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ゴジラ老人シマクマ君の日々

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読書案内「現代の作家」

2020.09.14
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​​​​大島真寿美「ピエタ」(ポプラ社)


​​ 大島真寿美という作家の「ピエタ」(ポプラ社)という作品が、八月のはじめころから借りっぱなしになっていたのですが、ようやく読み終えました。​​
 読み終えたのはいいのですが、何故、この本を図書館から借りだしてきて、読んだのかがわかりません。本当にボケ始めたのかと不安になりながら著者の来歴を調べていて、思い出しました。
 昨年の冬、20191月発表の第161回直木賞受賞作「渦 妹背山婦女庭訓 魂結び」の作家の作品だったのです。2020​年の夏の直木賞が発表されて、その作品が、何となく気になって図書館を検索すると貸し出し中だったので、同じ作家の「ピエタ」を予約したというわけです。​
 「渦 妹背山婦女庭訓 魂結び」は、評判になった「宝島」「熱源」という、まあ、それぞれ「アツイ」お話しなのですが、その谷間で受賞しているところに、ちょっと興味がありましたが、読んでいないので何とも言えません。
​ さて読み終えた小説「ピエタ」についてですね。
 まず、ピエタという言葉ですが、ミケランジェロの彫刻で有名ですが、磔刑のキリストが十字架から降ろされた時に、母マリアが彼を抱き受けた様子を描いた絵画や彫刻の一般的な呼び名です。​
 ぼくは若いころに京都の美術館でミケランジェロ「ピエタ」「ダビデ」を見た記憶があります。レプリカだったのか、本物だったのか定かではありませんが、「ダビデ」についてはバカでかかったという記憶しかありませんが、「ピエタ」の悲しく美しい印象は、例えば、本書の題名を見て「あ、あれか」という感じで残っています。
​ 作品の「ピエタ」は、​17世紀、ヴェネチアに実在した(今もあるのかどうかは知らない)ピエタ慈善院(Ospedale della Pietàの名前をとってつけたようです。孤児や捨て子を育て、教育するキリスト教の宗教施設ですね。
​​ この作品には「四季」というヴァイオリン協奏曲で、まあ、誰でも知っているアントニオ・ヴィヴァルディという作曲家が登場します。
 彼が​​
17​世紀の初頭、この慈善院の音楽院で子供たちに音楽を教えていたというのは歴史的事実で、小説は彼の「調和の霊感」​L'estro Armonico​という合奏曲の、いわば誕生秘話を語った物語でした。​
​​​ 慈善院に捨てられ、そこで育った女性エミーリアを語り手とした一人称小説です。
 物語は捨て子のエミーリアが、のちに音楽院の生んだ天才ヴァイオリニストと歴史に名を残したアンナ・マリーアと慈善院の隣り合ったベッドで、孤児同士として初めて出会うところから始まります。​​​
​ 二人はヴィヴァルディ先生の秘蔵っ子として成長しますが、物語は先生の死を契機にして展開し始めます。先生が残していった「謎」を、先生が愛し、先生を愛した少女たちが解く「物語」といえば、当たらずとも遠からずだと思います。​
​​​​​​ 登場人物はアントニオ・ヴィヴァルディ、彼の家族、天才ヴァイオリニスト、アンナ・マリーア、貴族の娘ヴェロニカ、先生の秘密の愛人で、当時コルティジャーナと呼ばれていた高級娼婦クラウディアといった面々です。
 調べたわけでありませんから、当てずっぽうですが、語り手のエミーリアヴェロニカ以外の登場人物は実在の人々だったのではないかというのがぼくの見立てです。​​
​​​ 作家がヴィヴァルディと、当時のベネチアについて、かなり丁寧に調べ上げて書いた「時代小説」のようでした。​​​
​ ぼくの好きな作家にベネチア、いや、イタリアを舞台に「時代小説」を書いて世に出て、今や、大家となった塩野七生がいます。この大島真寿美という人もイタリアなのかと思いましたが、豈はからんや、直木賞受賞作は、時代は同じ​18世紀ですが、「江戸」を舞台にした作品らしいですから、そういうわけではなさそうです。
 ともあれ、「時代小説」の新しい書き手が世に出たようです。この作品の「ムード」で時代と都市を書いているニュアンス、ページ数の割に同じことの繰り返しを感じさせる冗長さには、少々引っ掛かりましたが、舞台が「江戸」に変わるとどうなるのでしょう。とりあえず、直木賞作品を読んでみないとしようがなさそうです。
​​ 大きなお世話ですが、ヴィヴァルディ先生が少女たちに残していった謎の答えは、すべての秘密を知っているゴンドラの漕手、老ロドヴィーゴが歌う「ゴンドラの歌」の、こんな一節にありました。​​
よりよく生きよ、むすめたち。
よろこびはここにある。

​ ​最後に、この「ことば」にたどり着いたところに、この作品の人気の秘密があると思いました。上の写真の表紙に座って描かれている二人の「むすめたち」が、作品の中の誰と誰なのか、気になり始めた方には読んでいただかなければしようがないですね。


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最終更新日  2020.10.02 22:53:23
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2020.09.07
​​村上春樹「猫を棄てる」(文藝春秋社)

​​ 久しぶりに村上春樹を読みました。「猫を棄てる」(文藝春秋社)です。​​
​ あの、村上春樹が父親のことを語っていて、ベストセラーになっているようです。今年の​4月の下旬に出て、手元にある新刊本は、7月で6刷ですからね。101ページの小冊子です。2時間で読めました。
 読みながら、今なぜ「父親」のことを書いて、それを、おそらく、世界中に何万人もいるであろう彼の読者に読ませようとするのだろうということが引っ掛かっていました。読み終わっても謎は解けませんでした。

  このエッセイの中にこんな一節がありました。

​ ​僕は今でも、この今に至っても、自分がずっと父を落胆させてきた、その期待を裏切ってきた、という気持ちを ― あるいはその残滓のようなものを ― 抱き続けている。ある程度の年齢を超えてからは「まあ、人にはそれぞれに持ち味というものがあるから」と開き直れるようになったけれど、十代の僕にとってそれは、どうみてもあまり心地よい環境とは言えなかった。そこには漠然とした後ろめたさのようなものが付きまとっていた。​​​

​ ​ぼくは、ここで村上が語っている「後ろめたさ」は、少なくとも、ぼくたちの世代、彼のデビュー作と二十代の初めに出会い、彼より少し年下の、かつての少年たちの多くに共有されていたような気がします。
 少なくとも、ぼく自身は、ここを読んで、​
20代のぼく自身が村上の小説に引き込まれた理由の一つがあるように感じました。
​ ぼくたちの父親たちは、村上の父親と同じように戦争を知っている人たちであり、子供たちに「学校」や「仕事」に対する、まじめな「努力」を期待していたように思います。そして、ぼくたちの多くは、その期待をめんどくさいと思い、期待通りにできなかったのではないでしょうか。​
​ それは、いつの時代でも父と子の間にある出来事と少し違ったのではないかというのが、この年になって感じることですが、村上はその「少し違った」ということを語ろうとしているように感じました。
 そこがこの本に対する共感なのですが、だからどうだというのか、と考えてしまうとよくわからなくなります。​
​​ 題名に「猫」が出てきますが、このエッセイの中で「猫」の話は二つ出てきます。父と棄てに行ったにもかかわらず帰ってきた「猫」の話と、もう一つは、少年時代、自宅の庭の松の木に登って行って消えてしまった「猫」の話です。
 こういう挿話は実に村上春樹的ですね。しかし、この挿話が何を語ろうとしているのかは謎でした。​
​​ どうも、彼は「この今に至って」、自分のなかの「時」を語ろうとしているようです。
 自分の肉親や家族を話題にして、自分の中の何かを語るほど村上春樹らしくないことはなかなかないと思うのですが、本を手に取って感じた最初の疑問が「猫」と一緒に潜み続けているのは
そのあたりでしょうか。結局、「猫」は見つからないまま読み終えましたが、妙に気にかかりますね。​​
 しようがないので、新しい短編集「一人称単数」(文藝春秋社)を読むことになってしまいそうです。



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最終更新日  2020.09.14 00:36:58
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2020.07.15
​​青谷真未「読書嫌いのための図書室案内」(早川文庫)



 久しぶりに若者向けのエンターテインメントを読みました。こういう装丁の本は手に取るだけで照れますね。
 ありそうで、なさそうな(笑)お話しでしたが、きちんと引っぱり込まれました。最近読んでいる「北村薫」「円紫さんシリーズ」に、少し似ていると思いましたが、学校が舞台だからでしょうか。
 書名が、いかにも教員が喜びそうなのですが、文章には教員の空気はありません。もっと若い作家の手による印象です。そこは北村の作品との違いですね。
 書名から予想したのは、あれこれ作品名が出てくる、何というか、高校生向け「カタログ小説」かなというわけで、ここはひとつ出てくる作品をチェックしようとポスト・イットを用意して読み始めました。紹介されている本で若い人の読書傾向が知りたいし、ついでにその一覧でこの小説の案内がかけそうだというセコイ目論見でした。
 小説は高等学校の図書委員会のシーから始まりました。司書の先生が質問して、図書委員の諸君が好きな本の名前を、次々と口にします。よしよし、目論見通りというスタートでしたが、結果的にはポスト・イットは不要でした。
 話題になった作品は森鴎外「舞姫」ヘルマン・ヘッセ「少年の日の思い出」安部公房「赤い繭」、それから「源氏物語」が少々というところでした。
 読み終えてみると、出てきたのは定番中の定番という作品ばかりで、中学校と高校の教科書採択作品という「誰でも知っている」ダメ押し付きでした。目論見は見事に外れましたね。
 鴎外「舞姫」「源氏物語」は言うまでもなく、高校の教科書の定番です。ヘッセの作品は中学の教科書に採用されているようですし、「赤い繭」は高校で教科書によっては入っているという、短い作品です。
​ まあ、そうは言うものの、それぞれの作品に対する「読み」が面白い小説ですね。物語の本筋は「血まみれの女子高校生が生物教室に夜な夜な現れる」という、いわゆる​「学校の怪談」​ものと言っていいお話しです。​
​​​ 「活字中毒」の少女、藤生蛍さんと、「共感覚」というちょっと変わった能力の持ち主で、そのために「活字嫌い」になっているらしい少年、荒坂浩二君という高校二年生コンビが、安部公房ヘッセの作品の「読み」と格闘しながら「血まみれの少女」の謎を解くというストーリーなのですが、こう書いても、それらの作品と「謎」に何のつながりがあるのかわかりませんね。​​​
​ 作中で話題になる二つの小説に共通しているのは「繭」です。ヘッセの作品は蝶の採集をめぐる話で、「赤い繭」は文字通り「繭」のお話しですが、もう一つ、この作品には「繭」が出てきます。それは生物教室の陳列棚にある標本です。
 というわけで、生物の樋崎先生が三人目の人物として登場します。彼が「謎」の発信源の役割を担う役割なのですが、これ以上はネタバレになりますね。​

 具体的な展開についてはこれ以上は書きません。作品はミステリー仕立てですが、むしろ「ボーイ・ミーツ・ガール」の展開の中で、本嫌いの少年が「本を読む」ことに熱中していくプロセスが、元教員の老人には面白かったということです。
​ ちょっと話は外れますが、主人公​藤生蛍さん​の「書痴」ぶりは、高校生ではちょっと考えられないスーパー「活字中毒」患者という印象ですが、お話しの中に「谷崎源氏」の文庫版全​5巻を三日で読破したもう一人の女子高校生が登場する件があります。

 この本ですね。​谷崎潤一郎​「新・新訳源氏物語」(中公文庫版・全
5巻)は一巻500ページを超える大冊です。その上、訳文は「舞姫」以上に「古文」なのです。
 その文体についてはともかく、どんな時代のどんな読書家であっても、これを三日で読み終えることは
99%あり得ないなと、ぼくは感じました。
 まあ、浪人の頃に手を付けて一ヶ月かかった元教員のヤッカミかもしれませんが、「ありそうでなさそう」と思わず笑ってしまった所以です。
 かつて、数年間高校の図書館長を経験しましたが、この本に手を付けた高校生は一人だけでした。もっとも、彼女も一巻でギブアップしましたがね。
 この作品のプロットを貶しているわけではありません。ただ、​谷崎源氏​は傑作だと思いますが、読み終えるには時間も辞書も、ついでに覚悟も必要だということが言い添えたかっただけです。
 ああ、それから「共感覚」については、読めばわかりますが、ある文字を見ると色が浮かぶとか、音が重なるとかいう感覚ですね。よく知りませんでしたが「ロリータ」ナボコフとか、物理学者のリチャード・ファインマンとかがそうだったようですが、調べていて二人の名前に出会って、いたく納得しました。
 というわけで「若向き本」体験記でした。


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最終更新日  2020.07.15 01:22:57
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2020.07.14
​​古川真人「背高泡立草」(集英社)


 2020
年の冬の第162回芥川賞受賞作、古川真人「背高泡立草」を読みました。作家は31歳だそうです。若い人ですが、この所繰り返しノミネートされていた人だそうです。
​ 九州と朝鮮半島との間、玄界灘というのですね。その長崎県よりの「島」に草刈りに行く話でした。場所が魅力的なのですが、風景の描写があまりされなかったのがザンネンですね。松田正隆という劇作家が「月の岬」という戯曲で読売演劇賞だったかを取ったことがありましたが、あれも長崎の「島」が舞台だったことを思い出しました。​
 作品は、全部で9章で出来ています。
​​​ 第1章は「母」が養女として成長した吉川家があり、今では母の実母だけが暮らしている「島」があるのですが、そこに残されている吉川家の納屋の周りの草刈りに駆り出された娘が視点人物として語りはじめます。
 娘と母、伯父、伯母、従妹の五人が、順次出会って行き、フェリーに乗り込み、島に到着するシーンです。​​​
 出会いの中で過去の吉川家の親類・縁者が話題に出てきます。吉川家以外では伯母の夫婦喧嘩の話はありますが、母の夫、つまり、娘の父の話は出てきません。
 そこから奇数の章は「草刈り」の一日が描かれています。最終章ではその日「島」が撮ってきた携帯電話の写真を、で見るのですが、そこに「背高泡立草」が映っているというわけです。​​​​​​
 第二章以下、偶数の章では、集まった、祖母を入れて6人の「会話」に登場した人物や、通りすがりの光景に​「島」​の「記憶」に発火点があったかのように、「島」をめぐる「過去」のエピソードが描かれます。
 「満州への夢に溺れる島の男」、「朝鮮への帰国途上の漂流民」、「蝦夷地を旅する鯨獲り」、「カヌーで家を出る少年」、それぞれ、そこそこ面白い話なのですが、まだ物語になりきらない「種」のような、いうならば「挿話」です。
 映像でいえば「カット・イン」というのでしょうね。今ではない、別の時間の出来事の挿入です。現実の「場所」と今ここにいる「人間たち」に、「時間」=「歴史」の厚みを与えようというのが作家のたくらみでしょうか。
 「読書案内」しながらいうのもなんですが、物足りませんでしたね。いろんなレビューを覗いてみると酷評されているものが多いですね。挿入されているエピソードの章が意味不明というのが一般評のようです。
 しかし、ぼくは、逆だと思いました。主たる登場人物の「顔」が見えてこないところが残念だったのです。
 エピソードの人物は短いなりに印象に残るのです。敗戦後の日本から、海峡を越えて祖国に逃げ帰る青年と、船の沈没で親を失った子供のやり取りも、家を出る決意をしてカヌーで海を進む少年の姿も悪くありませんでした。
​​​ しかし、今日、「島」にやって来た、今、ここで生きているはずのの姿がイメージを結ばないのです。​​
​​ ほんの一行、家で酒を飲んでいる「夫」を思い浮かべる「妻」の「くったく」の表現はあるのですが、そこから今日の雑草の話し移ってしまいました。​​
​ 結局、今日刈り取られた数多の雑草の中で、何故、「背高泡立草」が作品の「題」として取り上げられたのか、ぼくにはわからないまま終わってしまいました。​
​​ 刈り取られた「背高泡立草」が放置された「母の実家」の荒廃を象徴するだけでは、小説としては、やはり、「あんまり・・・」なのではないでしょうか?​​会話もエピソードも悪くないと思うのですが。

 


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最終更新日  2020.07.14 15:09:38
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2020.06.30
​​門井慶喜「銀河鉄道の父」(講談社)


  何故だかわかりませんが、2018年の春の芥川賞、直木賞は二作品とも宮澤賢治がらみで不思議な感じがしました。芥川賞は若竹千佐子さん​「おらおらでひとりいぐも」(河出書房新社)でした。詩の「ことば」が、そのまま題名として使われている趣で、まっすぐに、いま生きている女性の姿を描いていました。 
 直木賞が
門井慶喜さん「銀河鉄道の父」(講談社)です。​​
 
この作品は、おおざっぱに言えば、宮沢賢治の父、宮澤政次郎を視点人物にした伝記小説ということになるでしょうか。
 宮沢賢治の生まれた時から死ぬまでに加えて、賢治が亡くなって、彼の作品が詩人の草野心平高村光太郎の手によって世の中に認められるところまでが物語られています。​​​

 何が起こるかわからないエンターテインメント小説というよりも実直な父の語りで描いたところにこの作品の良さがあると思います。
 ちょっとした賢治ファンならだれでも知っている出来事、起こることはまちがいなくおこりますし、わざとらしい脚色も施されていません。事実の経過は読んでいて勉強になります。そうであったに違いないと思わせるように丁寧に描かれています。
​ ただ、父政次郎も、母イチも、それから賢治本人をはじめ、弟清六や妹トシたちの姿も、当然、その人々をめぐる出来事も、作家門井慶喜の手によって描かれているわけですから創作です。
 その創作性とでもいう、作家独特の解釈がどこに姿を現すのか、ぼくは期待しながら読み進めていました。​
​​​ 実は、賢治が、当時最も過激な日蓮宗の宗教団体、田中智学の「国柱会」の信者であったことはよく知られています。一方、父、政次郎清沢満之(きよさわまんし)暁烏敏(あけがらすはや)の時代の浄土真宗の篤実な信者でしたから、ふたりの間には単なる、父子の葛藤を超えた「何か」があったはずです。​​​
​ そのあたりに期待しながら読みましたが、山場は若竹さんの小説では「題名」に使われていた「永訣の朝」が描いている妹トシの言葉にありました。

うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
​くるしまなあよにうまれてくる​
 トシのこの有名な言葉を賢治の創作だと政次郎は言うのです。
 詩人・宮沢賢治はそうまでしてしてもこの文句を書き付けたかった。トシのセリフとして。人類理想の遺言として。(覚悟だな)みとめざるを得なかった。子どものころから石を愛し、長じては「人造宝石を、売りたい。」という野望を抱いた二十九歳の青年は、ここでとうとう、ことばの人造宝石をつくりあげた。賢治は詩人として、いや人間として、遺憾なき自立を果たしたのだ。父親がどう思おうが。妹をどこまで犠牲にしようが。あとはもう、(売れるか)問題はそれだけだった。
​(引用の( )書きが政次郎の心中語)​
 政次郎の中にある「本当のことば」と賢治が作った「人造のことば」。賢治の作った「人造のことば」が「詩のことば」として離陸した瞬間に父と子の葛藤は終わりを告げます。作家はそこが書きたかったに違いありません。
 賢治に関心のある方ならさらりと読めるでしょう。加えて、たとえば「永訣の朝」を授業で取り上げる先生方にとって、格好の参考図書といっていいと思います。2018/06/03
追記2019/05/04​
​​​ 本文中の清沢満之という宗教家は、ぼくが学生時代のことだったと思いますが、司馬遼太郎の雑誌での紹介と法然院の住職(?)で、当時、神戸大学の哲学の先生だった橋本峰雄の「日本の名著」の紹介によって、その名を知った人です。​​​
​ 病床の正岡子規にこんな言葉を送った人だそうです。
「号泣せよ、煩悶せよ、困頓せよ、而して死に至らんのみ。」
​ ぼくには、その態度と言葉が印象深く、名前を覚えました。著書に触れたことはありません。​
​​​ 暁烏敏という人については小説家石和鷹「地獄は一定すみかぞかし 小説暁烏敏」(新潮文庫)という作品で知りました。​​​
​​​ 石和鷹という作家は集英社の「すばる」という文芸雑誌の編集長だったひとです。晩年の石川淳「狂風記」以降の長編傑作群を連載したのがこの雑誌ですが、編集者として寄り添ったのはこの人だったそうです。​​​
 のちに小説を書きましたが、確か65歳くらいで亡くなったと思います。遺作になったのがこの作品です。作家の死の原因となった癌との闘病の中で書かれた作品で、強烈な読後感は間違いなく傑作ですが、広く知られている作品とは言えないですね。
​​追記2020・06・28
若竹さんの「おらおらでひとりえぐも」​の感想はここをクリックしてください。


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最終更新日  2020.11.25 00:25:20
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2020.06.02
​​​河崎秋子「土に贖う」(集英社)​

​​ 沖縄のコザ暴動を書いて唸らせてくれた真藤順丈が腰巻で戦慄しているのを見て興味をひかれて読みました。
 河崎秋子さん「土に贖う」(集英社)という小説集です。新田次郎文学賞受賞作です。
 羊飼いの小説家だそうです。プロフィールに生まれは1979年、北海道別海町とあります。お若いですね。
「で、別海町ってどこ?」
 いうわけで小説を読む前にグーグルマップを覗き込むと、ありました。納沙布岬とか根室とかのあたりですね。「ベッカイ」町と読むようですね。アイヌ語でしょうか。
 むかし「ムツゴロウ」さんの動物王国で知ったあたりでした。神戸から想像するだけですが、「北の果て」、「流氷の海」、「知床のぉ岬」、と思い浮かべながら、「北の国から」で唐十郎が氷の海から帰ってくるシーンを思い出して笑えました。
 ​​
北の果ての牧場で羊か、牛か、馬もかもしれませんを、そういうのを飼っている女性が「北海道」を描いていました。なんというか、「北海道」ですね。
 養蚕、蹄鉄、薄荷、ミンク、エトセトラ。札幌、根室、北見、江別、エトセトラ。七つの仕事をめぐって、七つの「土地」を舞台にした短編が収められていました。
 読みながら「地誌」という言葉が思い浮かんで、ああ、これは「北海道」の近代の「地誌」を小説という形式で描いているのだということに気付きました。

 真藤順丈が評価したのは、その点だったと思います。なによりも、ほかのどの土地でもない、「北海道」を描いているところが、この作品集の肝ではないでしょうか。 
​ 最近ハマっている「ゴールデン・カムイ」という人気漫画があります。壮大なドラマが、北海道という土地の「歴史」や「自然」、そこから切り離せない「アイヌ文化」と「和人文化」のぶつかり合いの上で展開しているスペクタクルです。こちらはあくまでもマンガ的デフォルメの世界です。
 それに対して「土に贖う」は、北海道だからこその「自然」と「近代産業史」を生きた普通の人間を描こうとしているところが評価されているのでしょうね。
 
残念ながらというべきなのか、作品は「地誌」としての「リアル」に、小説としての「ドラマ」が負けている印象でした。作家が結論ありきで作品を書いているのではないでしょうか。
 最近、
いわゆる「オチ」に向かって構成されているかに見える作品が増えましたが、この作品集に収められている七つの作品を読み進めながら、三つ目くらいからだったでしょうか、同じ金太郎飴を嘗めさせられている感じがし始めてしまいました。
 
個人的な好みの問題なのかもしれませんが、「ゴールデン・カムイ」というマンガの荒唐無稽で八方破れな面白さに、この作品集は「小説」として及ばないなというのが結論でした。まあ、比べる必要は全くないのですが。

追記2020・06・02
真藤順丈「宝島」野田サトル​「ゴールデンカムイ」​の感想は、そえぞれ題名をクリックしてみてください。

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最終更新日  2020.06.02 22:33:49
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2020.05.10
​​​​​​2004書物の旅 「ぼくが50歳だった頃、教室で」その18
片山恭一『世界の中心で愛を叫ぶ』(小学館)
 ぼくが50歳だったころ、教室で十代の生徒たちに語っていました。その頃の「読書案内」復刻版です。2004年ころにワープしてお読みください。 

  ※    ※    ※    ※    ※    ※    ※
 
​えーっと、初めて読者の方から反応がありました。片山恭一『世界の中心で愛を叫ぶ』(小学館)ですね。恐ろしいほど流行っていて、読んだ若い人たちの口コミでどんどん広がっているそうです。映画にもなったそうです。マンガにもなっています。主人公の新しい彼女を主人公にしたお話まで本になったんだそうです。おいおいこれは一体何なんだという、この作品について高校生一年生のKさんからこんなオススメのメールが届きました。 
 ​今話題の「世界の中心で、愛を叫ぶ」です。福岡在住の作家「片山恭一」さん(45歳)の小説で、206ページあります。主人公は「朔太郎」という名の少年で、同級生の「アキ」と愛をはぐくんでいましたが、突然の病がアキに襲いかかる・・・。恋人を失う悲しみが痛切に迫る物語です。映画や漫画にもなっているのでぜひ一度は読んでほしいと思います。​
 まず、この案内を読んでくれている人から反響があったことが嬉しいわけです。ははは。ありがとう。
 話を戻します。友達のサッカー少年がこの本を貸してくれました。我が家ではまず中学生のお馬鹿娘が、ぼくが借りて帰ったこの本を先に読んでこういいました。

「一回は泣くで。」
「ウーンそうなのか。オヤジでも泣くかな。」
 
「そんなコトは知らん。」

というわけでぼくも読みました。残念ながら泣けませんでした。だって泣け泣けって書いてあるように感じてしまったんだもの。おじさんはいやですね。素直になれないんです。

 おバカ娘は益子昌一「指先の花」(小学館文庫)をさっさと買い込んで読んでいるようすです。片山さんの小説の後日談だそうです。
 泣けない
おやじは、「愛と死をみつめて」(1964・日活)という映画があったなあ、と思い出にふけっています。実話のドラマ化と小説という違いはあるけれど「よく似ているな。」と思い出しました。
 吉永小百合浜田光男という1960年代を代表する純愛俳優のカップルが、不治の病で死んでしまう少女と残される大学生を演じて一大ブームになりました。主題歌も流行ったんです。現在50代の人たちにマイクを持たせてメロディを流すとたいてい歌えると思います。若いみんなは知らないでしょうね。浜田光男はどうなったか知りませんが、吉永小百合はプールで泳いでいる。
 ちょっと、いや、かなりかな、素敵で健康そのもののおばさんになってコマーシャルに出ているけれど、ぼくの中では若くして死んでしまう薄倖の美少女のままですね。しかし、その映画の時もぼくは泣けなませんでした。だって照れくさいじゃないですか。
 
ところで、この小説について不満というか、残念に思うことのひとつは、『世界の中心で』とあるけれど、それがどこなのかぼくにはよく分からない事ですね。恋愛小説というものは、えてして二人の世界に閉じてしまいがちなのですが、そこで世界の中心といわれても困ってしまうわけです。
 ぼく
自身のことでいえば、自分自身や、自分と対になる他者を中心と考える考え方は嫌いなんです。
 恋人同士、夫婦、家族なんかについて、誰でもそう思いがちだけど、抵抗があります。外側の世界が必ず入り込んできて、まあ、何とか持ちこたえているとか、ここはかなり端の方らしい、くらいの考え方がどっちかというと好きです。
 
吉本隆明という詩人が『共同幻想論』(角川文庫)という国家を論じた本の中で、人間の世界のあり方について、一人一人の夢や生き方という個人的な認識世界を「個的幻想」、家族や、恋人といった実感で繋がっていると感じる他者に対する認識世界を「対幻想」、社会、国家、法律というような誰にも共通して他人事のようだけど、そこに居ることから逃れようのない認識世界を「共同幻想」と、いかにも詩人らしい言葉で区分けして論じています。「幻想」というところがポイントなんですよね。
 その本の中で一番印象に残っている事は「対幻想と共同幻想は逆立ちしている」という言い回しで、ぼくなりに妙に納得したことがあります。対幻想、すなわち恋人達二人の世界は一人ぼっちの寂しさを救うけれど、なぜか社会から孤立していってしまいます。友達大勢でいるより二人でいたほうが楽しいんです。その結果なのか、どうか、自分達は特別だと思いたがるんですね。にもかかわらず社会の側から見ると何の変哲もない家族でありカップルであるに過ぎないわけ。
 変な事がいろいろある世の中全体とは違って、自分達はまともな生き方をしていると思い込んでしまいます。そんなまともな人たちが集まってみると変な社会が出来る。これはかなり不思議なことだと思うんですが、きちんと説明できた人を、ぼくは知りません。
 
この小説は二人の世界の「愛」を描いています。「愛」が育っていく経緯や登場人物のキャラクターも素敵です。そして、その美しい愛のかたちは「死」と引き換えに完結していますね。青年の苦しみ方も、よくわかります。「死」によって世界の中心に一人残されたと感じるのもわかります。
 ところで、そこは世界の中心なのでしょうか。吉本さんを思い出しながら、そう感じたわけです。こんな言い方はおじさんでしょうか?
 まあ、でも小説の最後になって、青年が新しい恋人との生活、つまり新しい世界に生きはじめている事がわかって少しだけほっとしたという次第でした。
 
​​​この人の作品は『もしもそこに私が、いるなら』(小学館)、『君の知らないところで世界は動く』(新潮社)、『空のレンズ』(ポプラ社)など結構たくさんあります。最近新刊も出ました。いろいろ読んでこの作家の「中心」を捜してみてください。
 ああ、ぼくは、結局、みんな読みました。えっ?はまってるんじゃないかって?ふふふ。(S)
​追記2020・05・10
 古い記事を投稿しようとして「事実」確認で調べていて「あー」と思ったことが二つありました。
 一つは映画「世界の中心で、愛をさけぶ」(映画.com)についてですね。監督行定勲に始まって、俳優陣は柴咲コウ、長澤まさみ、山崎努、宮藤官九郎 etc.の名前がずらりと並んでいるではありませんか。もう、びっくり仰天。今なら、きっと、見たに違いありませんが、当時のぼくは「映画」そのものに興味を失っていたらしいですね。まったく知りませんでした。
 二つ目は、著者の片山恭一さんは今もご活躍の様子ですが、最新の著書が『世界の中心でAIをさけぶ』だそうです。よくわかりませんね。
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最終更新日  2020.05.10 11:24:33
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2020.05.08
​佐藤正午「鳩の撃退法(上・下)小学館文庫​

 

​​​ 今年も冬の・芥川賞・直木賞の発表がありました。。芥川賞が古川 真人「背高泡立草」、直木賞が川越 宗一「熱源」でしたね。芥川賞は、今読んでいるところですが、直木賞は人気らしくて図書館で借りられません。
 直木賞といえば一昨年の秋に受賞したのが佐藤正午「月の満ち欠け」(岩波書店)でした。
「岩波書店の本が直木賞ですか!?」
 ぼくは、内容はともかく、そこに、つまり「あの岩波書店が」に、驚いたのですが、受賞直後に続けて出たのが「鳩の撃退法 (上・下)」(小学館文庫)でした。糸井重里「こんなの書けたらうれしいだろうなぁ。」というキャッチコピーを腰巻にして10万部売れたそうです。
 まあ、ぼくも糸井のコピーにのせられて、amazonで安く買おうとしたらいつまでたっても値が下がりません。しようがないから新刊を買ってしまったというわけで、感想は?となりますね。
​​​
​ 糸井重里という人を、ぼくは結構信用しているのですが、彼は、何をそんなに褒めているのかというのが、読後のぼくの最初の感想でした。文庫本の下巻の最後に彼が「むだ話」と称して感想を書いています。​

 読み進めていくにしたがって、わたしにとって「鳩の撃退法」の「感じいい」は、「かっこいい」になっていった。この作者は、「書くことが面白くてしょうがないのだ」というふうに読めてしまうのだ。
 羽生結弦は、思うようなスケーティングができたとに晴れ晴れとした笑顔で両手を大きく広げる。その背景に血のにじむような練習があったにしても、そこのところよりも笑顔のイメージに、人びとは注目して記憶する。私たちが、魅せられるように文章を追いかけている時間は、羽生選手のスケートの軌跡を追っているときと同じものなのだと、わたしは思っている。
 それは、ストーリーや構成といった採点しやすい要素よりも、ひとつひとつのことばを選び、文章の中に読者を引き込んでいく「かっこよさ」のほうが大事だということに他ならない。複雑に絡んだ登場人物たちの関係や行動にどれだけ整合性があっても、ストーリーにどれほど必然性や意外性が仕組まれていていたとしても、文章がかっこよくなければ、ただの「伝えるための道具」にすぎない」。佐藤正午「鳩の撃退法」が、わたしの憧れである理由は、とにかくすべてのことばの並びが、「感じがよくてかっこいいから」である。


 上手いこと言いますね。
​まあ、絶賛といっていい「むだ話」なわけです。内容にまったく踏み込まないところが「広告」屋さんの手口ですかね?
 じゃあ、あなたはどうなの?という訳ですが、読み終わってみて糸井重里がいいたいことの、半分は納得しました。
 
ぼくは「毎月本を2冊読んで感想をおしゃべりする会」という集まりに参加していて、この年のこの月の課題がこの本でした。
 ところが集まった皆さんがおおむね首をかしげていらっしゃるんですね。それが一番面白かったのですが、皆さんの疑問の理由は簡単です。
 この小説は、最後まで読んでも「鳩の撃退法」という題名の意味が謎で、それが解けないのです。「鳩」が意味する謎は、半分ほど読めばわかります。でも「鳩の撃退法」の意味が解らない。何故でしょうね。
​​​​​ この小説は「探偵が書き手である」、ないしは「小説家が探偵役で渦中に巻き込まれた事件を書いている小説」であるという、今どき、ありがちといえばありがちな設定なのです。
 作中の小説家が現在進行中の事件を小説として書いています。小説として描写されているドラマは必ずしも現実の事件の「そのまんまの描写」ではありません。だって今、書かれつつある小説なのですから。
 作家佐藤正午が書く「鳩の撃退法」という小説の中に登場人物である「小説家」が書く「作中小説」である「鳩の撃退法」があるという仕組みです。
 「作中小説は」登場人物が遭遇する事件をもとに書かれているのですが、その上で、作家佐藤正午によってつくられた話であるという意味で二重にフィクション化されてしまうわけです。
 そう読んでいくと「作中小説」の「鳩」が何を意味しているのかということと、佐藤が書いた小説で「鳩」が何を意味しているのかということの間に、ずれが生まれてしまいますいます。その結果、読者は作中小説を最後まで読んで「鳩」がどう撃退されたのさっぱりわからないし、物語は終わったのに謎は解けないことになります。
 ここで注意してほしいのは、糸井の話の中の例で出てきた羽生君はこの場合佐藤正午という作家であることです。
 で、全部を作っている佐藤正午「晴れ晴れとした笑顔で両手を大きく広げ」ている理由はなんなんだ、これが「おしゃべりの会の皆さん」の困惑の理由だったと思います。
​​​​​
 糸井はむだ話の最後にこう書いています。​
 そして、ちょっと想像するのだ。作者本人の考える面白さとは「なんにも言ってなくても、ずっとおもしろく書き続けられて、ずっとおもしろく読めちゃうもの」なのではないかなぁと。​
​ ​作家は小説から謎を撃退したかったのでしょうね。きっと、書いていて楽しくてしかたなかったにちがいありません。しかし、だからでしょうか、小説は腰砕けのミステリーになってしまいました。ミステリー・ファンが困惑するのもよくわかります。だってこの小説はストリーの謎を解くミステリーじゃないんです、きっと。
「じゃあ、何なんだ?」
 まあ、そこが問題なんですよね。というわけで、ぼくの感想は、糸井重里に半分だけ賛成かな。まあ、お読みになってください。あんまりおもしろいとも思えないかもしれませんが。(S)

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最終更新日  2020.05.08 22:57:23
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2020.05.07
​​​ 《2004書物の旅 その17
司馬遼太郎「燃えよ剣(上・下)」(新潮文庫)
 NHKが、所謂「大河ドラマ」で源義経を題材にしたことは二度あります。一度目は1966年、主役が当時の尾上菊之助、女優の寺島しのぶのお父さん、弁慶役は緒形拳、静御前は藤純子ですね。
 今はテレビをほとんど見ないのですが、この義経はおぼえています。小学校の6年生か、中1の頃だったと思いますが、家族で見ていました。

 二度目が2005年、義経役はジャニーズの滝沢秀明くんだったそうですが、見ていません。下の記事はその2005年当時の高校生に配っていた「読書案内」ですから、15年ほど時間をずらしてお読みいただければよいのではないでしょうか。
 ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※
 
ボーと新聞のテレビ欄を見ていて、なにかと話題のNHK、今年の大河ドラマが「義経」だと知りました。そういえば巷の本屋の店先には、やたらと義経物や平家物語が積み上げてありましたね。去年は「新撰組」で、その前は覚えていません。実は去年もテレビでこの番組を見た覚えがありません。何しろ、野球中継以外テレビを見ないのですからね。
 しかし、まあ、なぜ、またまた「義経」なのでしょう。そういえば、今よりテレビを見ていた子供のころの記憶にある一番古い大河ドラマは「赤穂浪士」でした。所謂「忠臣蔵」を現代的視点から描いた大仏次郎の時代小説のテレビ映画化で、芥川也寸志という作曲家が作ったテーマ音楽を今でも覚えています。芥川也寸志って?、もちろん芥川龍之介の息子です。
 大仏次郎という作家は「鞍馬天狗」(朝日文庫)の作者として戦前から大衆小説作家として有名な人です。戦後、パリコミューンを描いた「パリ燃ゆ」(朝日文庫)、最後には幕末の動乱期を描いた「天皇の世紀」(朝日文庫)という超大作・長編歴史小説(?)をライフワークとしていましたが、「天皇の世紀」の完成間近、ガンで他界した人です。
 素人読者にとって、それぞれの作品は、もう小説というより歴史書ですね。今では朝日新聞社が主催する「大仏次郎賞」という文化事業・芸術作品を顕彰する賞にその名を残していますが、この人の名前が読めたら教養のある高校生という訳なのですが、皆さん読めるでしょうか。
 
ところで、「義経」と「忠臣蔵」には共通点があります。実は江戸時代の人気番組の双璧なのです。もっとも、テレビも映画もない時代の人気番組とはいったいなにか。それはお芝居なんです。今でも残っている歌舞伎の出し物のツートップがこの二つにかかわる演目なのですね。
 丸谷才一さん「忠臣蔵とは何か」という本の中で、江戸の歌舞伎の演目で、この二つが流行った理由の一つに「御霊(ごりょう)信仰」があったとおっしゃっています。歴史上の人物たちで、悔し涙を流して死んだ人たちの「たたりじゃー!」という怨念は、江戸時代に限らず、この国の人々にとっては、決して、笑い事ではなくて、あだやおろそかにしてはいけない重大事だったということなのです。
 「死霊」がたたりそうな悲惨な死に方をした歴史上の人物をヒーロー化し、神仏としてお祈りした習俗には、それ相応の理由があったのです。
「どうか私たちにはたたらんといてね。」
 まあ、本音はこうだったかもしれませんが、結果的に、江戸民衆の代表的な娯楽である歌舞伎の中でも当然「判官びいき」ということのなるです。
 宮崎駿のアニメでなじみになった「たたりがみ」が流行るというのは、今に始まったことではないわけです。今ではテレビみたいなマスメディアで流行っているわけですが、人々の「負け組みびいき」の風潮の底には、怨霊畏怖の長い歴史があるという事なんですね。関西人のタイガースびいきも似たような動機かもしれませんね。まあ、あんまり勝ったことがないチームなのに、血も涙もない解雇やトレードで「たたりがみ」信仰を演出して、ファンを引き留めているのかもしれませんよ。
 
そう考えて振り返ってみると、「赤穂浪士」より一年古い第一回大河ドラマは舟橋聖一の小説「花の生涯」(祥伝社文庫)のテレビドラマ化でした。主人公は「安政の大獄」の仕掛け人、「桜田門外の変」で暗殺されてしまった大老井伊直弼ですが、維新後は典型的負け組みのワルでした。
 ぼくが小学生だったころのNHKの大河ドラマはみんなが見ている国民番組のようなものだったのですが、その主人公に抜擢されたのですから、破格の復権ということになります。1960年代前半の出来事です。明治元年が西暦何年であったか、ちょっと年表を調べてみると面白いですよ。
 というわけで、
去年の「新撰組」も、維新後100年は負け組みの嫌われ者でした。というのは井伊大老にしろ新撰組にしろ、明治新政府からそれぞれ極悪非道の権力者であり、旧体制のテロリスト集団だったというレッテルを貼りつけられ、悪い評判が100年続いた状態だったのです。
 尊皇攘夷を標榜した側もテロル勝負みたいな時代だったにもかかわらず、負けたほうが分が悪いのが歴史の常です。坂本竜馬西郷隆盛高杉晋作が評判がいいのと好対照です。
 歴史上の人物の評判なんてそんなものだといえばそれまでですが、復権するとなれば、やはりそれ相応の時期と卓抜な紹介者が必要になります。
 幕府きっての悪役
​​​井伊直弼はNHKテレビという、当時の最新マスメディアが復権を助けました。一方「新撰組」司馬遼太郎という希代の語り手を得てアンチヒーローからヒーローへと見事に復権を果たしたわけです。 文句なしの名作「燃えよ剣(上・下)」(新潮文庫)の主人公土方歳三のかっこよさはちょっと説明に困るほどだし、「新撰組血風録」(中公文庫)で描かれた人物群像は、史実に対する博覧強記を持ち味とするこの作家の特性が一種ロマンチックに昇華された人物伝として描かれて評判をとりました。
 明治百年、大衆的「御霊信仰」に支えられて幕末維新の怨霊たちの魂を鎮めるに絶好の時期を迎えて両者が再評価されるにいたったということです。​​​
 
ところで「燃えよ剣」は数ある司馬遼太郎作品の中の最高傑作だと思う時代小説です。ほかにも幕末・維新ものでは「竜馬がゆく」(文春文庫)・「峠」(新潮文庫)などオススメの人気作品が多数あるのですが、やっぱり「燃えよ剣」が一押しでしょうね。(S)答「おさらぎじろう」
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最終更新日  2020.05.07 22:18:59
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2020.03.10
​​​​​​大江健三郎・柄谷行人「全対話」(講談社)
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​​ 作家の大江健三郎がノーベル文学賞を受賞したのは​​1994年でした。この対談集には三つの対談が収められていますが、それぞれ、「中野重治のエチカ」(19944月)、「世界と日本と日本人」(19955月)、「戦後の文学の認識と方法」(1996年・5月)と題されています。対談の日付から、ノーベル賞受賞前に一回、受賞後に二回行われたことがわかりますが、それから25年の歳月が流れています。​
 
​​​​当時、大江健三郎柄谷行人の二人が会い、真摯に語り合っている様子に不思議な感動が湧いてきます。
 ぼくは、この二人たぐいまれな文学者の作品を20歳以来読み続けてきましたが、漱石論で脚光を浴びていたころの柄谷行人「個人的な体験」をめぐる批評があったような気はしますが、二人の間の「からみ」を目したり、読んだりした記憶はありません。この二人は、互いに「遠い場所」にいると思い込んでいました。​​​​
 
その二人が、ちょうど、ぼくの記憶の真ん中あたりで出会っていたということに、まず、意表を衝かれました。それがこの本を手に取った直接の動機でした。
 
​​巻頭の「大江健三郎氏と私」の中で、柄谷行人は「大江健三郎という作家」と「柄谷行人という批評家」の在り方を、それぞれ「小説の終わり」と「批評の終わり」を意識する場所に逢着した表現者であると結論づけていますが、「終わり」を意識するに至る二人の思考のプロセスを解くカギ言葉として、ambiguous(両義性)ambivalent(両価性)という対義的な二つの言葉について語っています。​​
 
​​​何のことかといぶかしむ方には本書を手に取っていただくほかはありませんが、本書に収められた対談についていえば、「中野重治のエチカ」は戦中から戦後にかけての文学的「転向」の「エチカ」、「倫理」をめぐって、語り合う二人の間にはambiguous(両義性)についての思考が底流しています。
 「世界と日本と日本人」「戦後の文学の認識と方法」はともに現代の世界文学におけるambiguous(両義性)をめぐる対談といっていいと思いました。​​​
 本書を読み進む中で、
二人が、それぞれ、自らの表現スタイルについての告白にも似た様子で、語っているところがあります。ハッとして、表紙を見返すと装幀家菊池信義がすでにに発見していて、表紙を飾っているのに気づいて笑いましたが、その語りはなかなかスリリングでした。
 
一つ目は批評家柄谷行人の文学的出発と、25年前の現在をめぐる発言です。

柄谷 大江さんが文芸誌にデビューされたのは1957ですね。
大江 そうです。57年の夏。
柄谷 僕は69年に、大江さんが選考委員をされていた群像新人賞をもらったわけです。当時、その十二年の違いは、随分大きいような気がしていましたが、今から振り返ってみると、さほどのことはなかったという気がしています。そ手も当然で、あれからニ十七年も経っているのですから。特に、九十年代以後の状況の中で考えてみると、僕はむしろ自分が批判してきた前世代と共通の時代的な基盤にあったことを痛切に感じています。
大江 あなたはそのころ哲学ではなく、批評という形でものを書こうとされたことには、やはり時代的な必然があると感じますか?
柄谷 ええ。少なくとも、現在なら、僕は批評という形式ではやらなかっただろうという気がしますね。僕はたんに小説をあげつらったり理論的に考察したりするために批評を選んだということはありません。それなら、むしろ小説家になろうとしたでしょう。やはり、哲学的というべき関心が強くあったのです。
 ところが、それを哲学としてやる気にはならなかったのです。それにはそれなりの理由があったと思います。まず何よりも文章の問題がありました。僕はいわゆる哲学者の書いた文章が好きになれませんでした。それは自分自身の存在と遊離しているような気がしたのです。そして、それはまた日本の現実的な存在と遊離しているということでもあります。
 
戦中に行われた「近代の超克」という座談会を丁寧に読みなおしたことがありますが、その中に、小林秀雄が京都学派の人たちに、君たちはまともな文章を書いていないとやっつけているところがあります。再読したときに思ったのは、第一にその時、小林秀雄は京都学派の哲学者をこれ以上ない言い方で批判していたのだということです。第二に、実は小林秀雄は哲学者なのだ、しかし批評という形で書くほかなかった哲学者なのだ、ということです。これは日本において、あるいは日本語に置いて考える限り避けがたい問題でもあり、また、そう考えること自体が、批評という形式を強いるのだと思います。
 
僕にとって、批評とは、思考することと存在することの解離そのものを見ることでした。と言って、それは抽象的な問題で反句、日本の近代以降の経験、あるいはファシズムと戦争の経験、そういうものを凝縮した問題だと思うんです。それはいわゆる哲学や、社会科学や、そういったものから不可避的に抜け落ちてしまうなにかです。逆に、批評という形式においてなら、どんなことでも考えられるのではないか、と思ったのです。今の若い人たちはそういうふうに考えないのでしょうが、僕にとっては、批評は自分の認識と倫理にとって不可欠な形式であったと思うんです。そして、それは現在もなお続いていると思います。
(「戦後の文学の認識と方法」)​

​ ​​​次は、大江健三郎の、25年前の現在ですね。今、振り返れば、彼はこの後、「宙返り」に始まり「晩年様式集」にいたる作品を書きつつけていますが、この時点でたどり着いている「小説の終わり」に対する感慨には胸打たれるものがありました。​​​

大江
「ドン・キホーテ」だって、下巻はとくにすぐれていますけれども、完全にサンチョ・パンサの批判、ドン・キホーテの批判で、あるいはセルバンテス自身の批判となっていて、実に高度なものですね。あれだけ高度であるということは、もうそれ以上の抜け道はないわけです。
 
偉い作家はこぞってそうだし、僕程度の普通の作家でも、小説だけ書いて生きていますと、その形式がよくわかってくるんです。そのうち一つの小説を書くと、次に書くのは最初の小説で発見したことの否定から始めるほかなくなる。猛烈に早くふけてしまう老人みたいに、僕は個人として小説の歴史を早くたどり過ぎたわけです。五十歳になったころ、すでに僕は。小説とはこういうものだという見通しを持っていたように思う。そして、それをもう一回やることには意味がない。本当の興味もありませんし、生き生きとした魅力もない。だから、僕はある段階から後ろ向きになってしまったのじゃないか。
 
​いつも前を見て、わけのワカラナイ方向へ向かって書いていく、それが小説です。認識していないものをなぜかけるのかというと、物語るという技術があるためです。そういうわけで、前を向いて書いている分には健全ですけれども、それがいつのまにか後ろを向いて、自分の書いたものを検討しながらやるようになった。つまり自分にとっての小説の終わりというものを書こうとしてきたように思いますね。ですから、読者がいなくなるのも当然なんです。じぶんとしては、それはそれである面白さはあるんですけれども。(「世界と日本と日本人」)​

​ ぼくは、相変わらず、この二人の新しい作品を待ち続けていますが、つい先日、古井由吉の訃報を知り、思わず、丘の上に立って、日が沈んでいく地平線を遠くに眺めているいる、ノッポとチビの二人連れを思い浮かべました。
 端正なノッポが柄谷行人、チビでかんしゃく持ちの、ちょと太った男が大江健三郎でしょうか。


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最終更新日  2020.11.03 17:52:00
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