000000 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

ゴジラ老人シマクマ君の日々

PR

全9件 (9件中 1-9件目)

1

「鶴見俊輔と吉本隆明」

2020.04.27
XML
​​​​​​​吉本隆明「佃渡しで」(「吉本隆明代表詩選」(思潮社)」

       「佃大橋から勝鬨橋を臨む」​​
      ​「佃大橋」

​​ ​東京の月島に住む友人が歩いて「佃大橋」を渡っています。ぼくには「佃大橋」とか「月島」とかの地理がよくわかっているわけではありません。フェイスブックに投稿された、晩春の隅田川の風景や、人も車もほとんどいない大橋の写真を見ていると東京で暮らす知人たちのことが思い浮かんできます。みんな、無事で元気にしているのでしょうか。
 今日は2020年4月26日です。こんな感慨を持つ日がやってくることは、さすがに、予想できませんでした。
 「佃大橋」という地名を見て、詩人の吉本隆明の死と彼が1960年代に書いた詩を思い出しました。

  佃渡しで    吉本隆明

佃渡しで娘がいつた
〈水がきれいね 夏に行つた海岸のように〉
そんなことはない みてみな
繋がれた河蒸気のとものところに
芥がたまつて揺れてるのがみえるだろう
ずつと昔からそうだつた
〈これからは娘に聴えぬ胸のなかでいう〉
水はくろくてあまり流れない 氷雨の空の下で
おおきな下水道のようにくねつているのは老齢期の河のしるしだ
この河の入りくんだ掘割のあいだに
ひとつの街がありそこで住んでいた
蟹はまだ生きていてそれをとりに行つた
そして沼泥に足をふみこんで泳いだ

佃渡しで娘がいつた
〈あの鳥はなに?〉
〈かもめだよ〉
〈ちがうあの黒い方の鳥よ〉
あれは鳶だろう
むかしもそれはいた
流れてくる鼠の死骸や魚の綿腹(わた)を
ついばむためにかもめの仲間で舞つていた
〈これからさきは娘にきこえぬ胸のなかでいう〉
水に囲まれた生活というのは
いつでもちよつとした砦のような感じで
夢のなかで掘割はいつもあらわれる
橋という橋は何のためにあつたか?
少年が欄干に手をかけ身をのりだして
悲しみがあれば流すためにあつた

〈あれが住吉神社だ
佃祭りをやるところだ
あれが小学校 ちいさいだろう〉
これからさきは娘に云えぬ
昔の街はちいさくみえる
掌のひらの感情と頭脳と生命の線のあいだの窪みにはいつて
しまうように
すべての距離がちいさくみえる
すべての思想とおなじように
あの昔遠かつた距離がちぢまつてみえる
わたしが生きてきた道を
娘の手をとり いま氷雨にぬれながら
​いつさんに通りすぎる​

​ 友人が渡っている佃大橋が竣工したのが1964年8月だったそうです。「東京オリンピック」の年の夏ですね。
​ 詩の題名になっている「佃の渡し」は佃大橋の竣工とともに廃止されたそうです。詩のなかに「河蒸気」の姿が描かれているところ見れば、渡し船がまだ運行していた世界が描写されているようですが、詩人の目の前には1961年に着工され、工事中の大きな橋が見えているようです。
 一人の少年の思い出の世界は、今、大きく変貌しようとしているようです。この詩において、それは、「すべての距離がちいさく見え」始めた詩人自身の変貌であり、少年たちが「悲しみ」を流すためにあった「橋」の働きが失われていく社会の変化でもあったのではないでしょうか。​

 そこから60年の歳月がたち、詩人がなくなっ2012年からでも、10年近くの時が流れました。
 身を乗り出して「永代橋」の写真を撮って送ってくれている友人は、橋のたもとに、今でも60年前の「佃の渡し」の痕跡を見つけることができるのでしょうか。

追記2020・04・27
​ 早速、友人から「船着き場だった場所」にモニュメントとがあるという返事が来ました。山の中の田舎で育ったぼくには、吉本隆明のこの詩の「水辺」の光景は魅力に満ちていました。​
 彼には「佃んベえ」という、「ベーゴマ」についてのエッセイもありますが、「ベーゴマ」遊びを知らない田舎者には、異国の郷愁の味わいの文章でした。

​​​PVアクセスランキング にほんブログ村
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ
ボタン押してね!

にほんブログ村 本ブログへ
ボタン押してね!







ゴジラブログ - にほんブログ村​​






最終更新日  2020.11.09 02:53:06
コメント(0) | コメントを書く


2019.10.21
​​​​​​​​​​​岡部伊都子・鶴見俊輔「まごころ」(藤原書店)


 岡部伊都子さんの「沖縄の骨」を案内したときに出てきたのがこの本です。2003年、もう、15年以上昔にになります。当時、岡部伊都子80歳、鶴見俊輔81歳。二人の老人が出会い、生きてきた道筋を「まともに」、今、思えば最後の火花を散らし合うように語り合った対談です。​
岡部 久しぶりに、先生、よう来てくれはりました。おおきにありがとう。
鶴見 本当に久しぶりなんですけれど、体のことを考えて、遠慮してたんです。ところが奇跡的に回復されてびっくりしました。全くびっくりしました。
岡部 自分でもびっくりしてます。
鶴見 電話をかけるんだけど、いつも死にそうな声で・・・・(笑)
​岡部 ごめんなさい。​
岡部 私はね、先生と初めてお出会いしたのは神戸でね。戦士が講演しはった、あれは何年ぐらい前になります?
鶴見 1960年です。だから四十三年前。
岡部 ああ、そう。四十三年も・・・。あの時に先生のお話聞きに行って、そして司会の方が、なんかしゃべりって私に渡されたんで、やさしいええお方でしたけど、私、あれがはじめての先生との出会いでした。
鶴見 いや私は岡部さんの名前は知っていたんですよ。おむすびの話でしたね。それを(「おむすびの話」)読んでるんです。だから呼ばれた人が岡部さんだったんで、大変びっくりした。
岡部 なに言うたか覚えてへん。
​​​ こうして始まった会話が、「犀のごとく歩め」という言葉をめぐって、学校の話、病気で寝ていることの話。病弱だった岡部さんが初めて書いた作文の話へ。
岡部 先生はお母さまがきびしくて、ご苦労なさったようだけど、私は体が弱いから、ほんで末っ子やから、甘かったんかわかりませんけれども・・・・。
 小学校一年の時に学校へ行ったら、はじめて自分の思うこと、昨日あったこと、何でもいいから書きなさい言われたんです。で、それを書いて、二、三百字でしょうね、その頃初めて書く文章だから。それを先生に出して帰りますやろ。そしたら三重丸くれはった。

鶴見 いいですね。三重丸なんて私はもらったことないですよ。
​岡部 三重丸もろうて、それが返ってきたから、お母ちゃんに見せてあげたら喜ぶかなと思って、帰って、母が縫い物をしてますわな、そのそばへ行って、「返してもろた、三重丸くれはったで」っていうたら、母がちょっとそこで読みなさいと言うんです。だからそれをこう持って、ちゃんと自分の文章を全部読んだわけです。そいたら母がな、それを渡したらな、戴くんです。戴いてな「もうこれはな、あんたが二度と書けないものやから、大事にしときまひょな」言うて、それできれいな箱を取り出してきて、そこへ入れてくれた。まあ、私は母が、自分の書いたそんな、生まれてはじめて書いた、幼い幼い綴り方を戴いてくれるなんて、なんやと思います。
 だから、ああ、お母ちゃん、こんな喜んでくれはるんやったら、お父さんにいじめられてはるさかい、お母ちゃんを喜ばせたる、何もしてあげられんけど、文章書いて、お母ちゃんを喜ばそうと思うたんんが、はじめてのいま。ずっとそれが続いてます。​​
​ 随筆家岡部伊都子の始まりの話から、文章の話へと続きます。引用した、岡部さんの「話し方」に惹かれた人は、どうぞお読みください。それで案内を終わるのも一つなのですが、どうしてもここに書き記したい話があります。とりあえずそれをここに紹介します。岡部さんが韓国に行った時の話が続いていて、その続きです。​
岡部 弱いから強いんだよ。私は弱い。だけどほんまに北の人も南の人もみんな会いたがってはるわな。韓国に行ったときに、私はハングル言われへんからな、私の言うたことはみんな朴先生が通訳してくれはりました。私が下手な話をしたら、あとで私に質問してくれはりますねん、聞いた人が。その時に、天皇をどう思いますかと。
鶴見 いまの天皇(平成帝)は、自分の祖先に朝鮮人がいるということを、はっきり言ったんです。ところが日本の新聞はそのことをほんの小さくしか扱わなかった。いろんな連鎖が起こるから。朝鮮の新聞は大きくだした。
岡部 そうですか。
鶴見 だから今の天皇個人の思想というものは、なかなかのものですよ。
岡部 やっぱり祖先を知ったはるねんな
鶴見 歴代の天皇の中ではじめて言ったんです。平安京の場合、桓武天皇の母親は朝鮮から来ています。
岡部 そうですよ。京都だもの。この京都ですよ。桓武天皇のお母さんは高野新笠、百済の王族や。
鶴見 だから長岡京に失敗して京都に来たのは、ここに朝鮮人の強い強い部落があったから、それに助けられて出てきたわけでしょう。
 それからいまの皇后、これもびっくりしたね。彼女はね、竹内てるよ「海のオルゴール」という詩を引いた講演をやったんです。私はもう大変びっくりした。
 竹内てるよというのは、昭和二年ごろ、カリエスになったものだから、婚家から追い出されて、子どもを婚家に置かされて、ひとりになって出てきて、東京でカリエスで寝てたんです、貧しい人がどんどん入ってくる家で。そこで彼女は詩を書き始めて、あの時代の一種のマドンナなんです。いろんな人が入ってきて、話をしてるんですよ。
 そして彼女の最初の詩集は「叛く」というんです。これはもちろん、皇后は知ってて引用した。よくこれだけ大胆なことができるなと。私は天皇と皇后の両方に感心してるんですよ。

 天皇制そのものはけしからんものですよ。今の天皇の父親には戦争責任があると、私は思っています。だが、個人としてみると、現在の天皇、皇后はそうとうの社会思想を持ってますよ。
​​​​ 朝鮮の話、沖縄の話、友達の話、鶴見さんは優等生だった自分の苦痛を振り返り、岡部さんは、病弱だった一生を振り返り、対談の最後の最後に、自らを戦争に「私は戦争に加担した女です」と言い切って対談は終えられています。
 振り返れば、岡部伊都子さんは2008年、享年85歳、鶴見俊輔さんは2015年、享年93歳でこの世を去でられました。​あっという間に、思い出の人になり、忘れられていくのでしょうか。
 しかし、この対談に限りません。あの戦争から60年、「まともな人間でありたい」という痛烈な希求が書き記されているお二人の膨大な書物は、残されています。戦争や、差別や、あらゆる抑圧が充満する社会を生き抜いた人が、これだけハッキリと「本当のこと」を語っている本は、そうあるものではありません。読まない手はないのではないでしょうか。
追記2019・10・21
 文中の「犀のごとく歩め」は、お釈迦さんの言葉だったと思いますが、要するに、「犀」のように歩むということです。別に開き直っているわけではありません。ネットとかで引けば、いろんな解釈があります。でも、「犀のごとく」は、それだけで、喚起力ありますよね。こういう言葉はやはり、どこかすごいですね。
 黒川創の「鶴見俊輔伝」​はこちらからどうぞ。 ​​​​​​​​​​​​​

PVアクセスランキング にほんブログ村
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ
にほんブログ村
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村








最終更新日  2019.11.16 09:57:05
コメント(0) | コメントを書く
2019.10.17

​​​岡部伊都子「沖縄の骨」(岩波書店)


 
今から15年ほど昔のことです。三学期の最後の授業だったでしょうか、三年生は受験戦争の最中だったのでしょうね。ぼくはのんびりこんなことを書いていました。別れの挨拶のつもりだったようです。
     ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※
 風邪をひいて寝ていました。参りました。3年ほど前、修学旅行の付き添いでインフルエンザにかかって以来でしょうか。まあ、あの時のほうがひどかったのですが。それに今回は自宅に居るのだから気がらくだったともいえます。

​​ なんとなく本でも読もうかという感じで、岡部伊都子さんの「沖縄の骨」(岩波書店)というエッセイを読み始めて泣いてしまいました。​​
​ この作者の文章のモチーフは戦中体験に対する痛烈な自己批判と言っていいと思います。当時、高等女学校の生徒だった彼女が、婚約者の出征に際して放った、『私やったら喜んで死ぬけど』というたった一言の言葉に対する責任。それが、彼女の60年にわたる戦後​​​の「生き方」を決定したのです。​
 
最近、岡部さんと鶴見俊輔との対談を記録した「まごころ」(藤原書店)という本が出ましたが、その中の彼女の言葉を紹介します。ここに「沖縄の骨」のモチーフが結晶していると、ぼくは思います。​​

 木村のお母さんが、折(ヘギ)に扇子つけて持って来はった。結局、婚約したから、はじめて婚約したあとで来やった時に、それが最後でしたけど、それまで男の人入れたことのない私の部屋へ、婚約したから入れさせてもらえたわけですけど・・・。
 入ってもろて、大阪の西横堀やから、窓からは「そごう」やら「大丸」やら、ちょっと遠いところは、「高島屋」やら、そんなん見えてますねん。
 ほんならな、入ったとたん、邦夫さんはちゃんと襟を正して、『僕はこの戦争に反対です』いうて言いやって、私、びっくりしてな。そんな言葉聞いたことおまへんやん、それまで。相手は見習い士官でっせ。
 『自分はこの戦争に反対です。こんな戦争で死にたくない。天皇陛下のためなんか死にたくない。君やら国のためなら死ぬけど』と言いました。
 こっちはわかれへん。何でそんなこと言いやるのかわかれへん。ぜんぜん。それまでものがあんまり見えなんだ時代でしょう。びっくりしてな。『私やったら喜んで死ぬけど』と言うた。
​ なんという残酷なことを言うたかなと、いまになって、ずっと、邦夫さん、ごめんやで、ごめんやで、言いつづけてますけどな。あんな戦争まちごうてると言うた、二十二歳の若者が、そのころの大阪の西横堀にいてたということを知ってほしい、みんなに。​
​ 戦争や暴力に対する警戒心が風化しています。戦後六十年。1945年、敗戦当時二十歳だった人が2004年、八十歳。時とともし忘れられたり、美化されたり。人間の記憶の特性のひとつといえばそれまでなのですが、こと戦争や国家による暴力について詠嘆で済ませる事は得策でしょうか。

​ 最近小熊英二という四十代前半の学究が「民主と愛国」(新曜社)という1000ページ近い論文を発表しました。戦後日本の思想の動向を丹念に描いて評判になっています。内容は高校生には少し難しいかもしれません。しかし、日本という国の現在の有様に関心を持つのであれば手にとって見て損はないと思いますよ。

​​​​​​ ダグラス・ラミスという六十代後半の在日アメリカ人がいるのを御存知でしょうか。津田塾大学で教えていた人なのですが、最近は沖縄に住んで「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」(平凡社ライブラリー)とか「なぜアメリカはこんなに戦争をするのか」(晶文社)という本で「有事法制」とか「日米新ガイドライン」について、とてもわかりやすく批判しています。
 政治学をカリフォルニア大学で学んだ人らしいのですが、古代ローマやニュルンベルグ裁判を例に、また自らのアメリカ海兵隊体験も交えながらの現代日本社会分析と批判の明晰さは、なかなかお目にかかれないものだと思います。内なる外国人の目のクリアーさに一度触れてみてはどうでしょう。
 特に「経済成長~だろうか」はボランティア活動や福祉活動の大切さを感じている人には、なぜ自分がそう考えているのかという疑問を解く鍵を与えてくれるかもしれませんね。私たちはただ経済的糧のためだけに働くわけではないし、食べるために生きるわけでもありません。そこから「生きる」ということを考える鍵の一つと出合える本かもしれません。​​​​
 さて、岡部伊都子さん、八十一歳。十八歳の少女が『私やったら喜んで死ぬけど』という「人を殺す言葉」をまじめに口にした時代がありました。敗戦を経験し、出征した婚約者の死を知った時、自らの言葉がもっとも大切な他者である恋人を殺す言葉であったことに気づきます。その体験が彼女のその後の60年の人生を決定しました。​
 ​​
「あんな戦争まちごうてる」
 この言葉が物狂いのように彼女に化身している文章です。​​​

 ​​​​​​自分自身が「人を殺す言葉」を発していないか、そう自問する力をぼくたちはどこで育てるのでしょうか。世間に向けてかっこよく振舞っている自分自身を疑う力はどうやれば育てる事が出来るのでしょうか。
 戦争や国家という遠くて大きな「問い」に向かうアプローチに歩みだそうとしている諸君に限らず、ぼくのような役立たずな老人にとっても、必要なことは、「ひょっとして、ぼくは・・・」という小さな「問い」ではないでしょうか。
 ということで、今日はひとまずグッド・ラック!お元気で!(S)2005・1・27
追記 2019・10・16
​ 15年前の18歳、今は、30歳を越えて、一人前の社会人として活躍しているのでしょうか、実際、どうしているのでしょう。ここに案内した鶴見さん岡部さん、もう、この世の人ではありません。かくいうぼく自身も、これと言ってしなければならないことがあるわけではない徘徊老人です。​
​​​​​ その徘徊老人が、「何でも見てやろう」式に覗いた元町映画館の小部屋で見たフィルムに心が騒ぎました。それは影山あさ子さんたちが撮った「ドローンの眼」という。短いドキュメンタリーでした。そこには、ぼくたちの眼には隠されている「沖縄」が映し出されていました。そして、何よりもぼくの心を騒がせたのは、そこには「戦争が露出」していたことです。

 そのフィルムを見た帰り道、ザワザワするぼくの心が、繰り返し思い浮かべていたことは、​あの頃、生徒さんたちに書いたことを「ひょっとして、ぼくは、忘れようとしている」のではないかということでした。​​​​​​
​​​​ ​「あんな戦争まちごうてる」岡部伊都子が、一生かけて書き遺した言葉は、やはり、忘れてはいけない。誰かに伝えていきたい。今、そう思っています。
追記2020・05・19
 沖縄の南、小さな島々がこっそりミサイル基地化されつつあるそうです。中国を仮想的にした戦争の準備を、「現実的」な情勢判断だと口する「戦争屋」がこの国にもいて、金が、税金が動けば儲かる「利権屋」がいるのでしょうね。
 コロナ騒動の影響でつぶされたり、瀕死の状態に陥っている小さな事業者を見殺しにしながら「国」を守るというような御託を並べる政治家を見ていると暗澹とします。
 とはいうものの、古いやつだと思われながら、岡部さん鶴見さんを紹介していくほか手立てはなさそうです。
​​​​​​

PVアクセスランキング にほんブログ村
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ
にほんブログ村
にほんブログ村 本ブログへ
​ボタン押してね!​​









最終更新日  2020.10.16 01:37:29
コメント(0) | コメントを書く
2019.09.22
鶴見俊輔 「詩と自由」 (思潮社)​
 
​​黒川創「鶴見俊輔伝」をこのブログで案内していますが、じつは鶴見俊輔その人は、文句なしに信用している「哲学者」、「思想家」、いや「人間」というのが一番ぴたりと来る、そういう人です。​​

 ​その鶴見俊輔について書いて、2004年ですから15年も昔になりますが、高校生に配っていた「読書案内」がありました。書いていることは、ぼくにとっては、いまでも違和感のないことです。イラク派兵が問題になっていた当時ですから、古いといえば古いのですが、逆に、今、現在に対しては案外リアルかもしれないと思います。ほぼ、そのまま再録します。​

       ※     ※     ※

 現代文の授業に鶴見俊輔「石の笑い」の話が出てきました。彼は、ぼくが文句なしに信用している哲学者です。
 世の中にはいろいろなことをいろいろにいう人は、当然、様々いるわけで、こうやって「読書案内」などと柄にもないことをやっているぼくなどもその一人。たとえ、三百人あまりの高校生相手であっても、もっともらしい講釈をたれていることにちがいはありません。
 問題は読者として、あるいは、聞き手としての態度ではないかと、ぼくは考えています。大切なことは疑うことです。疑うためには、それ相応の修練もいるかもしれませんが、直感でも、怪しいものは怪しいともいえるかも、とも思います。
 ずっと、そう思ってきましたが、逆に、この人はと鵜呑みにして、そのまま理解したいと思ってしまう人と出会うこともあるかもしれません。
 宗教的な出会いや、社会的な出会いや、ほかの人から見ると、ちょっとおかしいとか、危ない、そんなふうに見える出会いかもしれませんが、高校生を過ぎたころに、そういうふうに出会ってしまった場合は、とにかく騙されてしまうのも、一つの出会いといえるかもしれません。
 大学生の頃、その人の本と出合って、以来、鵜呑みにしてでも、その人のいうことを受け入れたい、わかりたいというふうに思い続けた人の一人が、ぼくにとって鶴見俊輔という人でした。
 ​その鶴見の『詩と自由』という新刊を読みました。思潮社「詩の森文庫」というシリーズで出している一冊です。そこで、以前に発表された記事ですが、次のような文章に出会いました。ぼくが鶴見俊輔を信じている理由の一つがここにあります。しようがないので、全文無断転載しようと思います。直接読んでください。​

 宮柊ニのこと
 A「人のものをぬすむのは、よくないことだ」
 B「おまえも、ぬすんだことがあるじゃないか」
 A「・・・・」
 Bの発言は、C・L・スティーヴンスンの『倫理と言語』では、弱め、という型にあたり、Aの倫理的主張の反証をあげたことににはならない。しかし、Aの主張の気勢をそぐ役割は、果たしている。
 気勢をそがれた倫理の主張は、どうなるか。どのように主張をつづけることができるか。これは倫理にとって、また倫理学にとって大切な問題だ。
 歌人宮柊ニがなくなって、追悼の記事が、十二月十三日付「朝日新聞」の「天声人語」に出ていた。
 一兵士として中国大陸にいた時の歌。
  ひきよせて寄り添うごとく刺ししかば声もたてなくくずをれて臥す
 二十歳ほどの中国女性が密偵としてひきたてられてきて、「私は中共軍の兵士です」とだけ言って、みずから死をえらんだ。「その短い言葉は詩のような美しさに漲ってゐた」という回想もあるという。
 三十一年前から関節リューマチにかかり,脳血栓でたおれた。しかし、歌をえらぶ仕事(宮氏は朝日新聞の投稿短歌欄「朝日歌壇」の選者のひとりだった)をつづけた。一日がかりで五十首えらんだ、それを夫人が書きうつし、その中から十首えらぶ。もとの五十首は大切に保存していたという。晩年の宮氏の歌に次のものがある。
  中国に兵なりし日の五ヶ年をしみじみと思う戦争は悪だ
 享年七十四歳だった。
 「婦人之友」新年号をみていると、最後の歌のひとつだろう、次の一首があった。
  白樺も桜もすべて落葉して時移りつつ目の前に立つ
 はじめにかかげたスティーヴンスンの問題は、『倫理と言語』でその定式に出会う前から、私にとって問題だった。私だけでなく、戦争にとらえられた多くの人たちの問題だっただろう。
 宮柊ニのような運命に私が出会わずに終ったのは偶然である。戦後になって私の達した解答は、自分が血刀さげ、自分の手が血でよごれていようと,その手をはっきりと前にひろげて、「自分は人を殺した。しかし戦争は悪い」と言い得る人になろうということだった。
 私は短歌の世界に暗い。敗戦後の四十一年、どれほどの短歌を読んできたのか、こころもとない。たまたま「天声人語」による宮柊ニの作歌歴の要約を読んで、戦争中に自分のかかえていた問題を、この人は抱き、その問題を戦後のこの長きにわたってすてることなく抱きつづけたことを知った。
​​ (「京都新聞」一九八六年十二月二十日) ​​
​​​​ この記事に関連していえば、鶴見俊輔自身はフェミニズムの社会学者上野千鶴子、現代史学の小熊英二との対談集『戦争が遺したもの』(新曜社)の中で戦中に軍属として「従軍慰安婦」強制の現実とかかわりがあったことを告白しています。
 ぼくは学生時代に鶴見の著書と出会いました。実は記号論理学の哲学者ですが、マンガから社会思想に至るさまざまな著書があります。それらは、「ぼく自身が考えたこと」を疑う時の指標でした。ぼくにはまだ、「彼の考えていること」を疑う力はありません。何とか理解したいと思うだけです。​​​​

 ​歌人宮柊ニ。哲学者鶴見俊輔。歌人は、復員から40年、命耐えるその直前まで、老哲学者は戦争から50年、今もなお、そこで抱え込んでしまった「お前は生きながらえていいのか」という「問題」と苦闘していると思いませんか。
 この人が言うこと、言ったことは誰かに伝えよう、ぼくは、今、そう思っています。(S)
​追記
2019/09/18
 若い人たちに、自分が思うことを、​直接語りかけたり、プリントに刷って配ったり、そういうことが思うままに出来ていた​あの頃は楽しかったと、最近よく思う。

 ブログとかに書き込みながら、「いったい誰に向かってこんなことを言っているのか」という、疑いというのか、自己憐憫というのか、そういう気分が沸き上がってくるときがある。それでも、書くことが楽しいと思えるようになりたいと思っている。


PVアクセスランキング にほんブログ村
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ
にほんブログ村
にほんブログ村 本ブログへ
​ボタン押してね!​









最終更新日  2020.10.13 11:23:20
コメント(0) | コメントを書く
2019.06.30

​​​​​​​​​​​   ​​ 十七歳     吉本隆明

  きょう
  言葉がとめどなく溢れた

  そんなはずはない
  この生涯にわが歩行は吃りつづけ
  思いはとどこおって溜まりはじめ
  とうとう胸のあたりまで水位があがってしまった

  きょう
  言葉がとめどなく溢れた
  十七歳のぼくが
  ぼくに会いにやってきて
​   矢のように胸の堰を壊しはじめた​

​  ​六十歳を越えた一人の男のもとに、十七歳だった時のその男が会いにやってくる。夢の中のことか、現実か。少年の姿を前にして、溢れてくる言葉。六十数年の生涯、上手に言葉にすることは出来なかった、しかし、ずっと言いたい本当のことがあったのだ。男の口を閉ざさせていたものは、仕事か、生活か、常識か。ともあれ、大人になるということが口を閉ざすことであるような、自らの中の少年を押し殺すことであるような倫理観は誰にも共通することだろう。
  「堰を切る」という言葉がある。十七歳の少年だった自分が六十数歳の男の、溜まりに溜まった思いの堰を切ったのだ。よみがえった少年の日のまっすぐなまなざしに揺さぶられる、黙り続けてきた人生の意味。
  およそ五十年にわたる社会生活から引退を余儀なくされ、老人と呼ばれるようになる。いつの時代であれ、誰もが通りかかるに違いない人の一生の曲がり角で、ふと、どこかへ帰っていこうとする「こころ」の行方を見据えた作品。まず、そんなふうにこの詩を読むことは可能だろう。

 ここで、作者吉本隆明をめぐる年表に目を通してみよう。

 詩人は1924年生まれ。十七歳は1941年。昭和十六年、12月に「この国」がアメリカに対する帝国海軍の奇襲(?)で始めた太平洋戦争勃発の年。彼は東京府立化学工業学校応用化学科五年生。現在でいえば工業高校の三年生だった。
 この詩が書かれたのは1990年。平成二年。詩人は六十六歳。前年の1989年、太平洋戦争を統帥した天皇ヒロヒトが寿命を終え、昭和天皇と諡号で呼ばれるようになり、翌年の1991年、自衛隊というこの国の軍隊が、1941年の、あの日から五十年の歳月を経て、アメリカが始めた戦争に参戦するために海外派兵を始めることになる。
 ​ こう見てみると、「十七歳のぼく」が「ぼくに会いにやってきた」のにはそれなりの理由があったのではないかと感じないだろうか。そこから、もっと積極的なこの詩の読み方ができないか。​
 
作家の高橋源一郎​は「吉本隆明代表詩選」(思潮社)の編者あとがきにこう書いている。​​
          

 ずっと以前からそう思っていたが、いまもそう思う。きっと、これからもずっとそう思うことになるだろう。つまり、吉本隆明の詩を読まなければ、ぼくは小説家にはならなかっただろう、ということだ。
 吉本隆明の詩を読まなくても、詩や小説や批評に興味を持ったかもしれない。それから、書いてみようとさえ思い、書きはじめたかもしれない。だが、仮に、書きはじめたにせよ、ぼくはもうそれをやめているか、暇な時の楽しみにしているか、そのいずれかだったに違いない。つまり、詩や小説や批評は、たいへん好ましく、面白く、刺激的ではあっても、さらに、自分が書いていたとしても、それにもかかわらず「他人事」にすぎなかったにちがいない。しかし、ぼくは、結局、吉本隆明の詩を読んでしまったのだ。
 吉本隆明の詩をひとことでいうなら「倫理的」であるということだ。しかし、それは、誰の(あるいは何の)、何に(あるいは誰に)たいする倫理なのか。
 その詩は、言葉に関して「倫理的」であるようにも、言葉以外の一切に関して「倫理的」であるようにも、また、詩的表現に関して「倫理的」であるようにも、詩的表現が成立する根拠に対して「倫理的」であるようにも見える。つまり、全世界に対して「倫理的」であるように見える。だが、不思議なのは、その詩が「倫理的」であるが故に「美的」であることだ。古来、「倫理的」であることと「美的」であることは深く対立するものではなかったか。その謎を解くことは、いまもぼくにはできないのである。​​
​​​​ この詩を支えている「倫理」にたどり着ければ、詩が直接的に表している「老い」の叙情に、もっと深く広がりのある風貌を与えることができるのではないだろうか。​
  戦後最大の思想家と呼ばれながら、どこかに切ない「倫理」を感じさせる「抒情」を詩として書き残した詩人であった吉本隆明も、2012年に去った。
 ちなみに「共同幻想論」とか「言語にとって美とは何か」(角川文庫)とか、1970年代の大学生には、読み超えるべき壁のような書物であったが、今の学生さんたちには見向きもされないだろうし、たとえ手にとっても歯が立つまい。ははは。
 しかし、「詩」から読み始めることは可能かもしれない。そう思う。
​​
​(S)初出2006・09・27 改稿2019・06・30​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​


にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ
にほんブログ村
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村
PVアクセスランキング にほんブログ村












最終更新日  2020.10.24 02:54:36
コメント(0) | コメントを書く
2019.06.25
​​  ​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​黒川創「鶴見俊輔伝」(新潮社)​​



 この本は五百ページを超える分厚い本なのですが、三百ページを超えたあたりにこんな文章が引用されています。

 今でも昨日のことのように思い出しますが、真っ白に雪の降り積もった二月の朝、陣地の後ろの雑木林に四十人の捕虜が長く一列に並ばされました。その前に三メートルほどの距離をおいて私達初年兵が四十名、剣付き銃を身構えて小隊長の『突け』の号令が下るのを待っていたのです。
 昨晩私は寝床の中で一晩考えました。どう考えても殺人はかないません。小隊長の命令でもこれだけはできないと思いました。しかし命令に従わなかったらどんなひどい目に会うかは誰でも知っています。自分ばかりでなく同じ班の連中までひどい目にあわすことが日本軍隊の制裁法です。け病を使って殺人の現場にでないことを考えてみました。気の弱い兵隊がちょいちょいやる逃亡という言葉も頭をかすめました。しかし最後に私の達した結論は「殺人現場に出る、しかし殺さない」ということでした。
『突け』の号令がとうとう下された。しかし流石に飛び出していく兵隊はありません。小隊長が顔を真っ赤にしてもう一度『突け』と怒鳴りました。五、六人が飛び出してゆきました。捕虜の悲鳴と絶叫と鮮血が一瞬のうちに雪の野原をせいさんな修羅場に変えました。
 尻込みしていた連中も血に狂った猛牛のように獲物に向かって突進してゆきました。
 私はじっと立っていました。小隊長近づいてきました。「続木!!行かんか」と雪をけちらして怒鳴りました。私はそれでもじっと立っていました。小隊長は真っ赤な顔を一層赤くして「いくじなし」というが早いか私の腰を力任せに蹴り上げました。そして私の手から銃剣をもぎ取ると、銃床で私を突き飛ばしました。
 小隊長の号令に従わなかった男は私以外にもう一人だけいました。丹波の篠山から来た大雲義幸という禅坊主の兵隊で、二人はその晩軍靴を口にくわえ、くんくん鼻をならしながらよつばいになって、雪の中を這いまわることを命ぜられました。これは「お前たちは犬にも劣る」ということだそうです。
​ しかし大雲も私も「犬にも劣るのはお前たちのほうだ」と心の中で思っていましたから、予想外に軽い処罰を喜んだくらいでした。これを機会に二匹の犬は無二の親友になりました。​​
​​ 個人の戦争体験の記録として、今読んでも、実に印象的なこの文章は、京都の駸々堂というパン屋の社内報に、経営者の一族で専務であった続木満那(まな)という男性が「私の二等兵物語」という物語として連載していたらしいのですが、その1961年新年号の記事です。​​
​​ 本書はここまで、鶴見俊輔の出生からの家族関係、アメリカ体験、軍属としての従軍、「思想の科学」という雑誌の発行、1960年の安保闘争との関わり、というふうに、時間を追って丁寧に記述されています。​​
​ 特に、晩年の鶴見俊輔が、繰り返し語った、少年時代の母との関係や、アメリカ暮らしにおける「一番病」といった、人格形成におけるトラウマのような部分について、実に客観的で公平な視点で書き進めている点で、ぼくのような鶴見フリークの偏った理解をただしていく、冷静な好著として読み進めてきました。​
 ただ、著者が何故この伝記を書こうとしたのかという、執筆のモチベーションに対して、かすかながら疑問は感じていました。ひょっとして、よくいえば冷静だが、悪くすると平板なまま終わるのではないか。そういう感じです。
​ そこに、この引用でした。この伝記を通読すれば理解していただけると思いますが、この文章が、この伝記のちょうど峠を越したあたりで引用されているのには、結果的に二つの大きな意味があると、ぼくには思えました。​​
 ​​一つは鶴見自身を苦しめてきたアイデンティ ― 自分とは何者か ― の問題を解くカギになる、生い立ちとは別のポイントを著者黒川創は示しそうとしているのではないかということです。​​
 鶴見には戦地で体験した「人が人を殺すことを強いる国家」に対して、もしも、あの時、命令が自分に下っていれば、自分は引用文の続木二等兵のような抵抗の勇気を持つことができなかったのではないかという形で現れる自己否定的な疑いが終生あったと思います。
​​​ この疑いが、日米安保条約という再軍備に抵抗する中で「死んでもいい」と考えるような極端な思い込み。樺美智子の死に対して、国立大学教員を辞職して抗議するという果敢な行動。少年時代の自己や家族に対してくりかえされる自嘲的発言。ひいては、再三苦しんできたうつ病の引き金を引いてきたという、鶴見俊輔自意識の実像を、黒川創が、ここで再確認しようとしているという印象を強く持つ引用なのです。​​​
 若き日に鶴見が学んだ論理実証主義の哲学によれば、「もしも」の仮想に悩むのは妄想というべきことにすぎません。しかし、この「どうしようもない」妄想の中にこそ、それぞれの人間の真実が潜んでいると考える中から、「もう一度生き直す」という積極的な契機をつかむことを見出していく哲学者のターニングポイントとしてこの挿話があるというのが、本書に対するぼくなりの実感です。
 続木二等兵の回想は、妄想に苦しんでいる哲学者にとって「救いの光」だったのではないでしょうか。その光は、マッカシーの赤狩りに抵抗した、リリアン・ヘルマンについて鶴見自身、別の著書の中で、こんなふうに語っています。
 リリアン・ヘルマンは、マッカーシー上院議員の攻撃にさらされた結果、米国知識人であると否とを問わず、何人もの人たちと彼女が分かちもっている彼女自身のまともさの感覚に寄りかかるようになりました。彼女は、いま私がここで述べたと同じような直観を持っていたのかもしれません。
 生き方のスタイルを通してお互いに伝えられるまともさの感覚は、知識人によって使いこなされるイデオロギーの道具よりも大切な精神上の意味を持っています。
​​ (「ふりかえって」1979年12月6日の講義)​​
​ ​​​​​​​「まともさの感覚(the sense of denncecy)」という、70年代に学生生活を送ったぼくにとって、吉本隆明「大衆の原像」とともに心に刻み込んだ鶴見のキーワードが、この時点で実体を獲得し、「ベ平連」以後の彼の行動を支えていくという、この伝記の展開には、瞠目というような似合わない言葉を、思わず使いたくなるものがあります。​​​​​​​
 ここから、いわば、後期、鶴見俊輔の始まりが予告されているのではないでしょうか。
​​ さて、この引用の二つ目の重要なポイントは、この挿話の載っている冊子を鶴見にもたらした北沢恒彦という人物の登場です。​​
 ​​​​北沢は大学を出て駸々堂に勤めはじめたばかりで結婚し、1961年6月15日、樺美智子の一周忌の当日に、長男、北沢恒が生まれます。​​​​
 ​​​​​​その後、同志社大学で教え始めた鶴見とともに京都で活動し、やがて「思想の科学」に寄稿する評論活動へ進み、鶴見の晩年の著作を出版した「編集グループSURE」を始めた人らしいのですが、1999年に亡くなっています。なぜ、この人物についてだけ、と不思議に思って読み進めていると、なぞは解けます。​​​​​​
​​​​ 実は、61年に生まれた北沢恒こそが、のちに「鶴見俊輔伝」の著者となる黒川創、その人なのです。伝記にはここから、黒川自身の鶴見とのかかわりという、ここまでとは、すこし色合いの違う一本の横糸が張られます。​​​​
 ここから、読者である僕は、この評伝の最後も読みどころとして、この少年が老哲学者の伝記を書くに至る動機に目を凝らすことになるのです。
 やがて、最終章、残すは十数ページという所まで読み進んだところに、こんなエピソードが記されています。
​ 心臓などに持病のある横山貞子は、自身も加齢する中、鶴見俊輔への介護を続けながらの暮らしに、体力の限界、そして不安を感じるようになっていた。そこで、夫婦揃って老人施設に入所しないかと鶴見に提案し、彼も同意する。だが、翌日、鶴見は同意を撤回、やはり自宅で暮らしたいと話した。
「私はどうなってもいいの?」と、横山は夫に尋ねた。
​「すまないが」​と、鶴見は答えたという。​​
 これを書き付けた黒川の真意を知ることは、もちろん、できません。しかし、ここに、筆者の本書のモチーフが凝縮して表れているのではないかというのが、ここまで読み進めてきた、ぼくの感じたことでした。
 このシーンは、生涯で初めて、鶴見が他者に心をひらき、「もうろく」に身を任せ、甘えを口にしたシーンだったのではなかったでしょうか。「まともである」ことの緊張した自意識から解放され、意識的に自分を律しつづけることから許された瞬間だということもできるかもしれません。
 このシーンを読みなおしながら涙が止まらなくなりました。こういう読書体験はそうあることではありません。
​​​ おそらく、書き手黒川創は、書き手自身が備えている「まともな」目によって、「すまないが」という言葉の、鶴見俊輔にとっての重さを正確にとらえていて、この場面を書き残すことこそが、ここまで書き継いできた鶴見の生涯に、一人の「ただの人間」としての眸を書き加えることだと考えたのではないでしょうか。​​​
 加えて、「ただの人間」の姿として描くことによって、90年にわたる苦しみから彼を救うことができるのではないか。この「救い」こそが、書くべきこととしてある。黒川はそう考えたに違いないというのが、ぼくに浮かんだ思いでした。​
​​ 黒川創が、鶴見俊輔という哲学者の苦闘の人生を冷静に描くことを目指しながら、一人の、ただの人間として生きたかった男を見事に描いた傑作評伝でした。(S)​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​

​​​追記2020・02・09​
​​「まともさ」などかけらもない人間が、大手を振って歩きまわる社会が始まっています。吉本隆明鶴見俊輔を読み直す、あるいは、若い人が読み始めればいいればいいのになあとつくづく思います。名著だと思ます。時々集まる、本を読む会の、次回の課題になってうれしいのですが、でも、鶴見さんの「ことば」がつらくて読みなおし始めることができていません。​​

​​​​​​​​​​​​​​​​​​

にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ
にほんブログ村
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村
PVアクセスランキング にほんブログ村












最終更新日  2020.10.25 01:52:06
コメント(0) | コメントを書く
2019.05.17
​​​​​​​​​​​杉山龍丸「ふたつの悲しみ その2」-鶴見俊輔「夢野久作」より​​
​​​​​ さて、​杉山龍丸​​です。彼は「ドグラ・マグラ」(夢野久作)の世界から生まれ出た男でした。​​​
​​​

  ところで、元号騒ぎが始まって、ほぼ一ケ月。「時代」という言葉がしきりに口にされ、堰を切ったようにうっとうしい空気が流れ始めています。
 ​​​​ ぼく自身の中に不愉快の澱のようなものが滞っていくのが嫌で、不機嫌になります。なんか、昔見たホームドラマのじーさんみたい。それで、「あっ、そうだ」と膝を打った(打ってませんが)のが杉山龍丸「ふたつの悲しみ」でした。​​​​
「変な世の中になりそうな空気充満してるけど、こういう文章が書かれていたこと忘れんといてほしい。」
 それが「あっ、そうだ」の直接の理由だったのですが、書き始めて、もう一つ知ってほしいことがあるのに気づきました。
​ ​ 杉山龍丸という人についてです。「この人のことは言っておかなくちゃ。」そんな感じです。というのは、この人の生き方というのは、ちょっとすごいんです。ココからはちょっと薀蓄ぽくなります。​​
 話が古くなりますが、西南戦争の後、九州の博多に玄洋社という思想結社が生まれます。頭山満とか内田良平なんていう名前を御存知の方もいっらしゃるかもしれませんが、所謂、国粋主義の団体とされています。しかしオッペケペーで有名な川上音二郎もここの社員ですし、孫文やインドのボースを支援したことでも知られています。
​​​ で、杉山の祖父​杉山茂丸(1864~1935)​という人は、この玄洋社という国粋主義者の団体の中心的人物の一人です。結構有名な話らしいのですが、明治天皇の教育係であった山岡鉄舟の紹介状(彼はそこの書生でした)を手に伊藤博文の暗殺にでかけ、伊藤自身に諭され北海道に逃げたなどという逸話の持ち主です。
 結局、安重根によって暗殺される伊藤博文ですが、そっちは「鶴見俊輔伝」を書いた黒川創「暗殺者」(新潮社)という小説で書いています。​​​

 暗殺者にならなかった杉山茂丸は台湾統治から満鉄にいたる時代に、政界の黒幕、国士と呼ばれるような活動家でした。またの名を「杉山ホラ丸」というそうです。
​ この杉山ホラ丸の長男が​杉山泰道​なのです。こう書いても、なんのこっちゃというわけですが、彼には別の名前があります。​
​​​​​​​​ 今となっては知る人ぞ知るになってしまった怪小説(怪奇ではありません)「ドグラ・マグラ」(ちくま文庫・夢野久作全集9)・(角川文庫 上・下)の作家夢野久作(1889~1936)です。
 夢野久作、本名「杉山泰道」は昭和初期に活躍し、父の後を追うように、三人の息子を残して、1936年に他界します。
 一応ミステリー作家に分類されますが、たとえば「ドグラ・マグラ(上・下)」はとてもそんな分類におさまるような探偵小説ではありません。ぜひお読みください。なんというか、めまいがします。​​​​​​​​
​​​ 明治から昭和の日本政治史、昭和の日本文学史に、祖父と父が、それぞれ奇怪な名声を残す家系の中に、杉山泰道の長男として杉山龍丸は生まれます。大正八年(1919)のことです。​​​
​ 福岡中学、陸軍士官学校、技術学校を経て軍人となり、フィリピン・ボルネオの戦場で従軍し負傷しますが、少佐として復員します。五年の療養生活の後、さまざまな仕事を転転とする苦しい生活を経験したようです。こうしてみると、この文章が書かれるにいたるには、軍人としての戦場での体験と​復員後の苦しい体験​という二つの水脈のあることを感じます。​
 しかし、話はここからなのです。
​​​​​​​ 杉山龍丸は、上記のエッセイを書いた1960年代の中ごろ、インドに渡ります。父や祖父から受け継いだ全財産、田畑三万坪を売り払い、その金を砂漠の大地に木を植えるという事業に、すべて注ぎ込むという奇想天外な後半生を送るのです。
 祖父は独立運動に名を残しているボースの支援者でしたが、杉山龍丸の行動は、インド解放の父ガンジーの後継者ネルーとの出会ったことがきっかけだといわれています。以来、半世紀の時が経とうとしています。​​​​​​​

​ 彼自身は80年代に亡くなっていますが、インドでは「グリーンファーザー」と呼ばれている偉人だそうです。日本人は誰も知りません。日本に残された家族さえ詳しいことは知らなかったそうです。ぼくが思い出したのはこのことです。​
​​​​​​ 「ふたつの悲しみ」を書いた杉山龍丸が戦後を生きようとしたとき、心の奥であふれ、新しい水脈となって彼を驚くべき後半生へと突き動かしていった情熱の奔流についてでした。
 この人のこのような行動について、哲学者鶴見俊輔は、あらゆる制度的な仕切りを飄然と越えてしまう生き方に注目し、「祖父から父へと受け継がれた杉山家に流れる“狂気”」と解説したことがあります。ぼくが、彼の名前を知ったのは鶴見俊輔が何度か書いている「夢野久作論」のどれかによってです。(手元に本がないので、申し訳ありませんが詳述できません。)​​​​​​

 ともあれ「私たちはなにをなすべきであろうか。」と自問した結果、子供も家族もある、五十才に手が届こうかという元軍人が、国家を超え、財産や名誉に見向きもせず、世界の最底辺の民衆を救うことを思い立つ非常識、狂気にも似た考え方がありえたのです。これはただ事ではないと思いませんか。
 「ぼくたちの現在」に漂っているいやな空気には、この人の生涯と対極的な、何かが腐りはじめた匂いがただよっているように、ぼくには感じられます。制度化して根源性を失いつつある様々な考え方を問い直す、さわやかな力が、彼の行動にはあると思うのです。
​ ここで、もう一人、「ああ、この人もいた」と、ある人物のことを思い出しました。​アメリカによる空爆下の、アフガニスタンで井戸を掘り続けた医者、中村哲​です。​

​​​​  彼は、同じ九州、博多が生んだ、もう一人の小説家火野葦平の甥っ子です。映画の好きな方であれば、昭和二十年代の映画「花と竜」の親分玉井金五郎が祖父です。​​​​
​​  中村哲についてはまたいずれ。ということで、今日はここまでで失礼します​。​
​追記2019・11・18​
 ​​「杉山龍丸その1」はこちらをクリック​してください。
 中村哲さんについて、なだいなだの文章を投稿しています。こちらをクリックしてみてください。
「中村哲にノーベル平和賞を」
「医者井戸を掘る」(石風社)
​​「空爆と復興」(石風社)

にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ
ボタン押してネ!

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村
PVアクセスランキング にほんブログ村​​​​​​​​​​​​​​









最終更新日  2020.10.09 18:50:38
コメント(0) | コメントを書く
2019.05.16
​​​​​山田太一編「生きるかなしみ」(ちくま文庫)​​


​​ ところで、ぼくは​「サンデー毎日」​を自称する徘徊老人です。日々の生活で心配事は無駄遣いと太りすぎ以外にはありません。道端の花の写真を撮ったり、映画館で興奮する毎日を送り始めて一年が過ぎました。ところが、最近やたら「むかっ腹」がたってしようがないのです。当てもなく、相手も特定できずに腹を立てる。完全な老人化が進行中というわけでしょうか。
​​​   ブログとやらに文章を書いて載せることで、漸く脳内出血とか心筋梗塞を免れているのですが、それもいつまで続くことやら。今回も、腹立ちまぎれの投稿なのです。山田太一という、「ふぞろいの林檎たち」とか「岸辺のアルバム」というテレビドラマの作家といえば、思い出される方もいいらっしゃるかもしれません。
 その脚本家が、もう30年ほども前に​「生きるかなしみ」(ちくま文庫)​というエッセイのアンソロジーをまとめています。​佐藤愛子​とか、五味康祐吉野弘なんて言う懐かしい作家や詩人の文章の中に、​杉山龍丸​という異様な名前の人物の、お読みいただければ、おそらく、忘れられないにちがいない短い文章があります。
 とにかくそれを読んでいただきたいので、ここに掲載します。ブログ記事としては、少々長めかとは思いますが、お読みいただければ、納得していただけるのではと思います。​​​

「ふたつの悲しみ」  杉山龍丸 

 私たちは、第二次大戦から二十年たった今、直接被害のないベトナムの戦いを見て、私たちが失ったもの、その悲しみを、新しく考えることが、必要だと思います。

 これは、私が経験したことです。第二次大戦が終り、多くの日本の兵士が帰国して来る復員の事務についていた、ある暑い夏の日の出来事でした。私達は、毎日毎日訪ねて来る留守家族の人々に、貴方の息子さんは、御主人は亡くなった、死んだ、死んだ、死んだと伝える苦しい仕事をしていた。留守家族の多くの人は、ほとんどやせおとろえ、ボロに等しい服装が多かった。
 そこへ、ずんぐり肥った、立派な服装をした紳士が隣の友人のところへ来た。隣は、ニューギニヤ派遣の係りであった。その人は、「ニューギニヤに行った、私の息子は?」 と、名前を言って、たずねた。友人は、帳簿をめくって、「貴方の息子さんは、ニューギニヤのホーランジヤで戦死されておられます」と答えた。その人は、その瞬間、眼をカッと開き口をピクッとふるわして、黙って立っていたが、くるっと向きをかえて帰って行かれた。

 人が死んだということは、いくら経験しても、又くりかえしても、慣れるということはない。いうこともまた、そばで聞くことも自分自身の内部に恐怖が走るものである。それは意識以外の生理現象が起きる。友人はいった後、しばらくして、パタンと帳簿を閉じ、頭を抱えた。
 私は黙って、便所に立った。そして階段のところに来た時、さっきの人が、階段の曲り角の広場の隅のくらがりに、白いパナマの帽子を顔に当てて壁板にもたれるように、たっていた。瞬間、私は気分が悪いのかと思い、声をかけようとして、足を一段階段に下した時、その人の肩は、ブル、ブル、ふるえ、足もとに、したたり落ちた水滴のたまりがあるのに気づいた。その水滴は、パナマ帽からあふれ、したたり落ちていた。肩のふるえは、声をあげたいのを必死にこらえているものであった。どれだけたったかわからないが、私はそっと、自分の部屋に引返した。

 次の日、久し振りにほとんど留守家族が来ないので、やれやれとしているときふと気がつくと、私の机から頭だけ見えるくらいの少女が、チョコンと立って、私の顔をマジ、マジと見つめていた。私が姿勢を正して、なにかを問いかけようとすると、「あたち、小学校二年生なの。おとうちゃんは、フイリッピンに行ったの。おとうちゃんの名は、○○○○なの。いえには、おじいちゃんと、おばあちゃんがいるけど、たべものがわるいので、びょうきして、ねているの。それで、それで、わたしに、この手紙をもって、おとうちゃんのことをきいておいでというので、あたし、きたの」顔中に汗をしたたらせて、一いきにこれだけいうと、大きく肩で息をした。

 私はだまって机の上に差出した小さい手から葉書を見ると、復員局からの通知書があった。住所は、東京都の中野であった。私は帳簿をめくって、氏名のところを見ると、比島のルソンのバギオで、戦死になっていた。「あなたのお父さんは――といいかけて、私は少女の顔を見た。やせた、真黒な顔、伸びたオカッパの下に切れの長い眼を、一杯に開いて、私のくちびるをみつめていた。私は少女に答えねばならぬ。答えねばならぬと体の中に走る戦慄を精一杯おさえて、どんな声で答えたかわからない。
 「あなたのお父さんは、戦死しておられるのです」といって、声がつづかなくなった。瞬間少女は、一杯に開いた眼を更にパッと開き、そして、わっと、べそをかきそうになった。涙が、眼一ぱいにあふれそうになるのを必死にこらえていた。それを見ている内に、私の眼が、涙にあふれて、ほほをつたわりはじめた。私の方が声をあげて泣きたくなった。
 しかし、少女は、「あたし、おじいちゃまからいわれて来たの。おとうちゃまが、戦死していたら、係のおじちゃまに、おとうちゃまの戦死したところと、戦死した、じょうきょう、じょうきょうですね、それを、かいて、もらっておいで、といわれたの」

 私はだまって、うなずいて、紙を出して、書こうとして、うつむいた瞬間、紙の上にポタ、ポタ、涙が落ちて、書けなくなった。少女は、不思議そうに、私の顔をみつめていたのに困った。やっと、書き終って、封筒に入れ、少女に渡すと、小さい手で、ポケットに大切にしまいこんで、腕で押さえて、うなだれた。涙一滴、落さず、一声も声をあげなかった。肩に手をやって、何かいおうと思い、顔をのぞき込むと、下くちびるを血がでるようにかみしめて、カッと眼を開いて肩で息をしていた。

 私は、声を呑んで、しばらくして、「おひとりで、帰れるの」と聞いた。少女は、私の顔をみつめて、「あたし、おじいちゃまに、いわれたの、泣いては、いけないって。おじいちゃまから、おばあちゃまから電車賃をもらって、電車を教えてもらったの。だから、ゆけるね、となんども、なんども、いわれたの」と、あらためて、じぶんにいいきかせるように、こっくりと、私にうなずいてみせた。私は、体中が熱くなってしまった。帰る途中で、私に話した。「あたし、いもうとが二人いるのよ。おかあさんも、しんだの。だから、あたしが、しっかりしなくては、ならないんだって。あたしは、泣いてはいけないんだって」と、小さい手をひく私の手に、何度も何度も、いう言葉だけが、私の頭の中をぐるぐる廻っていた。

 どうなるのであろうか、私は一体なんなのか、なにが出来るのか?戦争は、大きな、大きな、なにかを奪った。悲しみ以上のなにか、かけがえのないものを奪った。私たちは、この二つのことから、この悲しみから、なにを考えるべきであろうか。私たちはなにをなすべきであろうか。声なき声は、そこにあると思う。

  いかがでしょうか。

 ​​実は、この文章に出会うのは、この文庫が初めてではありませんでした。1970年代に出版された​「戦後日本思想大系 14 日常の思想」(筑摩書房)​の中に収められていた文章で、ぼくは学生時代に少なくとも一度は読んでいます。本文の冒頭の言葉で分かるとおり、ベトナム戦争が泥沼化した時代の文章です。​​
 この文章が載せられている一番新しい書物は、イーストプレスという出版社の「よりみちパンセ」という中学生向きのシリーズに、​小熊英二​という社会学者が書いた​「日本という国」​という本です。​​​​

​​​  さて、それでは、この​杉山龍丸​とは何者なのでしょう。それは次回ということで、今回はここまで。「杉山龍丸その2」はここをクリック​してくださいね。​​
[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。] 

追記2020・08・31
​​ 村上春樹「猫を棄てる」(文藝春秋社)というエッセイを読みました。戦争中、父が所属していた福知山歩兵第二十連隊と「南京陥落」とのかかわりについて、あの村上春樹が、執拗に事実関係を調べた様子をうかがうことができる文章なのですが、なぜ彼が、今になって、その父のことを書いたのかという、読者であるぼくの率直な疑問には答えようとしていません。
 そのことを考えながら思い出したのが、この杉山龍丸のことでした。ブログに引用したエッセイも印象的ですが、杉山のその後の生涯も、ちょっと、簡単にはどうこういうわけにはいかないと思います。​​

​ 戦争体験の風化が話題になることがありますが、記憶とは何かと考える時に、読み直すべき文章はたくさんあるのではないでしょうか。
 村上がこだわっていたのも「父の記憶」ですが、今や曽祖父の記憶化しているからといって​、うちやってしまうべきことかどうか。大切なことがあるように思いました。


 
ボタン押してネ!
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ
​ボタン押してね!​

にほんブログ村 本ブログへ
ボタン押してね!​​
PVアクセスランキング にほんブログ村
ゴジラブログ - にほんブログ村​​​​









最終更新日  2020.10.09 18:51:26
コメント(0) | コメントを書く
2019.05.09
​​​​吉本隆明 「夏目漱石を読む」 (ちくま学芸文庫)​


​​ 夏目漱石「三四郎」(新潮文庫)の案内とかを読んでくれた美少女マコちゃんから「夢十夜と三四郎って、どこかでつながるんですか?」というヘビーな質問をされて、「うーん」と一晩うなって思いだした。(思い出すのに時間がかかるのは、なんとかならないんだろうか。)​​
「そうだ、吉本隆明「夏目漱石を読む」(ちくま学芸文庫)があるぞ。」​
 漱石を相手に、作家論を書いて世に出た人は大勢いるに違いない。ぼくが初めて漱石を読むべき作家として意識したのは、実は漱石の作品を読んでではなかった。いや、「坊ちゃん」とか、子供用の「吾輩は猫である」とかは読んでいたかもしれないが、文学として出会ったのはというと、江藤淳「夏目漱石」(講談社文庫)という評論だった。​​​
 
今では「決定版夏目漱石」(新潮文庫)で読むことが出来るが、23歳の江藤淳が病気療養中に書いたデビュー作であるこの作品が、17歳の高校生の、その後の50年の好みを決定づけた。
 20代の大学生が書いたということに「感激」しただけのことだったとは思うのだが、それからの2年間、高校の恩師の書棚から、次々と借り出した​​『江藤淳著作集』全6巻(講談社)​​と、確か、浪人をしていた年に出た​『江藤淳著作集 続』全5巻(講談社)​​を新刊で買い込んで読んだ記憶がある。当然のことながら、そこに出てくる作家群の作品も片端から読む必要に、勝手に、迫られていたわけだから、忙しい一年だった。初めての下宿暮らしの充実していた思い出というわけだ。受験勉強はどうなっていたんだろう?
 この先生には、江藤淳の著作集をはじめ、アイザック・ドイッチャーの幻の名著、​​「予言者トロツキー 三部作」(新潮社)​​エッカーマン「ゲーテとの対話(上・中・下)」(岩波文庫)とか、いろいろお世話になった。これまた、懐かしい思い出だが、今なら、高校生に貸し与える本とは思えないところも、なんだかすごい。

​ 江藤淳は、後に保守派の論客として名を上げた(?)人だが、結局、生涯漱石をテーマにして生きた人だと、ぼくは思っている。江藤については、ここではこれ以上話題にしないが、その著作集の対談の相手として名前を知ったのが吉本隆明だった。二人の慣れ合いではない、向き合い方が印象に残った。​
​​ 吉本隆明は「昭和最大の思想家」などいうニックネームで、まあ、大変なんだけれど、ぼくは、詩人であり、文芸批評家だったと考えてきた。「共同幻想論」(角川文庫)「言語にとって美とは何か」(角川文庫)もぼくにとっては文学論だったわけで、江藤とともに、「漱石」「小林秀雄」をぼくにすすめた批評家だった。​​
​​ その吉本隆明が、晩年、漱石の小説について、「猫」から「明暗」まで、すべての作品を俎上にあげて語った講演を本にしたのが、本書「夏目漱石を読む」だ。
​​                  
「渦巻ける漱石」、「青春物語の漱石」、「不安な漱石」、「資質をめぐる漱石」と題した四回の講演を一冊にまとめた本だが、それぞれの題目に「吾輩は猫である」「夢十夜」「それから」、「坊ちゃん」「虞美人草」「三四郎」、「門」「彼岸過迄」「行人」、「こころ」「道草」「明暗」が振り分けられていて、漱石の一つ一つの作品について、当時、80歳にならんとする吉本隆明が、それぞれの作品の眼目と考えるところを、「一流の文学とは何か」という問いに答えるかたちで、訥々と語っている。​​
 その説得力は「一人の批評家が一生かけてたどり着いたものだ」という実感を自然に感じさせるところにある。
​​ たとえば、「三四郎」「夢十夜」の関係について、漱石が文学的に対峙した「宿命」に対して直接その中に入って物語った「夢十夜」に対して、何とか抵抗し、乗り越えようとした青春物語であるところが「三四郎」だという考えを述べているが、とても魅力的な読みの対比だとぼくは思う。​​
 余計な感想かもしれないが、この対比は「三四郎」の主人公の小説世界における立ち位置ということを思い出させる。「夢十夜」において、語り手は夢を見る当人として小説の中にいるように感じられるが、小川三四郎は小説中で起こるあらゆる事件に対して傍観者として存在しているようにぼくには見える。それは青年一般のあり方としてリアルだとも考えられるが、吉本が言う「漱石の宿命」を考える契機が、そこにあると思う。
​ 今回読み直してみて、吉本隆明が最終的にたどり着いた漱石に対する持論、作家自身の資質としてのパラノイアとそれを引き起こした乳児期体験に引き付けた考えが評価の前提になっており、例えば、現場の国語の先生方が、一般的な評価として、直接、引用するというわけにはいかないかもしれない。しかし、ぼくに限って言えば、初読以来、ここで語られている吉本の漱石評価の口真似で教員生活を暮らしてきたことを思い知らされるわけで、人によるだろう。
 開き直るわけではないが、ぼく程度の教員が、独創的な読解や解釈を手に入れることなどあり得ないと思ってきた。ただ、誰かが言っていたことを、いかに上手に伝えられるかというのが、例えば教室で配布する「読書案内」の意図だったりしたのだが、さほど上手にやれたわけではなかった。今回は「三四郎と夢十夜」の答えになっているかどうか、心もとないかぎりだが、まあ、こんな答えはどうでしょうか。
​​​​​​ 案内の上手、下手はともかく、一度読んでみてください。あなたを「漱石の方」へ連れていってくれるかもしれません。(S)
追記2020・01・31
「三四郎」「門」​​についての感想は、このタイトルをクリックしてみてください。それから「夢十夜」について授業をしている、高山宏さんの「夢十夜を十夜で」とか「案内」しています。
 最近「それから」代助について考え始めています。いずれ「案内」したいと思っています。​​​​​

               


 


ランキングボタン押してね!
にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ
にほんブログ村

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

PVアクセスランキング にほんブログ村​​​









最終更新日  2020.10.09 10:23:04
コメント(0) | コメントを書く

全9件 (9件中 1-9件目)

1


Copyright (c) 1997-2020 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.