイリアン」は三項目すべてをパスしています。脚本時点で男性を想定していた主人公を女性にしたことで、そのような結果が生まれたのかもしれませんが、映画製作の人たちも「エイリアン」に倣って、主人公の性別を反対にしてみる…というの試みをもっとやってみる価値はありそうです。​
​ ね、ベンキョウになるでしょ。まあ、映画ファン相手にラジオのようなマスメディアでしゃべるためには、いろんな意味で、「広さと深さ「」、同時に「まとまり」がないとだめでしょうから、市バスとかで読んでいると、「運転手さん、もうちょっとゆっくり走ってていいよ。」ということになるのです。

 今回はディストピア編でしたが、「エイリアン」何故ディストピア映画なのか、首をひねる人もいらっしゃるかもしれませんね。高橋君の結論はこうでした。

人間をある種の「駒」と考え、個人の思惑や生死をないがしろにするるのはディストピア社会の大きな特徴の一つですから、その意味で「エイリアン」は全く伝統的なディストピア映画なのです。

​ 理解していただけましたか?宇宙船ストロモ号の乗組員は全員、まあ、アンドロイドのは別にしてエイリアン捕獲のための撒き餌、すなわち、会社の「駒」でしかなかったって、最後にわかりますね、覚えてますか?

 この手のはなしのお好きは人はどうぞ。どの解説も、飽きさせないし、おもしろく読みましたよ、ぼくは。ベンキョーになりましたが、すぐ忘れちゃうんですよね。S

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最終更新日  2020.12.20 20:12:13
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