778467 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

ゴジラ老人シマクマ君の日々

PR

全19件 (19件中 1-10件目)

1 2 >

読書案内「日本語とか日本文学とかベンキョーして、先生になりたい皆さんへ」

2021.09.29
XML
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​週刊 読書案内 尾崎真理子「現代日本の小説」(ちくまプリマー新書)

 詩人の谷川俊太郎に対するインタビュー集「詩人なんて呼ばれて」(新潮社)のインタビュアーをしていた尾崎真理子という人が気にかかって手に取った本がこの本でした。
 「現代日本の文学」(ちくまプリマー新書)です。
 1987年から、本書が出版された2007年の20年間の「現代日本文学」について、感想を交えながら「年表」化、あるいは「文学史」化して、エピソードを紹介解説した著書でした。
 著者の尾崎真理子1959年の生まれで、1992年に読売新聞の文化部に配属され、2020年に退職したときには文化部の次長さんだったようですが、現在は早稲田大学の教授さんのようです。
 尾崎さん「文学史」の肝「1987年」という年を「終わり」と「始まり」に設定したことだと思います。
 本書のプロローグに、1987年とは、二葉亭四迷が本邦初の言文一致体小説「浮雲」を発表してから、ちょうど100年目にあたることを指摘しながら、第1章「一九八七年、終わりの始まり」と題して、こんなふうに書き出しています。
 ここでは四人の人物の紹介を引用します。一人目は「ばなな伝説」の始まりと小見出しをつけてこの方です。​​
 「受賞者は吉本さんの娘らしい」
 一九八七年九月十六日。午後七時頃に第一報は飛び込んできた。応募書類の住所に見覚えがあった編集者が気付いたのだという。東京・文京区内の自宅に急行した読売新聞文化部の先輩記者に、吉本夫妻は、「どうぞ。娘は浅草のアルバイト先から三十分もすれば戻ってきますから」。そんなふうにのんびり応じたという。よしもとばなな伝説は、この日から始まった。
 文芸雑誌「海燕」の今年の新人文学賞に、詩人、評論家の吉本隆明さんの二女吉本真秀さん(23)が入選したことが十六日明らかになった。
 「吉本ばなな」という人を食ったペンネームで応募した受賞作「キッチン」は原稿用紙六十八枚。祖父母に育てられ、台所の冷蔵庫のそばにいる時が一番心が休まるという孤独な少女が、祖父母の死後、友人の家庭に引きとられる。その家で、友人の母親として親し んだ女性が、実は女装の男だった―という奇妙なストーリー。(P13~14)
 ​二人目が、今や「世界の村上」村上春樹「ノルウェイの森」です。
​​ 一九八七年九月十七日。「100パーセントの恋愛小説」。その帯の文章も赤と緑の上・下巻の装丁案も作家自身が手掛けたという、村上春樹(当時38歳)の書き下ろし長編『ノルウェイの森』が全国の書店に平積みでお目見えしたのは、その一週間前、九月十日のことだった。初版は講談社の文芸書としても異例の二十万部。
 ― ハンブルグ空港に着陸する直前の飛行機のなかで、BGMとして流れてきたビートルズの「ノルウェイの森」によって、三十七歳の男性主人公が、不意に記憶をかき乱されることころから、曲と同名のこの物語は始まる。(P14~15)​​
​ 三人目が、さて、この方は「始まり」を象徴するのか、「終わり」の人なのか。まだ「ノーベル賞」はとっていませんが、デビュー作「奇妙な仕事」を東大新聞に発表したのが1957年です。30年後の大江健三郎です。
​​ 翌十月、戦後を生きてきた知識人の精神的自伝ともいうべき書き下ろし長編が発表された。大江健三郎(当時52歳)の『懐かしい年への手紙』。同年末の文芸作品の回顧記事で1987年の収穫として批評家各氏が多く挙げ、今日でも大江の代表作の一つとして名高い。だが、当の大江は、発表当時の忘れられない光景を次のように語るのだ。
〈『懐かしい年への手紙』が出た直後、沖縄だったと思いますが、地方に出掛けていて、気になりますから東京に戻るとすぐ大きい書店に行ってみた。そうすると平積みされているのが一面、赤と緑のきれいな装丁の『ノルウェイの森』で、私の本はその奥から恥ずかしそうにこちらを見ていた(笑)。非常に印象深いんです。そう小説が読まれる機運の転換が。〉(P15​)​​
 ​そして、もう一人、新しく始まったのは「小説」の言葉だけではありませんでした。
 ​五月。前年に短歌の芥川賞ともいわれる第三十二回角川短歌賞を受賞した歌人、俵万智(当時24歳)の『サラダ記念日』が河出書房新社から初版三千部で出版されると、直後から問い合わせが殺到し、ベストセラーリストのトップに躍り出た。
〈「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの〉
〈万智ちゃんを先生と呼ぶ子らがいて神奈川県立橋本高校〉
 若い国語教師の第一歌集から、現代短歌の口語化が一気に加速した。歌壇のみならず、文学史上の事件になっていった。(P17~18)​​
 いかがでしょうか、1987年、すごい年だったのですね。世界文学の動向を知りませんから、まあ、日本文学という、範疇に限ればという面はあると思いますが、同時代に30代だった目から見て、なるほどなあと感心しました。
 引用箇所が日付で始まっているのは、著者である尾崎さんが、新聞紙上に載った記事の引用で、解説を進めているせいなのですが、ここから20年、実にジャーナリスティックに「新しい文学」と、終わったのかもしれない「古い文学」が対比されて、紹介、解説されていきます。
 2000年を超えたあたりに現れる「蹴りたい背中」の綿矢りさ「蛇にピアス」の金原ひとみを次の画期として、IT化、デジタル化が、さらに「新しい文学」の方向性として論じられて「現代日本の小説」史は幕を閉じます。「簡にして要を得た」というべき内容で、同時代を生きてきた人間には、とてもよくできた見取り図でした。
 ただ、不思議なことは、この本が「ちくまプリマ―新書」一冊に入れられたことです。果たして、この本が出版された2007年当時の高校生はこの本を読んだのだろうかということでした。
 当時、図書館係だったゴジラ老人には、棚に並べたこの本を手に取った高校生の記憶が全くないのです。「アーカイブ」という言葉が流行りはじめた頃でしたが、「イイネ!」の前に「歴史」が廃れる時代が始まっていたのでしょうか。
 本書の帯には、「激変した日本人の感受性」とありますが、ひょっとしたら「ばなな」「春樹」も過去かもしれないと感じる読後感でした。

​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​

​​​​​​​​​​​​PVアクセスランキング にほんブログ村

にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ


にほんブログ村 本ブログへ






ゴジラブログ - にほんブログ村​​

​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​






最終更新日  2021.09.29 14:08:30
コメント(0) | コメントを書く


2021.07.11
​​​​​​荘魯迅「声に出してよむ漢詩の名作50」(平凡社新書)​

 磧中作       磧中の作    岑參
走馬西来欲到天  馬を走らせて西に来たり 天に到らんと欲す
辞家見月両回円  家を辞して月の両回円かなるを見る
今夜不知何処宿  今夜 知らず 何れの処んか宿せん
平沙莽莽絶人煙  平沙 莽莽 人煙を絶つ
​​西へ西へと馬を走らせ、地の果てを越えて天にまでたどり着きそうだ。
家にいとまを告げ旅立って以来、もう二度も月が丸くなるのを見た。
今夜はいったい、どこに泊まればいいのだろうか。
この茫々たる砂漠を見渡す限り、人家の煙など全く立っていないのだ。
 本書の「流沙蒼天いずこに宿らん」と題されて、​岑參(しんじん)​という、杜甫とかと同時代、盛唐の詩人の詩の紹介の章にあった「磧中作」という詩の本文、書き下し、口語訳です。​​​​
​ 本書は「唐代」の詩42首、唐以前は「荊軻」、「項羽」、「陶淵明」の3首、以後が「蘇軾」、「陸游」など5首、計50首の、いずれも超有名な、まあ、高校の教科書などでも取り上げられている漢詩を紹介した、いってしまえばありがちな本です。書名も「声に出してよむ漢詩の名作50」ですから、今のハヤリの本の一冊といっていいかもしれません。​
 普段は、あんまり近づかない書名ですが、市民図書館で何となく手に取って、なんとなく借りてきました。
 で、はまりました。一応、そういうお仕事でしたから、教科書に出てくるような詩については、知っているつもりでいましたが、1首、1首、のんびり読み始めるとやめられなくなりました。
​​ 2000年を超える歴史の中で、選りすぐられた「傑作」の迫力とでもいえばいいのでしょうか。著者荘魯迅さんによる解説も、簡にして要、「そうだったのか」と納得させられることも多く、たとえば、「磧中作」の解説はこんな感じでした。​​
 磧とはゴビ砂漠のことをいう。作品は冒頭から、緊迫した雰囲気を漂わせている。馬を走らせてめざすのは西の果て、高仙芝の舞台の駐屯地。軍務に赴くために先を急ぐが、行けども行けども目に映るのは砂漠と蒼天のみ。このまま走れば天上に行きついてしまうのではないか。「欲到天」は、初めて砂漠に身をおいた人間の驚きを如実に語っている。
 ここまでの前半は、「辞家」をめぐって展開されたが、起句が家から砂漠に至るまでの距離(空間)の長さを示すのに対し、承句は出発してから二か月も経つ時間の久しさを表す。だが、それは単に時の経過だけではない。中国では、満月は団欒の象徴であり、それを二回も見た詩人の心には、今まさに郷愁が溢れんとしている。
​ 解説文の一部ですが、たとえば「満月」のくだりとかで「あっ、そうかそうか」と納得したりするのでした。まあ、ぼくがものを知らないというに過ぎないかもしれませんが、若い国語の先生とかにはおススメではないでしょうか。
 実は、この本の特徴は詩の全文に対して拼音(ピンイン)、中国語の発音記号がほどこされていて、ぼくはできませんが、中国語が読める人には「中国語」で読める工夫があることです。
 で、できない人はどうするかというと、平凡社のこの本のサイトを探すと「朗読」を聞くことができるようになっていて、それに合わせて初歩しか知らないぼくのようなものでも、声に出して読んでみるということができるという仕組みなのです。

 今どき、ありがちなサービスかもしれませんが、たどたどと、中国語で漢詩を読んでみるのは悪くないですよ。
​​​ ちなみに、「磧中作」の結句「平沙莽莽絶人煙」「平沙萬里人煙絶」が一般かもしれません。​​​

​​​​​​​​​​​​PVアクセスランキング にほんブログ村

にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ


にほんブログ村 本ブログへ






ゴジラブログ - にほんブログ村​​

​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​






最終更新日  2021.07.11 02:38:28
コメント(0) | コメントを書く
2021.04.17
​​​​​​山田史生「孔子はこう考えた」(ちくまプリマー新書)

​​ 以前、おなじ「ちくまプリーマー新書」の一冊で​「受験生のための一夜漬け漢文教室」(ちくまプリマー新書)​という参考書(?)を案内したことがありますが、今回のこの本、「孔子はこう考えた」は同じ著者山田史生さん「論語」入門書といっていいでしょう。​​
 大学入試突破のお手伝いをする現場から離れて3年たってしまいました。その頃は、センター試験とか、そうはいっても、毎年解いていましたが、今では「問題」を見るどころか、いつあったのかすら気付きません。高校の国語の内容も大きく変わると評判になっていますが、実情についてはよく知りません。
 で、今頃、なんで「論語」なんか読んでいるのか、というわけですが、そこはやはり昔取った杵柄というか、孔子先生の言葉を借りれば「学びて時に之を習う、亦、説しからずや」。という感じでしょうか。
 「これって高校生にいいんじゃないの」と気づいた本は手に取る、まあ、癖のようなものはまだ残っていて、先日、市民図書館の棚で見つけたのがこの本です。
 大学入試に即していえば「漢文」は、「古典」という教科の中の一科目ですが、個々の大学の入試で「漢文」を課す大学は、ぼくが、仕事を辞めるころにはもうありませんでした。かろうじて、センター試験の中の「国語」200点のうち50点が「漢文」の問題という所に残っているだけだったと思います。
 ところが、公立の高校入試の場合は100点中、20点ほどの割合で、毎年、出題されていたのですが、今はどうなっているのでしょうね。
 「漢文」なんて、役に立たない、お得にならない教科なのでしょうか。そのあたりを、ゴチャゴチャ議論するのはやめますが、一つだけ言えば、「論理国語」なんていう教科を新設するくらいなら「漢文」の時間数を増やした方が、目的に対しては「お得」で「役に立つ」と思うのですが、でも、まあ、すくなくとも、2020年現在の「文部大臣」「総理大臣」といった方々は、「漢文」どころか、漢字そのものの常識も疑わしいわけですから、まあ、世の流れで「漢文」なんて見向きもされないのはしようがありませんね。
​​ まあ、そういうわけで、本書の案内ですが、この本では「自分のことを好きになろう」というテーマを第1章に掲げて、「孔子」について語り始めています。​​
 最近の世相を見ていて、ちょっと面白いなと思ったのは、「論語:公冶長」編にあるこんな文章を取り上げていたところです。本文では、巻末にまとめてありますが、まず、肝試し代わりに白文を引用します。読めますか?
顏淵季路侍。子曰、盍各言爾志。子路曰、願車馬衣輕裘與朋友共、敝之而無憾。顏淵曰、願無伐善、無施勞。子路曰、願聞子之志。子曰、老者安之、朋友信之、少者懷之。
​ マア、読めなくても大丈夫です。​この文章に対して、山田先生はこんな前振りをして解説を始めます。​
 「空気が読めない」という言葉がある。「KY」と略したりするようである。
 若者が「お前空気読めよ」といっているのが聞こえてくると、イヤな感じがする。
 ​そういう人なんですね、山田先生は。続けて、書き下し分と、口語訳がついています。
 こちらが書き下しです。
 ​顏淵、季路、侍す。子曰く、蓋(なん)ぞおのおの爾(なんじ)の志を言わざる。子路曰く、願わくは車馬衣軽裘、朋友と共にし、之を敝(やぶ)るとも憾(うら)むこと無けん。顔淵曰く、願わくは善に伐(ほこ)ること無く、労を施すこと無けん。子路曰く、願わくは子の志を聞かん。子曰く、老いたる者は之を安んじ、朋友は之を信じ、少(わか)き者は之を懐(なつ)けん。​
 続けて口語訳。
 ​顔淵と子路(季路とも)とが先生のそばにいたときのこと。先生「こうありたいという願いをいってごらん」。子路「乗り物や着物や毛皮を友達と共有したら、たとえ使いつぶされてもイヤな顔をしないようにしたいです」。顔淵「どんなに善いことしても自慢せず、ひとさまに迷惑をかけないようにしたいです」。子路「先生の望みもお聞かせください」。先生「年寄りとはリラックスしておしゃべりし、友だちとはざっくばらんにつきあい、若いひととも気がねなくやりたいね」。
​ かなり、くだけた調子ですが、問題ないでしょう。さて、ここからが解説です。
 子路はもと遊侠の徒だったからガラがわるい。しょっちゅうドジをやらかすんだけど、どこか憎めない。
 「おまえの望みをいってみよ」といわれて、「待ってました」とばかり子路はいう。オレの愛車や革ジャンをダチに貸してやって、それがボロボロにされてもはらをたてないような、そんな男になりたいっす。
 孔子と顔淵とは困ったような顔をしている。いやはや、子路らしいな、と。お里が知れるといったところである。子路にしてみれば、どうしして困られちゃうのか、さっぱりわからない。子路は、果たして空気が読めない男なのだろうか?
 それにひきかえ顔淵の答えは、いかにも優等生である。模範的な答えで、もちろん文句のつけようはない。その文句のつけようのないところが、どうしようもなくダメである。自分の答えがつまらないことに(そして孔子も頭の片隅でつまらないとかんじているということに)顔淵は気付いているのだろうか?もし気づいていないとしたら、顔淵もまた空気が読めない男なんじゃないだろうか。
 子路にせがまれ、孔子はいう。先輩からは「こいつにまかせておけば安心だ」と信頼してもらえ、同輩からは「かれといっしょならやってみたい」と仲間にしてもらえ、後輩からは「このひとのようになりたい」と慕ってもらえるような、そんな自分でありたいと。
 子路は、孔子の望む人間像とは正反対の男である。先輩からは危なっかしがられ、同輩からは煙たがられ、後輩からは軽んぜられるという、どうしようもない問題児である。けれども、そんな子路のことを孔子はこころから信頼している。

​ ​と、まあ、山田先生の論は、「KY」という流行語をネタに、秀才顔淵と比較しながら、子路の発言にあらわれた「空気を読まない」「空気が読めない」ことの正直さを考えることを読者にうながし、「自分のことを好きになろう」というテーマに向かって、「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。」という結論へ進むわけですが、ぼくがおもしろいと思ったのは、別のことで、「そんたく」という最近の流行語にを思い浮かべたことでした。
 「忖度」と漢字で書くこの言葉が、はやりはじめた詳しい経緯は知りませんが、ここ十年、高校の教室でハヤッテいた「空気を読む」をいう同調圧力の共有による、ニヤニヤ笑いの「平和意識」が、いよいよ一般社会でもあきらかな汚職の「合法化」用語として出回り始めているのだなと思うのですが、現在の「ものわかりのいい」諸君は、少なくとも、世事は知っている、正義漢子路どころか、「理想」に対して朴訥無双の顔淵からもはるかに遠いところにいることに、思わず気づかされたというおもしろさでした。
 落ち着いて考えれば、暗澹とする世相ですが、まあ、「論語」あたりから読んでみるのも面白いのかもという、思いがけない発見の書だったということです。

 皆さんも「論語」とかいかがですか?










最終更新日  2021.04.17 00:19:04
コメント(0) | コメントを書く
2021.01.12
​​​​ 山田航・穂村弘「世界中が夕焼け」(新潮社)(その3)


 やっとのことでたどり着きました。
超長期天気予報によれば我が一億年後の誕生日 曇り
                「ラインマーカーズ」(2003)
​ ​​​「日本文学盛衰史」の中で、ブルセラショップの店長さんだか何だかで、糊口をしのいでいる「石川啄木」君が読んだ歌ですね。​​最後の「曇り」だけ一文字空けになっています。​
​​​ 作者の高橋源一郎の自註に、歌人穂村弘の短歌と記されていて、探していました。
 この短歌は「ラインマーカーズ」という歌集に入っていると、山田航の引用には記されていますが、​穂村弘​は1990年の第1歌集「シンジケート」(沖積舎)から始まり、1992年の第2歌集「ドライ ドライ アイス」(沖積舎)、2001年の第3歌集「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」(小学館文庫)と、作品を歌集として発表していて、2003年の「ラインマーカーズ―The Best of Homura Hiroshi」(小学館)は、書名でもわかりますが、そこまでのベスト版ですね。​​​

​​ この「世界中が夕焼け」という本は2012年に出版されています。だからでしょうか、2018年に出版された第4歌集「水中翼船炎上中」(講談社)にもこの歌は載っています。​​
 話しがそれますが、この第4歌集は構成に工夫があって、面白いつくりになっていますが、「若山牧水賞」なのだそうです。
​ さて、本書の話に戻ります。山田航の、この歌についての「鑑賞」で、ん?となったのは、まとめのところの、この感想でした。​
​​​ 穂村が啄木に自らを託す歌としてこれを選んだのは、「高すぎる自意識とプライド」という点こそが二人をつなぐ接点だと考えたからではないかと思う。一億年後も自分の名は世界に残っているような気がしてならないという素朴な実感もまた共有しているのだろうか。​(山田航)​​​​
​ ​で、穂村の自作解説の結びはこうでした。
​​ 誕生日の永久欠番、というなんかそういう感覚にちょっと惹かれるところがありますね。死んだあと幽霊として自分のところに出てきたガールフレンドの髪形がなんか中途半端とかね、そういう事に対するあこがれが何かありますね。
 その「曇り」とちょっと近い感じなんだけど、人間って髪型がいつもそうなるものじゃないのかな。と。髪型が中途半端な気味が好きだっていうのは、ぼくの感覚ではとてもいい愛の言葉なんだよね。(穂村)
​ ​​​どうして、「ガールフレンドの幽霊」の髪形の話になっているのか、よく分かりません、前後にそういう歌が取り上げられているわけでもありません、が、啄木と、そして穂村自身の「自意識」には。直接コメントしていませんね。ちょっと残念だったのですが、ページを繰っていると、別の歌の話で出てきました。
​​​メガネドラッグで抱きあえば硝子扉の外はかがやく風の屍
​  高橋源一郎「日本文学盛衰史」(2001)所収 石川啄木の歌として書下ろし​
 ​​この歌をめぐっての、山田航の解説はこうでした。​
​​​「シンジケート」の頃の作風をほうふつとさせる一首である。「メガネドラッ/グで抱きあえば」といういささかつまずき気味の句跨りになっており、ここにごこか歪みのある都市風景が託されている。
​(中略)​
 そして何より大事なのが、これが石川啄木作という設定で書き下ろされた作品であること。
 非常に穂村的な作風なのだが、穂村なりに啄木に思いを馳せて作ったと思われる。風の屍に囲まれて硝子扉をはめられたメガネドラッグは、啄木が感じていた時代の閉塞感の比喩なのだろう。
 そして、現代の歌人である穂村もまた。啄木と同質の閉塞感にシンパシーを覚えていたのだろう。

ひまわりの夏よ 我等の眼よりゴリラ専用目薬溢れ

ルービックキューブが蜂の巣に変わるように親友が情婦に変わる
 ほかに「日本文学盛衰史」に寄せられた歌にはこのようなものがある。
後者は後に「親友が恋人になる」と改められて発表されている。
 外に出られない、出ても何も変わらない世界の中で、ひたすら小さな変化と他者との感情の交感を求め続けていた人。それが穂村にとっての啄木像だったのだろうか。(山田)
​ さて、穂村弘がどうこたえるのか。​
 〈ルービックキューブが蜂の巣に変わるように親友が情婦に変わる〉という歌を、別なところで「親友が恋人になる」に改めて発表したってありますが、これはやっぱり「親友が恋人になる」のほうがいい。そう思って推敲したんでしょう、忘れましたけど。
 つまり「ハチの巣」と「情婦」がつき過ぎで、情婦だと蜂の巣のようにまがまがしいってことが普通になっちゃうんだけど、実は恋人のほうがよりまがまがしいんだっていう感覚。親友が恋人になることがより怖いと思い直して推敲したんだろうな。これを読んで思い出しました。
 啄木像は意識していません。実際の啄木に合わせてもあまり意味がないような内容でしたから。小説のなかの啄木のほうは多少意識しました。​(穂村)​
​ ​面白いですね、ぼくは、実作者の発言のほうに納得しました。まあ、「親友が恋人になる」のほうが、より禍々しいというあたりは、もう少し詳しく聞きたいところではあるのですが。​
​ こうなると、作中にこれらの短歌を使用した作家の話も聞いてみたのですが、どこかでしゃべっていないかなあ。もし見つかれば、またお知らせします。
 ということで、とりあえず「偽・啄木短歌」探索を終えたいと思います。ここまで読んでいただいてありがとうございました。ああ、この本自体は、穂村弘入門にはなかなかでした。​

 関心のある方、ぜひ、ご一読ください。じゃあ。

​​​​


PVアクセスランキング にほんブログ村

にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ


にほんブログ村 本ブログへ






ゴジラブログ - にほんブログ村​​

​​​​​​​​​



​​​​






最終更新日  2021.01.12 00:46:24
コメント(0) | コメントを書く
2021.01.10
​​​​​​山田航・穂村弘「世界中が夕焼け」(新潮社)(その2)

​​ 
「穂村弘の短歌の秘密」と副題された「世界中が夕焼け」(新潮社)を読み継いでいます。前回書きましたが、高橋源一郎の小説「日本文学盛衰史」に引用された短歌について「案内」したくて読んでいるのですが、​
​超長期天気予報によれば我が一億年後の誕生日 曇り​
​ という、小説中で石川啄木が詠んだ歌の、ひとつ前のこの歌で、手がとまりました。
​​​ゆめのなかの母は若くてわたくしは炬燵のなかの火星探検​
               「火星探検」(「短歌」2006年1月号)
​ ​山田航の鑑賞文の中には、この歌に加えて、下の2首の引用があります。​
母の顔を囲んだアイスクリークリームらが天使の変わる炎なかで

髪の毛をととのえながら歩きだす朱肉のような地面の上を
​ ​​「母」の死をめぐる、穂村弘による一連の挽歌の中の歌ですね。で、山田航は総括的にこうまとめています。​​
「火星」だけではなく、「炎」や「朱肉」といった赤のイメージを持つ言葉が氾濫する。これは火葬のイメージにつなげているのである。現実感を失ったふわふわした感覚の喩として、「朱肉のような地面」というのは素晴らしいリアリティを持っている。穂村の計算されつくした技巧が冴え、一連の世界全体が確実に炎のイメージへと向かっていく。
 幼少時の「わたくし」が炬燵の中の「火星探検」というごっこ遊びに興じられたのは母という偉大なる庇護者の存在があったからだろう。母の存在が「ゆめ」となって焼失した現実のまでふらふらと歩き続ける穂村は、やがて自分が育ってきた昭和という時代を清算するべくねじくれたノスタルジーを追求するようになる。それは失われた自分自身を探し求める旅なのである。(山田)

​ 歌人である山田航の「感性」というのでしょうか、おそらく「炬燵」あたりのからの連想でしょうか、「育ってきた昭和」という捉え方は、ちょっと意表をついていますね。​「えッ、そこで昭和?」という感じです。
​ そのあたりについて穂村弘が応答しています。​
 昔の炬燵ってなんか出っ張りがあって、網々の、その中が赤くて、みんなが膝をぶつけて、その網がゆがんだりなんかしているようなものでしたね。
(中略)
で、子供は必ず一度はその炬燵の中にもぐってみたりする。それもそういう昭和的な感じがもちろん強いわけですね。だから、お母さんだ台所で夕餉のしたくをしている時に、僕は炬燵の中で火星探検という体感です。山田さんが書いているとおりです。(穂村)
​ で、​山田航​の引用の2首の歌についてはこうです。少し長くなりますが、「読む人」と「作る人」のギャップが、ちょっと面白いので引用します。
​​ 「母の顔を囲んだアイスクリーム」というのは、これは比喩だと読まれることがあるのですが、実はそのまんまの実景。
 うちの母は糖尿病で亡くなったんですけど、甘いものがとっても好きで、もうこれで好きなだけ食べられるよ、というので、お棺の中にアイスクリームを入れたんですよね、本物の。
 それが何ていうか印象的で、アイスクリームが燃えるっていう感じに何かこう、ショックみたいなものを覚えたんです。母親と一緒にアイスクリームも燃えるというイメージをそのまま書いたんだけど、わりとそれは読み手には伝わらなかったみたいで、これは何かのメタファーだという読まれ方が多いですね。​(穂村)
​ ​​二つ目の「朱肉のような地面」については山田航の指摘した「色」よりも、どちらかというと「感触」についてこだわったことを、こんなふうに語っています。​​
 ​母親が死んだ後、地面がふわふわするような現実感のない感じ。社会的には葬式とかやんなきゃいけないから、喪服着て髪を整えてみたいなことがあるわけだけど、歩くと道がなんかふわふわするんですよね。
 自分を絶対的に支持する存在って、究極的には母親しかいないって気がしていて。殺人とか犯したりした時に、父親はやっぱり社会的な判断というものが昨日としてあるから、時によっては子供の側に立たないことが十分ありうるわけですよね。
 でも母親っていうのは、その社会的判断を超越した絶対性を持っているところがあって、何人人を殺しても「〇〇ちゃんはいい子」みたいなメチャクチャな感じがあって、それは非常にはた迷惑なことなんだけど、一人の人間を支える上においては、幼少期においては絶対必要なエネルギーです。それがないと、大人になってからいざという時、自己肯定感が持ちえないみたいな気がします。(穂村)​
​ と、まあ、なるほどというか、そうなんですかというか、作った人にしかわからない実景と、実感について語られていますね。
​​​​​​ 山田航の持ち出してきた「昭和」は、実作者にとっても「炬燵」でよかったわけですが、穂村弘よりも8年早く「昭和」に生まれた、今や、老人の目からすると、「炬燵」をめぐる「昭和」的説明の卓抜さには舌を巻きながらも、それは穂村弘の「昭和」では?と言いたくなるのですね。​​​​​​
​ 穂村自身が語る「母親」の解釈も、ぼくの目から見るといかにも「現代的」で、昭和後期、に育った子供たちに対する、「平成」的認識の解釈が施されて語られているような気もします。​
 ぼく自身も50代に母を亡くしました。ちょっと大げさになるかもしれませんが、他に知らないのでいうと、ぼくにとって「母」の死は斎藤茂吉「死にたまふ母」の連作の感じに納得した事件でした。あっちは、まごう方なき「近代文学」なわけで、自分のなかの「近代」性を、再確認させられた事件だったと言っていいかもしれません。まあ、人それぞれなのでしょうが、微妙なズレのようなものがありそうですね。
 ​穂村弘​が現代短歌の歌人である所以が、この辺りにあるような気もしました。
 いやはや、いつまでたっても「日本文学盛衰史」の引用歌にたどり着きません。次回こそは、ということで、ここで終ります。(その2)でした。(その1}はこちらをクリックしてください。じゃあ、また。

PVアクセスランキング にほんブログ村

にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ


にほんブログ村 本ブログへ






ゴジラブログ - にほんブログ村​​

​​​​​​​​​



​​​​






最終更新日  2021.01.10 17:53:43
コメント(0) | コメントを書く
2021.01.09
​​山田航・穂村弘「世界中が夕焼け」(新潮社)(その1)


​ 高橋源一郎「日本文学盛衰史」(講談社文庫)という作品を読んでいると、作中の石川啄木の短歌というのが出てきますが、実際の啄木の短歌ではありません。偽作ですね。小説の登場人物としての石川啄木の作品として作られた短歌なのですが、作中の作品を「偽作」したのが現代歌人の穂村弘だと、註に書かれているのですが、そうなると興味は移りますよね。​
​ そういうわけで、穂村弘の歌集やエッセイ集を探していて見つけたのがこのがこの本です。​
 ​山田航・穂村弘「世界中が夕焼け」(新潮社)​
​ 山田航という人は若い歌人らしいのですが、​​​実は、作品も著作も知らないのですが、その山田航という人が、穂村弘の短歌を読んで感想というか、解釈というかを書いて、それを作者である穂村弘が読んだうえで、リアクションしているという構成の本です。​​​​
 で、50首の、実際は解釈のための引用歌がありますから、もっと多いのですが、章立てとしては50首の短歌が取り上げられています。
​​終バスに二人は眠る紫の〈降りますランプ〉にとりかこまれて​​
​                    (歌集「シンジケート」)​
​ 開巻、第1首がこの歌です。山田航の文章は、まず、この歌が相聞歌であることを指摘し、​〈降りますランプ〉​という造語に対する批評があって、歌を包む「色」についてこんな指摘が加えられています。
「紫の」にはおそらくこの万葉集のイメージが書けてある。

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る   額田王​
​ ​なるほど、そういうイメージの広がりで読むのかと感心しながらページを繰ると、穂村弘自身の解説があります。​
 この歌は「降りますランプ」っていう造語がポイントになっているんですが、山田さんが書いていらっしゃる通り、本当は「止まりますボタン」ますボタンなんですよね、現実のバスでは。本来は不自然な造語なんです。
 でも、歌を読む人には、これで瞬間的にわかる。あまり違和感を持たない。作者としては、「止まりますボタン」では字余りになるという音数の問題と、何よりも取り囲まれている光に注目したい、ということで「降りますランプ」という言葉を取り込んでいます。
 あとから見直すと、この歌はMとRの音の組み合わせが多くて、「ムル」「ムラ」「リマ」「ラン」「マレ」と五回出てくるとインターネットで指摘されました。
 作ったときは作者も無意識なんですが、長く記憶に残る歌には、内容以上にそういう音の側面に理由がある場合が多い、と高野公彦さんがよくおっしゃっています。たぶん読む人は、本当は「止まります」だよ、と意識しないように、MとRの音が多いな、なんて意識しないわけだけれど、意識下で、この響きを感じているらしい。
 歌というのは、他の文芸ジャンルに比べて、この意識下で感じている領域に依存度が高いんですね。歌は調べ、っていうくらいですから。​
 ​​引用が長くなりましたが(改行とゴチックは引用者によるものです)、作者自身の解説ですね。こういう調子で、穂村弘の、現在のところの代表歌でしょうね、50首の歌をめぐって二人のやりとりが交互に載せられています。​
 実は、1首ずつ取り上げて、プロの歌人が読んだ解釈と鑑賞が率直に述べられている本というのは、ありそうで、そうありません。斎藤茂吉のような人の場合は、後の歌人たちによって1首ずつの解釈と鑑賞が、1冊の本にまとめられたりしていますが、それでも、作者自身の感想や自作の意図が述べられているのがセットになっている本には出会ったことがありません。
​ この本には、現代短歌という文芸を読むという経験としても、「蒙を啓く」というべき指摘も随所にあります。穂村弘という歌人の作品に興味をお持ちの方にとどまらず、現代短歌を読むことを勉強したいと思っている人にはお薦めかもしれませんね。​
 自分がそういう仕事だったから思うのかもしれませんが、高校とかで短歌を取り上げて授業とかをしようとか考えている人には、なかなかな本ですね。
 長くなりますので、とりあえず、本書の「案内」1回目ということで、2回目は、探していた「日本文学盛衰史」の作中歌について、案内したいと思います。それではまた。
PVアクセスランキング にほんブログ村

にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ


にほんブログ村 本ブログへ






ゴジラブログ - にほんブログ村​​

​​​​​​​​​






最終更新日  2021.01.10 00:11:26
コメント(0) | コメントを書く
2020.04.09
​​​​​​ 《2004年 書物の旅 その21》 渡辺実「大鏡の人々」(中公新書)


 受験参考書ではありませんが、平安時代とはどんな時代だったかという事を「大鏡」を解読しながら平安朝古文の素人にも面白く、ホント、実に面白く解説してみせた本が渡辺実「大鏡の人びと」(中公新書​)​です。
 最近はやりの書名をもじっていうなら《大鏡を読む》とでもいうべき本ですね。内容を一言でいうなら「大鏡」に代表される平安朝の男性原理の解説ということになるでしょう。
 宮廷女房文学が主流の平安朝文学史にあって、ほとんど、たった一つ男性原理で書かれている作品「大鏡」を取り上げて、「男性原理」を読み取るという視点から論じたところが著者のセンスの冴えたところです。
 
当然のことながら、百八十歳を越える大宅世継や夏山繁樹などという人を食ったキャラクターや名前の人物を語り手として配置した、この歴史物語が一筋縄で解読されるはずはありません。「伊勢物語」の「みやび」から「源氏物語」の「もののあわれ」に昇華されて行くかに見える、「かそけき」平安朝美意識を陰謀・大胆・憎悪・奇行・高笑いの連打によってあざ笑うかのよう描いているのが「大鏡」というわけです。
 
​たとえば高校の教科書に出てくる「枕草子」-古今の草子を-の一節に村上帝と宣耀殿の女御との美しいエピソードがありますね。まあ、よく読むと案外露骨なお話しなのだけど、「大鏡」にかかれば、好色な帝王と帝王をめぐって渦巻く嫉妬や露骨な権力争いの合間の「みやび」にすぎない話に様変わりすることを「大鏡の人びと」の著者は鮮やかに解説してくれています。
 ​
​視点を変えれば出来事の意味が変化する面白さですね。枕草子や伊勢物語の作者たちが描きたがる「みやびな世界」を相対化する大鏡のリアリズムと言えばいいのでしょうか。そこに時代の実相を読み込んでゆく渡辺実の筆致は実に痛快、かつ、爽快です。
 ​
​​​とまあえらそうに書いているのですが、実はこの先生、「国語構文論」・「平安朝文章史」なる論文で知られる、かなり上等の国語学者なのです。それらの本は、せいぜいページを繰ったことを自慢にする、ぼくごときにはとても「案内」できません。
 この本も1987年に出版された古典的名著ですが、今や絶版でしょうね。購入して手にするのが難しいかもしれませんが、図書館の中公新書の棚にはあるでしょう。高校生が読んで損はないと思います。
 ちなみに、渡辺さんには「さすが!日本語」(ちくま新書)という副用語を話題にした、一般向けのエッセイもあります。もう八十歳を越えていらっしゃると思うのですが、センスのよさがこちらの本でも古びていない所がさすがです。こっちの本は流行りすたり​​​
の激しい今日この頃といえども、さすがに本屋さんの棚にまだあると思いますよ。
追記2020・04・09
 
渡辺さんは2019年の暮れに、亡くなっていらっしゃるようです。岩波書店から出ている「日本語概説」が机の横の本立てにあります。大学生のための教科書ですが、実際には教員をしていたぼく自身にとって、ずーっと教科書だった本です。
 20代から、心を引き付けられた人たちが、次々と他界されるのを知るのは、やはり寂しいものです。​


PVアクセスランキング にほんブログ村
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ
ボタン押してね!

にほんブログ村 本ブログへ
ボタン押してね!


​​​





ゴジラブログ - にほんブログ村​​






最終更新日  2020.11.08 23:49:13
コメント(0) | コメントを書く
2020.03.27
​​​​​​《2004年書物の旅》
​小西甚一「古文研究法」(ちくま学芸文庫)
 
二十年近く昔のことで、この本がちくま学芸文庫で復刊されるずっと前、こんなことを高校生相手に書いていました。とてもさっこうんの高校生の手におえる参考書とは思えなかったのですが、ハッタリ気分で書いていたら復刊されて驚きました。
  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※
 古典の授業をしていて、自分が物を知らない事をつくづく感じています。勉強するべきときに勉強せんとこういうオトナになる、なんて説教をたれる気はありません。しかし、授業中に困っても、まめに調べる気力も最近は失われていて、これは、正直ヤバイのですが、高校生諸君に対しては、せめて参考文献ぐらいは紹介しようという次第です。

 そう思いついたのは、なかなか殊勝な態度なのですが、残念ながら受験参考書の類は自分自身が30数年前、必要に30迫られて読んだ、「ある参考書」以来まじめに見たことがないからよく知らないのです。

 皆さんが「そんないい加減なことでいいのか!」と怒るのももっともです。しかしね、時々本屋さんが「見本に」といって持ってくる最近の参考書の類はみんな、あの頃読んだ「ある本」の換骨奪胎に見えるのですよ、ぼくには。

 「肝」になる文学思想は捨て、外観は似せているが、全体を支える「骨」はありません。やればとりあえず点は取れるようになりますが、古典に対する教養はせいぜい枝葉しか身につきません。クイズに強くなる豆本化しいて、パターンと頻出例を繰り返すだけで味も素っ気もありません。結局、面白いのは、面白くもないゴロ合わせだけという始末です。みんな「当てもん」に強くなるためのテクニックなのですね。
 皆さんを試そうと待ち構えている「センター試験」や「模擬テスト」が、要するに「当てもん」なので、そうなるのはよくわかります。世間のパターンもそうなっているようですから、ある意味「合理的」なのでしょうね。でも、それって「バカじゃない?!」ってことじゃないでしょうか。

 極論かもしれませんが、センター試験の古典で点を取るのは、実は簡単です。一年生で使った教科書がありますね。あれで、漢文はすらすら書き下せること。だから、読めればいいわけですね。古文はすらすら訳せること。それだけ八割は大丈夫です。あの薄い教科書一冊、本文だけでいいです、すべて暗唱できれば、センターなら満点は確実です。

 ウソだとは思うが、一度だけシマクマを信じてやろうという人は、この夏休みがチャンスです。せっかくですから、課題の問題集で試してください。

 古文、漢文それぞれ15題ありますね。一日、一題づつ、計二題、ノートに本文を写してください。訳や解説は、適当に読んで、線でも引きながらで結構です。これを二往復してください。
 狙いは古典の本文を丸ごと頭に入れることです。二度目に口語訳がつっかえるようならもう一度やってください。その結果10月のマーク模試で、あなたの古典の偏差値は10点アップしています。もとが30点台の方は15点から20点上がります。すると文法で説明したくなります。

 でもね、点数が上がって勘違いしてはいけないことがあります。模試の数値は古典文学読解の実力を保証しているわけではないということです。それは忘れないでください。放ったらかしてしまうと、すぐに下がります。

​ で、話を戻します。読む練習ができて、さあ、ここから必要になる本を参考書と呼ぶのです。ぼくが受験生の時に出会ったある本とは小西甚一という人の「古文研究法」という本ですが、本物の参考書でした。​

 小西さんのその参考書は「古文とは何か」という大胆な問を設定して受験生に説明しようとしていました。ぼくは読んでいて眠くてしようがなかった記憶があります。アホバカ高校生が「古文とは何か」なんて考えるはずがないわけで、考えたとしても「退屈である」という答えしかなかったはずですから、眠いのも当然でした。しかし、ずっと後になって、この参考書のすごさに納得するのです。
 
​​​​​ぼくの場合は大学生になって、この人の「日本文学史」(講談社学術文庫)を読んアレっ?と感じた時でした。
 「古文研究法」は受験参考書の面(つら)はしていますが、実は日本古典文学概論だったんです。気付いた結果、この人の「俳句の世界」(講談社学術文庫)とか、その他の著作を探したりしましたが、要するに、お弟子さんにしてしまうん本だったんです。
 実をいえば、小西甚一という人は中世文学のエライ学者で、なぜか受験参考書もたくさん書いていますが、例えば「俳句の世界」なんて、素人にもとても面白い本です。受験参考書で。そういう参考書もあるということを忘れないでください。
 とか言いながら、この本は手に入らないでしょう。古すぎます。学術文庫の方でも読んでみてください。
 いつものように「なんのこっちゃ」という話でした。

​​​​​

​​PVアクセスランキング にほんブログ村
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ
ボタン押してね!

にほんブログ村 本ブログへ
ボタン押してね!

​​​​





ゴジラブログ - にほんブログ村​​







最終更新日  2020.12.15 10:50:19
コメント(0) | コメントを書く
2020.02.09
​​​​山口昌伴「水の道具誌」(岩波新書)


​  勤めていたころの
​教科書に山崎正和「水の東西」という短いエッセイがありました。今でもあるのでしょうか。
 ともかく、「鹿おどし」といういかにも、「侘び」だ、「さび」だと座禅でもくんでいそうな人が感心しそうな装置と、「噴水」というブルボンだのハプスブルグだのいうお菓子屋みたいな名前のフランスやウイーンの王朝文化の象徴みたいな装置を比較して、それぞれの文明を論じたエッセイで、東洋の島国に暮らす人々が流れる水を音で感じて、なおかつ「時間」が絡んでくる、その心のオクにひそむ「???」というふうに展開する文章でした。ぼくは、あんまり好きじゃないんですね、こういうの、今でも。
 それを教室で読むのですが、しかし、困ったことがありました。噴水はともかく鹿おどしなんて、生徒さんはもちろんですが、ぼく自身が実際に見たことがあるような、ないような、あやふやな記憶しかありません。あるとしたら京都かどこかのお寺の庭だと思うのですが、それがどこだったか、確かな記憶は、もちろんありません。
 ぼくは山の中の村で育ったのですが、近所に「鹿おどし」なんてものがあった記憶は全くありません。だいたい、あの程度の音で野生のシカが逃げるとも思えません。 
 冬場にでてくるイノシシや鹿の脅しは、実際にバーンと大きな爆発音がする仕掛けだった記憶はありますが、そんなものを取り付けるのはかなり変わった人だったという気がします。今ではサルはもちろんのことクマまで里に降りてきますが、やられ放題です。
 話を戻しますが、まあ、こんなふうに、自分でもあやふやな事物についての題材で授業をするような場合、ぼくのようなズボラな人間でも一応商売なのですから、とりあえずネタの仕込みということをするわけです。
 で、どこかのお寺に出かけていくような能動的行動力とは、ご存知のとおり(ご存じないか?)無縁なわけですから、当然、手近な方法に頼ることになります。今なら取あえず「ウキペディア」ということでしょか、そういえばユーチューブも重宝かもしれませんね。ぼくの場合は図書館か書店の棚でした。

​ そうすると、「あった、あった。」となるわけです。この教材の場合は山口昌伴「水の道具誌」(岩波新書)ですね​
 目次をひらいてを見ると、「如露」、「鹿おどし」、「水琴窟」、「金魚鉢」、「蓑」、「和傘」、「手拭」、「雑巾」、「砥石」、「束子」、「浮子」、「爪革」、「川戸」、「龍口」、「金盥」、「龍吐水」、「馬尻」
 高校生諸君には読み仮名テストになりそうなラインアップですが、水とかかわる日常生活のさまざまな道具の名前がずらりと並んでいます。読み方もわからないのですから、いったいどんな道具なのか見当がつかないものもあるかもしれません。それは、まぁ本書を読んでいただかないとしようがないですネ。
 ​
さっそく「鹿おどし」のページを読んでみます。第1章「水を楽しむ」の中の数ページ。道具の研究者が、現物をじっと観察し、調べ上げた薀蓄が語られています。

 鹿おどしをじっと見つめてみる。水がだんだん削ぎ口まで溜まってくる。重心が前に移ってくる。だんだんだんダン!全体が身じろぎしたかに見えて次の瞬間、削ぎ口がサッと下がって水がザッと出てサッとはね上がる勢い余って尻が据え石を叩いてコーン、その瞬間は目にも留まらぬすばやさ、風流とは違うなにかが働いているとしか思えない。
​ どうです、書き方がいいでしょう。日用品の研究なんて、地道以外のなにものでもない仕事だと思うのですが、この書き方をみて、このおじさん、タダモノじゃないねと思うのはボクだけでしょうか。
 なんというか、研究が楽しくて仕方がないという臨場感が伝わってくるでしょう。こういう調子で​「馬尻(バケツ)」​だとか「束子(たわし)」
などという、なにげなさすぎて、まぁ、どうでもいいような道具について、材料、製作法、用途から歴史的変遷まできちんと説明されています。この口調にハマレバ、この上なく面白いのです。

​ ところで、「鹿おどし」についての薀蓄はどうかというと、こんな感じです。​

 誰も居ない田や畑の作物を鳥獣の食害から守るには、人がいると見せる案山子のように視覚的な威しもあったが、音を鳴らして威す方が効果的で、雀おどし、鳴子などがあって鹿おどしもその工夫の一つだった。鹿も猿も居ない茶庭に仕掛けるのは、人の心の安逸に流れるのを威す、禅門修業の精神覚醒の装置だった。
​ 鹿おどし、僧都ともいい添水とも書いた。昔、巧妙な智恵や、高度な技術をお坊様の功に帰すことが多かった。弘法大師がその代表格だったが、鹿おどしは玄賓僧都。僧都は僧正に次ぐくらいの身分で、玄賓僧都はまず案山子の発明者とされ、やがて雀おどし、鳴子も玄賓の発明とされて僧都と呼ばれ、鹿おどしもやっぱり玄賓僧都ご発明に帰した。​
 ぼくにはどこかの禅寺で「カアーツ!」と両手で捧げ持っていて振り下ろす、あれは何というのでしょう。「杓」でいいのでしょうか。ともかくあれを振り下ろしている住職さんの代わりに、「カアーン」と音をさせる道具が「鹿おどし」だったという理由で「僧都」といいますというほうが面白いのですが、そうではないようですね。道具にはそれぞれ縁起というものがあるのです。ナルホド。
 
​​​日用品の研究といえば、柳宗悦で有名な「民芸運動」という1930年代に始まった、民衆の道具の技芸の素晴らしさ讃えた文化発掘運動があります。当てずっぽうですが、山口昌伴はきっとその流れの人だと思います。自分の足と目で確かめて、今は使われなくなった道具にたいして、実にやさしい。読んでいて気持ちが和む、そんな本でしたね。​​​
​ この本もそうですが、日用品を話題にしている本というのは、エッセイとか評論もそうですが、小説や古典の授業でも役に立ちます。「ああ、あれか。」という「安心の素」ですね。
 古典とかいいながら、なんなんですが、どっちかというと、現代社会論というほうがピッタリの本ですが、デザイン評論家の柏木博さんとか、おススメです。たとえば「日用品の文化誌」(岩波新書​)​の中では、住宅そのものから、ゼムクリップまでシャープに論じていてうれしくなります。​
 まあ
、出会った本が面白かったりすると、授業のネタ仕込みは迷路へ迷い込んでしまいますから、その辺は要注意というわけですね。()


PVアクセスランキング にほんブログ村
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ
ボタン押してね!​​
にほんブログ村 本ブログへ
​ボタン押してね!​​





ゴジラブログ - にほんブログ村​​







最終更新日  2020.12.11 09:21:18
コメント(0) | コメントを書く
2019.09.15
​​​ 爆笑問題「シリーズ・爆笑問題のニッポンの教養」(講談社)​


​ 「爆笑問題」という漫才のコンビは皆さんご存知でしょう。その二人がNHKテレビで「爆笑問題のニッポンの教養」という番組をつくっていました。見たことのある人もいるかもしれません。
 専門性の高い研究に没頭している科学者や門外の人間には、現実のどこにかかわりがあるのか分からないようなテーマの哲学者と直接会って「爆笑問題」の二人がトークする。お笑い番組の体裁をとってはいますが、実際、素人の二人の質問はかなり的確に本質的なポイントに迫っていた番組です。今回「案内」する本書は、その番組の書籍版です。

​ ところで、番組と本書の制作意図について、「爆笑問題」の太田光君が本書の冒頭でこんなことを言っています。

 現実の世界に生きている人間は、奇跡のようなことなど、そう起こるもんじゃないと思っている。しかし、縄文時代に生きていた人間の中で、誰がこの現代の人間の生活を想像しできただろうか。― 中略 ― われわれの住む世界は奇跡の世界だ。そしてこの奇跡を創ったのが、学問である。学問が奇跡を生む。では学問はいつから学問になったのか?それは、学問という言葉が生まれた時からではないか。学問とはもともと生きるための知恵のようなものだったはずである。古代では獲物の捕り方、コミュニケーションの仕方、雨風のよけ方、それらの知恵が学問であったはずだ。つまり生き方である。
 この世界は奇跡の集合体だ。そしてその奇跡を創ったのが学問であり、だとすれば大学教授とは、奇跡を追及する人のはずだ。それらの人々が「学問」「教授」ということの限定を突破して、大衆の前に思考を晒した時、「学問」は「生き方」に戻るのではないだろうか。心は、本当に自由である。行こうと思えばどこへだって行ける。飛ぼうとする意志さえあれば、我々の思考に怖いものはない
​ ​どうでしょう。新しく高校や、大学で学び始めた人たちにはうってつけのアジテーションではないでしょうか。
 たとえば高校なら、中学校ではただの国語だったのに、「古文」「漢文」というふうに、新しい教科が増えますね。大学ならば、「国語」は「文学」に変わって、授業はもっと細分化されるでしょう。「面白くない」「興味がわかない」という不満を聞いたり、「入試のために」、「卒業単位取得のために」という声を聴くことはありますが、新しい生き方のスキルを学び始めているかもしれないという可能性を想像している、あるいは想像していた人はいるのでしょうか。
 文系の大学生が、「興味がわかない」から捨ててしまった「数学」でも、「物理」や「生物」でも、そうだったのではないでしょうか。

 一つ一つの、細分化されていく「学問」を勉強し始めることが、縄文人がコミュニケーションの仕方に工夫を凝らし、雨風をしのぐために知恵を絞ることで「生き方」を支えたのと、ある意味で同じ「学問」の入り口に立っていることだと自覚している人がいるでしょうか。まだ、充分若い諸君が、学問や勉強という言葉の意味を、このあたりで一度、考え直してみてはどうでしょうか。

​​​ 「爆笑問題」のこのシリーズは多種多様な学問の現場を訪ねます。例えば、ここにあげた野矢茂樹さんは「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」という有名な言葉を残したヴィトゲンシュタインというスイスの論理哲学者研究の第一人者ですし、中沢新一さんは「チベット仏教」から出発し、ちょっとハッタリ臭いですが、「芸術人類学」という新しい考え方で人間や世界をとらえ直そうとしている宗教学者ですが、諸君が大好きな『すぐに役に立つこと』とは程遠い学問に取りつかれているといってもいい人です。
 ほかにも日本美術史の辻惟雄教育社会学の本田由紀言語学の田中克彦。理系ではロボット工学の石黒浩分子生物学の福岡伸一精神医学の斉藤環、エトセトラ、エトセトラ。​​​

 諸君にとっては知らない名前かもしれませんが、実はそれぞれの分野の最先端の研究者たちであり、超一流のネームヴァリューなのです。さすがNHKという人選ですが、臆せず、ビビらず、カッコつけず挑んでいく太田君と田中君のトークもなかなか大したものだと思います。
 何にも知らないけれど、生きることに関しては真剣そのものなのだという大衆の気迫ともいうべき、彼らの真摯さに面食らいながらも真面目に答えようとする学者の皆さんの素顔にはお笑いを越えた面白さを感じます。「生き方」を探る最先端の学問。まあ、一度手に取ってみてください。(S)20140115

​​​※投稿の「シリーズ・爆笑問題のニッポンの教養」(講談社)の画像は蔵書の表紙写真です。

PVアクセスランキング にほんブログ村
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ
​ボタン押してね!​
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村








ゴジラブログ - にほんブログ村​​







最終更新日  2020.12.15 10:49:11
コメント(0) | コメントを書く

全19件 (19件中 1-10件目)

1 2 >


© Rakuten Group, Inc.