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ゴジラ老人シマクマ君の日々

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読書案内「日本語とか日本文学とかベンキョーして、先生になりたい皆さんへ」

2020.04.09
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​​​​​​ 《2004年 書物の旅 その21》 渡辺実「大鏡の人々」(中公新書)


 受験参考書ではありませんが、平安時代とはどんな時代だったかという事を「大鏡」を解読しながら平安朝古文の素人にも面白く、ホント、実に面白く解説してみせた本が渡辺実「大鏡の人びと」(中公新書​)​です。
 最近はやりの書名をもじっていうなら《大鏡を読む》とでもいうべき本ですね。内容を一言でいうなら「大鏡」に代表される平安朝の男性原理の解説ということになるでしょう。
 宮廷女房文学が主流の平安朝文学史にあって、ほとんど、たった一つ男性原理で書かれている作品「大鏡」を取り上げて、「男性原理」を読み取るという視点から論じたところが著者のセンスの冴えたところです。
 
当然のことながら、百八十歳を越える大宅世継や夏山繁樹などという人を食ったキャラクターや名前の人物を語り手として配置した、この歴史物語が一筋縄で解読されるはずはありません。「伊勢物語」の「みやび」から「源氏物語」の「もののあわれ」に昇華されて行くかに見える、「かそけき」平安朝美意識を陰謀・大胆・憎悪・奇行・高笑いの連打によってあざ笑うかのよう描いているのが「大鏡」というわけです。
 
​たとえば高校の教科書に出てくる「枕草子」-古今の草子を-の一節に村上帝と宣耀殿の女御との美しいエピソードがありますね。まあ、よく読むと案外露骨なお話しなのだけど、「大鏡」にかかれば、好色な帝王と帝王をめぐって渦巻く嫉妬や露骨な権力争いの合間の「みやび」にすぎない話に様変わりすることを「大鏡の人びと」の著者は鮮やかに解説してくれています。
 ​
​視点を変えれば出来事の意味が変化する面白さですね。枕草子や伊勢物語の作者たちが描きたがる「みやびな世界」を相対化する大鏡のリアリズムと言えばいいのでしょうか。そこに時代の実相を読み込んでゆく渡辺実の筆致は実に痛快、かつ、爽快です。
 ​
​​​とまあえらそうに書いているのですが、実はこの先生、「国語構文論」・「平安朝文章史」なる論文で知られる、かなり上等の国語学者なのです。それらの本は、せいぜいページを繰ったことを自慢にする、ぼくごときにはとても「案内」できません。
 この本も1987年に出版された古典的名著ですが、今や絶版でしょうね。購入して手にするのが難しいかもしれませんが、図書館の中公新書の棚にはあるでしょう。高校生が読んで損はないと思います。
 ちなみに、渡辺さんには「さすが!日本語」(ちくま新書)という副用語を話題にした、一般向けのエッセイもあります。もう八十歳を越えていらっしゃると思うのですが、センスのよさがこちらの本でも古びていない所がさすがです。こっちの本は流行りすたり​​​
の激しい今日この頃といえども、さすがに本屋さんの棚にまだあると思いますよ。
追記2020・04・09
 
渡辺さんは2019年の暮れに、亡くなっていらっしゃるようです。岩波書店から出ている「日本語概説」が机の横の本立てにあります。大学生のための教科書ですが、実際には教員をしていたぼく自身にとって、ずーっと教科書だった本です。
 20代から、心を引き付けられた人たちが、次々と他界されるのを知るのは、やはり寂しいものです。​


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最終更新日  2020.11.08 23:49:13
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2020.03.27
​​​​​​《2004年書物の旅》
​小西甚一「古文研究法」(ちくま学芸文庫)
 
二十年近く昔のことで、この本がちくま学芸文庫で復刊されるずっと前、こんなことを高校生相手に書いていました。とてもさっこうんの高校生の手におえる参考書とは思えなかったのですが、ハッタリ気分で書いていたら復刊されて驚きました。
  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※
 古典の授業をしていて、自分が物を知らない事をつくづく感じています。勉強するべきときに勉強せんとこういうオトナになる、なんて説教をたれる気はありません。しかし、授業中に困っても、まめに調べる気力も最近は失われていて、これは、正直ヤバイのですが、高校生諸君に対しては、せめて参考文献ぐらいは紹介しようという次第です。

 そう思いついたのは、なかなか殊勝な態度なのですが、残念ながら受験参考書の類は自分自身が30数年前、必要に30迫られて読んだ、「ある参考書」以来まじめに見たことがないからよく知らないのです。

 皆さんが「そんないい加減なことでいいのか!」と怒るのももっともです。しかしね、時々本屋さんが「見本に」といって持ってくる最近の参考書の類はみんな、あの頃読んだ「ある本」の換骨奪胎に見えるのですよ、ぼくには。

 「肝」になる文学思想は捨て、外観は似せているが、全体を支える「骨」はありません。やればとりあえず点は取れるようになりますが、古典に対する教養はせいぜい枝葉しか身につきません。クイズに強くなる豆本化しいて、パターンと頻出例を繰り返すだけで味も素っ気もありません。結局、面白いのは、面白くもないゴロ合わせだけという始末です。みんな「当てもん」に強くなるためのテクニックなのですね。
 皆さんを試そうと待ち構えている「センター試験」や「模擬テスト」が、要するに「当てもん」なので、そうなるのはよくわかります。世間のパターンもそうなっているようですから、ある意味「合理的」なのでしょうね。でも、それって「バカじゃない?!」ってことじゃないでしょうか。

 極論かもしれませんが、センター試験の古典で点を取るのは、実は簡単です。一年生で使った教科書がありますね。あれで、漢文はすらすら書き下せること。だから、読めればいいわけですね。古文はすらすら訳せること。それだけ八割は大丈夫です。あの薄い教科書一冊、本文だけでいいです、すべて暗唱できれば、センターなら満点は確実です。

 ウソだとは思うが、一度だけシマクマを信じてやろうという人は、この夏休みがチャンスです。せっかくですから、課題の問題集で試してください。

 古文、漢文それぞれ15題ありますね。一日、一題づつ、計二題、ノートに本文を写してください。訳や解説は、適当に読んで、線でも引きながらで結構です。これを二往復してください。
 狙いは古典の本文を丸ごと頭に入れることです。二度目に口語訳がつっかえるようならもう一度やってください。その結果10月のマーク模試で、あなたの古典の偏差値は10点アップしています。もとが30点台の方は15点から20点上がります。すると文法で説明したくなります。

 でもね、点数が上がって勘違いしてはいけないことがあります。模試の数値は古典文学読解の実力を保証しているわけではないということです。それは忘れないでください。放ったらかしてしまうと、すぐに下がります。

​ で、話を戻します。読む練習ができて、さあ、ここから必要になる本を参考書と呼ぶのです。ぼくが受験生の時に出会ったある本とは小西甚一という人の「古文研究法」という本ですが、本物の参考書でした。​

 小西さんのその参考書は「古文とは何か」という大胆な問を設定して受験生に説明しようとしていました。ぼくは読んでいて眠くてしようがなかった記憶があります。アホバカ高校生が「古文とは何か」なんて考えるはずがないわけで、考えたとしても「退屈である」という答えしかなかったはずですから、眠いのも当然でした。しかし、ずっと後になって、この参考書のすごさに納得するのです。
 
​​​​​ぼくの場合は大学生になって、この人の「日本文学史」(講談社学術文庫)を読んアレっ?と感じた時でした。
 「古文研究法」は受験参考書の面(つら)はしていますが、実は日本古典文学概論だったんです。気付いた結果、この人の「俳句の世界」(講談社学術文庫)とか、その他の著作を探したりしましたが、要するに、お弟子さんにしてしまうん本だったんです。
 実をいえば、小西甚一という人は中世文学のエライ学者で、なぜか受験参考書もたくさん書いていますが、例えば「俳句の世界」なんて、素人にもとても面白い本です。受験参考書で。そういう参考書もあるということを忘れないでください。
 とか言いながら、この本は手に入らないでしょう。古すぎます。学術文庫の方でも読んでみてください。
 いつものように「なんのこっちゃ」という話でした。

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最終更新日  2020.11.04 04:13:15
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2020.02.09
​​​​山口昌伴「水の道具誌」(岩波新書)


​  勤めていたころの
​教科書に山崎正和「水の東西」という短いエッセイがありました。今でもあるのでしょうか。
 ともかく、「鹿おどし」といういかにも、「侘び」だ、「さび」だと座禅でもくんでいそうな人が感心しそうな装置と、「噴水」というブルボンだのハプスブルグだのいうお菓子屋みたいな名前のフランスやウイーンの王朝文化の象徴みたいな装置を比較して、それぞれの文明を論じたエッセイで、東洋の島国に暮らす人々が流れる水を音で感じて、なおかつ「時間」が絡んでくる、その心のオクにひそむ「???」というふうに展開する文章でした。ぼくは、あんまり好きじゃないんですね、こういうの、今でも。
 それを教室で読むのですが、しかし、困ったことがありました。噴水はともかく鹿おどしなんて、生徒さんはもちろんですが、ぼく自身が実際に見たことがあるような、ないような、あやふやな記憶しかありません。あるとしたら京都かどこかのお寺の庭だと思うのですが、それがどこだったか、確かな記憶は、もちろんありません。
 ぼくは山の中の村で育ったのですが、近所に「鹿おどし」なんてものがあった記憶は全くありません。だいたい、あの程度の音で野生のシカが逃げるとも思えません。 
 冬場にでてくるイノシシや鹿の脅しは、実際にバーンと大きな爆発音がする仕掛けだった記憶はありますが、そんなものを取り付けるのはかなり変わった人だったという気がします。今ではサルはもちろんのことクマまで里に降りてきますが、やられ放題です。
 話を戻しますが、まあ、こんなふうに、自分でもあやふやな事物についての題材で授業をするような場合、ぼくのようなズボラな人間でも一応商売なのですから、とりあえずネタの仕込みということをするわけです。
 で、どこかのお寺に出かけていくような能動的行動力とは、ご存知のとおり(ご存じないか?)無縁なわけですから、当然、手近な方法に頼ることになります。今なら取あえず「ウキペディア」ということでしょか、そういえばユーチューブも重宝かもしれませんね。ぼくの場合は図書館か書店の棚でした。

​ そうすると、「あった、あった。」となるわけです。この教材の場合は山口昌伴「水の道具誌」(岩波新書)ですね​
 目次をひらいてを見ると、「如露」、「鹿おどし」、「水琴窟」、「金魚鉢」、「蓑」、「和傘」、「手拭」、「雑巾」、「砥石」、「束子」、「浮子」、「爪革」、「川戸」、「龍口」、「金盥」、「龍吐水」、「馬尻」
 高校生諸君には読み仮名テストになりそうなラインアップですが、水とかかわる日常生活のさまざまな道具の名前がずらりと並んでいます。読み方もわからないのですから、いったいどんな道具なのか見当がつかないものもあるかもしれません。それは、まぁ本書を読んでいただかないとしようがないですネ。
 ​
さっそく「鹿おどし」のページを読んでみます。第1章「水を楽しむ」の中の数ページ。道具の研究者が、現物をじっと観察し、調べ上げた薀蓄が語られています。

 鹿おどしをじっと見つめてみる。水がだんだん削ぎ口まで溜まってくる。重心が前に移ってくる。だんだんだんダン!全体が身じろぎしたかに見えて次の瞬間、削ぎ口がサッと下がって水がザッと出てサッとはね上がる勢い余って尻が据え石を叩いてコーン、その瞬間は目にも留まらぬすばやさ、風流とは違うなにかが働いているとしか思えない。
​ どうです、書き方がいいでしょう。日用品の研究なんて、地道以外のなにものでもない仕事だと思うのですが、この書き方をみて、このおじさん、タダモノじゃないねと思うのはボクだけでしょうか。
 なんというか、研究が楽しくて仕方がないという臨場感が伝わってくるでしょう。こういう調子で​「馬尻(バケツ)」​だとか「束子(たわし)」
などという、なにげなさすぎて、まぁ、どうでもいいような道具について、材料、製作法、用途から歴史的変遷まできちんと説明されています。この口調にハマレバ、この上なく面白いのです。

​ ところで、「鹿おどし」についての薀蓄はどうかというと、こんな感じです。​

 誰も居ない田や畑の作物を鳥獣の食害から守るには、人がいると見せる案山子のように視覚的な威しもあったが、音を鳴らして威す方が効果的で、雀おどし、鳴子などがあって鹿おどしもその工夫の一つだった。鹿も猿も居ない茶庭に仕掛けるのは、人の心の安逸に流れるのを威す、禅門修業の精神覚醒の装置だった。
​ 鹿おどし、僧都ともいい添水とも書いた。昔、巧妙な智恵や、高度な技術をお坊様の功に帰すことが多かった。弘法大師がその代表格だったが、鹿おどしは玄賓僧都。僧都は僧正に次ぐくらいの身分で、玄賓僧都はまず案山子の発明者とされ、やがて雀おどし、鳴子も玄賓の発明とされて僧都と呼ばれ、鹿おどしもやっぱり玄賓僧都ご発明に帰した。​
 ぼくにはどこかの禅寺で「カアーツ!」と両手で捧げ持っていて振り下ろす、あれは何というのでしょう。「杓」でいいのでしょうか。ともかくあれを振り下ろしている住職さんの代わりに、「カアーン」と音をさせる道具が「鹿おどし」だったという理由で「僧都」といいますというほうが面白いのですが、そうではないようですね。道具にはそれぞれ縁起というものがあるのです。ナルホド。
 
​​​日用品の研究といえば、柳宗悦で有名な「民芸運動」という1930年代に始まった、民衆の道具の技芸の素晴らしさ讃えた文化発掘運動があります。当てずっぽうですが、山口昌伴はきっとその流れの人だと思います。自分の足と目で確かめて、今は使われなくなった道具にたいして、実にやさしい。読んでいて気持ちが和む、そんな本でしたね。​​​
​ この本もそうですが、日用品を話題にしている本というのは、エッセイとか評論もそうですが、小説や古典の授業でも役に立ちます。「ああ、あれか。」という「安心の素」ですね。
 古典とかいいながら、なんなんですが、どっちかというと、現代社会論というほうがピッタリの本ですが、デザイン評論家の柏木博さんとか、おススメです。たとえば「日用品の文化誌」(岩波新書​)​の中では、住宅そのものから、ゼムクリップまでシャープに論じていてうれしくなります。​
 まあ
、出会った本が面白かったりすると、授業のネタ仕込みは迷路へ迷い込んでしまいますから、その辺は要注意というわけですね。()


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最終更新日  2020.11.02 00:43:56
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2019.09.15
​​​ 爆笑問題「シリーズ・爆笑問題のニッポンの教養」(講談社)​


​ 「爆笑問題」という漫才のコンビは皆さんご存知でしょう。その二人がNHKテレビで「爆笑問題のニッポンの教養」という番組をつくっていました。見たことのある人もいるかもしれません。
 専門性の高い研究に没頭している科学者や門外の人間には、現実のどこにかかわりがあるのか分からないようなテーマの哲学者と直接会って「爆笑問題」の二人がトークする。お笑い番組の体裁をとってはいますが、実際、素人の二人の質問はかなり的確に本質的なポイントに迫っていた番組です。今回「案内」する本書は、その番組の書籍版です。

​ ところで、番組と本書の制作意図について、「爆笑問題」の太田光君が本書の冒頭でこんなことを言っています。

 現実の世界に生きている人間は、奇跡のようなことなど、そう起こるもんじゃないと思っている。しかし、縄文時代に生きていた人間の中で、誰がこの現代の人間の生活を想像しできただろうか。― 中略 ― われわれの住む世界は奇跡の世界だ。そしてこの奇跡を創ったのが、学問である。学問が奇跡を生む。では学問はいつから学問になったのか?それは、学問という言葉が生まれた時からではないか。学問とはもともと生きるための知恵のようなものだったはずである。古代では獲物の捕り方、コミュニケーションの仕方、雨風のよけ方、それらの知恵が学問であったはずだ。つまり生き方である。
 この世界は奇跡の集合体だ。そしてその奇跡を創ったのが学問であり、だとすれば大学教授とは、奇跡を追及する人のはずだ。それらの人々が「学問」「教授」ということの限定を突破して、大衆の前に思考を晒した時、「学問」は「生き方」に戻るのではないだろうか。心は、本当に自由である。行こうと思えばどこへだって行ける。飛ぼうとする意志さえあれば、我々の思考に怖いものはない
​ ​どうでしょう。新しく高校や、大学で学び始めた人たちにはうってつけのアジテーションではないでしょうか。
 たとえば高校なら、中学校ではただの国語だったのに、「古文」「漢文」というふうに、新しい教科が増えますね。大学ならば、「国語」は「文学」に変わって、授業はもっと細分化されるでしょう。「面白くない」「興味がわかない」という不満を聞いたり、「入試のために」、「卒業単位取得のために」という声を聴くことはありますが、新しい生き方のスキルを学び始めているかもしれないという可能性を想像している、あるいは想像していた人はいるのでしょうか。
 文系の大学生が、「興味がわかない」から捨ててしまった「数学」でも、「物理」や「生物」でも、そうだったのではないでしょうか。

 一つ一つの、細分化されていく「学問」を勉強し始めることが、縄文人がコミュニケーションの仕方に工夫を凝らし、雨風をしのぐために知恵を絞ることで「生き方」を支えたのと、ある意味で同じ「学問」の入り口に立っていることだと自覚している人がいるでしょうか。まだ、充分若い諸君が、学問や勉強という言葉の意味を、このあたりで一度、考え直してみてはどうでしょうか。

​​​ 「爆笑問題」のこのシリーズは多種多様な学問の現場を訪ねます。例えば、ここにあげた野矢茂樹さんは「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」という有名な言葉を残したヴィトゲンシュタインというスイスの論理哲学者研究の第一人者ですし、中沢新一さんは「チベット仏教」から出発し、ちょっとハッタリ臭いですが、「芸術人類学」という新しい考え方で人間や世界をとらえ直そうとしている宗教学者ですが、諸君が大好きな『すぐに役に立つこと』とは程遠い学問に取りつかれているといってもいい人です。
 ほかにも日本美術史の辻惟雄教育社会学の本田由紀言語学の田中克彦。理系ではロボット工学の石黒浩分子生物学の福岡伸一精神医学の斉藤環、エトセトラ、エトセトラ。​​​

 諸君にとっては知らない名前かもしれませんが、実はそれぞれの分野の最先端の研究者たちであり、超一流のネームヴァリューなのです。さすがNHKという人選ですが、臆せず、ビビらず、カッコつけず挑んでいく太田君と田中君のトークもなかなか大したものだと思います。
 何にも知らないけれど、生きることに関しては真剣そのものなのだという大衆の気迫ともいうべき、彼らの真摯さに面食らいながらも真面目に答えようとする学者の皆さんの素顔にはお笑いを越えた面白さを感じます。「生き方」を探る最先端の学問。まあ、一度手に取ってみてください。(S)20140115

​​​※投稿の「シリーズ・爆笑問題のニッポンの教養」(講談社)の画像は蔵書の表紙写真です。

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最終更新日  2020.10.14 21:09:17
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2019.07.04
​​大村 はま 「優劣のかなたに」(ちくま学芸文庫)
 以前、
​ブログで大村はまについて書いた。その後、知人から「大村はまさんの『優劣のかなたに』という詩がいいですね。」という言葉をいただいた。彼女も長く教職にある人だった。ブログの追記に乗せたが、これだけでも読んでもらえればいい。
​​​​​​​​​​​​​​  『優劣のかなたに』 大村 はま
  
優か劣か
そんなことが 話題になる,
そんなすきまのない
つきつめた。

持てるものを
持たせられたものを
出し切り,
生かし切っている
そんな姿こそ。

優か劣か,
自分はいわゆるできる子なのか
できない子なのか,
そんなことを
教師も子どもも
しばし忘れている。

思うすきまもなく
学びひたり
教えひたっている,
そんな世界を
見つめてきた。

一心に 学びひたり
教えひたる,
それは 優劣のかなた。

ほんとうに 持っているものを生かし,
授かっているものに目覚め,
打ち込んで学ぶ。

優劣を論じあい
気にしあう世界ではない,
優劣を忘れて
​持っているものを出し切っている。​

できるできないを
気にしすぎていて,
持っているものが
出し切れていないのではないか。

授かっているものが
生かし切れていないのではないか。
成績をつけなければ,
合格者をきめなければ,
それはそれだけの世界。

それがのり越えられず,
教師も子どもも
優劣のなかで
​あえいでいる。​

学びひたり
教えひたろう
優劣のかなたで。​​​​​​​​​​​​​​

 同僚だった彼女たちの心をどのくらい推し量れていたのか。そんなぼくが言うのも不遜ですが、こんな詩をつぶやきながら仕事をしている教員が、まだ、教室にいることへの期待がぼくにはあります。
 自己責任と成果主義、学問の結果はお金に換算され、女性の出産を生産性などという社会の中で、今から勉強する子供たちに、本当に必要なのは、「学びひたり、教えひたる出会い」の中で、生きることと向き合う学校と教員との出会いなのではないでしょうか。


2019・04・16
​​

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最終更新日  2020.10.27 22:11:15
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2019.06.27
​竹内敏晴 「ことばが劈かれるとき」「ちくま文庫」

​​

​​​  ​​​​今でもあるのかどうか知りません。昔、使っていた筑摩書房の教科書では、高校一年生の最初の教材に演出家?竹内敏晴のエッセイ​「出会うという奇跡」​というエッセイが載っていました。​
​ いかにも新入生向けの題がついていて、さて、新入生の何人がこういう題の文章に心を躍らせるのだろうと、今でも考え込んでしまうのですが、しかし、竹内敏晴はちょっと、いいんです。​
​ この人の本と最初に出会ったのは、何時のことだったのだのでしょうね。その当時「思想の科学社」から出ていた「ことばが劈かれるとき」(現在は「ちくま文庫」版)という単行本によってでした。
​​
 今、手元に見当たらないので、うろ覚えで書きます。その本は一緒に暮らし始めたチッチキ夫人の棚にありました。薄暗い装丁の陰気な雰囲気の本でした。何気なく手にとり、読み始めて唖然としました。
 そこには著者の自伝的な回想と実践が記されてあったのですが、まず、悪性の中耳炎のためにほとんど耳が聞こえなくなった話で始まります。次に、聞こえない耳を持った少年が何も喋れなくなる話へと続いてゆきます。そして、いったんことばを失った少年がことばを回復するプロセスの話が書かれていました。
 
そこから「ことばを劈く」という、この本の題名になっている「言い方」が生まれるプロセスが記されていたのです。
 
「劈」という文字は漢和辞典を引くと「劈開(ヘキカイ)」という「切り開く」という意味の熟語とともに「引き裂く」という意味だと出ています。
 どうしても「音」となって出てこないことばを、口であるか喉であるかにナイフを差し込み、そこを切り裂くように放つという経験をこの人はしています。その経験を、まず、伝えようとしてこの文章を書いています。もう、その経験だけで読む価値があるとぼくは思います。

 しかし、この本の「啞然とした」眼目はことばを取り戻した彼がことばを喪った人たちを相手に実践する体験の報告にありました。

 例えばこんな話があります。彼が主宰する演劇研究所のワークショップの中で役者を志望する人たちが芝居の相手に科白を届ける練習なのですが、数人の相手に背を向けて座ってもらう。その中の一人を科白を投げかける相手と決めて、その人に向かってせりふを言いいます。自分に「ことば」が届いたと感じた人に手を上げてもらいます。そういう実践の話です。
 果たして「ことば」は届くのでしょうか。気持ちを込め、はっきりと発声して何とか相手にことばを届けようと繰り返すのですが、見当違いの人が手を上げることはあっても、思う相手にはなかなか届きません。
 毎日この練習を繰り返しながら竹内敏晴が演者たちに指示することは「大きな声を出すこと」や「気持ちを込めること」ではなくて「体をほぐすこと」なのです。
 
これは誰にも分ることだと思いますが、気持ちを込めようとすればするほど、こわばってしまう身体があります。竹内は演者自身の体をほぐせるだけほぐすのです。そして静かに発声することを指示します。その結果、何と、ことばは届くのです。

 相手と決めた人が向こうを向いたまま、すっと手を上げた瞬間の喜びの中には、ほんとうの出会いの感動があると思いませんか。他者と出会うために、大事なことは、自分の体をほぐすことだったのです。

 意識や心がことばとともにあることが主張される風潮の現代社会の中で忘れられているのはことばを体の「生の器官」が作り出し発声しているという事なのだということなのでしょう。生の体をのびのびさせる所からことばを考える。ことばを失い、苦しみぬいた彼が到達した地点がそこにあります。
 ぼくたちは自分以外の外界に対して多かれ少なかれ身構え、緊張して暮らしています。身体はこわばり、こり固まってしまっているのです。この身体は時代と社会の中で、生活を支えてけなげに立っているといって良いかもしれません。いつの間にか、リラックスして、素直にことばを発する力を失っているのかもしれません。

​ ところが自分ではその事に気付くことが難しいのです。「私」から「あなた」へ呼びかけたことばが届かない日常も、また当たり前のこととして「世界」を諦めてしまっていないでしょうか。
 この本の中で竹内敏晴はそんなふうに問いかけていて、これは信用できるなというのがぼくの評価でした。​

 あの当時、そんな竹内が「出会い」を奇跡だと書いているのだから、高校生活を始める人たちにとっても、ゆっくり考えてみる価値があると信じて、その日も教室には出かけて行ったはずだったのですが・・・・。
 今では懐かしい思い出なのです。それにしても、「寝た子」たちに「言葉」を届けるというのは難しいものですね。(S)初稿​2006・04・15改稿2020・6・4
追記2019・06・27
 教室で声の小さい生徒は必ずいる。ぼく自身は、やたら声が大きくて、周りの人が顔をしかめるタイプなので、「イラッ」とすることがよくあった。バカみたいなことを言って申し訳ないが、この本を読んでから、すこし、腹が立たなくなった。
 生徒たちの「声」とか、「ことば」とか、「表情」とか、「しぐさ」とか、そういうことが、教壇に立っている時に気にかかり始めた。そうすると、少し落ち着いてしゃべることができるようになったと、あの当時感じたことを、最近、映画の画面を見ながら思い出すことがある。
 お芝居をしている舞台の上の役者の声とか、映像の中の表情とことばとか。会話になっているのかどうか、若い俳優さんが出てくるエンターテインメントなんかで、会話をみていて「えっ?」と思う。そんなシーンが時々ある。
追記2020・06・04
 「うたのはじまり」というドキュメンタリー映画に、耳の聞こえない父親がお風呂の中で赤ん坊を抱きながら、赤ん坊の言葉に呼応して歌い始めるシーンがありました。「ダイジョーブー♪、ダイジョーブー♪」と歌うそのシーンが「お風呂」のシーンだったことに、なんだかとても納得しました。
 裸で湯につかって、抱き合っている親子が、体全体で伝えているものが、やはりあるのでしょうね。


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最終更新日  2020.10.25 01:49:11
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2019.05.18
​​​​​​​​​​​高田瑞穂「新釈現代文」(ちくま学芸文庫)
​​​​
 ぼく自身が受験生だった頃、繰返し読んだ現代文の参考書がありました。その参考書がなんと筑摩書房から文庫として復刊されています。高田瑞穂「新釈現代文」(ちくま学芸文庫)です​。​​
 人間の理解や知識は、関心と経験を経ることなしには決して育ちません。人間の文化を、その根底において支えているものは、いつの場合でも生活の必要ということなのです。
​  海を知らない山国に生まれた文明に、船を期待することはもともと無理なことでしょう。もっと身近なことで言えば、例えば我々の身体というものは、我々の最も親しいものです。むしろ我々自体です。われわれの行為とは、つまり我々の身体の様々な運動であります。​
  しかしそれでいて、我々はその身体を絵にしようとすると、なかなか上手く描けないのが普通です。
  ところが、特殊な人々がいて、それを苦もなくやってのけます。それは画家たちです。それがすぐれた画家か否かということは別問題として、とにかく画家である以上は、人間の姿態をそれらしく描き出すことくらい朝飯前のことにちがいありません。

 何故か。

 画家は常に、描くという意識において人間を見ているからです。

  画家にとって描くということは、彼の生活の本質ですが、画家でないわれわれには、そうではないからです。それならわれわれの生活の本質はどこにあるか。
 あなた方は現在高校生であるか、高校の卒業生であるかどちらかでしょう。そして大学入試という当面の課題を共有しているわけです。そうすると、あなた方の目下の生活の中心をなすものは、高校卒業程度の学力を体得するということであるはずです。
  画家は描くことに生活の意味を認めるが故に、描くことが出来たのでした。それなら、あなた方は、勉学に生活の意味を認めているのですから、学力を高めてゆくことが出来るのは当然のことでなくてはならないはずです。従ってあなた方の、学問的関心は、高校卒業程度という一応のレベルに立って、その範囲において、あらゆる分野に、常に生々と働いていなくてはならぬはずです。そして、受験のための勉強も、つまりは、そういう関心をなるべく広く、深く、生々と保つということの上に考えられなくてはならぬはずです。
  そこに私は、一番正しい受験準備の姿があると信じます。もしそうしていれば、すでにあなた方の問題意識は充分の幅と深さを持ち得ているにちがいありません。しかし、私の見聞する所によると、事態は必ずしもそういう風に、うまくいってはいないように思われます。
  特に、現代文がわからないという嘆きが、そのことを物語っていると思います。現代文がわからないという場合の多くは、実はあなたがたの問題意識が極めて希薄である場合か、または全然欠如していることの告白であると私は断言いたします。
  ここで是非一つ、あなた方一人ひとり、ご自分の心を覗いていただきたいものです。何がありますか。もしそこにあるものが、単に、見たい、聞きたい、食べたい、行きたい等の、総括して自分の感覚を満たそうという願いだけだったとしたら、そういう人に、入試現代文が難解であるのは、当たり前ではありませんか。
  そういう人は、無理をして、自分の精神年齢を引き上げなくてはなりません。無理をする事がどうしても必要です。たとえば、仲間が口をそろえて難しいという本があったら、無理をしてそれを読破して、いややさしいと言うのです。批評家などが盛んにほめるが、あんな小説―映画でもよろしい―のどこが面白いのかさっぱり解らないと友達が言ったら、それをよく読み、熱心に見て、いやたしかに面白いと言うのです。
 こういう無理は、青春期においては少しもみにくいものでも、恥ずかしいことでもありません。青春時代は、人間的教養を身につけなくてはならない時期です。Cutivationとはもと耕作し、育成することです。
 懐かしい文章です。学校の先生の授業には飽き足らない毎日だった少年が、心に刻み込んだ記憶があります。​ 現代文の入試問題が解けなくて困っている人にはこの参考書は難しすぎるかもしれません。知的な守備範囲を拡げようとしない人には、そもそもこの参考書自体が読みきれないと思うのです。
 むしろ、現代文は得意だが、問題集の図式解説のばかばかしさに飽き足りない人や、国語の先生になろうと考えているような人にお薦めです。

 今さら、受験参考書を、という気持ちはよくわかりますが、これを読むと読書しなければならないという気持ちになる不思議な参考書でした。書店の棚でちょっと覗いてみてください。(初出2011・07・14)(S)

追記 2019・05・18
​​ ​高校の国語に「論理国語」なる科目が始まるらしい。哲学研究者の内田樹さんが​「内田樹の研究室」​というブログでこんなふうに書いておられました。​​​
 契約書や例規集を読める程度の実践的な国語力を「論理国語」という枠で育成するらしい。でも、模試問題を見る限り、これはある種の国語力を育てるというより、端的に文学を排除するのが主目的で作問されたものだと思いました。
​​「論理国語」を「文学国語」と切り離して教えることが可能だと考えた人たちは、文学とは非論理的なもので、何か審美的な、知的装飾品のように思っているんじゃないですか。だから、そんなもののために貴重な教育資源を割く必要はないと思っている。現にそう公言する人は政治家とビジネスマンには多くいますから。自分たちは子どもの頃から文学に何も関心がなかったけれど、そんなことは出世する上では何も問題がなかった。現に、まったく文学と無縁のままにこのように社会的成功を収めた。だから、文学は学校教育には不要である、と。たぶんそういうふうに自分の「文学抜きの成功体験」に基づいて推論しているんだと思います。政治にもビジネスにも何の役にも立たないものに教育資源を費やすのは、金をドブに捨てているようなものだ、と。そういう知性に対して虚無的な考え方をする人たちが教育政策を起案している。これは現代の反知性主義の深刻な病態だと思います。

​ 文章を読むとか、書くという行為が、すぐれて「論理的」な行為であることを、諄々と解説し、受験問題を解いてゆく「新釈現代文」という受験参考書は、今こそ読まれるべきだと思います。​
 しかし、現場の若い教員や、教員を目指す学生さんたちの中に、世の風潮通り「すぐに使えるマニュアル的方法論」を手に入れることに汲々としている傾向があることは否定できません。「そんな面倒くさいことはやっていられません、さっと、わかるように言ってください。」そうおっしゃて、こんな本には見向きもされないことでしょう。そういう「非論理的」感受性には、「文学国語」を読むことも不可能だと思いますが、老人の繰り言でしょうか。
追記2020・09・09

 コロナ後の世界が始まりつつあります。蔓延する伝染病を克服する方法は、どうも、根拠なしに「こんなものはこわくないのだ。」という妄想にも似た「安心感」を蔓延させることのようです。
 スター気取りでテレビに出て来て、やりもしていない対策を、やっているかのように語っていた、インチキ政治家たちは、次々と鳴りを潜め、「自助」とか「自衛」とか、公共の責任を果たす態度のかけらもない言葉を政治スローガンとして流行させ国民を煙にまき始めています。
 決定的に失われているのは論理ですね。ムードや空気に酔わせることでインチキを正当化するのが全体主義者、ファシストたちの常道でしたが、ムードに酔わないための薬は、地道に「論理」を追う「思考力」以外にはありません。
 しかし、何よりも「考える」ためには「他者」、「他者」とともにある「社会」、人と出会う「場」を失ってはならないと思うのですが、自らのことばで語ることができない政治家の姿は「まさに」「他者」を失った現代のシンボルだと思います。しかし、彼が失っているのは振り返って「考える力」だということを忘れてはいけないと思います。
 一人、一人が考え始めることがポストコロナの社会を変える力を芽生えさせるのではないでしょうか。

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最終更新日  2020.10.09 18:47:12
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2019.04.20
​​​​​​​​​​​小山鉄郎「漢字は楽しい」(新潮文庫・共同通信社)


山本史也「神さまがくれた漢字たち」(理論社:よりみちパンセ)  


 白川静​という、とんでもない学者さんに、そうとは気づかないで初めて出会ったのは、もちろん本の中で、高橋和巳という中国文学者で作家の「わが解体」という、1970年ごろの、ある傾向の学生の必読書の中でした。​​​​​​

 その中に、1960年代の終盤、大学紛争(?)、闘争(?)で騒然たる、立命館大学の校舎の中に、灯の消えない研究室が一つだけあって、「S先生の、その研究室には過激派(?)の学生たちも畏敬の念で接していた。」という内容の記述がありました。その部屋が白川静研究室だったのです。


​  1980年代の後半「字統」「字訓」「字通」という、文字通り字書である辞書が、世に問われる15年ほど前のエピソードですが、あれが、この白川静のことだったと気づくのは辞書が評判になって、実際に手に取った2000年を超えてからのことでした。​
​ その白川静さんもなくなって、10年以上の年月が経ちます。
​ ここのところの元号騒ぎで、この人が生きていたらなんというのか、気になったので、「令」という文字について、「字統」を探してみると、ありました。​
「令」について許慎(「説文解字」という後漢の字書の著者)は「?(しゅう)」と「卩(せつ)」とから成るものと分析し、その「?(しゅう)」は、「集める」の意味をもち、「卩(せつ)」は、「節」の意味をもち、それで、人を集め、竹の節でこしらえた「竹符」を与えて命令するのである、と述べますが、迂曲にすぎる説です。
​ 「令」は、礼冠をつけて、神の声に聞き入っている人の姿を、「象形」した文字にすぎません。​
​ ​これを読めば、話題の二文字の漢字の連なりの意味は、まあ、こだわらずに素直にとれば、神さんの声を聞いて仲良くしましょう、くらいの意味になりそうですが、いかがでしょう。
 皆様も、一度、「字統」ぐらいをお引きになれば、もっとよくわかりますが。​

 ​​​​​さて、そろそろ本題ですが、​「漢字は楽しい」(新潮文庫)​を書いた​小山鉄郎さん​「これが日本語」でも案内した方です。
 今はどうなのか知りませんが、共同通信の文化部の記者で、村上春樹吉本隆明に関する著書もある人です。特に吉本には私淑した人らしく、新聞のコラムを本にした「文学はおいしい」(作品社)なんて本は、吉本隆明のお嬢さんで、マンガ家のハルノ宵子さんに挿絵を描いてもらっているだけでなく、吉本の著作からの引用もちょこちょこ目に付くところが面白い本です。​​​​
 
白川静に関していえば、小山さんは、最晩年の弟子ともいうべき人かもしれません。師匠が亡くなった後、小山さんがこういう本を作って、遺髪を継いでいらっしゃる。「金儲けかよ」、そんなふうに思っていたこともありましたが、じつは、大切なお仕事をなさっていると、今では思います。
 
​​もう一人の山本史也という人は、高校の教員をしていた人らしいですが、立命館大学が作った文字文化研究所で教えを受けて、そこでのお仕事として「神さまがくれた漢字たち」(よりみちパンセ・理論社)を書かれたようです。白川静という巨大な存在のエキスとでもいう部分について、10代の少年や少女たち楽しく解説されている本のつくり方には好感を持ちました。
 
この二冊の本には、最初から読み続けて、結果、読書したという読み方は似合わないかもしれません。気になったら取り出して、気ままに読むのが良いかもしれませんね。トイレとかに常備して、いつの間にか読む、そんな感じがいいと思います。
 
小学生の子供たちに、「漢字の成り立ち」劇かなんかやってもらって、右手にお椀、左手に呪具かなんか持って、首を抱えて土饅頭の上にのせて、「さあ、いくつ漢字が出てきたでしょう?」とかやったら、面白いだろうなあ。そういうふうに、漢字を理解していく子供を育てる世の中になればいいのになあ。そういう気持ちが作らせた本だと思います。
 みんな機械が覚えてくれてる世の中を生きていく子供たちが、だからこそ、成り立ちの姿くらい、面白がらせてあげないと、かわいそうじゃないか。ぼくはそう思います。
 そうそう、大人の人たちでも、たとえば中島敦「文字禍」とか円城塔「文字渦」なんていう小説を読む前に、読んでおくのもいいかもしれません。円城さんが描く意味とはまた違った意味で、漢字は生き物かもしれませんよ。

 ともあれ、「白川漢字学」と小学生とか中学生の頃に出会い、「口(さい)」を知っている高校生が教室に座っているなんて、教員には夢のような話ですね。
 漢字嫌いの学生さんも、子供向けにとらわれず手に取ってほしいと思います。



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最終更新日  2020.10.24 01:21:51
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2019.04.18
​​​​​​​​

​​​​​山田史生「受験生のための一夜漬け漢文教室」(ちくまプリマー新書)


 ​​​​​​​教員を目指している人にも、だから当然、受験生にも、漢文が苦手という人が結構たくさんいらっしゃいますね。。受験勉強でも、授業の教材でも、本当はね、「漢文」は難しくないんですよ、ということを教えてくれる本を紹介します。
​​ 山田史生という弘前大学の教育学部の先生がお書きになった「受験生のための一夜漬け漢文教室」(ちくまプリマー新書)という参考書があります。本屋さんに行っても、受験参考書の棚ではなくて、新書の棚に並んでいるので、なかなか気づかれないようです。​​​​
 漢文を読むということは、ちょっと変な面倒くさい作業なのですが、それ以前に、漢字嫌いの高校生、大学生諸君にはかなり苦痛な作業であるだろうということはよく見かける光景ですね。
 というわけで、とりあえず漢文攻略という目的を持つときにまず最初に「漢字って何よ」というところから入らないとしようがないわけですよね。
 詳しく話し出すと、これはこれで大変なのですけれど、要するに日本語の中になぜ、どんなふうに漢字があるのかという素朴なところの説明をすっ飛ばして勉強が始まるのが、今の学校という制度の現実なんですね。
 学校で習うことや先生が言うことを上手に口真似できる子どもが優秀だという押し付けで、センセーがただの馬鹿かもしれないってことは明かさないないんです。
 漢字一つとっても、なぜそうなのかは考えさせない。それじゃだめですよね。ところがこの本では、例えば「仮定」という構文がありますが、こんなふうに説明しています。 

父​​
 まず仮定形からだけど、そのまえに「仮定」という表記がダメなことについて説明しておきたい。

 え?どういうこと?

 「反」という字形をふくむ字には「板・坂・版・販・飯・叛」などがあって、どれもみな「ハン」という音をもっている。「仮」の正字は「假」で「暇・霞・瑕」などがその仲間で、みな「カ」という音をもっている。この中の「假」だけを仲間はずれにして「仮」と書き、板や坂や飯の仲間にするのは、ひどく不都合なんだ。

 なるほど。だったら「暇定」と書けばいいんじゃないの?

 ​そうなんだけど、多勢に無勢っていうか、このさい目をつぶって「仮定」で行こうとおもう。どうか軟弱なパパをゆるしてほしい。

 ​一句浮かんだわ。「パパもまたNOといえない日本人」オソマツ。

​ おわかりでしょうか。実はセンセー方の大半もご存じないし、知っていても時間がかかるからすっ飛ばしている。そういう所から入るんですよね、この参考書は。
​ 「​漢字から漢文への文化の変遷」が意識されてるこういう「漢文」の参考書は、僕が知る限りあまりありません。
 次は「漢文から日本語へ」という移入の扱われ方ですね。「反語」の説明のところにこんな会話があります。
​​​​
 「以臣弑君、可謂仁乎」これは「臣をもって君を弑す。仁と謂ふべきか」と読む。「仁と謂ふべけんや」と読んでもいい。仁じゃないってことが明らかなのに、あえて疑問のかたちに読むことによって、かえって語気を強めているわけ。

​娘
 「仁ということができるだろうか、いやできない」って訳すんでしょ?
父​
 わざわざ「~できようか、いやできない」と訳すことはない。だって日本語として不自然だろ?いったいだれがそんな話しかたをするだろうか、ってこれも反語だけれど。
娘​
 でも学校でそう習ったわよ。 
​​
 パパを信じてくれ。「家来でありながら君主を殺すのは仁といえるだろうか」のあとに「いや、いえない」と附け足さないと意味が伝わらないというのは、かなりヘンだよ。家来でありながら君主を殺すのは、たいてい仁とはいえないけど、ひどい暴君だったりすることもあるしさ。だからヘタに「いや、いえない」と附け足すと、「家来でありながら君主を殺すのは、かならず不仁であると」ということになりかねない。
娘​​
 そうよね。「~だろうか、いや~でない」という訳し方は捨てることにするわ。
 内情を言えば、反語の訳の後ろに「~ない」を付けさせるのはセンセーの採点の都合のためだったりするのです。わかっているかどうか、言うことを聞いているかどうか、確かめたくて仕方がないのがセンセーというものなのですね。
 ところが、この本は、漢字の本質から漢文へ。漢文から自然な日本語へ。筆者の考えが一貫していて、信用できる。これなら、苦手な皆さんも読めるんじゃないでしょうか。
​​​​ これを読んでおもしろければ、次は「白文なんか読めなくても大丈夫。」と喝破する加地伸行さん「漢文法基礎」(講談社学術文庫)がおすすめ。小川環樹さん「漢文入門」(岩波全書)にたどり着ければ高校の教科書やセンター試験どころの話ではなくなりますね。(S)​​​​​​​​
                                                                          
​​​​​​​​​​

 大学受験漢文について、トータルな力の養成にはこっちですね。書き手の実力が半端じゃありません。

2018/06/05



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最終更新日  2020.10.05 00:45:00
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2019.04.16
​​​​​​​​​​​​​大村はま「教えるということ」(ちくま学芸文庫)

​ ぼくたちの世代、要するに昭和の終わりかけに国語の教員になったくらいの人たちにとって、「つづり方教育」国分一太郎「山びこ学校」無着成恭らと並んで「国語の教員像」の理想として、戦前から戦後を通じての実践者として、しかし、これでおしまいのように輝いていた教員の一人が大村はま。​​​​
 残念ながら、ぼく自身は教員生活を終えて初めてその文章に接するといった具合で、これから教員になろうかという人たちに対してこれはいいよとばかりに推薦する資格はかけらもない。
 
​​まあ、そういうわけなのだけれど、毎週出会う大学生の皆さんが、教員になりたいと思っていらっしゃる、どんな本をお読みになればいいだろうというのが最近の僕の選書の基準の一つになっているわけで、それで手に取ったのが、大村はま「教えるということ」(ちくま学芸文庫)。​
​​ 2002年に99歳で亡くなっているひとだけれど、筑摩書房の学芸文庫の編集部は「教室を生き生きと」とか「日本の教師に伝えたいこと」を、次々と、新たに文庫化しています。
 ぼくは「教えるということ」以外はパラパラとしか読んでいませんが、現在の現場、まあ、学校ですが、のことを考えると再刊して読んでほしいと考える編集者や教育学者、教員がいることに、そりゃあそうだろうと肯くものがあります。

 ぼくにしてからが、高校生で教育学部を目指すような人たちのために、図書館の書架にそろえて、借りてくれる生徒を、いや、教員も、かも、を、心待ちにしていたのですから。
 みなさんはまだしばらくしかお勤めになっていないから、そういうことをお思いにならないでしょう。私は中学校にいてじっと子どもを見ていますと、非常にすぐれたほれぼれするような力を持った子がいます。私はときどき子どもといっしょにいながら、「同じ年だったら、この人に友だちになってもらえるかしら」と思うことがあります。
 たぶんなってもらえないと思うのです。彼はあまりに優秀で、非常なひらめきを持っていて、私なんかほんとうにこの人の友だちになれないといったような、してもらえないというような気がしてきて、心から敬意を表してやまないことがあります。
​ 教師はやはり子どもを尊敬することが大切です。さしあたり年齢が小さくて、先に生まれた私が「先生」になりましたが、子どもの方が私より劣っているなんていうことはないのです。劣ってなんかいないので、年齢が小さいだけなのです。子どもたちを大切にするということはそういうことを考えることです。​​
 「教えること」という本に収められている、同じ題の講演の一節です。短い引用ですが、ここに大村はまという、その時代に生涯教員であり続けた女性の「性根」のようなものを、ぼくは感じました。​
​ それは、「おっしゃっていることはよくわかりますが、少し離れたところで聞いていないと、ちょっと暑苦しいんですが」とでもいう感じ。おそらく、語りかたと時代の空気に、その秘密があるのだと思います。​
​  この案内が、ノリノリの気分ではないのは、そこが理由です。しかし、論旨は正しい。ぼくにとっては、長くつとめた仕事について、強制的に反省を促すようなところがあって、面倒くさいのですが、今から、この仕事をやる人は、何年もの経験の中で、きっと「あの人があんなことを言ってたよな」というふうに思いだすに違いない言葉が、これらの本にはあると思います。​​​
 「卒業生がいつでも先生、先生と慕ってくれるのが、なによりもうれしい。」とか、「そういうとき、先生ほど楽しい職業はないと思う。」とかいうことばを聞くことがあります。​​​
 わたしが受け持った卒業生は、「先生のことを忘れない」と言ったこともないし、また、私も忘れてほしいと思っています。わたしは渡し守のようなものだから、向こう岸へ渡ったら、さっさと歩いて行ってほしいと思います。後ろを向いて「先生、先生」と泣く子は困るのです。
 「どうか、自分の道を、先へ向かってどんどん歩いて行ってほしい。私はまたもとの岸へもどって、他のお客さんを乗せて出発しますから」。卒業した生徒が何か自分で言ってこない限りは、私はあとを追いません。​
​​​ ねっ、ムキになって言いつのっているところが、やっぱり暑苦しいのですが、職業としての教員の肝というか覚悟というかが宣言されていて爽快です。おそらく、多くの卒業生や教え子たちが彼女のことを「忘れられない」と思ったに違いないし、「何か言ってきた」に違いないのですが、仕事を支える梃子を、そこに求めることをきっぱりと拒否する態度は、ちょっとかっこいいと思いませんか。 ​
​​ 偶然、教室で出会い、「教える」ということのその場限りの可能性に真摯に向かい合おうとしたに違いない、教員、大村はまの面目躍如というべき言葉だとぼくは思いました。(S) 2018/06/05​​
追記2019・04・16
 その後、知人から「大村はまさんの『優劣のかなたに』という詩がいいですね。」という言葉をいただいた。彼女も長く教職にある人だ。

     
 『優劣のかなたに』 大村 はま
  
         優か 劣か
         そんなことが 話題になる,
         そんなすきまのない
         つきつめた。

         持てるものを
         持たせられたものを
         出し切り,
         生かし切っている
         そんな姿こそ。

         優か劣か,
         自分はいわゆるできる子なのか
         できない子なのか,
         そんなことを
         教師も子どもも
         しばし忘れている。

         思うすきまもなく
         学びひたり
         教えひたっている,
         そんな世界を
         見つめてきた。

         一心に 学びひたり
         教えひたる,
         それは 優劣のかなた。

         ほんとうに 持っているものを生かし,
         授かっているものに目覚め,
         打ち込んで学ぶ。

         優劣を論じあい
         気にしあう世界ではない,
         優劣を忘れて
         持っているものを出し切っている。

         できるできないを
         気にしすぎていて,
         持っているものが
         出し切れていないのではないか。

         授かっているものが
         生かし切れていないのではないか。
         成績をつけなければ,
         合格者をきめなければ,
         それはそれだけの世界。

         それがのり越えられず,
         教師も子どもも
         優劣のなかで
         あえいでいる。

         学びひたり
         教えひたろう
​         優劣のかなたで。​

 同僚だった彼女たちの心をどのくらい推し量れていたのか。そんな僕が言うのも不遜ですが、こんな詩をつぶやきながら仕事をしている教員が、まだ、教室にいることへの期待が僕にはあります。
​追記2019・11・10
 職場での「優劣」をいちばん気に病んでいるのは、教員だったりすることがあります。子供は道具でしかない。職員会議や、校内でデモクラシーをつぶし続けてきた教育行政は、教員同士のいじめの責任をどう取るつもりでしょうね。ポジションごとの権力主義の横行が、教員のいじめ事件の、一つの、大きな原因であることは、明らかだと思うのですが。
 教員は意見の言えない「学校」でなにをしてしまうのか、よく考えたがいいと思いますね。意見の言えない教員は、今、意見の言えない子供を育てているのではないでしょうか。​

                                                                                  


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最終更新日  2020.10.06 00:34:34
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