ベランダだより 2022年6月30日 「そしったら咲きました!団子丸!」」
閲覧総数 70
2022.07.01
|
全19件 (19件中 1-10件目) 読書案内「日本語とか日本文学とかベンキョーして、先生になりたい皆さんへ」
週刊 読書案内 尾崎真理子「現代日本の小説」(ちくまプリマー新書)
![]() 詩人の谷川俊太郎に対するインタビュー集「詩人なんて呼ばれて」(新潮社)のインタビュアーをしていた尾崎真理子という人が気にかかって手に取った本がこの本でした。 「現代日本の文学」(ちくまプリマー新書)です。 1987年から、本書が出版された2007年の20年間の「現代日本文学」について、感想を交えながら「年表」化、あるいは「文学史」化して、エピソードを紹介解説した著書でした。 著者の尾崎真理子は1959年の生まれで、1992年に読売新聞の文化部に配属され、2020年に退職したときには文化部の次長さんだったようですが、現在は早稲田大学の教授さんのようです。 尾崎さんの「文学史」の肝は「1987年」という年を「終わり」と「始まり」に設定したことだと思います。 本書のプロローグに、1987年とは、二葉亭四迷が本邦初の言文一致体小説「浮雲」を発表してから、ちょうど100年目にあたることを指摘しながら、第1章を「一九八七年、終わりの始まり」と題して、こんなふうに書き出しています。 ここでは四人の人物の紹介を引用します。一人目は「ばなな伝説」の始まりと小見出しをつけてこの方です。 「受賞者は吉本さんの娘らしい」二人目が、今や「世界の村上」、村上春樹の「ノルウェイの森」です。 一九八七年九月十七日。「100パーセントの恋愛小説」。その帯の文章も赤と緑の上・下巻の装丁案も作家自身が手掛けたという、村上春樹(当時38歳)の書き下ろし長編『ノルウェイの森』が全国の書店に平積みでお目見えしたのは、その一週間前、九月十日のことだった。初版は講談社の文芸書としても異例の二十万部。 三人目が、さて、この方は「始まり」を象徴するのか、「終わり」の人なのか。まだ「ノーベル賞」はとっていませんが、デビュー作「奇妙な仕事」を東大新聞に発表したのが1957年です。30年後の大江健三郎です。 翌十月、戦後を生きてきた知識人の精神的自伝ともいうべき書き下ろし長編が発表された。大江健三郎(当時52歳)の『懐かしい年への手紙』。同年末の文芸作品の回顧記事で1987年の収穫として批評家各氏が多く挙げ、今日でも大江の代表作の一つとして名高い。だが、当の大江は、発表当時の忘れられない光景を次のように語るのだ。そして、もう一人、新しく始まったのは「小説」の言葉だけではありませんでした。 五月。前年に短歌の芥川賞ともいわれる第三十二回角川短歌賞を受賞した歌人、俵万智(当時24歳)の『サラダ記念日』が河出書房新社から初版三千部で出版されると、直後から問い合わせが殺到し、ベストセラーリストのトップに躍り出た。 いかがでしょうか、1987年、すごい年だったのですね。世界文学の動向を知りませんから、まあ、日本文学という、範疇に限ればという面はあると思いますが、同時代に30代だった目から見て、なるほどなあと感心しました。 引用箇所が日付で始まっているのは、著者である尾崎さんが、新聞紙上に載った記事の引用で、解説を進めているせいなのですが、ここから20年、実にジャーナリスティックに「新しい文学」と、終わったのかもしれない「古い文学」が対比されて、紹介、解説されていきます。 2000年を超えたあたりに現れる「蹴りたい背中」の綿矢りさと「蛇にピアス」の金原ひとみを次の画期として、IT化、デジタル化が、さらに「新しい文学」の方向性として論じられて「現代日本の小説」史は幕を閉じます。「簡にして要を得た」というべき内容で、同時代を生きてきた人間には、とてもよくできた見取り図でした。 ただ、不思議なことは、この本が「ちくまプリマ―新書」の一冊に入れられたことです。果たして、この本が出版された2007年当時の高校生はこの本を読んだのだろうかということでした。 当時、図書館係だったゴジラ老人には、棚に並べたこの本を手に取った高校生の記憶が全くないのです。「アーカイブ」という言葉が流行りはじめた頃でしたが、「イイネ!」の前に「歴史」が廃れる時代が始まっていたのでしょうか。 本書の帯には、「激変した日本人の感受性」とありますが、ひょっとしたら「ばなな」も「春樹」も過去かもしれないと感じる読後感でした。 ![]() ![]() ![]()
最終更新日
2021.09.29 14:08:30
コメント(0) | コメントを書く
2021.07.11
荘魯迅「声に出してよむ漢詩の名作50」(平凡社新書)
![]() 磧中作 磧中の作 岑參 西へ西へと馬を走らせ、地の果てを越えて天にまでたどり着きそうだ。 本書の「流沙蒼天いずこに宿らん」と題されて、岑參(しんじん)という、杜甫とかと同時代、盛唐の詩人の詩の紹介の章にあった「磧中作」という詩の本文、書き下し、口語訳です。 本書は「唐代」の詩42首、唐以前は「荊軻」、「項羽」、「陶淵明」の3首、以後が「蘇軾」、「陸游」など5首、計50首の、いずれも超有名な、まあ、高校の教科書などでも取り上げられている漢詩を紹介した、いってしまえばありがちな本です。書名も「声に出してよむ漢詩の名作50」ですから、今のハヤリの本の一冊といっていいかもしれません。 普段は、あんまり近づかない書名ですが、市民図書館で何となく手に取って、なんとなく借りてきました。 で、はまりました。一応、そういうお仕事でしたから、教科書に出てくるような詩については、知っているつもりでいましたが、1首、1首、のんびり読み始めるとやめられなくなりました。 2000年を超える歴史の中で、選りすぐられた「傑作」の迫力とでもいえばいいのでしょうか。著者荘魯迅さんによる解説も、簡にして要、「そうだったのか」と納得させられることも多く、たとえば、「磧中作」の解説はこんな感じでした。 磧とはゴビ砂漠のことをいう。作品は冒頭から、緊迫した雰囲気を漂わせている。馬を走らせてめざすのは西の果て、高仙芝の舞台の駐屯地。軍務に赴くために先を急ぐが、行けども行けども目に映るのは砂漠と蒼天のみ。このまま走れば天上に行きついてしまうのではないか。「欲到天」は、初めて砂漠に身をおいた人間の驚きを如実に語っている。 解説文の一部ですが、たとえば「満月」のくだりとかで「あっ、そうかそうか」と納得したりするのでした。まあ、ぼくがものを知らないというに過ぎないかもしれませんが、若い国語の先生とかにはおススメではないでしょうか。 実は、この本の特徴は詩の全文に対して拼音(ピンイン)、中国語の発音記号がほどこされていて、ぼくはできませんが、中国語が読める人には「中国語」で読める工夫があることです。 で、できない人はどうするかというと、平凡社のこの本のサイトを探すと「朗読」を聞くことができるようになっていて、それに合わせて初歩しか知らないぼくのようなものでも、声に出して読んでみるということができるという仕組みなのです。 今どき、ありがちなサービスかもしれませんが、たどたどと、中国語で漢詩を読んでみるのは悪くないですよ。 ちなみに、「磧中作」の結句「平沙莽莽絶人煙」は「平沙萬里人煙絶」が一般かもしれません。 ![]() ![]() ![]()
最終更新日
2021.07.11 02:38:28
コメント(0) | コメントを書く
2021.04.17
山田史生「孔子はこう考えた」(ちくまプリマー新書)
![]() 以前、おなじ「ちくまプリーマー新書」の一冊で「受験生のための一夜漬け漢文教室」(ちくまプリマー新書)という参考書(?)を案内したことがありますが、今回のこの本、「孔子はこう考えた」は同じ著者山田史生さんの「論語」入門書といっていいでしょう。 大学入試突破のお手伝いをする現場から離れて3年たってしまいました。その頃は、センター試験とか、そうはいっても、毎年解いていましたが、今では「問題」を見るどころか、いつあったのかすら気付きません。高校の国語の内容も大きく変わると評判になっていますが、実情についてはよく知りません。 で、今頃、なんで「論語」なんか読んでいるのか、というわけですが、そこはやはり昔取った杵柄というか、孔子先生の言葉を借りれば「学びて時に之を習う、亦、説しからずや」。という感じでしょうか。 「これって高校生にいいんじゃないの」と気づいた本は手に取る、まあ、癖のようなものはまだ残っていて、先日、市民図書館の棚で見つけたのがこの本です。 大学入試に即していえば「漢文」は、「古典」という教科の中の一科目ですが、個々の大学の入試で「漢文」を課す大学は、ぼくが、仕事を辞めるころにはもうありませんでした。かろうじて、センター試験の中の「国語」200点のうち50点が「漢文」の問題という所に残っているだけだったと思います。 ところが、公立の高校入試の場合は100点中、20点ほどの割合で、毎年、出題されていたのですが、今はどうなっているのでしょうね。 「漢文」なんて、役に立たない、お得にならない教科なのでしょうか。そのあたりを、ゴチャゴチャ議論するのはやめますが、一つだけ言えば、「論理国語」なんていう教科を新設するくらいなら「漢文」の時間数を増やした方が、目的に対しては「お得」で「役に立つ」と思うのですが、でも、まあ、すくなくとも、2020年現在の「文部大臣」や「総理大臣」といった方々は、「漢文」どころか、漢字そのものの常識も疑わしいわけですから、まあ、世の流れで「漢文」なんて見向きもされないのはしようがありませんね。 まあ、そういうわけで、本書の案内ですが、この本では「自分のことを好きになろう」というテーマを第1章に掲げて、「孔子」について語り始めています。 最近の世相を見ていて、ちょっと面白いなと思ったのは、「論語:公冶長」編にあるこんな文章を取り上げていたところです。本文では、巻末にまとめてありますが、まず、肝試し代わりに白文を引用します。読めますか? 顏淵季路侍。子曰、盍各言爾志。子路曰、願車馬衣輕裘與朋友共、敝之而無憾。顏淵曰、願無伐善、無施勞。子路曰、願聞子之志。子曰、老者安之、朋友信之、少者懷之。 マア、読めなくても大丈夫です。この文章に対して、山田先生はこんな前振りをして解説を始めます。 「空気が読めない」という言葉がある。「KY」と略したりするようである。そういう人なんですね、山田先生は。続けて、書き下し分と、口語訳がついています。 こちらが書き下しです。 顏淵、季路、侍す。子曰く、蓋(なん)ぞおのおの爾(なんじ)の志を言わざる。子路曰く、願わくは車馬衣軽裘、朋友と共にし、之を敝(やぶ)るとも憾(うら)むこと無けん。顔淵曰く、願わくは善に伐(ほこ)ること無く、労を施すこと無けん。子路曰く、願わくは子の志を聞かん。子曰く、老いたる者は之を安んじ、朋友は之を信じ、少(わか)き者は之を懐(なつ)けん。続けて口語訳。 顔淵と子路(季路とも)とが先生のそばにいたときのこと。先生「こうありたいという願いをいってごらん」。子路「乗り物や着物や毛皮を友達と共有したら、たとえ使いつぶされてもイヤな顔をしないようにしたいです」。顔淵「どんなに善いことしても自慢せず、ひとさまに迷惑をかけないようにしたいです」。子路「先生の望みもお聞かせください」。先生「年寄りとはリラックスしておしゃべりし、友だちとはざっくばらんにつきあい、若いひととも気がねなくやりたいね」。 かなり、くだけた調子ですが、問題ないでしょう。さて、ここからが解説です。 子路はもと遊侠の徒だったからガラがわるい。しょっちゅうドジをやらかすんだけど、どこか憎めない。 と、まあ、山田先生の論は、「KY」という流行語をネタに、秀才顔淵と比較しながら、子路の発言にあらわれた「空気を読まない」、「空気が読めない」ことの正直さを考えることを読者にうながし、「自分のことを好きになろう」というテーマに向かって、「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。」という結論へ進むわけですが、ぼくがおもしろいと思ったのは、別のことで、「そんたく」という最近の流行語にを思い浮かべたことでした。 皆さんも「論語」とかいかがですか?
最終更新日
2021.04.17 00:19:04
コメント(0) | コメントを書く
2021.01.12
山田航・穂村弘「世界中が夕焼け」(新潮社)(その3)
![]() やっとのことでたどり着きました。 超長期天気予報によれば我が一億年後の誕生日 曇り 「日本文学盛衰史」の中で、ブルセラショップの店長さんだか何だかで、糊口をしのいでいる「石川啄木」君が読んだ歌ですね。最後の「曇り」だけ一文字空けになっています。 作者の高橋源一郎の自註に、歌人穂村弘の短歌と記されていて、探していました。 この短歌は「ラインマーカーズ」という歌集に入っていると、山田航の引用には記されていますが、穂村弘は1990年の第1歌集「シンジケート」(沖積舎)から始まり、1992年の第2歌集「ドライ ドライ アイス」(沖積舎)、2001年の第3歌集「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」(小学館文庫)と、作品を歌集として発表していて、2003年の「ラインマーカーズ―The Best of Homura Hiroshi」(小学館)は、書名でもわかりますが、そこまでのベスト版ですね。 この「世界中が夕焼け」という本は2012年に出版されています。だからでしょうか、2018年に出版された第4歌集「水中翼船炎上中」(講談社)にもこの歌は載っています。 話しがそれますが、この第4歌集は構成に工夫があって、面白いつくりになっていますが、「若山牧水賞」なのだそうです。 さて、本書の話に戻ります。山田航の、この歌についての「鑑賞」で、ん?となったのは、まとめのところの、この感想でした。 穂村が啄木に自らを託す歌としてこれを選んだのは、「高すぎる自意識とプライド」という点こそが二人をつなぐ接点だと考えたからではないかと思う。一億年後も自分の名は世界に残っているような気がしてならないという素朴な実感もまた共有しているのだろうか。(山田航) で、穂村の自作解説の結びはこうでした。 誕生日の永久欠番、というなんかそういう感覚にちょっと惹かれるところがありますね。死んだあと幽霊として自分のところに出てきたガールフレンドの髪形がなんか中途半端とかね、そういう事に対するあこがれが何かありますね。 どうして、「ガールフレンドの幽霊」の髪形の話になっているのか、よく分かりません、前後にそういう歌が取り上げられているわけでもありません、が、啄木と、そして穂村自身の「自意識」には。直接コメントしていませんね。ちょっと残念だったのですが、ページを繰っていると、別の歌の話で出てきました。 メガネドラッグで抱きあえば硝子扉の外はかがやく風の屍この歌をめぐっての、山田航の解説はこうでした。 「シンジケート」の頃の作風をほうふつとさせる一首である。「メガネドラッ/グで抱きあえば」といういささかつまずき気味の句跨りになっており、ここにごこか歪みのある都市風景が託されている。 さて、穂村弘がどうこたえるのか。 〈ルービックキューブが蜂の巣に変わるように親友が情婦に変わる〉という歌を、別なところで「親友が恋人になる」に改めて発表したってありますが、これはやっぱり「親友が恋人になる」のほうがいい。そう思って推敲したんでしょう、忘れましたけど。 面白いですね、ぼくは、実作者の発言のほうに納得しました。まあ、「親友が恋人になる」のほうが、より禍々しいというあたりは、もう少し詳しく聞きたいところではあるのですが。 こうなると、作中にこれらの短歌を使用した作家の話も聞いてみたのですが、どこかでしゃべっていないかなあ。もし見つかれば、またお知らせします。 ということで、とりあえず「偽・啄木短歌」探索を終えたいと思います。ここまで読んでいただいてありがとうございました。ああ、この本自体は、穂村弘入門にはなかなかでした。 関心のある方、ぜひ、ご一読ください。じゃあ。 ![]() ![]() ![]()
最終更新日
2021.01.12 00:46:24
コメント(0) | コメントを書く
2021.01.10
山田航・穂村弘「世界中が夕焼け」(新潮社)(その2)
![]() 「穂村弘の短歌の秘密」と副題された「世界中が夕焼け」(新潮社)を読み継いでいます。前回書きましたが、高橋源一郎の小説「日本文学盛衰史」に引用された短歌について「案内」したくて読んでいるのですが、 超長期天気予報によれば我が一億年後の誕生日 曇り という、小説中で石川啄木が詠んだ歌の、ひとつ前のこの歌で、手がとまりました。 ゆめのなかの母は若くてわたくしは炬燵のなかの火星探検 山田航の鑑賞文の中には、この歌に加えて、下の2首の引用があります。 母の顔を囲んだアイスクリークリームらが天使の変わる炎なかで 「母」の死をめぐる、穂村弘による一連の挽歌の中の歌ですね。で、山田航は総括的にこうまとめています。 「火星」だけではなく、「炎」や「朱肉」といった赤のイメージを持つ言葉が氾濫する。これは火葬のイメージにつなげているのである。現実感を失ったふわふわした感覚の喩として、「朱肉のような地面」というのは素晴らしいリアリティを持っている。穂村の計算されつくした技巧が冴え、一連の世界全体が確実に炎のイメージへと向かっていく。 歌人である山田航の「感性」というのでしょうか、おそらく「炬燵」あたりのからの連想でしょうか、「育ってきた昭和」という捉え方は、ちょっと意表をついていますね。「えッ、そこで昭和?」という感じです。 そのあたりについて穂村弘が応答しています。 昔の炬燵ってなんか出っ張りがあって、網々の、その中が赤くて、みんなが膝をぶつけて、その網がゆがんだりなんかしているようなものでしたね。 で、山田航の引用の2首の歌についてはこうです。少し長くなりますが、「読む人」と「作る人」のギャップが、ちょっと面白いので引用します。 「母の顔を囲んだアイスクリーム」というのは、これは比喩だと読まれることがあるのですが、実はそのまんまの実景。 二つ目の「朱肉のような地面」については山田航の指摘した「色」よりも、どちらかというと「感触」についてこだわったことを、こんなふうに語っています。 母親が死んだ後、地面がふわふわするような現実感のない感じ。社会的には葬式とかやんなきゃいけないから、喪服着て髪を整えてみたいなことがあるわけだけど、歩くと道がなんかふわふわするんですよね。 と、まあ、なるほどというか、そうなんですかというか、作った人にしかわからない実景と、実感について語られていますね。 山田航の持ち出してきた「昭和」は、実作者にとっても「炬燵」でよかったわけですが、穂村弘よりも8年早く「昭和」に生まれた、今や、老人の目からすると、「炬燵」をめぐる「昭和」的説明の卓抜さには舌を巻きながらも、それは穂村弘の「昭和」では?と言いたくなるのですね。 穂村自身が語る「母親」の解釈も、ぼくの目から見るといかにも「現代的」で、昭和後期、に育った子供たちに対する、「平成」的認識の解釈が施されて語られているような気もします。 ぼく自身も50代に母を亡くしました。ちょっと大げさになるかもしれませんが、他に知らないのでいうと、ぼくにとって「母」の死は斎藤茂吉の「死にたまふ母」の連作の感じに納得した事件でした。あっちは、まごう方なき「近代文学」なわけで、自分のなかの「近代」性を、再確認させられた事件だったと言っていいかもしれません。まあ、人それぞれなのでしょうが、微妙なズレのようなものがありそうですね。 穂村弘が現代短歌の歌人である所以が、この辺りにあるような気もしました。 いやはや、いつまでたっても「日本文学盛衰史」の引用歌にたどり着きません。次回こそは、ということで、ここで終ります。(その2)でした。(その1}はこちらをクリックしてください。じゃあ、また。 ![]() ![]() ![]()
最終更新日
2021.01.10 17:53:43
コメント(0) | コメントを書く
2021.01.09
山田航・穂村弘「世界中が夕焼け」(新潮社)(その1)
![]() 高橋源一郎の「日本文学盛衰史」(講談社文庫)という作品を読んでいると、作中の石川啄木の短歌というのが出てきますが、実際の啄木の短歌ではありません。偽作ですね。小説の登場人物としての石川啄木の作品として作られた短歌なのですが、作中の作品を「偽作」したのが現代歌人の穂村弘だと、註に書かれているのですが、そうなると興味は移りますよね。 そういうわけで、穂村弘の歌集やエッセイ集を探していて見つけたのがこのがこの本です。 山田航・穂村弘「世界中が夕焼け」(新潮社) 山田航という人は若い歌人らしいのですが、実は、作品も著作も知らないのですが、その山田航という人が、穂村弘の短歌を読んで感想というか、解釈というかを書いて、それを作者である穂村弘が読んだうえで、リアクションしているという構成の本です。 で、50首の、実際は解釈のための引用歌がありますから、もっと多いのですが、章立てとしては50首の短歌が取り上げられています。 終バスに二人は眠る紫の〈降りますランプ〉にとりかこまれて 開巻、第1首がこの歌です。山田航の文章は、まず、この歌が相聞歌であることを指摘し、〈降りますランプ〉という造語に対する批評があって、歌を包む「色」についてこんな指摘が加えられています。 「紫の」にはおそらくこの万葉集のイメージが書けてある。 なるほど、そういうイメージの広がりで読むのかと感心しながらページを繰ると、穂村弘自身の解説があります。 この歌は「降りますランプ」っていう造語がポイントになっているんですが、山田さんが書いていらっしゃる通り、本当は「止まりますボタン」ますボタンなんですよね、現実のバスでは。本来は不自然な造語なんです。引用が長くなりましたが(改行とゴチックは引用者によるものです)、作者自身の解説ですね。こういう調子で、穂村弘の、現在のところの代表歌でしょうね、50首の歌をめぐって二人のやりとりが交互に載せられています。 実は、1首ずつ取り上げて、プロの歌人が読んだ解釈と鑑賞が率直に述べられている本というのは、ありそうで、そうありません。斎藤茂吉のような人の場合は、後の歌人たちによって1首ずつの解釈と鑑賞が、1冊の本にまとめられたりしていますが、それでも、作者自身の感想や自作の意図が述べられているのがセットになっている本には出会ったことがありません。 この本には、現代短歌という文芸を読むという経験としても、「蒙を啓く」というべき指摘も随所にあります。穂村弘という歌人の作品に興味をお持ちの方にとどまらず、現代短歌を読むことを勉強したいと思っている人にはお薦めかもしれませんね。 自分がそういう仕事だったから思うのかもしれませんが、高校とかで短歌を取り上げて授業とかをしようとか考えている人には、なかなかな本ですね。 長くなりますので、とりあえず、本書の「案内」1回目ということで、2回目は、探していた「日本文学盛衰史」の作中歌について、案内したいと思います。それではまた。 ![]() ![]() ![]()
最終更新日
2021.01.10 00:11:26
コメント(0) | コメントを書く
2020.04.09
《2004年 書物の旅 その21》 渡辺実「大鏡の人々」(中公新書)
![]()
![]() ボタン押してね! ボタン押してね! ![]()
最終更新日
2020.11.08 23:49:13
コメント(0) | コメントを書く
2020.03.27
《2004年書物の旅》
小西甚一「古文研究法」(ちくま学芸文庫) ![]() 二十年近く昔のことで、この本がちくま学芸文庫で復刊されるずっと前、こんなことを高校生相手に書いていました。とてもさっこうんの高校生の手におえる参考書とは思えなかったのですが、ハッタリ気分で書いていたら復刊されて驚きました。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 古典の授業をしていて、自分が物を知らない事をつくづく感じています。勉強するべきときに勉強せんとこういうオトナになる、なんて説教をたれる気はありません。しかし、授業中に困っても、まめに調べる気力も最近は失われていて、これは、正直ヤバイのですが、高校生諸君に対しては、せめて参考文献ぐらいは紹介しようという次第です。 そう思いついたのは、なかなか殊勝な態度なのですが、残念ながら受験参考書の類は自分自身が30数年前、必要に30迫られて読んだ、「ある参考書」以来まじめに見たことがないからよく知らないのです。 皆さんが「そんないい加減なことでいいのか!」と怒るのももっともです。しかしね、時々本屋さんが「見本に」といって持ってくる最近の参考書の類はみんな、あの頃読んだ「ある本」の換骨奪胎に見えるのですよ、ぼくには。 「肝」になる文学思想は捨て、外観は似せているが、全体を支える「骨」はありません。やればとりあえず点は取れるようになりますが、古典に対する教養はせいぜい枝葉しか身につきません。クイズに強くなる豆本化しいて、パターンと頻出例を繰り返すだけで味も素っ気もありません。結局、面白いのは、面白くもないゴロ合わせだけという始末です。みんな「当てもん」に強くなるためのテクニックなのですね。 極論かもしれませんが、センター試験の古典で点を取るのは、実は簡単です。一年生で使った教科書がありますね。あれで、漢文はすらすら書き下せること。だから、読めればいいわけですね。古文はすらすら訳せること。それだけ八割は大丈夫です。あの薄い教科書一冊、本文だけでいいです、すべて暗唱できれば、センターなら満点は確実です。 ウソだとは思うが、一度だけシマクマを信じてやろうという人は、この夏休みがチャンスです。せっかくですから、課題の問題集で試してください。 古文、漢文それぞれ15題ありますね。一日、一題づつ、計二題、ノートに本文を写してください。訳や解説は、適当に読んで、線でも引きながらで結構です。これを二往復してください。 でもね、点数が上がって勘違いしてはいけないことがあります。模試の数値は古典文学読解の実力を保証しているわけではないということです。それは忘れないでください。放ったらかしてしまうと、すぐに下がります。 で、話を戻します。読む練習ができて、さあ、ここから必要になる本を参考書と呼ぶのです。ぼくが受験生の時に出会ったある本とは小西甚一という人の「古文研究法」という本ですが、本物の参考書でした。 小西さんのその参考書は「古文とは何か」という大胆な問を設定して受験生に説明しようとしていました。ぼくは読んでいて眠くてしようがなかった記憶があります。アホバカ高校生が「古文とは何か」なんて考えるはずがないわけで、考えたとしても「退屈である」という答えしかなかったはずですから、眠いのも当然でした。しかし、ずっと後になって、この参考書のすごさに納得するのです。 ![]() ボタン押してね! ボタン押してね! ![]() ![]()
最終更新日
2020.12.15 10:50:19
コメント(0) | コメントを書く
2020.02.09
山口昌伴「水の道具誌」(岩波新書)
![]() 勤めていたころの教科書に山崎正和「水の東西」という短いエッセイがありました。今でもあるのでしょうか。 ともかく、「鹿おどし」といういかにも、「侘び」だ、「さび」だと座禅でもくんでいそうな人が感心しそうな装置と、「噴水」というブルボンだのハプスブルグだのいうお菓子屋みたいな名前のフランスやウイーンの王朝文化の象徴みたいな装置を比較して、それぞれの文明を論じたエッセイで、東洋の島国に暮らす人々が流れる水を音で感じて、なおかつ「時間」が絡んでくる、その心のオクにひそむ「???」というふうに展開する文章でした。ぼくは、あんまり好きじゃないんですね、こういうの、今でも。 それを教室で読むのですが、しかし、困ったことがありました。噴水はともかく鹿おどしなんて、生徒さんはもちろんですが、ぼく自身が実際に見たことがあるような、ないような、あやふやな記憶しかありません。あるとしたら京都かどこかのお寺の庭だと思うのですが、それがどこだったか、確かな記憶は、もちろんありません。 ぼくは山の中の村で育ったのですが、近所に「鹿おどし」なんてものがあった記憶は全くありません。だいたい、あの程度の音で野生のシカが逃げるとも思えません。 冬場にでてくるイノシシや鹿の脅しは、実際にバーンと大きな爆発音がする仕掛けだった記憶はありますが、そんなものを取り付けるのはかなり変わった人だったという気がします。今ではサルはもちろんのことクマまで里に降りてきますが、やられ放題です。 話を戻しますが、まあ、こんなふうに、自分でもあやふやな事物についての題材で授業をするような場合、ぼくのようなズボラな人間でも一応商売なのですから、とりあえずネタの仕込みということをするわけです。 で、どこかのお寺に出かけていくような能動的行動力とは、ご存知のとおり(ご存じないか?)無縁なわけですから、当然、手近な方法に頼ることになります。今なら取あえず「ウキペディア」ということでしょか、そういえばユーチューブも重宝かもしれませんね。ぼくの場合は図書館か書店の棚でした。 そうすると、「あった、あった。」となるわけです。この教材の場合は山口昌伴「水の道具誌」(岩波新書)ですね。 鹿おどしをじっと見つめてみる。水がだんだん削ぎ口まで溜まってくる。重心が前に移ってくる。だんだんだんダン!全体が身じろぎしたかに見えて次の瞬間、削ぎ口がサッと下がって水がザッと出てサッとはね上がる勢い余って尻が据え石を叩いてコーン、その瞬間は目にも留まらぬすばやさ、風流とは違うなにかが働いているとしか思えない。 どうです、書き方がいいでしょう。日用品の研究なんて、地道以外のなにものでもない仕事だと思うのですが、この書き方をみて、このおじさん、タダモノじゃないねと思うのはボクだけでしょうか。 なんというか、研究が楽しくて仕方がないという臨場感が伝わってくるでしょう。こういう調子で「馬尻(バケツ)」だとか「束子(たわし)」などという、なにげなさすぎて、まぁ、どうでもいいような道具について、材料、製作法、用途から歴史的変遷まできちんと説明されています。この口調にハマレバ、この上なく面白いのです。 ところで、「鹿おどし」についての薀蓄はどうかというと、こんな感じです。 誰も居ない田や畑の作物を鳥獣の食害から守るには、人がいると見せる案山子のように視覚的な威しもあったが、音を鳴らして威す方が効果的で、雀おどし、鳴子などがあって鹿おどしもその工夫の一つだった。鹿も猿も居ない茶庭に仕掛けるのは、人の心の安逸に流れるのを威す、禅門修業の精神覚醒の装置だった。 ぼくにはどこかの禅寺で「カアーツ!」と両手で捧げ持っていて振り下ろす、あれは何というのでしょう。「杓」でいいのでしょうか。ともかくあれを振り下ろしている住職さんの代わりに、「カアーン」と音をさせる道具が「鹿おどし」だったという理由で「僧都」といいますというほうが面白いのですが、そうではないようですね。道具にはそれぞれ縁起というものがあるのです。ナルホド。 日用品の研究といえば、柳宗悦で有名な「民芸運動」という1930年代に始まった、民衆の道具の技芸の素晴らしさ讃えた文化発掘運動があります。当てずっぽうですが、山口昌伴はきっとその流れの人だと思います。自分の足と目で確かめて、今は使われなくなった道具にたいして、実にやさしい。読んでいて気持ちが和む、そんな本でしたね。 この本もそうですが、日用品を話題にしている本というのは、エッセイとか評論もそうですが、小説や古典の授業でも役に立ちます。「ああ、あれか。」という「安心の素」ですね。 古典とかいいながら、なんなんですが、どっちかというと、現代社会論というほうがピッタリの本ですが、デザイン評論家の柏木博さんとか、おススメです。たとえば「日用品の文化誌」(岩波新書)の中では、住宅そのものから、ゼムクリップまでシャープに論じていてうれしくなります。 まあ、出会った本が面白かったりすると、授業のネタ仕込みは迷路へ迷い込んでしまいますから、その辺は要注意というわけですね。(S) ![]() ボタン押してね! ボタン押してね! ![]() ![]()
最終更新日
2020.12.11 09:21:18
コメント(0) | コメントを書く
2019.09.15
爆笑問題「シリーズ・爆笑問題のニッポンの教養」(講談社)
![]() 「爆笑問題」という漫才のコンビは皆さんご存知でしょう。その二人がNHKテレビで「爆笑問題のニッポンの教養」という番組をつくっていました。見たことのある人もいるかもしれません。 ところで、番組と本書の制作意図について、「爆笑問題」の太田光君が本書の冒頭でこんなことを言っています。 現実の世界に生きている人間は、奇跡のようなことなど、そう起こるもんじゃないと思っている。しかし、縄文時代に生きていた人間の中で、誰がこの現代の人間の生活を想像しできただろうか。― 中略 ― われわれの住む世界は奇跡の世界だ。そしてこの奇跡を創ったのが、学問である。学問が奇跡を生む。では学問はいつから学問になったのか?それは、学問という言葉が生まれた時からではないか。学問とはもともと生きるための知恵のようなものだったはずである。古代では獲物の捕り方、コミュニケーションの仕方、雨風のよけ方、それらの知恵が学問であったはずだ。つまり生き方である。 この世界は奇跡の集合体だ。そしてその奇跡を創ったのが学問であり、だとすれば大学教授とは、奇跡を追及する人のはずだ。それらの人々が「学問」「教授」ということの限定を突破して、大衆の前に思考を晒した時、「学問」は「生き方」に戻るのではないだろうか。心は、本当に自由である。行こうと思えばどこへだって行ける。飛ぼうとする意志さえあれば、我々の思考に怖いものはない。 どうでしょう。新しく高校や、大学で学び始めた人たちにはうってつけのアジテーションではないでしょうか。 たとえば高校なら、中学校ではただの国語だったのに、「古文」「漢文」というふうに、新しい教科が増えますね。大学ならば、「国語」は「文学」に変わって、授業はもっと細分化されるでしょう。「面白くない」「興味がわかない」という不満を聞いたり、「入試のために」、「卒業単位取得のために」という声を聴くことはありますが、新しい生き方のスキルを学び始めているかもしれないという可能性を想像している、あるいは想像していた人はいるのでしょうか。 文系の大学生が、「興味がわかない」から捨ててしまった「数学」でも、「物理」や「生物」でも、そうだったのではないでしょうか。 一つ一つの、細分化されていく「学問」を勉強し始めることが、縄文人がコミュニケーションの仕方に工夫を凝らし、雨風をしのぐために知恵を絞ることで「生き方」を支えたのと、ある意味で同じ「学問」の入り口に立っていることだと自覚している人がいるでしょうか。まだ、充分若い諸君が、学問や勉強という言葉の意味を、このあたりで一度、考え直してみてはどうでしょうか。 「爆笑問題」のこのシリーズは多種多様な学問の現場を訪ねます。例えば、ここにあげた野矢茂樹さんは「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」という有名な言葉を残したヴィトゲンシュタインというスイスの論理哲学者研究の第一人者ですし、中沢新一さんは「チベット仏教」から出発し、ちょっとハッタリ臭いですが、「芸術人類学」という新しい考え方で人間や世界をとらえ直そうとしている宗教学者ですが、諸君が大好きな『すぐに役に立つこと』とは程遠い学問に取りつかれているといってもいい人です。 諸君にとっては知らない名前かもしれませんが、実はそれぞれの分野の最先端の研究者たちであり、超一流のネームヴァリューなのです。さすがNHKという人選ですが、臆せず、ビビらず、カッコつけず挑んでいく太田君と田中君のトークもなかなか大したものだと思います。 ![]() ボタン押してね! にほんブログ村 ![]() ![]()
最終更新日
2020.12.15 10:49:11
コメント(0) | コメントを書く このブログでよく読まれている記事
全19件 (19件中 1-10件目) 総合記事ランキング
|