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ゴジラ老人シマクマ君の日々

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読書案内「現代の作家」

2021.11.22
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​​​​​​週刊読書案内 金子薫「道化むさぼる揚羽の夢の」(新潮社)​
​​​​​ 蛹の形をしたの拘束具に首から上だけ出した形で閉じ込められ、糞尿まみれのまま吊るされている「機械工」天野さんが、自らがであることを信じ、やがて、になって羽搏くことを夢想するお話を読みました。
 金子薫という1990年生まれらしい、若い作家の「道化むさぼる揚羽の夢の」(新潮社)という作品です。
 ​微睡の中で天野はしばしば蝶になっていた。夢の中で色取り取りの翅をはためかせ、晴天の下、花畑に舞っていることが多かった。
ー中略ー
 ああ、早く蝶になりたいものだ、それだけを願い、固く眼を瞑った。すると直後、スプリンクラーが散水を開始した。
ー中略ー
 瞼を閉じたまま、水滴を味わい、天野は考える。この雨は羽化の予兆であるに違いない。自分たちは越冬蛹で、降り注ぐ生温かい水は春雨なのだ。冬が過ぎ去り春が来た。無数の蛹が破れ、蝶が一斉に飛び立つ日は近い。(P6~P7)​​
 天野は眼を瞑って歓びを嚙み締め、内なる熱に身悶えしながら、変わっていく自らの躰と、迫りつつある昇天について思いを巡らせた。織物または硝子細工の如く美しい、二枚の翅を羽搏かせ、私はどこまで飛んでいけるだろうか。一頭の揚羽蝶はどれほど天に近づけるのだろうか。(P198)
​ いきなりネタバレのようですが、本書の始まりと終わりの一節です。​​​​主人公「天野」君「蝶」を夢想するに至るきっかけは、上に書きましたが「蛹型」の拘束具に閉じ込められた結果、「蛹」であるという、まあ、いわば無理やりな自己確認にあるわけですが、拘束を解かれて工場で機械工として働く作業着が「蝶」柄であり、彼が作るのもまた金属製の蝶であるという反復によって、「蝶」が作品のテーマ(?)のように君臨してゆきます。
 当然「蝶」とは何だろうという疑問がわくのですが、「蝶」は「蝶」であるにすぎません。比喩でも寓話でもない、ひらひら飛翔する昆虫であるただのです。おそらくそこが、この作品の肝だと思いました。
 2021年に発表されたということからでしょうか、コロナ禍の社会のありさまの寓話のように読まれている面があるようですが、おそらく何の関係もないと思います。
 いってしまえば、ある種「美的な観念小説」を目指した作品だと思いまいました。硬直した権力社会にトリック・スターとして登場する「道化」とか、「道化の笑い」の昇華としての「蝶」の飛翔とか群舞とかいうアイデアは面白いですが、荘子を持ち出すまでもなく、ありがちでしたね。道化と蝶というセットでは、いかに自由に描こうともイメージがあらかじめくっついてしまうのです。
 結果的に、細部の描写や言及に関して、よく勉強なさっているという感想を持ちますが、そういう言い草は、こういう小説だと誉め言葉にはならないでしょうね。
 最後に、クライマックスとして描かれた子供たちの手から金属製の蝶が舞い上がっていくシーンがありました。作家が勝負に出ている感じでした。​
 小さな道化たち、秀人、明弘、奏太、司、真弓は、手当たり次第に落ちている蝶を拾い、両の手に包んでいる。
何をするつもりなのかと眺めていると、黄色い蝶が一頭、秀人の合わせた手から抜け出し、舞い上がっていった。司の手からも、烏揚羽か黒揚羽、あるいは架空の黒い蝶が高く舞い上がっていく。其処彼処で、子供たちが捏ね廻した蝶が、どういう訳か本物になって自在に飛び始めていた。
―中略―
 太陽の光に照らされて、蝶たちが戯れあうように飛んでいる。偽の木が真の木に変化するのみならず、地面もゴムから土に変わり、花まで咲いている。(P197)

​​​​ 作家の描いてきた地下世界に初めて陽光が降り注ぐ、ここまでにはない「明るい」シーンですが、このシーンの後に、最初に引用した言葉「私はどこまで飛んでいけるだろうか。」というセリフ​​があって、その自問が印象に残りましたが、自問しているのが天野君なのか、作家自身なのか。最初から最後まで、作家的な自意識の過剰な作品だと思いました。
 ただ、こういう自己言及的というか、堂々巡りというか、自らの観念を掘り続けるかに見える作品を20代くらいの読者はどう読むのか、ウザイになるのかリアルになるのか、​​​​ちょっと興味があります。
 蛇足ですが、ヴィジュアル的なジメージとしては面白い作品、まあ、具体的な指摘はできませんが、最近のちょっとグロテスクな絵のマンガとか、ディストピア的イメージの映画とか、どこか共通している同時代的な感覚が漂っているような感じでした。
​​​

 ついでに蛇足で、アゲハです。これは本物。​


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最終更新日  2021.11.22 19:19:07
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2021.11.06
​​​​​​​​​​週刊 読書案内 新庄耕「ニューカルマ」(集英社) ​​​
 一緒に「面白そうな本を読む会(?)」で集まって本を読んでいる人に二十代のジャーナリストの卵というか、ひよこのような方がいらっしゃるのですが、彼が提案した本がこの本、新庄耕「ニューカルマ」(集英社)でした。
 会の名前は、実はありませんが、長く続けていることもあって、会のメンバーの多くはぼくも含めて「時代」についていけていない傾向があるわけで、斬新な提案でした。​​

 で、勇んで読みましたが、不満だらけでした。
 ​震え続けている電話を操作し、耳に当てた。
 「あっ、ユウちゃん、久しぶり、俺、シュン」
 少年のそれを思わせる高い声が聞こえ、幼さの残る顔がうっすらと呼び起こされた。
 「ああ・・・・、なんだ、シュンか」
 平静を装って言ったつもりが、かえってわざとらしい口調になった。
 大学時代の同級生だった。初年度の必修科目のクラスで話すようになったが、専門課程に分かれてからは接点もなくなり、たまにキャンパスで会えば挨拶する程度の仲だった。最後に話したのはいつだったか、卒業から今日までの五年間、何の交流もない。
 「何度も電話しちゃってごめんね。いや、ユウちゃん、最近どうしてるかなって、ちょっと思って。」
 遠慮がちな相手の声が、通りを往来する車の走行音と重なる。​​(P6)​​
​​ まあ、こういう電話がかかってきて「ユウちゃん」「カルマ」が育ち始めるわけです。題名の「ニューカルマ」を見て、仏教用語だったような気がしましたが、読み終えて調べ直すと「業」ということらしいですね。​​
​ 20代後半の独身サラリーマンが、ぼくはよく知りませんでしたが、いわゆる「ネットワーク・ビジネス」にはまっていく話で、はまっていく「ユウちゃん」の一人称語りの「物語」です。​
 だから、どうしても「内面」というか「意識」の世界を物語ることになるのです。
 「みなさん、今はやりのネットワーク・ビジネスにはまっていく人間の内面って興味ありませんか?」
 作家は、そんなふうな誘いを囁きながら、凡庸な「内面」の変化をサスペンス仕立てで描くのです。

 そして、まあ、ネタバレのようですが、この作品はこんなふうに終わります。
 ​先程まで明るい光に満ちていたはずの外は、夕暮れとは思えぬほど暗く沈んでいる。窓辺に椅子を近づけて空を見ると、煙のようにくすんだ雲が折り重なり、むかいに立ちならぶ雑居ビルの頭上を覆いつくしている。
 しばらくの間、作業に戻ることも忘れ、重く垂れこめた黒い雲をながめた。
 デスクの上の携帯電話を手にとり、窓の外に視線を戻して耳に当てる。
 呼び出し音が鳴る。
 四コール目で、耳になじんだ声が聞こえた。短い沈黙のあとで、僕は口を開いた。
 「タケシ、話があるんだ」​(P258~259)
​ ​この小説はここで終わりますから、この電話で「ユウちゃん」が、親友(?)「タケシ」に何を語ろうとしているのかわかりません。おそらく作家は
 「ここから先は、読者に想像していただきたい、想像の根拠になる、電話の主ユウちゃんの内面についてはすべて書き込みました」
 とおっしゃりたいわけですが、果たして「書き込まれているのか」「想像が可能なのか」と考えると少々心もとないですね。ただ、携帯電話で始まった人間関係の描写が、やはり電話で終えられるところが、いかにもこの作品の描いている関係性を象徴しているようで興味深いですね。​

​​ ついでに、付け加えると、この主人公のイメージが、この単行本のカバーの写真の男のような人物であるということが、作品が描く物語に「先行」なのか、「追加」なのか、ともかく情報として載せられている製本レイアウトなのですが、残念ながら、こんな男はこの作品のどこにもいなかったような印象しか持つ事はできませんでした。
 で、もう一度、ただ、なのですが、ただ、凡庸で臆病で正直な青年が、知らず知らずのうちに、こんな顔を、その内面に持ち始めるということの暗示なのかもしれません。それはそれでリアルといえばリアルなのですが、少しやりすぎな感じもしました。​​

 まあ、そんな、実もふたもない感想だったのですが、そんなことをノンビリしゃべりあっているときにしゃべってくれた、この本を紹介してくれた青年の感想は驚きでした。
 かなり長い感想を聞かせてくれたのですが、勝手に要約するとこんな感じでした。
 10年ほど前、不況のときに、小林多喜二の『蟹工船』が流行りました。『ニューカルマ』は、現代の蟹工船ではないか。ただ、冷戦が終わり、共産主義、社会主義への理想も語れない世代なので、労働者は団結するどころか、お互いを食い合うしかない。そういう、リアリティーを持った小説でした。
 というわけで、ニューカルマは、僕にとってはめちゃくちゃリアリティーありました。知り合いにも、ネットワークビジネスをやってるような友人もいて。やたら金の羽振り良くて。怖くてどんな職業かは聞けません。
 三宮とか、大阪のなんばとか、その辺の喫茶店、マクドナルドなどに長時間いれば、割と頻繁に、ネットワークビジネスの勧誘に遭遇します。日中、お昼すぎくらいですね。
 青年のこの感想には、ぼくなどには、全く気付けない視点というか、現代社会に対する「生な実感」があって、その感覚からこの作品を読むと、かなりリアルな実況中継というか、ある種の情報小説として読めるということです。
 気にかかったので、ゆかいな仲間ピーチ姫に聞いてみると、彼女も二十代の後半なのですが
 「そうだよ。身近にあるよ。そういう話。」
 と一言で片づけられて、あっけにとられる始末でした。

 というわけで、新しい書き手の作品を読む心得云々以前に、なんとなく殺伐とした「現代社会の実相」の一面を教えられ、ちょっとオロオロしました。
 今や、終末期資本主義とでもいうべき、とんでもない時代が始まっているのかもしれません。いやはや、何とも、どうなるのでしょうね。

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最終更新日  2021.11.06 00:15:19
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2021.10.31
​​​​週刊 読書案内 川上弘美「三度目の恋」(中央公論新社)​​
​ 川上弘美の最新作(?)です。彼女はこの作品に先立つ2016年「伊勢物語」の現代語訳を、池澤夏樹が編集して評判をとった河出書房「日本文学全集」で、上辞しています。本を見たことはありますが、内容は知りません。​
​​ で、その仕事と、今回の「三度目の恋」(中央公論新社)という作品との関係について、本書の「あとがき」でこんなふうに書いています。​​
​ 実は伊勢物語を訳しながら、どうにもすっきりしない感じを覚えていたのです。業平という男が、つかめなかった。光源氏の造形に影響を与えているだけあって、数々のまつわる恋物語もあれば、仕事人としての業平も描かれていれば、男どうしの友情も描かれている。光源氏よりも人間くさい男ではある。それにしても、女たちはなぜ、この業平という男にこれほどまでにとらわれるのだろう。そのことがどうにも解せなかったのです。(「三度目の恋」P387)​​
​ ​​ようするに、伊勢物語を精読した川上弘美「どうして業平はもてるのか?」ということが「解せなかった」というわけで、ちょっと、自分なりに謎解きしてみましょうとこの作品を描いたということのようです。​​
​​​​ で、現代の女性である主人公の「梨子(りこ)」さん。その梨子さんがほんの幼い頃から「ナーちゃん」と呼んで恋い慕う男「原田生矢(なるや)」さん梨子さんが小学校の用務員室で出会う、実になぞめいた「高丘(たかおか)さん」という三人の登場人物を設定して、小説は始まります。​​​​
​ お話は現代っ子である「梨子さん」「時をかける少女」よろしく、「昔」、「昔々」、「今」、と章立てされた時空を飛び交います。​
 ちょっとエキセントリックな少女であった梨子さん「愛」「恋」を巡る遍歴を経た成長譚ともいえます。江戸の遊郭とか平安貴族のお屋敷とか、結構、とんでもない世界に飛び込んでいく冒険譚でもあります。
 ちょっと、ネタバレしますと、時空を超えるのですから、作品世界がハチャメチャにならないための仕掛け、まあ、ドラえもんでいえば「どこでもドア」として使われるのは、この作品では「夢」ですね。
​​「時をかける小学生」だった梨子さんが、「夢見る子育てママ」に成長して、「三度目の恋」を夢みるというのが、まあ。ぼくなりの要約です。
 川上弘美「蛇を踏む」(文春文庫)芥川賞を取って25年になるのですね。この作品には、彼女らしさというのでしょうか、「におい」「気配」を描いたシーンも満載で、お好きな人にはたまらないでしょうね。​​

 面白かったのは、あの澁澤龍彦の遺作、「高丘親王航海記」(文春文庫)を巡る展開が挿入されていることでした。作家自身も、先述の「あとがき」でその作品に対するオマージュだと書いています。
​ 澁澤龍彦の小説は、最近では近藤ようこによって漫画化されていて、そっちの方が有名かもしれませんが、在原業平との関係で言えば、高丘親王というのは、平城帝の息子で、業平の父、阿保親王ですね。業平にとっては叔父さんなのですが、在原業平を描くときに必ず登場する人物なのかどうか、「語りたいこと」「語る人」によっては、ほぼ、登場することのない人物だと思います。​
 ところが、この作品では​小学生の梨子ちゃん​が、いきなり​高丘さん​という謎の人物に出会うのです。読む人によっては、「高丘・・・?聞いたことある名前なんですが!」とか、何とか、まあ、気付く人もいる名前で、その後、かなり読みすすめていくと、澁澤龍彦の作品名まで出てくると「やっぱり!」と納得するのですが、だからといって、なぜ​高丘さん​が登場するのかわかるわけではないのです。なんだか何を言いたいのかわからない紹介になっていますね。
​​ おそらく、この作品に登場する高丘さんという人物と高丘親王とが、どう繋げられているのかというのは、ひょっとしたら、こちらがメインなのかもしれないという感じで、この作品の肝の一つなのはわかるのですが、まあ、何が語りたいのか、結局よくわからないのです。​​
 作品のディテールは「婦人公論」(中央公論新社)に連載しただけのことはあって、セクシャルでスキャンダラスなシーン満載なのです。偶然、聞くことができたのですが、読み終えた数人のお知り合い(みなさん女性でした)の評価は◎と×とで真っ二つでした。
 ぼく自身は、何処か、還暦を超えたおばさまがお書きになった「通俗小説」という印象で△でしたが、評価が割れるのも納得という感じでした。

「伊勢物語」なんかに興味をお持ちの方にはいいかもしれません。なんといっても、有名な「芥川」のシーンの前後が実録「性愛小説」化されていますからね。

           「高丘親王航海記​」(文春文庫)
            近藤ようこ版


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最終更新日  2021.10.31 00:19:24
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2021.10.12
​​​​​​​​​​​週刊 読書案内 宇佐見りん「推し燃ゆ」(河出書房新社)​​
 話題沸騰の宇佐見りん「推し燃ゆ」(河出書房新社)です。書店ではピンク色のカヴァーで平積みされていましたが、カヴァーをとった姿はこんな感じです。
 これが派手なカヴァーです。
​ 2020年下半期、冬の芥川賞です。書き手の宇佐美りんさんが21歳の大学生であるということで、かなり盛り上がりました。​
​「かか」(河出書房新社)​というデビュー作が前年、2019年「文藝賞」(河出書房新社)「三島賞」(新潮社)をとって、二作目の「推し燃ゆ」(河出書房新社)「芥川賞」でした。​
 ​「かか」​を読んで、「あれれれ!」という感想で、​「それじゃあ「推し燃ゆ」も」​というわけで、友達に借りて読みました。
 図書館も順番待ちが半年先の雰囲気で、通販の古本も、値段が高止まりで、ああ、どうしようかと思っていると、まあ、本読みともだち(?)である友人が「面白いよ」といいながら貸してくれました。
​​「『推し』ってなんのこと。ああ、それから『燃ゆ』も。」​​
「読めばわかるよ。」
​ まあ、あっさりそういわれて読みましたが、貸していただいた本にカヴァーがなかったので、上の写真になりました。
 読み始めると、とりあえず「推し」についてはこんな風に書かれていました。​

​​ 「アイドルとのかかわり方は十人十色で、推しのすべての行動を信奉する人もいれば、よし悪しがわからないとファンと言えないと批評する人もいる。推しを恋愛的に好きで作品には興味がない人、そういった感情はないが推しにリプライを送るなど積極的に触れ合う人、逆に作品だけが好きでスキャンダルなどに一切興味を示さない人、お金を使うことに集中する人、団同士の交流の好きな人。
 あたしのスタンスは作品も人も丸ごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった。​​(P17~18)​​​​
​​ ​推しを始めてから一年が経つ。それまでに推しが二十年かけて発した膨大な情報をこの短い期間にできる限り集めた結果、ファンミーティングの質問コーナーでの返答は大方予測がつくほどになった。裸眼だと顔がまるで見えない遠い舞台の上でも、登場時の空気感だけで推しだとわかる。​(P32)​​​
​​ 世間の動向に疎い60代後半の老人にも「推し」という言葉の意味が「名詞」としては動詞として使われている「推す」の対象を指し、知っている言い方で言えば「アイドル」を指すことは理解しました。で、「推す」ことに熱中することを「燃ゆ」という古典的言い回しで表現したのが本書の題になっているようです。​
​ まあ、間違っているのかもしれませんが、まずは、第1関門クリアというところなのですが、こうやって主人公のあかりちゃんがブログ上、ないしは自己告白として記している文章を写しながら、不思議なことに気づきました。​
 高校2年生のこの少女は、とても端正な文章の書き手だということです。これはいったいどういうことでしょう。
 本当にそれがあるのかどうか、よくわかりませんが、「推し文化言語」というものがあるとして、作家はその文化の中に暮らす少女を描き、その文化の中の意識や心情、行動を書き込んでいます。しかし、彼女の文体そのものは、まあ、こういうとほめすぎになるかもしれませんが、近代文学で繰り返し書かれてきた告白体小説と、とてもよく似ているのです。
​​​ もう私は、属目の風景や事物に、金閣の幻影を追わなくなった。金閣はだんだんに深く、堅固に、実在するようになった。その柱の一本一本、華頭窓、屋根、頂きの鳳凰なども、手に触れるようにはっきりと目の前に浮んだ。繊細な細部、複雑な全容はお互いに照応し、音楽の一小節を思い出すことから、その全貌を流れ出すように、どの一部分をとりだしてみても、金閣の全貌が鳴りひびいた。​(三島由紀夫「金閣寺」新潮文庫P30)​​​
​ どうです、あんまりな引用に、びっくりなさったでしょうか。三島由紀夫「金閣寺」の第1章の末尾、主人公の青年が「金閣寺」に鳴り響く音楽を見出した瞬間の描写です。
 「金閣寺」は今や古典ですが、考えてみれば1956年に書かれた「推しモユ」小説と言えないこともないのではないでしょうか。
 で、上の引用は二つの作品の「推し」のありようについて「推し」ている当人の告白なのですが、なんだかよく似ていると思いませんか。
 両方「推しもゆ」小説だとして、三島の作品では「金閣」が宇佐見りんの作品では「アイドル・タレント」が、「推し」の対象です。
 で、二つの作品は、本来、客体であった「推し」に対して「どの一部分」を取り出しても「全貌」が自分の主体の中に入ってくるというふうで、とてもよく似ています。

​​ 宇佐美りんの場合は対象が人間なので、その「意識」「感受性」の主観への取り込みという形になっていますが、三島由紀夫が駆使しているい音楽のメタファーを当てはめても、さほどの違和感はありません。
 ここで、もう一度、「これはどういうことなのでしょう​?」と思うわけでした。
 で、最後まで読んでみて、それぞれの作品の結末を比べてみると、金閣は焼けて、アイドルは普通の男性に戻ります。で、「燃えて」いた主人公はどうなるかというわけです。​

​​ 私は膝を組んで永いことそれを眺めた。
 気がつくと、体のいたるところに火ぶくれや擦り傷があって血が流れていた。手の指にも、さっき戸を叩いたときの怪我とみえて血が滲んでいた。私は遁れた獣のようにその傷口を舐めた。
 ポケットをさぐると、小刀と手巾に包んだカルモチンの瓶とが出て 来た。それを谷底めがけて投げ捨てた。
​ 別のポケットの煙草が手に触れた。私は煙草を喫んだ。一仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。(「金閣寺」新潮文庫P257)​​​
​ 有名(?)な結末です。実際に金閣に火をつけた小説のモデル、林養賢という人物は現場で自殺を図ったうえでとらえられたようですが、小説の主人公は「推し」を失いながら「生きる」ことを決意します。
 で、​所謂「ネタバレ」でしょうが、こちらが宇佐見りん​「推し燃ゆ」​の結末です。
 綿棒をひろった。膝をつき、頭を垂れて、お骨をひろうみたいに丁寧に、自分が床に散らした綿棒をひろった。空のコーラのペットボトルをひろう必要があったけど、その先に長い長い道のりが見える。
 這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う。
 二足歩行は向いてなかったみたいだし、当分はこれで生きようと思った。体は重かった。綿棒をひろった。​(P125)​
 この小説は「推し」「燃え」た結果、高校を中退した18歳の「あかり」ちゃんの語りなのですが、その語りの文章は、ある端正さで維持されており、金閣寺の主人公の語りが作家の文体そのままの文章であることと共通しています。
 この相似性のなかに、「推し」というハヤリ現象を題材にしながら、小説書くという意識において「三島由紀夫」「中上健次」のあとを歩こうとしている匂いを感じるのですが勘違いなのでしょうか。
 異様にたくさん、あちらこちらで見かけるこの作品についてのレビューのなかに、「発達障害」という病名に関わる話題がたくさんありました。主人公の少女の診断書の件りが作品の中にありますから、話題になることは予想できますが、実は三島の作品でもモデル人物の精神障害が、当時、話題になったようです。三島が作品を発表したのは、その人物が結核と精神障害の悪化で、服役中に亡くなった直後のようです。

 あてずっぽうですが、「金閣寺」「推し燃ゆ」も、病者を描いた作品ではないと思います。ちょっとたいそうないい方になりますが、思想であれであれ、まあ、恋愛でもあこがれでもですが、精神性の純化の結果引き起こされる「反生活」的な事象を「病気」として解釈するところに、芸術は成り立たないのではないでしょうか。
 「推し燃ゆ」は​​​​、今どき珍しい、れっきとした文学だと、ぼくは思いました。

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最終更新日  2021.10.12 00:26:48
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2021.10.10
​​​​​​週刊 読書案内 宇佐美りん「かか」(河出書房新社)​​

​​​​​​ 19歳の浪人生の女の子「うーちゃん」「おまい」に語りかける、宇佐見りん「かか」(河出書房新社)という作品はこんなふうにはじまります。​​​​​​
​​ そいはするんとうーちゃんの白いゆびのあいだを抜けてゆきました。やっとすくったと思った先から逃げ出して、手のなかにはもう何も残らんその繰り返し。P3​​

​​​ 書き出しの一文からもうかがわれますが、この作品の特徴は何といっても「ことば」です。作品の題として使われている「かか」という母に対する呼びかけの言葉に始まり、語り続ける「うーちゃん」「おまい」と呼びかける二人称も、ある種、独特な「身内ことば」、ジジ、ババ、姉弟、親子というような世界で流通することばです。そのあたりのことを「うーちゃん」自身がこんなふうに語っています。​​​

​ ​イッテラシャイモス。うたうような声がして、しましま模様の毛糸のパジャマに身を包み前髪を少女のようにばっつし切ったかかが立っていました。怪我した素足を冷やこい玄関の床にぺたしとくっつして柔こい笑みを赤こい頬いっぱいに浮かべています。かかが昔早朝から仕事に出ていたときのように、うーちゃんは本来であればイッテキマンモス、と答えなくちゃいけんかった、でも答えませんでした。このトンチキな挨拶はむろん方言でもなければババやジジたちの言葉でもない、かかの造語です。「ありがとさんすん」は「ありがとう」、そいから「まいみーすーもーす」は「おやすみなさい」、おまいも知ってるとおり、かかはもかにも似非関西弁だか九州弁のような、なまった幼児言葉のような言葉遣いしますが、うーちゃんはそいをひそかに「かか弁」と呼んでいました。​(P1011)​

​​​​​ わたしたちは故郷の言葉として、あるいは、一般的な始まりの言葉として「方言」を知っています。石川啄木が上野駅に聞きに行ったあの言葉ですが、実は、その「故郷の言葉」以前に、人は「家族のことば」とでもいうべき最初の言葉で世界と出会うのだという、当たり前のことなのですが忘れていたことに宇佐美りんという若い作家が挑んでいる作品でした。
 生まれて最初に出会う「はじまりの言葉」の世界には人間という存在にとって、不可避の宿命のように始まってしまう、まだ形をとらない「するんとゆびのあいだから抜けてゆく」頼りない「不安」のようなものが漂っているのでしょうね。
​​ 19歳の少女が、そんな「はじまりの言葉」の世界から自立し、「自らの生の世界」を獲得するための「祈り」のような作品でした。​

​​​​​ 作品を読み始めた当初、熊野へ旅する「うーちゃん」に、横浜で暮らす19歳の少女がどうして「熊野」を目的地にするのかというところに無理やりなものを感じていたのですが、作品の後半、熊野の森にたどり着いた「うーちゃん」の姿を読みながら、1973年の芥川賞候補作「19歳の地図」中上健次を彷彿とさせられるとは想像もしませんでした。
 かつて「19歳の地図」の少年は、緑の公衆電話を武器にしていたのですが、​「うーちゃん」​はスマホの画面に広がるSNSの世界を生き抜くことで戦いを挑んでいるかに見えます。
​​ 「うーちゃん」にとって、ネットの世界はこんな感じなのです。​

​ インターネットは思うより冷やこくないんです。匿名による悪意の表出、根拠のない誹謗中傷、などいうものは実際使い方の問題であってほんとうは鍵をかけて内にこもっていればネットはぬくい、現実よりもほんの少しだけ、ぬくいんです。表情が見えなくたって相手の文章のほのかなニュアンスを察してかかわるもんだし、人間関係も複雑だし、めんどうなところもそんなに変わらん、ほんの少しだけぬくいと言ったのは、コンプレックスをかくして、言わなくていいことは言わずにすむかんです。第一印象がいきなし見た目で決まってしまう現実社会とはべつにほんの少しだけかっこつけた自撮りをあげることもできるし、「学校どこ?」なんて聞いてくる人もいないし、教室でひとりお弁当を食べている事実を誰も知らないわけです。みんな少しずつ背伸びができて、人に言えん悩みは誰かに直接じゃなくて「誰かのいる」とこで吐き出すことがでるんです。(P34)​​

​​​​​ 「公衆電話」であろうとSNSであろうと、それぞれ、時代を描く「道具」としてリアルなのですが、この作品では、ある原型的な「人間存在」の疎外を、SNSを使い今の社会に生きている人間の姿で具体的に描いているところが「あたらしい」と思いました。
 ただ、そういう「うーちゃん」を描く、宇佐見りんという作家は、案外、正統派のオーソドックスな作家ではないかという気もしたのですが、どうなのでしょうね。
​​​追記2021・10・10

​​​ 宇佐見りんさんは、二作目の「推し燃ゆ」(河出書房新社)2021年の冬芥川賞を受賞しました。面白かったのは受賞のインタビューで「中上健次」の名前が出ていたことです。「かか」の主人公うーちゃん熊野に旅をするのは、うーちゃんにとっての必然ではなくて、書き手の宇佐見りんにとっての必然だったようです。​​​
 それにしても、久しぶりに中上健次の名前を口にする作家が誕生したことに、何ともいえず「嬉しい」気持ちになったのでした。
 もうそれだけで、この作家のこれからに期待してしまいそうです。​

 
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最終更新日  2021.10.10 09:06:54
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2021.09.27
​​​​​​​​​​​​​週刊 読書案内 吉田篤弘「電球交換士の憂鬱」(徳間文庫)​
 吉田篤弘の小説を案内するなら「つむじ風食堂の夜」(ちくま文庫)からにするべきなんじゃないかとは思うのですが、最近、偶然、読んだのでこっちからということになりました。​
​ 今日の案内吉田篤弘「電球交換士の憂鬱」(徳間文庫)です。​
 ご覧のように、表紙は灰色の地に、なんだか古めかしい電球が黒く描かれていて、ギリシア風の女性でしょうか、何か掌に載せていますが、よくわかりません。
 ページを開くと「目次」とあって電球の挿絵です。もう一枚めくるとこんな感じです。
不死身  7
よく似た人  51
北極星    93
煙突の下で  135
砂嵐とライオンの眼鏡  175
屋上の射的場   217
静かなる電球   259
 ​全部で7章、オシリについているのはページ数のようです。で、もう2枚ページをめくると始まります。
「道に詳しいのに、自分の行き先がわからないもの、なあんだ」
 いきなりマチルダが、謎謎を仕掛けてきました。(P8)
​ ​​​​​場所はバー〈ボヌール〉のカウンター、語っている「おれ」は酒も飲めないのに常連で、謎謎を仕掛けてきたマチルダをはじめ、春ちゃんとか、西園寺なにがしという刑事なんだかタクシーの運転手なんだかよくわからない謎の男とか、夜な夜な集まってだべっているのが、まあ、作品の発端というか舞台ですね。​​​​​
​​ バー〈ボヌール〉ママについてはこんな風に書いてあります。​​
​ ママは自分の煙草の煙に目を細めていた。その立ち姿は、オレに云わせれば「とびきりの一級品」である。美女とか何とかを超越している。(P14)​
​ ​7章立ての短編集の体裁をとった物語の始まりというわけで、登場人物の紹介です。まあ、詳しくはお読みいただくほかないわけですが、さすがにこれは言っておいたほうがよろしいでしょうというのが、書名にも出てきますが、主人公「おれ」のお仕事のことです。​
 さて、おれはいよいよ「おれ」について話さなくてはならない。
 なぜなら、おれもまた〈ボヌール〉の半永久的常連客=「おれたち」の一人だからだ。おれの肩書きはヤブ医者に伝えたとおり、「電球交換士」で、世界でただひとり、おれだけに与えられた肩書である。似たような作業をするヤツは他にもいるかもしれないが、肩書通り電球の交換だけを専門に引き受けているのは世界広しといえども、おれ一人だ。
 きっかけは遺産だった。おれの親類縁者は、親父の血筋もお袋の血筋もことごとく早死にで、ただ一人おれを残して、全員、さっさとあの世にいってしまった。全員が判で押したように、短い人生で、だから、全員、大した蓄えもなく、全員がおれにしみったれた小金をのこした。
 が、小金とはいえ、かき集めればそれなりの額になる。おれはそれまで、父親の生業だった軽業師になるつもりで弱小サーカス団の一員として修業を積んでいた。そこへ、思いがけず小金の遺産を手に入れたのだ。
 さて、早死にの家系を覆すような仕事とは何だろう・・・・・
 対策を練る必要があった。なにしろ、次に殺られるのは、ただ一人のこされたおれなのだから。
 しかし、じつのところ、考えるまでもなく答えは出ていた。
 電球を交換すること ―
​ いや正確に云おう。それは、儚く短い電流の時間を終え、ぷつりと切れた電球をすみやかに交換すること ― である。(P15~P16・太字引用者)​
​​​​​ 主人公というか、出来事の語り手は「おれ」で、彼の職業が「電球交換士」というわけです。ほかの登場人物たちの職業は、案外ありきたりというか、現実的なのですが、「おれ」は「電球交換士」なわけです。皆さん、電球交換士って知ってますか?​​​​​
 マア、この後もしばらく自己紹介が続くのですが、いかがでしょう。かなりご都合主義で、かつ牽強付会な論理展開なのですが、とりあえず、こういう「おしゃべりな文章」がお嫌いでない方には、この小説は悪くないと思いますよ。
 で、まあ、読むにあたって問題は、その電球交換士とやらが、いったい何をするのかということなのですが、もちろん、電球を交換するのです。実際、美術館とか博物館とかの天井の電球から、とどのつまりは「東京タワー」と思しき展望台の電球交換の話まで出てきます。
​​ でも、そういう仕事の話を読まされたにしても、「そりゃあそういうお仕事もあるでしょうよ」とは思いますが、「早死に」から「不死身」への変身と、電球交換がどうつながるのか、という、あっけにとられるような職業選択の「理由」というか「秘密」はわかりませんね。​​
 そろそろお気づきでしょうが、この小説はその「理由」だか「秘密」だかを「ミステリー」というか「謎」にして読ませる作品なのですね。
​​ すまして言えば「時間」をめぐって、冒頭の謎謎「道に詳しいのに、自分の行き先がわからないもの、なあんだ」を追いかけている話だといえないわけではないのですが、まあ、「灯り」ネタの小話集といえないこともないというのが感想でした。
 読み終わってみると、フーンという感じで軽いのですが、ちょっと残るというのは、たぶん「時間」ネタのせいですね。吉田篤弘のいつもの手だと思いました。​​

​​​​ ちなみに。主人公の名前は十文字扉(じゅうもんじとびら)さんで、交換して回る電球は「十文字電球」ですね。皆さんは「十文字電球」ってご存じでしょうか?マア、それよりなにより、白熱電球って、お宅にあります?
 もう一つ、ちなみにですが、ご存じの方は、当然ご存じなわけですが、吉田篤弘「クラフトエビング商会」​の事務員さんですね。もう一人の吉田浩美さんがデザイナーらしいですが、ありもしない本を作ったりして評判の会社です。
 そうそう、ちくまプリマ―新書のブックデザインとかやっている、あの会社です。​​マア、今や事務員稼業より、小説書きのほうが忙しそうですが。(笑)​

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最終更新日  2021.09.27 12:28:04
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2021.09.25
​​​​週刊 読書案内 石沢麻依「貝に続く場所にて」(講談社)​​​
  今年の夏の芥川賞李琴峰(り・ことみ)さんの「彼岸花が咲く島」(文芸春秋社)石沢麻依さん「貝に続く場所にて」(講談社)でした。​​

 お二人とも女性で、李琴峰さんは、作年、「ポラリスが降り注ぐ夜」(筑摩書房)で、新宿の夜の酒場を描いて芸術選奨文部科学大臣新人賞とかを受賞して評判になった作家ですが、今年は芥川賞ゴールインです。拍手!ですね。
​ 石沢麻衣さんは、芸術学西洋絵画の研究者で、ドイツの大学に留学中の才媛だそうです。で、その才媛が書いたこの作品の出だしはこんな風でした。​
​​​​ 人気のない駅舎の陰に立って、私は半ば顔の消えた来訪者を待ち続けていた。記憶を浚って顔の像を何とか結び合わせても、それはすぐに水のように崩れてゆく。それでも、断片を集めて輪郭の内側に押し込んで、つぎはぎの肖像を作り出す。その反服は、疼く歯を舌で探る行為と似た臆病な感覚に満ちていた。​(P003)​​​
​​ ​​いかにも、賢そうな文章です。ただ「記憶」、「肖像」、「臆病な不安」というイメージを「水のように」という直喩でまとめようという雰囲気なのですが、このパラグラフに限っても「水」のイメージでうまくまとめ切れていないために、アンビバレンツな読みにくさを作り出しているというのは、ぼくの謬見でしょうか。​​​
​​ おそらく「水のように崩れる」という表現を、小説の冒頭に持ってきたかったんだろうというのが、勝手な憶測ですが、その憶測は全編読み終えて浮かぶことで、この場面を読む限りでは「水のように崩れる」という表現が、東北の震災と深くつながっていること読み取ることは難しいのではないでしょうか。​​
 作品は、いわゆる「東北震災」をテーマにした「災後小説」というべき佳作だと思います。ただ、ちょっと嫌味を言えば、いかにも才媛らしく「頭の中で考えた世界」ことばをあてはめて描こうとする「硬さ」が目立つ作品だと思いました。
 ​あの三月以来、鳥の視点で街という肖像画を眺めるようになった。
 三年前ドイツに出発する日の朝、仙台空港から成田空港へ飛行機で移動した。機上となり窓から見下ろすと、海岸がくっきりとした線を青の中に刻み付けている。線の内側には地面の茶色の下地が広がり、そこにわずかな建物だけが点在している。素描の途中で手をとめてしまったかのようだった。以前の絵をなぞろうとして、再現できずにいる記憶の図。私の中に、その印象が浮かび上がる。海の手が暴力を振るった後を消し去ることはできず、そこは素描のための下地を整えることから始めなくてはならない。記憶を底に重ねようとしても、その投影が覆いつくすのは痛みを刻んだ別の顔。引き裂かれた時間の向こうに消えた肖像を、甦らせることはできないままだ。
 ある場所や土地を描くと、風景画ではなく肖像画になっていることがある。額縁に囲まれた土地や町の中に、「顔」が浮かび上がってくるのだ。時間の中で変化し続けてゆくものを捉え、その記憶を重ねてゆくと、街や場所の肖像画となる。様々土地から土地へ移動を繰り返すうちに、風景画と場所の肖像画の違いが次第に見て取れるようになってきた。そこには、時間の異なる視点が関わっているのかもしれない。風景に必要なものは、現象の細やかな観察や写真的な視点であり、それを見ている者と場所の現在の対話的な時間の記録となる。しかし、ある場所を見て過去を重ね、そこに繋がる人の記憶に思いを寄せる時、場所の改装という独語(モノローグ)の聞き手とならなくてはならない。その時それは、風景画ではなく場所の肖像画となるのかもしれなかった。
 失われた場所を前にした眼差しが探し求めるのは、破壊される前の土地の顔である。時間が跡を残し、記憶がしみ込んだ馴染みの深い顔。あの日以来、だれもが沿岸部を訪れるたびに、それを探し求める透過した過去への眼差しを向けている。​(P115~P116)​
​ 小説が中盤を超えたあたりの引用ですが、以前の絵をなぞろうとして、再現できずにいる記憶の図」​という記述を「頭の中に浮かんできた絵をなぞろうとして」と置き換えると、このパラグラフ全体が、彼女の作品の解説になっているようで面白いのですが、絵画の研究者の絵画論としてとても面白いと思いました。とっつきの悪い作品でしたが、この辺りまで来るとかなり読みやすくなるのも不思議です。
 いろいろ、嫌みを言いましたが、
実に誠実な自己告白小説というべき作品で、「記憶がしみ込んだ馴染みの深い顔」を探し求め、「時間」を透過することができる方法を探り、幻想小説を思わせるイメージを駆使した努力が芥川賞として評価されたことは、素直に讃えたいと思いました。


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最終更新日  2021.09.26 00:19:26
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2021.08.16
​​​​​藤谷治「睦家四姉妹図」(筑摩書房)​​ 藤谷治という作家も作品も知りませんでした。読んだことのない作家や作品を「ちょっとこれどう?」という感じで、まあ、いつも教えていただく知人から差し出されました。​
「4人姉妹といえば、谷崎の細雪なんだけど、これも4人姉妹よ。ちょっと読んでみない?細雪は900ページだけど、これ200ページくらいで済むからね。」
 なんだか、意味深な笑顔です。
「はずれなの?」
「さあ、どうでしょう。」
 というわけで自宅に持ち帰って、いつものように食卓に放りだしているのをチッチキ夫人が見つけていうのです。
「あら、この人知ってるわよ。」
「えっ、なんで?」
「筑摩書房の『ちくま』の連載でしょ。」
 そうなんです。彼女は岩波書店「図書」とか講談社「本」とか、いわゆるPR誌の鬼というか、とっても熱心な読者なのです。
「ちょっと。先に読んでいい?」
「はい、はい、どうぞ、どうぞ。」
 二日ほどして、本は食卓に戻ってきました。
「ちょっと、これ、さっさと読んでみてくれる?」
「えっ?なに?なにかあったの?」
「いいから、読んでみてよ。」
「面白かったの?」
「さあ、どうでしょう。」
 振出しに戻りましたね。じゃあ、読み始めましょうか。最初のページにこんな図が載っていました。​​​ 1988年昭和63年1月2日「睦家」の家族写真です。「睦家四姉妹図」という作品名はこの仕組みからつけられているようですね。​​​
​​​ この作品は8章で構成されていますが、各章の冒頭には必ずその年の1月2日に撮られた家族写真か掲げられています。記述はその日に集まった家族の様子です。なんで、1月2日なのかというと、その日が四姉妹の母、睦八重子さんの誕生日だからですね。​​​
​ 上の写真を撮った第1章「揺れる貞子と昭和の終わり」の冒頭はこんな感じです。​
 ​​貞子が帰ると、家の中には誰もいなかった。
「明けまして、おめでとうございまあす・・・・」
 人の気配は全然しなかったけれど、一応、挨拶しなながら入っていった。コートを脱ぎ、荷物と一緒に応接間のソファに放り出し、台所の方をチラッと見たが、やはり無人である。
「ふん・・・・・」
 貞子はため息をついた。​​
 ​長女​​貞子二十四歳、正月の二日目、毎年恒例になっている、母八重子の誕生パーティーのために帰宅したのですが、残りの家族は、なぜか留守だというシーンです。​​
​ この日から、ほぼ二十年後平成二十年、2008年のこの日は第6章「このごろのサダ子さん」です。​
 まずこの写真があります。 妙に人数が増えていますが、冒頭はこうです。
 ​​もはやいちどきに全員が応接間に収まることはできない。子どもたちは年齢に差もあるし、そうしょっちゅう顔を合わせているわけでもない。男の方が多いからお互いへのけん制もあるかもしれないが、それでも応接間から食堂、奥の間や浴室に向かう廊下を、みんなで甲高い声を上げて走りまくっている。​​
​ ​ついでなので、最終章「楽しき終へめ」も引用してみます。(ちなみに、ぼくはこの題が読めませんでした。)​
​ 日付はご覧の通り、2020年1月2日です。30年余りの年月が立ちました。写っているのは1988年の写真と同じ6人。ただし撮っている人が余分に一人います。場所は埼玉県のURの賃貸住宅です。
 ​乗り慣れない電車の乗り換えに手間取って、各駅停車だけが止まる小駅にたどり着いた時には、電話で告げた予定の時間よりも一時間以上遅れていた。
「電話しとこうか?今来たって」という梶本に、
「いいよ」貞子は答えた。「あと五分だもん」
 駅からの道は、迷いようもない。駅を背にして広々とした歩道を、ただまっすぐに歩いていくと、十字路の先に巨大な白い集合住宅が、二、三百メートル先の行き止まりまで並んでいるのが見える。
​ まあ、こんなふうに、さほど手間もかからず読みえたわけです。読み終えると、さっそくチッチキ夫人が聞いてきました。
「どう?」
「うん、まあ、おもしろいんじゃないの。」
「どこがあ?」
「それぞれの章の始めにある写真の図かな。これ、架空の家族でもいいけど、本物の写真だったら、投げ出していたような気がする。最初6人だった写真が、年ごとに増減すやんな。一応、長女の貞子の語りでその日のことが語られるねんけど、みんな、薄っぺらいねんな。子どものいない貞子の目という都合に合わせた、勝手な客観描写があるだけやし。でもな、その年その年の写真の名前を見ながら、だんだん、膨れ上がっていくねん。苗字が変わったり、何年か前はあったはずの苗字と一緒に男の名前が消えたり、また新しい名前がふえたり。
 正月の二日に、オバーチャンの誕生会に集まる子供や、その親がどんな暮らしをしているかなんて、急にピアノ引き出した子がおったり、寝てたのに泣き出したり、もうそれでなんかわかるというか、離婚の事情とか、最後の章の書き出しでも、写真の名前見て、ああ、梶本って貞子の男で、こういう奴やんなって。」
「どういうことか、ようわからへんわ。」
「そやから、繰り返し8回写真の名前見て、読んでる読者は昔のホームドラマを勝手に思い浮かべるように、自分の生活とかに浸るように仕組まれてんねんって。」
「地震のこととか、流行りのマンガとかのことはなんで出てくんの?」
「細雪が昭和の初めの歴史やってんから、こっちは平成の歴史でっせって」
「それって、インチキくさくない?」
「うん、舞台背景、書割っていうやろ、それしかない。まあ、それも、通俗ちゃあ通俗やねんけど。個々の登場人物の気持ちの描写ってステロタイプやろ。その人物らしいこと、その事件らしいことだけ書かれてて、他には、ほぼ、なにも書いてへんねんけど、そやから、みんな同感できんねん。名前と年齢だけ見て読者が考えてくれる。写真には名前と年齢しかないからイメージは読み手の自前。だから、リアルやねん。」
「でも、読み終わっても、何にも残らへんやん」
「残ったら、ウザイやろ。この作品は読者の30年間の平和な夢なんやから。これ、かなりなたくらみや思うで。」
 と、まあ、老人だから、そう思うにすぎないかもしれない意味不明な会話でしたが、なんというか、「細雪」との隔絶は近代文学の終焉どころの話ではなさそうです。ひょっとして、「文学」以外のジャンルでは当たり前の現象に過ぎないのかもしれませんね。
 勝手な言い草ですが、広告会社が「感動」とか「同感」とかの「肝」みたいなもの集めて、それを、それぞれの「事件」の「リアル」として構成するためだけのアイデアをひねって生まれてくる「作品」というのが、「自然」な「情感」にフィットするという、恐るべき時代が始まっているのでしょうね。

 それにしても「ちくま」の連載だったということが、それはそれで感慨深かった読書でした。お暇な方におススメです。(笑)

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最終更新日  2021.08.16 00:38:30
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2021.07.18
​​馳星周「ソウルメイト」(集英社)​​
​​ 市民図書館の返却の棚で見つけました。馳星周「ソウルメイト」(集英社)です。2013年に単行本が出版されて、その後、「ソウルメイト」、「陽だまりの天使たち ソウルメイトII 」(集英社文庫)と文庫化されているシリーズの、まあ、第1巻ですね。一言でいえば「犬」の話でした。​​
​ 馳星周直木賞を取ったのは昨年、2020年ですが、彼が最初に評判になったのは「不夜城」という作品で、もう30年前のことです。
 新宿の夜を描いた「ノワール」小説だったと思います。評判になったころ読みましたが、忘れてしまいました。当時、作品よりも、馳星周という人が内藤陳というコメディアンがやっていた「深夜プラス1」という酒場の、アルバイトのバーテンだったことに、ミーハーな興味を持ちましたが、ぼくのなかで内藤陳が旗を振っていた「冒険小説」のブームが終わるとともに忘れていた作家でした。​

​ で、昨年の直木賞で思い出しました。受賞作は「少年と犬」(文芸春秋)だそうです。​
 「えっ、まだ取っていなかったの?」
 それが正直な、最初の感想でしたが、その次に来たのが、「犬って何よ?」という疑問でしたが、この作品を読んで氷解しました。
 この方は「犬」が好きです。それも半端ではない「愛し方」です。この本には7頭の犬の話が書かれていますが、どの話も誰かが誰を「愛する」とか「信頼する」ということが、人間という枠を超えて描かれています。いや、犬という仲間を通して描かれているというべきでしょうか。
​ で、読み終えてわかるのですが、あの内藤陳さんが褒めたたえた「冒険小説」の血脈はここに流れていますね。何せ、題が「ソウルメイト」「魂の友達」ですよ。​
 ぼくは、犬が嫌いなわけではありませんが、とりわけ好きなわけでもありません。そういう人間が、ページを繰ってみると、そこにあるのは「犬の十戒」です。「おいおい」というか、「ええー、なによ」とい気分でやり過ごして、本文に向かいました。マア、どっちかというと、あっという間に読み終えました。で、なんと「十戒」に戻ってきてしまいました。面白かったのでしょうね。
Be aware that however you treat me,I will never foget it.
​​ぼくにどんなことをしたか、ぼくはずっと覚えているからね。​​​
​ 第6の戒です。一番短いので写すわけではありません。「冒険小説」の真髄の一つだと僕が思うことが、戒律としてここにあると思うからです。言い直すとこんなふうになるでしょうか。
​ 「ぼくのこの世界での経験は『魂のこと』として、ぼくのなかに刻み付けられていく。」
 まあ、そういう生きざまの登場人物を描くこと、それが、件の「冒険小説」の要素の一つだったと思うのですが、「犬」と暮らすということと、実に、ぴたりと重なるのですね。
 マア、馳星周がそう書いているということではあるのですが、犬好きの人はもちろん、その手のお話が好きな人にはぴったりかもしれませんね。ぼくは結構はまりました。直木賞の受賞作にも手を出してみようかなと思っています。なかなか読ませますよ。



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最終更新日  2021.07.18 00:23:27
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2021.05.09
​​​​​ 磯崎憲一郎「鳥獣戯画」(講談社)​
​ 
磯崎憲一郎という作家は2007年「肝心の子ども」という作品で文芸賞をとって登場した人で、三井物産かどこかのサラリーマン作家と聞いたことがあります。​
 「肝心の子ども」をすぐに読んで、なんだかわけがわかりませんでした。そう思いながら、なぜか、「終の棲家」とか「赤の他人の瓜二つ」とか、なんとはなしに読み続けて、さすがに「電車道」という長編(?)を読み終えてダウンしました。
 文章が難解でわからないとか、「て、に、を、は」がおかしいとか、そういうことではありません。ただ、ひたすら、作家、ないしは文章の書き手として登場する人物が、なぜ、「こんなこと」を延々と描いているのだろうという、ほとんど「いらだち」に近い「わからなさ」に翻弄されてしまったからです。
​ で、本作はどうだったのか。これが、異様に面白いのです。作品の題は「鳥獣戯画」、読み終えて、なぜこんな題がつけられ、装丁にも、やたらと有名な絵が使われているのか、実はわかりません。​
 そうは言いながら、「題」があれば「題」に引きずられて読むのが読者というもので、頭の中で、ちらちらそういうことを考えながら読み始めたわけです。
​ 私は道を急いだ、ある人と待ち合わせをしていたのだ。ある人というのは高校時代からの古い女友だちだったが、二十八年間の会社員生活を終えた、ようやく晴れて自由の身となったその第一日目に会う相手として最も相応しいのはその女友達であるように、私には思えたのだった。「凡庸さは金になる」
 ここは都心の一等地に一軒だけ奇跡的に残った昭和の喫茶店だった、白塗りの壁は煤で汚れ、杉材の柱も黒い光沢に覆われている、薄い、しかししっかりとした一枚板を使ったテーブルと椅子は細かな傷だらけで、交互に組み合わされた寄木の床も靴跡と油で黒ずんでいる、古い暖炉には本物の薪が焼べてある、季節は春だったが、まだコートの手放せない気温の低い日が続いていた。「凡庸さは金になる」
 というわけで、ココから「物語」が始まるわけですが、で、男は、その「女友達」に会ったのかというと、なぜか、「若い女優」と遭遇し、あろうことか、その女優と「京都で落ち合う約束」までするという所で「凡庸さは金になる」という、意味深な、あるいは意味不明な第1章が終わります。
​​ 書き手の作家は、その女優とどうなるのかという興味に引きずられそうですが、いや、もちろん、引きずられますが、ここでは、最初の興味の「題名」に戻りましょう。
 「鳥獣戯画」はどうなった、どこにいったのだということですが、第1章から70ページ後、第6章「明恵上人」という章で、ようやく出てきました。こんな書き出しです。​
​​​ ​​先斗町で湯葉料理を食べた翌朝、私と彼女は京都駅前から栂ノ尾行きのバスに乗った、「鳥獣戯画」で有名な栂尾山高山寺は、もともとは奈良時代の終わりに天皇の勅願によって建てられた寺だが、その後荒れ果てて粗末な草庵が残るばかりになっていたのを。鎌倉時代に、明恵上人が再興した、国宝の石水院は後鳥羽上皇から学問所として贈られた建物で、現在まで高山寺に伝わる経典、絵画、彫刻の類も全て明恵上人の時代に集めあられたものだ。バスが京都駅前を出発してものの五分も経たないうちに、またしても、窓から見える景色が昭和の町並みに変わってしまっていることに私は動揺した、床屋の入り口では赤・白・青三色縞模様のサインポールが回っているし、八百屋は店先のキュウリやトウモロコシを笊に盛った生姜を初夏の日差しから守るため、簾を人の背の高さまで下げている、「谷山無線」というトタン板の大きな看板を下げた電気屋はまだシャッターを上げていない、雨で汚れた漆喰壁に無数のひびが入った釣具店の中では老いた店主が立ち上がって、誰かに向かって怒鳴っているのがガラスの引き戸越しに見える、しかしこんな大都市の真ん中にどうして釣具店が必要なのか?商売として成り立つのか?こういう昔の町並みはもはや東京では決して見ることはできない、それとも本当はまだ見ることができるのに、私がただ単に、見て見ぬ振りをしているだけなのだろうか?大宮松原という停留所から赤ん坊を抱いた若い母親が乗ってきた、座席は空いているのだが寝ている子供を起こしたくないからだろう、吊革に掴まって立ったままでいる、白い半そでのブラウスから覗いた二の腕が細い、まとめ髪の下の襟首も痛々しいほどに細い、若い母親は抱っこ紐の背中側のロックを締めようとするのだが指先が届かない、バスが揺れると身体も揺れてますますうまく行かない。手伝ってやりたい気持ちが、懐かしさと性欲の入り混じった感情とともに私の中に沸き起こったのだが、隣に座る女優に不審に思われることを恐れてぐっと堪えた、穏やかな、楽しげな表情で京都の商店街を見る彼女の横顔は、午前中の銀青色の粉のような光を浴びてますます美しかった、昨晩と違い、しっかりとした化粧が施されていた。「明恵上人」​​
​ 写し出したら止まらなくなったので、ここまで写しましたが、なんか変だと思いませんか?「句点」がほとんどないのです。「改行」もありません。男はバスに乗っています。隣には女優が座っていて、窓の外や、社内の様子が描かれています。書き手の、おそらく意識を刺激することの連続が、句点なし、改行無しで書き綴られていきます。辛抱して読んでいただいて、そのうえ、質問なのですが、「綴っている」この瞬間、書き手がどこにいるのか、気になりませんか?
​ 第1章の文章が、なんとなく過去を振り返っているのに対して、引用した部分は、今、現在を思わせるのですが、この後、高山寺に到着して始まる明恵、文覚に関する記述は、「明恵上人」「型のようなもの」「護符」「文覚」「妨害」「承久の乱」「入滅」と全部で七章にわたり、明らかな過去であるにもかかわらず、不思議な時制で、延々と、ほぼ100ページにわたって続きます。​
 で、それが、まず異様に面白いのです。意識の臨場感の赴くままに1000年近くも過去にさかのぼり、やがて、自らの少年時代、高校時代から、会社員時代へと、実に自由に記述は帰ってきます。
​ その間「鳥獣戯画」はどこにいったのでしょうか。さあ、どこにいってしまったのでしょうね。相撲を取るウサギや、走って逃げるサルたちの面影が兆したような気はするのですが、果たして、この作品とどう結びついているのか、そのあたりはお読みいただくほかありませんね。​
​ 句点のない、長々しい文章を自在に操りながら、とどのつまりは、肌寒かった春の日の半年後、再び、あの「昭和の喫茶店」のドアに手をかけるところで小説は終わります。​
 作品の中で流れる半年の時間の中で記述されていく、あるいは、1000年前に起こった出来事が、あるいは、作家自身が何年も前に経験したはずの出来事が、果たして本当に起こったことなのかどうか、そして、今、再び、作家自身が昭和の喫茶店のドアに手をかけていることは事実なのかどうか、それは何とも言えませんが、作品の中では確かに起こっていて、その1000年とか、何年もの年月とか、そして、半年とかの時間は作品の中に、確かに流れていることは、お読みになれば実感していただけると思います。
 いやはや、これは、ちょっと、すごいことだと思うのですが。わからないのは、その実感がどこから来るのかということと、「鳥獣戯画」という題名は、一体何だったのということで、はい、なにがなにやらさっぱりわからない、にもかかわらず、異様に面白いという結論でした。うーん、何がこんなに面白いんでしょうね。やれやれ。



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最終更新日  2021.05.09 00:33:33
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