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ゴジラ老人シマクマ君の日々

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読書案内「BookCoverChallenge」2020・05

2022.06.29
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​100days100bookcovers No.76 (76日目)
​田中小実昌『ポロポロ』(中央公論社)​
 すみません。9月4日SimakumaさんNo.76からずいぶん時間が経ってしまいました。今回作家は早くから決まっていたのに投稿が遅くなりました。
 ハードボイルド、翻訳ものが取り上げられ、私も遅ればせながら何冊かを読み、DVDを借りて映画も観ていたところです。前回の田口俊樹についてのみなさんのコメントの中でたくさんの翻訳者の名前が出てきましたよね。
 その中で繰り返し登場した田中小実昌(コミさん)に、ビビビときました。彼の名前やでの生活、お父さん独立教会のことなどは、先輩の先生が広島の研究誌に書いておられたんです。その時からずーっと気になっていたので、「これは作品をちゃんと読めということだな!」と勝手に納得しました。研究誌を読み直そうと思って書棚を探したのですがどこへ行ってしまったのやら…。
 田中小実昌の人や作品についてはざっくりしか知らず、スティーブン・ハンターチャンドラー翻訳をしているとみなさんから名前があがり(3回も?)、「あらま!ここでも出会ってしまった!」と勝手にご縁を感じたのです。別の本を複数冊読んでいる途中だったので、それらをようやく読み終えて図書館に本を借りに行ったのが9月14日。家の近くの古なじみのレトロ図書館が閉館し、車で15分ほどの中央図書館まで行くのが容易ではありません。大きくてそこそこ蔵書があるのですが、駐車場に停めて歩いて…という手間と物理的・心理的な距離感があり…。
 あ、要らぬことばかり書いて失礼!そろそろ本題に…。
 図書館で『ポロポロ』『アメン父』『新宿ゴールデン街の人たち』『コミさんほのぼの路線バス旅』の4冊借りて、『バス旅』以外の3冊を読み終えたところ。
 毛糸で編んだ半円形の帽子、夏の半ズボンにサンダル履きというラフな格好、ユーモアのある飄々としたスタイルは有名ですね。東京大学文学部哲学科中退(除籍)、進駐軍での仕事の傍らの翻訳業、作家活動としては、「ミミのこと」「浪曲師朝日丸の話」(直木賞)『ポロポロ』(谷崎潤一郎賞)その他。テレビや映画の出演以外に、香具師・バーテンダーなどの経歴も。海外滞在記も楽しい。今までのbookcoversでもそのような多彩な経歴を持つユニークな作家は何人も登場しているけれど、コミさんも負けず劣らずユニークで枠にはまらない。唯一無二の小説家、翻訳家、随筆家。そんな背景に『ポロポロ』に書かれた中国戦線従軍体験と『アメン父』に書かれた父の信仰があり…。
 『ポロポロ』は表題作「ポロポロ」を含む「北川はぼくに」「岩塩の袋」「魚撃ち」「鏡の顔」「寝台の穴」「大尾のこと」の7つの連作。「ポロポロ」は異言ともいう、祈りの時に口からこぼれでたもの。瀬戸内海の軍港町(呉)の山の中腹に父がつくったどこの派にも属さない自分たちだけの教会(独立教会)は、キリスト教のシンボルともいえる十字架もなく、父や母、信仰を同じくする人たちが祈祷の時間に(その時間でなくても)ポロポロやる。世間の言葉で祈るわけではけっしてないのだ。
​《アーメンはもたない。たださずかり、受ける。もたないで、刻々にアーメン…。》
 ​『アメン父』の中の次の箇所から、父をさしつらぬいているアメンが理解できるように思われる。教義や十字架でないものを表現するのは難しいので、コメントを入れながら逡巡し、何度も同じことが繰り返し書かれている。とにかくできるだけ父や父のアメンに近づこうとする試みなのだろう。 ​
 もっと根本的なことで、今まで、自分が信仰とおもっていたものが、はたして、ほんとに信仰なのだろうか、という疑問となやみだったのではないか。
  そんなふうに、苦しみながら祈っているときに、父はポロポロがはじまったのだろう。それは、その瞬間、見よ、天は開け、なんていわゆる劇的なものだったのではあるまい。

 『ポロポロ』
での中国戦線の記述にも、コミさんが理解しようとした父のアメンと同じく、自分の戦争体験を言葉で表現しつくせなかったからか、「はたして、ほんとうなのだろうか」という問いが何度も出てくる。昭和19年12月24日ごろ、コミさんは山口の聯隊に19歳で入営した。徴兵年齢が1年繰り上げになり、ほとんど訓練なしで南京の城外にいれられる。
 同じ部隊の道田がとつぜんおかしくなり、さけび声をあげ、仰向けにころがって、ばたぐるいしだす。南京脳炎による戦病死。小学校のときなかのよかった高橋、中学の同級生の谷口なども南京脳炎で死ぬ。
同じ部隊の北川から聞いた「死んだ初年兵」のこと…これも繰り返される。
 …海の底のうすあおい水のなかをおよぐようにノロ(シカみたいなウサギみたいな小動物)がとんでいき、そのあとに、ゆらゆら、細長いニンゲンが立っていて、それがこちらに近づき、発砲したら、たおれて、死んでいた…なにかの幻想か、夢のなかのできごとのようだというのでもあるまい。
夢や幻想でなく、事実だもの。しかし、事実だからこそ、事実そんなことがおこっただけというのはわるいし、そういう言いかたには、なにかゴマカシがありそうだが、事実、そんなことが起こったのだ。
しかし、どうして、北川はそのことをぼくにはなしたんだろう?
​ コミさんはアメーバ赤痢にかかり、その後マラリアがおこったので隔離生活となり、終戦からまる1年後にようやく内地にかえってくる。その1年後東京で大学生活をしていた時に故郷の海水浴場で北川とぐうぜん再会た。その時北川は、ぽつりぽつり自分に撃たれて死んだ初年兵のことをはなした。
 その後コミさん「あの初年兵のこと」をあちこちではなすようになってたこといついて、次のように記述している。
​ ぼくは、あちこちで、あの初年兵のことをはなすようになってたのだ。八月十五日の夜、では、まだ終戦をしらず…といった調子で、撃った初年兵もぼく、胸の物入れに小枝の箸を挿して撃たれた初年兵も僕自身であるかのような思い入れで、ぼくはしゃべってた。
 だが、こんな物語は、北川にはしゃべれない。あのとき、北川がぼくにはなしてくれたのとは内容がちがうというのではない。内容もちがうだろうが、内容の問題ではない。
いや、それを内容にしてしまったのが、ぼくのウソだった。あのとき、北川がぼくにはなした、そのことがすべてなのに、ぼくは、その内容を物語にした。
​ 文章は平易でひらがなが多用されている。周辺の、というか人物や場所について、当時の行軍の非人間的なこと――たとえば行軍の途中たおれる者を何度も見たと。たいていうしろにひっくりかえるのは、重い背嚢を背負っているからなのだが、戦争も最後の方の初年兵は鉄砲も飯盒ももたされず、完全軍装の目方の半分もないという背嚢なのに…。
 粘液便の下痢をする者がふえ、北川が撃った初年兵の冬袴のお尻が粘液便のせいでキャラメルでもくっついたみたいに、てらてら、かたくなっているように見えるとか…。当時の衛生や栄養事情、後方支給(兵站)の準備がない中で、命はなんと軽く扱われることか!政治とか歴史解釈には言及せず、自分の体験ましてマラリアなどの感染症で死んでもおかしくなかった状況だと想像されるコミさん自身の命さえも淡々と綴るのだ。
 そして「物語にしてしまった」と述懐する。戦争や不条理な体験について小説であったり随筆であったり客観性の強い記録的なものであったりいろんな描写があるのだろうけれど、コミさんその父に通じるスタイルとして、軽く飄々としているのだが、とにかく「はたしてそれが事実なのだろうか」と追究する姿勢が独特だ。「物語」は字のごとく、ものを語るということだけれど、それそのものを疑いながら記述するのはコミさんの哲学なのだろうか。そしてリアルに迫ってくる。​
 ひとのはじめとおわりに関与することなど、神のすることではないか。ぼくは、おこがましくも、神の名で、大尾の物語をかってにつくってしゃべっていたのだ。
​ 父がすでにある宗教団体から出て、十字架をもたず、湧きあがることばをポロポロするように、ことばや描写を削ぎ落し、滅亡することなく追究するのは共通しているなと考える。​
​ 翻訳した作品も多いが、よく海外に滞在し、路線バスであちこち行かれたという。あと1冊図書館で借りた『コミさんほのぼの路線バスの旅』は日本国内のバス旅行。『新宿ゴールデン街の人たち』は、私が愛するゴールデン街の飲み屋を舞台にしたエッセイかと思ったら、こちらは海外旅行や滞在記が多く収められており、やはり路線バスに乗ってふらふらあちこちに行っている。私は青春切符のローカル線に揺られるのが大好きな、なんちゃって鉄女だけれど、路線バスの旅も面白そうで、しばらくコミさんの滋味に浸りたいものだ。
 というわけで、お待たせした割にふがいない(いつも…)投稿ですが、SODEOKAさん、続きをお願いいたします。
 今夜は中秋の名月の翌日、十六夜ですね。お月さま、見れるかな?2021・09・21・N・YAMAMOTO​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​

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最終更新日  2022.06.30 09:05:04
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2022.06.13
​​​​​​100days100bookcovers no75 (75日目)
​田口俊樹「日々翻訳ざんげ エンタメ翻訳この四十年」(本の雑誌社)​​

 100日100冊チャレンジですが、75冊目が回ってきました。これで四分の三ですね。100冊ぐらいどうってことないだろうというのが、KOBAYASI君とSODEOKAさんをお誘いしたときの本音でした。始めたのが、昨年、2020年の連休明けくらいからですから、今で、だいたい500日くらいたちました。色々出てきましたが、ここの所洋物のエンタメですね。まあ、矢作俊彦は雰囲気が洋物ですね。
 で、どうしようかと考えこんでいたときに読んでいたのがこの本でした。
 田口俊樹「日々翻訳ざんげ」(本の雑誌社)。​
​ 今回は気を楽にしてこの本でどうでしょう。副題が「エンタメ翻訳この四十年」です。なんか、流れにピッタリだと思いません?SODEOKAさんが最初のころに紹介してくれたローレンス・ブロックの翻訳者ですね。1950年生まれで早稲田の1文を出てウロウロした後で都立高校の英語の教員になったそうです。  
 そのあたりのことを書いている様子にちょっと共感したんですが、こんなふうに書かれています。​

 ​私は1977年に都立高校の英語教員になってる。三年ばかり、小さな出版社と児童劇団を経てのことで、英語の教師になってまず痛感したのは英語に関わる自分の実力のなさだった。大学の受験問題など生徒に持ってこられ、質問されても即答できない。今は時間がないからとその場限りの言い訳をして問題を預かり、そのあと辞書と首っ引きになって必死に調べたり、先輩の先生に教えを乞うたりして、翌日、十年もまえから知っていたような顔をして生徒に解説していた。それが情けなかった。
 そういう情けなさから自分を救うには、これはもう自分が勉強するしかない。そうは思ったものの、生来の勉強嫌いである。どうしたものかと考えあぐねていたときのこと、当時早川書房の編集者をしていた高校同級生の染田屋茂とたまたま会う機会があり、ふと思い立って、翻訳をやらせてくれないかと頼んでみた。英語をただ勉強するのではなく、翻訳という目的を持てば要するに、実入りもあるとなると―勉強嫌いもさすがに勉強するのではないか。思えばなんともご都合主義なことだった。
​ なんだか、信じられないような始まりですね。でも、このやる気のなさと、戸惑いには覚えがあります。
 もっとも彼は、その結果、本格的な翻訳者になったわけで、ぼくなんかと比べるのは失礼でしょうが、その時から40年、訳しに訳した年月を、ほぼ時代順に回想したエッセイです。
​​ 《翻訳者ネットワーク「アメリア」》というところに連載していた記事らしいですが、本は3章立てで、​第一章​「ミステリー翻訳者」、出てくる名前がジョン・ウィンダム「賢い子供」、ウェイド・ミラー『罪ある傍観者』、ローレンス・ブロック『泥棒は選べない』『聖なる酒場の挽歌』、アン・タイラー『アクシデンタル・ツーリスト』、マイクル・Z・リューイン『刑事の誇り』、エルモア・レナード『マイアミ欲望海岸』、クレイグ・ライス『第四の郵便配達夫』です。​​
​​ 第2章「昨日のスラング、今日の常識」で、チャールズ・バクスター『世界のハーモニー』、ネルソン・デミル『チャーム・スクール』、フィリップ・マーゴリン『黒い薔薇』、ジョン・ル・カレ『パナマの仕立屋』、ボストン・テラン『神は銃弾』、デイヴィッド・ベニオフ『25時』。​​
​ ​第3章​「悪人はだれだ?」で、リチャード・モーガン『オルタード・カーボン』、ジェームズ・M・ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』、レイモンド・チャンドラー「待っている」ですね。​
 こうやって並べてみると、懐かしい名前にお出会いになられる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
​​ ぼくにとって、田口俊樹は、なんといってもローレンス・ブロックの訳者だったのですが、女性の訳者ばかりだと思っていたアン・タイラーとか訳しているの知って、「おや、まあ!」だったり、「寒い国から帰ってきたスパイ」宇野利泰のあと、ジョン・ル・カレの大作といえば村上博基だったのですが、その後を継いだのが田口俊樹だったようで、「そういえば、そんなことがあったな。」とか、もっとも、著者に送ったメールの英語がへたくそ(自分でおっしゃっている)で、カレの機嫌を損じて冷や汗をかいたことも書いてありますが、だからでしょうか、すぐに加賀山卓朗に代わっています。​​
 著者田口俊樹が高2のときに田中西二郎訳で初めて読んだ「郵便配達は二度ベルを鳴らす」8人目の新訳挑戦の話も面白いのですが、ここでは折角なのでチャンドラーについて、ちょっと引用します。
 今の若いひとにはさほどでもないのだろうが、私の世代にはレイモンド・チャンドラーというのは超のつくビッグネームだ。ダシール・ハメット、ロス・マクドナルドと並んでハードボイルド御三家と呼ばれる一人で、私立探偵の代名詞と言ってもいいフィリップ・マーロウの生みの親である。
 この年(2007年)の三月、そのフィリップ・マーロウものの最高傑作と言われる「ロング・グッドバイ」の新訳が村上春樹訳で上辞され、いっとき翻訳ミステリー・シーンを賑わせた。それに合わせて、早川書房の「ミステリマガジン」四月号でチャンドラー特集が組まれ、「待っている」の新訳の仕事が私にまわってきたのである。その依頼電話を受け、編集者の話を聞いたあと、受話器を置いたときには本当に武者震いがした。大好きな作家の大好きな作品ということももちろんあった。が、二十七歳で翻訳を始めて三十年、ようやく自分もチャンドラーを訳さないかと請われる翻訳者になれたか、といった感慨が深かった。
 ​​​​​翻訳の失敗、日本語に対するこだわり、まあ、お決まりといえばお決まりの回想記なのですが、こういう飾らない文章が読ませるんですよね。いかにも「本の雑誌社」が出しそうな本で、ちょっと暇なんだけどいう方にはぴったりだと思います。
 ちなみに最後の文章に出てきた「村上春樹」ですが、村上春樹は1949年1月の生まれです。1年浪人していますから、田口俊樹は早稲田の同じ学部の一つ後輩ですね。まあ、相手は世界の村上なのですが、なんか、偉ぶらない田口俊樹の書き方にしみじみしました。​​​​​

​ というわけで100days100bookcoversの本編は終わりですが、ちょっと追記があります。というのは、最初の引用に出てきた染田屋茂という人は、実は名前を二つだか三つだか持っている名うての翻訳家です。​
 みなさん、スティーブン・ハンターという作家の「スワガー・サーガ」って呼ばれている傑作シリーズをご存知でしょうか。アール・スワガー(第二次大戦)ボブ・リー・スワガー(ベトナム戦争)という、親子のスナイパー、銃の名人のお話です。
 父と息子の活躍を、それぞれの戦場を舞台に描いたシリーズが、扶桑社文庫に10冊くらいあります。中でもボブ・リー・スワガーの活躍を描いた「極大射程」(新潮文庫)は映画にもなったらしくて有名ですが、その訳者である佐藤和彦というのは染田屋茂の別名ですね。ぼくは、最近エンタメを読みませんが、10年ほど前に夢中になったシリーズだったので、「おや、まあ!」とうれしくなって追記しました。
それではYAMAMOTOさん、お次をよろしくね。2021・09・04・SIMAKUMAくん​​​​​​

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最終更新日  2022.06.13 01:08:04
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2022.06.07
​​100days100bookcovers no74(74日目)​
​ジョセフィン・テイ『時の娘』小泉喜美子訳 早川書房​​
 ハードボイルド・ミステリーの名作の紹介が2作続いて、次にどうしようか。血管が切れたせいか、歳のせいか、いやいや元から、根気も続かない。想いはさだまらずに次から次へとフワフワと飛んで元に戻ってこない。次の本もなかなか決まらない。愉しい惑いの日々でした。
 罪を犯して追われる側目線のノワール小説か?熱く固く茹でるよりも、温かいハートウォーミングなヒューマニズムなものにしようか?といつも以上に、これまで読んだものを落ち着きなく思い出して過ごしていました。
 そのうち、思いつきました。「ハードボイルド」ものは現場が大事。それならその逆の現場にいかないものを。「安楽椅子探偵」にしましょう。キッチンやリビングで、あるいは、ベッドの上で推理して謎を解き明かすってやつ。自粛中の私にはちょうどいい。(持病の調整に苦労してる上に、明日はコロナワクチン2回目。コロナウイルスの抗体を装備するまでは自粛してろと自分にいい聞かせて暮らしてますから。)
​ 安楽椅子探偵ものをいろいろ思い返しているうちに、すっかり忘れていた『時の娘』のことを突然思い出しました。結構印象深くて、読後は興奮しましたが、調べながらの読書で骨が折れ、もう読まないだろうなと思って、本は処分してるはずです。(お金で買えないものは残しておいていいけれど、買えるものは処分するほうがいいと思っているので。まして、図書館で借りれるものは。)作者の名前も忘れていたのに、いきなり天のお告げのように、この本しかないという思いに取り憑かれてしまいました。​
​ 『時の娘』ジョセフィン・テイ 小泉喜美子訳 早川書房​
​​ 作者はスコットランド生まれのジョセフィン・テイ翻訳小泉喜美子
 Wikipediaを見ると、​
​​――『時の娘』は歴史ミステリ、ベッド・ディティクティヴの分野における嚆矢的存在として著者の代表作となっており、英米だけでなく、日本のミステリー作家にも影響を与えている。また、グラント物の第3作『フランチャイズ事件』レイモンド・チャンドラーは気に入っているという。―― ​​​
​ チャンドラーに繋がってるやん!​​
​ 翻訳の小泉喜美子も調べたら、有名なミステリー作家、翻訳家なんですね。この間からよくお名前が出てくる内藤陳の恋人だったこともあったそうです。これはますますピッタリね。​
​ タイトルの『時の娘』(The Daughter of Time )とは、「真実は時の娘」(英語:Truth is the daughter of time.ラテン語:VERITAS TEMPORIS FILIA)という古い諺に由来するそうです。「真実は、時間の経過によって明らかになる」という意味なんですって。​ で、いつもの図書館から借りてきたら、文庫本の表紙が変わっていました。以前はロンドン塔の絵でしたが、「リチャード三世」の肖像画になっています。この表紙はいいですね。読むときに必要な小道具です。読み手もこの表情、骨格、まなざしを見てどう感じるか考えながら読めますね。
 シェイクスピア『リチャード三世』ってこれほど恐ろしいおぞましい人はいないと思ったものです。小学生のころ、友達が読んでいた漫画を盗み見て、醜く恐ろしいリチャード三世のセリフを読んで、震え上がった記憶があります。いつも言ってますが、長いこと恐がりだったんで、そのあと「リチャード三世」絡みのものには近づきませんでした。その漫画は未だに誰が描いたのかも知りません。でも、漫画家、物書き、芝居や映画関係者にとっては、これほど魅力的な悪のキャラクターはないのですね。40過ぎてからやっとそんなことも知りました。ネットを見ても、リチャード三世役をつとめた錚錚たる俳優の名前が出てきます。ローレンス・オリヴィエ、アル・パチーノ、イアン・マッケラン、ベネディクト・カンバーバッチ、平幹二郎、仲代達矢、江守徹、市村正親、古田新太 etc. etc.
 心理学者にとっても興味深いキャラクターなんですね。精神分析医で文化庁長官在職時に亡くなった河合隼雄と、最近シェイクスピア全作品を翻訳したと話題の松岡和子の、1999年刊行の対談集『快読シェイクスピア』(新潮社)の中で、この役を「やりたがっている俳優は多いが、日本人には難しいのではないか」「こんな役をやろうと思ったら、毎日ビフテキを食べてないと」「狩猟民族で、血の滴る肉を食べてそう」とかの話題も出てきてます。
 でも、このシェイクスピア劇リチャード三世の人物像は、実在したリチャード三世本人とはかなり違うらしい、と今では受けとめられていますね。数年前に彼の遺骨が発見されて、本物かどうかという話題が世界的なニュースにもなりましたね。現在のDNA鑑定技術で本物と認定されて、子孫もおられる、骨格からはせむしではなかったことも分かったと聞きました。これを投稿したら、あとで『王家の遺伝子―DNAが解き明かした世界史の謎』石浦章一著(講談社ブルーバックス、2,019/06/20刊)も図書館から借りてくるつもりです。
​​​​ 『時の娘』の内容は、足を骨折して入院中のスコットランド・ヤード(ロンドン警視庁)のグラント警部が、肖像画を初めて見て、実在のリチャード三世についての世間一般の悪人説に違和感を持ち、友人たちの協力で本や資料を集めて、リチャード三世の汚名を晴らすべく、文字通りベッドの上で推理していくという話です。グラントは、世間に伝わっている話のネタ元は、聖トマス・モアだと考えます。どこかで聞いた名前でしょ。『ユートピア』の著者で、ヘンリー八世の離婚に反対して死刑に処せられた人です。400年後にカトリック教会より殉教者として聖人とされています。あの立派なトマス・モア『リチャード三世伝』を書いたのです。そりゃ世間は信じますね。しかしグラントは、リチャード三世トマス・モアが物心つく頃に殺されているのだから、モア自身は直接見聞きしたわけではない。ではその元ネタは誰からなのか、推理と物証を探そうとします。警察官の職業意識から常に「それをすれば、誰が得をするのか。」という点から考えます。リチャード三世が悪虐な人間であるという噂が得になるのは誰か?トマス・モアの周辺の人物では当時のカンタベリー大司教ジョン・モートンではないか、モアモートンの書いたものを書き写したに過ぎないのではないかと推理します。推理の根拠は、イギリス史の王朝史と関わってくるので、多少面倒ですが、ちょっとメモします。​​​​
​​​ リチャード三世は、15世紀イギリスで、ランカスター家とヨーク家が戦った薔薇戦争の、ヨーク家側最後の王となった人物。人気のあった長兄エドワード四世の急死後、王位継承権のあったエドワード四世王子二人(リチャード三世の甥)をロンドン塔に幽閉して殺し、次兄ジョージや義姉らも殺して王位に就きますがわずか2年で、フランスに頼っていたランカスター家の傍系のヘンリー七世(この後、チューダー朝創立)との戦いで敗死しました。(ここまで歴史)​​​
​ ​(小説に戻って)グラントが考えたのは、リチャード三世の悪い噂で得をするのはだれかということ。それは、彼に代わって権力を手にした人間。さっきのジョン・モートンは、リチャード三世の時は不遇で、ヘンリー七世時代には取り立てられ、大司教に出世したのですから、その時のチューダー朝ヘンリー七世を正当化するために、前のヨーク朝リチャード三世のないことないことの悪口を並べ立てたという見立てです。そういう推理で物証もある程度揃えたあたりで、実はすでにリチャード三世善人説は歴史上唱えられているということを知るはめに。チューダー朝のあとのスチュアート朝ころには、彼に関する事実も明らかになった部分もあることが分ったという展開です。でも、一度世間が受け入れた説は、のちに事実が判明しても、なかなか改まらないということにも触れる展開です。​
​​ 翻訳者小泉喜美子氏もかなりの熱のいれようで、巻末の「訳者あとがき」にすでに1953年村崎敏郎による翻訳が出ていることを紹介し、そこに掲載されていた江戸川乱歩の解説の要約を紹介しています。ここに一部抜粋しておきます。​​
 ――1 1952年、探偵小説評論家アンソニー・バウチャーは『時の娘』を年間第一位とし、さらに全探偵小説のベストの一つと激賞した。
   2 氏(江戸川乱歩氏のこと、以下同様)もまた、それに同感である。
   3 氏は昔から「探偵小説は科学と文学の混血児の如きもので、そこに一般文学と全く異る特徴がある」と唱えてきたが、その「科学」とは最新の理化学上の知識を採り入れるという意味もあるけれども、それよりも「学問的な物の考え方」というところにポイントがある。あらゆる学問を研究する興味は、ことに未知の分野を手に入る限りのデータによって解明して行く面白さは、小説上の探偵の推理の面白さと酷似しているという意味においてである。だから、学問上の論文のような純粋に推理だけの探偵小説があってもよい。
   4 そういう意味で『時の娘』は史学上の研究論文と言ってもよい。
   5 しかし、最後で、この内容の史実がひっくり返る着想が作者の全くの創意でないことが分ってやや失望するが、この説は一般化していないものなので、決してこの作品の価値をそこなうものではない。『時の娘』は純粋の学問とも相わたる小説である。
​ と、江戸川乱歩もべた褒めです。もうちょっと、小泉氏のあとがきを載せま​す。
 ―― 『時の娘』の特徴は、形式としては安楽椅子(寝台)探偵、内容としては歴史ミステリ、この二つを結びつけてその二重の制約を作品に課したところにあります。
 ―― 歴史ミステリの制約と申しますと、提供されるデータはすべて、史書に記載されているものだけを使う、ということになります。作者の創造した事件を扱う場合とはまったく条件が異るわけです。持ち出してくるデータは万人衆知のものでも隠れた珍説でもかまわないが、とにかく、作者のでっちあげでは困る。先人の遺した記録として世上に通用する資料のみを手がかりとするのですから、条件としては歴史学者が研究する場合と同じです。
 それでは史学の研究論文と同じかと言うと、とんでもない。歴史ミステリの生命は、“歴史を見つめるに学者の眼をもってしてではなく、あくまで推理作家の眼をもって眺める”ところにあります。
 歴史を歴史学者の眼で眺めるのは歴史学者にまかせておけばいい。推理作家には独自の〝眼“があるはずです。(中略)推理作家のセンスをもって史家の石頭をみごとに笑い飛ばしております。(後略)――
 とまあ、翻訳者の解説口調も面白いです。
 日本でこれによく似た例を挙げれば、忠臣蔵の吉良上野介とか、幕末の小栗上野介でしょうか。こちらも、実在の人物はフィクションのような悪人ではないし、世間でもそうわかっていながら、悪役と相場を決めて楽しんでいるというところでしょうか。そういえば、野口武彦先生のブログに、最近中国で先生の著書がよく売れていると書かれていますね。特に『花の忠臣蔵』が。恥ずかしながら未読で、これも読まねば。
​ 最後に、こそっと。王朝の交代が「時の娘」を登場させることに大きく貢献するのは明らかでしょうが、王朝が交代しない国ではどうなんでしょうか?​
 あちこちに話題が飛んで、まとまりのない感想ですが、本の題と表紙だけは伝わったでしょうか。SIMAKUMAさんよろしくお願いいたします。​2021・08・27・E・DEGUTI​

​追記2022・06・11

野口武彦先生「花の忠臣蔵」(講談社)の楽天市場のリンクです。電子書籍で読めるようです。80歳を越えられましたが、いたってお元気です。「開化奇譚集 明治伏魔殿」(講談社)という新著も、今年の2月に出ています。よろしければどうぞ。クリックすれば楽天の本屋に行けます(笑)





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最終更新日  2022.06.11 13:19:56
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2022.06.02
100days100bookcovers no73(73日目)
​ 矢作俊彦『マンハッタン・オプⅠ・Ⅱ』角川文庫​​
 遅くなりました。
 仕事の忙しい時期と重なったこともありましたが、今回は何を採り上げるかなかなか決まらなかったということもあって時間がかかりました。申し訳ないです。
​ 前回のSODEOKAさんチャンドラー『長いお別れ』の次に採り上げるものとして最初に思い浮かんだのは、矢作俊彦『ロング・グッドバイ』だった。​
 カタカナにすると同じタイトルかと思うが、英題が付いていて、それが『The Wrong Goodbye』。記してみると、それらしいタイトルになる。
​ 矢作俊彦は、17歳でダディグース名義で漫画家デビューし、その後1972年に作家デビュー。​
 たぶん、代表作というか「ファン」が多そうなのが神奈川県警の刑事・二村永爾が主人公として登場するシリーズで、本になっているものではこれまで『リンゴォ・キッドの休日』(1978年。帯には「ハードボイルドの旗手」とあり、2編収められた中の表題作には「警官にさようならを言う方法は未だに発見されていない」という『長いお別れ』の最後の一文が引用されている[細かいことではあるが、手許にある清水俊二訳のハヤカワ・ミステリ文庫版では「警官にさよならをいう方法はいまだに発見されていない」と少し表記に違いがある])から以降、都合4冊出ているが、その3作めが​『ロング・グッドバイ』​である。
「私が初めてビリー・ルウに会ったのは夏至の三、四日前、夜より朝に近い時刻だった。
 彼は革の襟がついた飛行機乗りのジャンパーを着て、路地の突きあたりに積み上げられた段ボール箱のてっぺんに埋もれていた、
 酔ってはいたが浮浪者ではなかった。目をつむり、調子っぱずれの英語の歌をゴキブリに聞かせていた。」
 ​小説はこんなふうに始まる。むろんチャンドラー『長いお別れ』「本歌取り」である。ちなみにラストも同じような「オマージュ」が採用されている。
 しかしこの小説、591ページもある。未読の『フィルムノワール/黒色影片』は除くとして、個人的に一番印象深い『真夜中へもう一歩』363ページ。二村永爾が初めて登場する『リンゴォ・キッドの休日』では中編が2編収められているが、それでも163ページ133ページ。これなら何とかなったかもしれないが、それでも長いと思ってしまった。
 それではと、機会があればと考えていた別の作家の作品を、と読み始めてみたのだが、記憶の中のものと中身が少々違っていて、さてどうしようかということになり、結局、
​『マンハッタン・オプⅠ』『マンハッタン・オプⅡ』 矢作俊彦 角川文庫​
を採り上げることにした。
​​ そもそもは、80年から83年にかけてFM東京で放送されたラジオドラマ『マンハッタン・オプ』の放送台本(矢作俊彦・作)で(ナレーションは日下武史)、それに著者が加筆訂正したもの。私も大昔、FM大阪で放送を何回か聴いた記憶がある。​​
​ 最初は、昭和60年(1985年)1月から3月にかけて光文社文庫として出た『マンハッタン・オプ』1、2、3。その後、今度は角川文庫として同年5月と7月に2冊が追加される。確か、文庫オリジナルだったはず。紹介したのは後者。CBSソニーが版元になった版もあるようだが、未確認。
 この後、2007年ソフトバンク文庫で全63編(数えてみたら光文社版と角川版に収められているもので都合63編だった)を4冊に再編集して再発売。今はそれも(紙版は)絶版のようではあるのだが。
 光文社と角川の5冊は家の本棚に収まっていたので確認したが、前者では1編がほぼ20-40ページ、後者では10ページあまりからせいぜい20ページくらいと短くなっている。
​ 今回、実際に読み直したのは、『マンハッタン・オプⅠ』所収の初めから6編。​
 各編のタイトルにはそれぞれジャズのスタンダードが借用されている。例えば「LOVE LETTERS」「I CAN'T GET STARTED」「MISTY」等々。
カヴァーとイラストは、かの谷口ジロー
​​ ちなみにご承知だとは思うが、念のため、「マンハッタン・オプ」「オプ」について。​​
 ダシール・ハメット「コンチネンタル・オプ」でも使われている「op」「oprerative」の省略形で、要は「探偵」の意味。探偵と訳される単語は他に「(private) detective」「private eye」等もあるようだが、ここでなぜ「op」を採用したのかははっきりしないが、たぶんハメットを意識したのだろう。
​ ちなみに矢作は、たしか雑誌にのインタビューで、チャンドラーは評価するが、「ハードボイルド」などという下品なものは嫌いだ(ないし「書いたことがない」)というようなことを語っていたのを覚えている。いかにも言いそうなことだ。​
​ 矢作俊彦は、ともかくは、文体の作家である。​
​ たとえば最初に置かれた「LOVE LETTERS」の冒頭を引いてみる。少々長くなるがご了承を。​
「ずいぶんお安いのね」
パーク・アヴェニューから来た女は、すみれ色の目の端でこっそり笑った。
「一日、二百ドル?それで全部?」
もちろん、ベベ・クロコのハンドバッグから出された小切手帳に、二百ドルが高いわけはない。彼女は、それを、つまらない講義のノートをとる女学生みたいに開き、私の事務机に乗せ、銀色のボールペンの尻で折り目をしごいた。
「他に必要経費」と、私はつとめて平静に言った。
「アルコールとバァテンダーへのチップが、それに含まれることもある」
「それだけ?」
「拳銃のいらない仕事ならね」
彼女の眸(ひとみ)が、やっと真直ぐ私をとらえた。
「要る仕事なら五十ドルほど割増しをもらいます」
「判らないわ。でも、今夜一晩、三百ドルで話を決めていただけそうね」
彼女はペンを持ち直し、小切手帳にかがみこんだ。うなじと後れ毛が見えた。ジョイが匂った。
私は立ち上がり、窓へ歩いた。
その日、ニューヨークはすばらしい天気だった。恋を知ったばかりの少年のように、どこもかしこもぴかぴかに煌(ひか)っていた。空は青く、風はやさしかった。気持ちだけは、まったくの四月だった。
ユニオン・スクウェアでは、早合点した小鳥たちが春を歌っていたが、誰一人それをとやかく言う者はなかった。
三月はまだ少し残っている。しかし、冬はもう戻って来ない。今日、この町を往く者は誰も――人間も犬も、リスもドブネズミも、ジャンキーも切り裂き魔も、ニューヨークの冬をまた一つ、生きたまま乗り越えた自分にすっかり感動しているのだ。
そこへぶ厚い小切手帳、夏服を着たプラチナ・ブロンド、誰が小鳥を嘲(わら)えるだろう。
しかし、だからと言って、どんな仕事でも好きになれるというほどの陽気ではない。
​ 引用はここまで。
*小説内の時代設定がはっきりしないが、出版された昭和60年=1985年、あるいはFM東京で放送された80年から83年の、ドル/円のレートは、1ドル=200円から250円。だとすると、300ドルは6万円から7万5千円。と考えると、この「料金」はそんなものかもしれないと思う。
 擬人法や比喩で彩られた文体は、こういう短編というか掌編で、よりその効果を発揮する。これを「過剰」だとか「嫌味」だと考えるかどうかは読者次第だろう。
 各編が短い分、ストーリーは省略も少なくないし、細やかとはいえないが、それは放送音源の台本が元になっているという物語の出自を考慮すれば、せんないことだ。
会話が多く、ストーリーよりシーンで読ませる趣は、チャンドラーがそうであったように映画の脚本みたいなところがある。
 でも考えてみれば、この作家の場合、長編でも、これほどではないにしろ同じようなことが言える。
ただ文体は(初期は概ね同じようだった記憶があるが)、作品によって自ずと変わる。日本が戦後2分割されるという『あ・じゃ・ぱん!』や、堀口大學のメキシコでの青春期を追った『悲劇週間』、あのTVドラマの最後から30余年後を描いた『傷だらけの天使』ではまったく異なる文体だった(はず)。
 この作家は雑誌で連載を始めても未完成で終わったり、本にならないことも少なくないらしい。Wikiを見るとそんな作品が7作ある。実際はもっとありそうな気がする。
 そういえば、かつて光文社文庫オリジナルで『コルテスの収穫』という小説が上、中、下巻で出る予定のところ、なぜか下巻が出なかったということもあった。
 真相は、2002年の「作家に聞こう」と題されたインタビューで語られていて、何というか好き放題喋っているみたいなので本当かどうかはわからないが、おもしろいと言えばおもしろい。
https://web.archive.org/.../book.../authors/index.php...
 たしか大学時代に友人の故・中井くんに教えてもらった作家で、読み始めて以降、一応の「ファン」だと思っていたのだが、司城志朗との共作を含め、未読にものも増えてきた。
 せめて二村永爾ものは読もうと思って上で触れた『フィルム・ノワール/黒色影片』が文庫化されるのを待っているのだが、未だ果たされない。
 たぶん読者をいくらか選ぶ作家なんだろうが、その魅力に一旦気づけばなかなか離れがたい作家でもある。
では、次回、DEGUTIさん、お願いします。
もし体調がすぐれない場合は、ご遠慮無くそうおっしゃってください。
T・KOBAYASI・2021・08・14



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最終更新日  2022.06.08 10:06:14
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2022.05.30
​​100days100bookcovers no72(72日目)​
 ​レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(ハヤカワ・ミステリ文庫)​​

 遅くなってすみません、と書くことすら憚られる遅刻で、いまは、やっと書くことができていることにホッとするばかりです。
 ​『長いお別れ』(レイモンド・チャンドラー、清水俊二訳 ハヤカワ・ミステリ文庫)​
​ 前回、YAMAMOTOさんの書かれた馳星周『神の涙』、そのコメント欄に内藤陳の名前が登場したとき、次に何を書くかは即刻決まった。これはもう冒険小説か探偵小説、とはいえ、冒険小説はほとんど読んだことがないので、そうだ、この機会に、久しぶりにチャンドラーを読み返してみよう、と思ったのが、まず第一の間違いだった。​
​​​​ そしてすぐに、第二の間違いをおかす。ここで楽をして、彼の一番短い小説『プレイバック』を読んでしまったのだ。読み終えて、はたと困った。何を書けばいいのか。だいいち、この小説は出来がよくない。遺作であり「謎の問題作」とされているけれど、そうではない。『長いお別れ』の完成後に最愛の妻シシイを亡くし、酒浸りになった末、なんとか立ち直ってようやく書いたこの作品が、『長いお別れ』に比較してありえないほどクオリティが低いのは、当たり前といえば当たり前のことなのだ。この小説を書いた翌年、チャンドラーは亡くなっている。​​​​
​​​​ ここでチャンドラーから離れたらこんなに遅刻することもなかったかもしれないけれど、さらにチャンドラーを読んだことが第三の間違いだった。『さらば愛しき女よ』を手に取って読み始めると、冒頭20ページほどで、小説としての出来の違いをはっきり感じた。なにより人物像がくっきりと魅力的で、どんどん読める。プロットも人物像も霞に包まれているようだった『プレイバック』とは雲泥の差だ(もちろん、出来不出来以前に好みの問題はあるだろうけれど)。​​​​
​ にもかかわらず、この小説を読み終えても書けなかった。どんどん迷路に入り込んでゆくようだった。エンタテイメント小説について何かを書くというのは、どういうことなのか。書評のプロは知らないけれど、素人が、面白かった、感じるものがあった、という以上の何を書けばいいのだろうか。書く必要があるのだろうか。その小説への「思い入れ」以外に、書けることなんてあるのだろうか。そして、わたしには特にチャンドラーへの「思い入れ」はないのだ。​
​​ でも、何かを書かなくてはいけない。ここまで来たら、もうチャンドラーで書くことしか考えられなかった。チャンドラーから何を見つけるのか、それがどんなものであるにしろ、それを書くしかないし、書けばいいのだと開き直って、『長いお別れ』のページを開いた。そして、30ページを読み終えたところで、これは名作だと思った。村上春樹の言っていることはやっぱり正しかった。でも、最初からこれを読めばよかったのかというと、そういうわけでもないのかもしれない。感動が、私が読んだ3作の選択、順番によってより深くなったと言うこともできるからだ。​​
 3冊にしては遅れ方が甚だしいのは、年々劣化する読書速度と、何を書けばいいのかと煩悶していた時間を加味していただけるとうれしい。
​​​​​​​ 『長いお別れ』は、主人公のフィリップ・マーロウが、この小説のキーパーソンであるテリー・レノックスと出会うところから始まる。探偵と酔っ払いとして出会ったが、ふたりはすぐに親しくなる。マーロウの視点で描かれるレノックスは、弱く、妻にしてはいけないタイプの女性に惹かれ、妻とし、それゆえ苦労し、顔には戦争で被弾したと思しき深い傷があり、過去は陰翳に包まれて謎めいている。そんな人物に、その属性をそのまま受け入れながら、マーロウは人間として惹かれてゆく。そしてその経緯、出会いから、妻殺しの容疑者として逃亡するレノックスを幇助するまでの冒頭ほんの数十ページが、この小説を最後まで牽引することになる。​​​​​​​
​ 冒頭の魅力は人物像の魅力に直結しているのだけれど、それを引き出しているのは、マーロウの情動と、彼の個別の人生経験と人を見る目、それを文字にできる作家のペンだ。探偵小説としての「型」ではない、生に近い人間として描かれているからこそ、私は心が動いたのだと思う。​
​​ チャンドラーは、プロットがそんなに優れている作家ではなく、どちらかというと「シーン」の作家だ。印象的なシーンをつくり、そのなかで、彼特有の、少し持って回った言い方で、人物や背景を生き生きと描写する。そのことは、チャンドラーがハリウッドでいくつか脚本を書いている脚本家でもあることも関係しているかもしれない。地の文の描写もいいが、セリフもいい。​​
​ 自らの情動を警官に語るマーロウのセリフを、少しだけ引いてみる。​
***
 僕はロマンティックな人間なんだ、バーニー。暗い夜に泣いている声を聞くと、なんだろうと見に行く。そんなことをしていては金にならない。気がきいた人間なら、窓を閉めて、テレビの音を大きくしておくよ。あるいは、車にスピードをかけて遠くへ行ってしまう。他人がどんなに困ろうと、首をつっこまない。首をつっこめば、つまらないぬれぎぬを着るだけだ。テリー・レノックスと最後に会ったとき、われわれはぼくの家でぼくがつくったコーヒーをいっしょに飲み、タバコを吸った。だから、彼が死んだと聞いたとき、台所へ行って、コーヒーをわかし、彼にも一杯注いで、タバコに火をつけてカップのそばにおき、コーヒーが冷めて、タバコが燃えつきると、彼におやすみをいった。こんなことをしていて金になるはずはないんだ。君ならこんなことはしないだろう。だから、君はりっぱな警官になっていて、ぼくは私立探偵になってるんだ。
***
​ ​​​​こんな風に使われる「ロマンティック」という言葉には初めて出会ったが、マーロウ「クール」とか「非情」というキャラクターとはまったく違うこと、レノックスマーロウの関係、彼が世の中とどんなふうに対峙している人物なのかが、これだけのセリフで十分に分かる。​​​​
​​​ どの人物も、セリフでキャラクターが色濃く描写されているのは同じで、作家のロジャー・ウェイドや、事業家で億万長者のハーラン・ポッターなども、一筋縄ではいかない、複雑な造型がされている。地の文でいうと、ヒロインと言うべきアイリーン・ウェイドの最初の登場シーンなどは、彼女の金髪の描写といい、比喩といい、数行でファンタスティックな空気ができあがって、ちょっとこれまでこんな文章を読んだことがないような仕上がりだ。人物にセリフを語らせながら、当時のアメリカの時代背景や、舞台になっているロサンゼルス、ハリウッドという土地柄をうかがわせているのも巧みで、このあたりも、脚本家的な方法論なのかもしれない。(そういえば、このリレーの最初の頃にとりあげたローレンス・ブロック『八百万の死にざま』の舞台はニューヨークだったのだが、書かれた時代に隔たりはあれど、街の特徴は小説のもつ色合いに反映されている。)​​​
​​​ 人口に膾炙していると思うので、ストーリーは紹介しない。レノックスの人物像に比して、彼の行動の原因についての説明はほとんどされていないけれど、それはマーロウからは結局計り知れないことで、その距離感が、ふたりの関係に深い余韻を持たせている。冒頭に呼応するように、最後も登場人物はレノックスとマーロウのふたりだけだが、これもまたつややかな名シーンになっている。​​​
 それではKOBAYASIさん、お待たせしました。よろしくお願い致します。
​※ 蛇足だが、『プレイバック』以外の長編はすべて、ハリウッドで映画化されている。私は、『大いなる眠り』ハンフリー・ボガード主演、ハワード・ホークス監督で映画化した『三つ数えろ』しか観たことがないけれど、『長いお別れ』ロバート・アルトマンが監督をしているそうで、これはぜひ観ておきたいと思う。​
※ もうひとつ追加を。この度読んだ3作とも清水俊二訳だ。『長いお別れ』村上春樹訳も手元にあるが、すべて同じ人の翻訳で読まないと訳文に左右される要素があると思ったので、今回は読まなかった。
2021・07・​26・K・SODEOKA

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最終更新日  2022.05.30 11:33:16
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2022.05.27
100days100bookcovers no71 71日目
​ 馳星周「神の涙」(実業之日本社文庫)​
 前回の70日目から20日が過ぎました。遅くなってすみません。
​ 「外出が続きます」と投稿が遅れることを告知していましたが、わけがわかりませんよね。1週間、沖縄に行っていました。勝手に「フィールドワーク」と命名している「沖縄を知る」旅です。2月にフライトチケットを格安で取り(往復6,340円!)、全国・沖縄のコロナ感染状況や社会情勢を気にかけ、キャンセルも視野に入れていました。最終的にひとり旅で北部や中部を中心に計画し直し、決行しました。出発前にbookcoversの投稿が間に合わなかったのが残念でした。
 「読売文学賞」をバトンに、degutiさん庄野潤三『夕べの雲』からsimakumaさん色川武大「狂人日記」へ。色川武大は私の知らない作家でしたが、直木賞作家、阿佐田 哲也・井上 志摩夫・雀風子とペンネームを複数持つこと、雀士でアウトロー生活、などから私が次に選んだのは、馳星周。​

​ 2020年第163回直木賞『少年と犬』で受賞。坂東レーニン・佐山アキラ・古神陸というペンネーム、『不夜城』などの暗黒小説、麻雀ではなくけれどゲームに詳しいなどなど…。実は他にも新宿ゴールデン街という共通点も!​
​ 馳星周色川武大と同様、私は全くご縁がなかったのだけれど、『少年と犬』が気になっていた上に、この「100days100bookcovers」のどこかにsimakumaさんkobayasi君のコメントがあったと記憶しています。映画監督・俳優の周星馳の名前を逆にしたものというペンネームの話題だったかな?そんなきっかけで図書館で何冊か借りて読むようになりました。『ゴールデン街コーリング』『雨降る森の犬』『ラフ・アンド・タフ』『少年と犬』…。​
 『少年と犬』は、いつ予約したのか忘れたころにやっと順番が回ってきました。仙台から熊本まで、さまざまな弱者に寄り添う野犬タモンを通して、東日本大震災の地震や津波、原発の事故に対する国や人々の姿勢を問い続けています。特にこの度のオリンピックの復興五輪という当初の意義は今やほとんどの人の意識にないのでは!?と思っている私は、小説そのものや犬への畏敬だけでなく、馳星周の社会的な姿勢にも大いに共感したのです。
​ では次に、どの作品にしようかと図書館で迷った結果、『神(カムイ)の涙』にしました。アウトローものではないけれど、北の大地を舞台にしたアイヌ民族に関する話でしたので…。20数年前に北海道の静内に青春切符で鉄道旅をしたことがあります。(また鉄道話ですみません。)加古川に舞台公演に来てくれた静内ウタリ協会のみなさんと沖縄エイサーのみなさん(アイヌと沖縄を学ぶ人権企画は、すばらしかったなぁ!)との懇親会の中で、「また静内に来てくださいよ」という社交辞令を真に受けてひとりで行ってきたのです。私のいつものフィールドワークのスタートではないかな。大学、行政、地域の方にアポを取ってお話を聞きに行きました。当時朝日新聞に連載していた『静かな大地』(池澤夏樹)静内の歴史や淡路島との関係も知り、また加古川アイヌの文化と歴史を学ぶ会に参加し、『旧土人保護法』など同化政策を学び、ネイティブアメリカンなど先住民の教えなども友人から聞いていたこともアイヌ民族に魅かれた理由です。​
 ​『神の涙』​のあらすじは、だいたい以下のとおり。
​​​​​​​​​​ アイヌの木彫り作家の平野敬蔵は、両親を交通事故で亡くした孫の悠と二人暮らし。敬蔵に弟子入りを願って東京からやって来た尾崎雅比古が関わることによって、アイヌであることを否定し、高校から敬藏の家を出ることを決意していたの心が少しずつ開かれていく。同時に雅比古のルーツと、彼がなぜ敬蔵を訪ねて来たのかが明らかになっていく。福島原発事故の責任に向き合わない国や東電に対する憤りに対して友人と無謀に行動し、結果として警察に追われることになる雅比古のストーリーとカムイモシリ(神々の住まう地)である北海道の壮大で優美な自然を舞台にした敬蔵悠、雅比古が本物の家族になっていくストーリーが絡まり合って織りなされる、タペストリーのような小説でした。​​​​​​​​​​
​​​ まず表紙の「摩周湖の滝霧」「雲海」という名称ではなく、「滝霧」と言われるのは、周囲の断崖から滝のように“白い塊”が流れ込むからだとか。実は今回、沖縄やんばるをひとりでドライブし、国立公園「大石林山」に行ったのですが、ちょうどその時上から霧が下りてくる一瞬を見たので、ちょっと背筋がゾクッとしました。休園中だったので、入り口でスタッフの方に説明してもらっていた時です。晴れている時より雨の後や雨が降っている時の方が荘厳さがあって僕は好きなんですと言っておられましたが、ここでも神々の住まう地を感じました。​​​
​​​ 「この辺りの山は昔はみんなアイヌのものだったんだ。」敬蔵が言う山の神様が住まうところ。摩周湖の滝霧は、山の神様が摩周湖の水を飲みに行く印だという。オホーツク海、知床、藻琴山を訪れ、悠も雅比古も自然の神々しさに圧倒されていく。は自分が嫌悪していた故郷やアイヌであるという事実をだんだん肯定するようになるのです。​​​
​​​ そんな山に住む、羆(ひぐま)やシマフクロウやエゾシカの生態は自然を破壊する人間への批判になっています。木彫りに最適な木を探し得られるのも、動物たちに向き合えるのも、カムイを信仰するアイヌしかいない。精魂込めて動物を彫り上げていく敬蔵は、木彫りに命を吹き込む時にユーカラを唱える。雅比古は母が口にしていた「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに…」『アイヌ神謡集』の中の梟の神の自ら歌った謡だと知っていきます。​​​
​​​​ 敬蔵はいつも「はんかくさい」(「ばかもの」「恥知らず」という意味の北海道や東北の方言)と口にします。本当に今の日本の人間どもは「はんかくさい」し、どうにも未来が望めないくらいなのだけれど、この本の中には「赦し」が書かれています。最後はちょっとヒヤヒヤする暗黒の山での騒動があるのですが、バッドエンドにならないのも救われました。エゾシカの肉で作ったカレーや豆を挽いて淹れるコーヒーなどが美味しそうで、嗅覚や味覚まで刺激された作品でした。​​​​
​ 馳星周の他の作品の中では、『不夜城』を外せないと手元に置いています。加古川のレトロな図書館は休館となりましたので、限度いっぱい借りてきました。いつも上手くリレーできたかどうか心許ないのですが、sodeokaさんに繋ぎます。どうぞよろしくお願いします。2021・06・27



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最終更新日  2022.05.29 18:54:25
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2022.04.07
​​​​​​​​​​​​​​​100days100bookcovers no70
​色川武大「狂人日記」(福武文庫・講談社文芸文庫)​​
 KOBAYASI君星野博美『のりたまと煙突』から、「内省」をバトンにして、DEGUTIさんが差し出してくれたのは庄野潤三『夕べの雲』でした。
 作品名を見ながら、ふと、浮かんできたのは「ああ、いよいよ、出発点かあ・・・」という感慨でした。
 ぼくがこの作家の名前に出会ったのは高3の時でした。私淑していた世界史の先生の下宿の棚から借り出した江藤淳「成熟と喪失」(今では講談社文芸文庫、当時は、たぶん、河出書房の単行本)という「第三の新人」を論じた評論の中でのことです。変なことを詳しく覚えているようですが、今思えばそれがぼくの「文学オタク」の始まりでったからなのかもしれませんね。
 「オタク少年」は、翌年一年、午前中しか学校がない浪人生活をいいことに、「成熟と喪失」で論じられた作家たちを読みふけったわけですが、その中で、その後も読み続けたのが、遠藤周作吉行淳之介ではなくて、庄野安岡章太郎、そして小島信夫だったというところに、まあ、「性根」の好みがあらわれているようでおもしろいですね。

 庄野潤三『プールサイド小景』で芥川賞を取ったのが1955年で、ぼくが生まれた翌年です。昭和30年。以後、一年間だったかのアメリカ留学の生活をつづった『ガンビア滞在記』、初期の代表作とも言うべき、釣りをする父と息子の話を書いた『静物』、で、『夕べの雲』1965年です。
 作風は、DEGUTIさんのおっしゃるように「平和な家庭の風景」「おだやか」「ユーモラス」な描写ということなのですが、うまく言えませんが、どこかに「喪われたもの」「壊れそうなもの」「不安定」を感じさせるところのある「おだやかさ」に惹かれたのでしょうね。たとえば、DEGUTIさんが引いていらっしゃる、こんな描写がぼくは好きです。
​​ 家ごと空に舞い上がって、その中には寝間着をきた彼と細君と子供がいて、
「やられた!」
と叫んでいる。
 そういう場面を空想するのなら大風の方がよく似合う。台風では、そうはゆかない。​​
​ 長々と思い出話をしてきましたが、バトンは「読売文学賞」です(笑)。なんだ、それなら、さっさとそっちに行けばいいじゃないかと言われそうですが、庄野潤三は読み直したい人でもあって、語りたかったのでしょうね。
 『夕べの雲』読売文学賞を取ったのは1966年ですが、23年後、1989年の受賞作が色川武大「狂人日記」(福武文庫、今は講談社文芸文庫)でした。
 「麻雀放浪記」直木賞作家、阿佐田哲也という方が通りがいいのかもしれませんが、ぼくにとっては「百」、「狂人日記」色川武大です。彼はこの作品で「読売文学賞」を受賞しますが、受賞を知らないまま心臓破裂で世を去ったそうです。60歳の生涯だったそうです。
 作品は「自分」と自称する「元飾り職人」「狂気」「正気」の間を行き来する日々の暮らし、「目」に見える外側の世界と内側の世界を描いた一人称の小説です。
 主人公は病院で暮らしているのですが、彼が生きているのは、まあ、こんな世界です。
​「一番怖いものは、何ですか」
と医者が上機嫌でいう。
自分が黙っているので、さらにうちとけた調子で、
「誰にもあるでしょう、怖いものが。蛇とか、蛙とか、虫とか」
「そういうことなら、べつにないようですねえ―」自分はにべもなくいった。「ただ、怖くなりだすと、なんでも怖いです。」​​
​​如何に生くべきか。そいうことを考える年齢では早くもなくなった。もう五十を越した、一生は短きもの也。このまま転げるように生き終えてしまいたいものだ。​
​​​一人では、やっぱり生きていかれない。他者が居ない分だけ、幻像が繁殖してくる。自分の病気はここから発していると思う。他者に心を開け。簡単に思う人も居るだろうが、自分がやろうとすると、卑屈になったり、圧迫してしまったりしてしまう。そればかりでなく、どの場合も不通の個所がこつんと残る。​​
​​死んでやろうと思う。ずいぶんよそよそしい言葉で、人に告げても信じるまい。自分にも、まだ嘘くさくきこえる。
死んでやろうじゃない。死ぬよりほかに道はなしということだ。それで、自然史がよろしい。今日から、喰わぬ。​​
 引用していて、ちょっとヤバい気分になりますが、こういうのをひと様に紹介していいのかどうか、不安になりますね。
 とはいえ、この作品が1988年に上辞されたことに絡めていえば、戦後社会という経済成長はあれども、確たる支柱の「喪失」の中で生きることを余儀なくされた「個人」を描いて、「自我」を描き続けてきたといわれる「近代文学」と、「社会的人間」を描こうとした「戦後文学」の終焉を鮮やかに描き切った傑作だというのが、ぼくの思い込みです。
​ 「平成」「令和」の文学が、色川武大の荒涼とした「崩壊」の世界を、どう受け止めているのか、興味深いのですが、どうも、だれも論じないまま忘れられて行く雰囲気ですね。​
​ なんだか、老人の繰り言になりましたが、YAMAMOTOさん、お次をよろしくお願いします。T・SIMAKUA・2021・06・07​​​​​​​​​​​​​​​​​

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最終更新日  2022.04.07 10:16:37
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2022.04.05
​​​​​​​​​​​100days100bookcovers no69 69日目​
​​ 庄野潤三『夕べの雲』(講談社文庫)​​
 お久しぶりです。このところ、ますますやることがおそくなり、目はみえにくいわ、ものは失くすわ、言葉がでてこないわ と健全に老化が進んでいるところに、野暮用が重なっていて、なかなかできなくて、すみませんでした。
​ KOBAYASIさんご紹介の、星野博美『のりたまと煙突』は読んだことがないので、題名にゆかりあるものか、紹介文関連で探したいのですが、「海苔」「卵」「煙突」「銭湯」「猫」などなど。どれも家には見当たりません。常々、手持ちの本が少なくても、もっぱら近くの公立図書館を自分の本棚のように使わせてもらっているのに、緊急事態宣言期間ゆえ、今回は図書館本はあきらめます。​
 で、また、手持ちの本を無理やりにでも関連つけられないかとKOBAYASIさんの文章を読んでいたら、この一文にこじつけられるのではないかと思い至りました。
​<「内省」とはいくぶん異なるが、圧巻は「東伏見」だろう。まるで短編小説だ。>​
​ 『のりたまと煙突』って「短編小説のようなエッセイ」を含んでいるのですね。それなら、その逆で「エッセイのような小説」はいかがでしょうか。うーん。苦しいこじつけですが。
 大学を卒業して就職が決まらない頃に知り合いから勧められた本で、いつかこれをと思っていた本にします。
 ​​庄野潤三『夕べの雲』(講談社文庫)です。​​
​ 庄野潤三<第三の新人>の一人ですが、不勉強なので、ほかの作品は読んでいません。(吉行淳之介『夕暮れまで』は大ヒットしたときにYAMAMOTOさんから本をお借りして読みました。今さらですが、ありがとうございました。)教員採用試験前のオベンキョーにこれくらいは読んどいたほうがいいのかしらと、思って読み始めました。​
 ところが意外にも、試験の役に立つどころか、山の上に住む一家のたわいない日常生活が淡々と描かれていて、エッセイなのか小説なのかわからないような筆致でした。読後、穏やかな心持ちになれて大好きな作品にはなりました。いつかは、この小説の中の家族のように、植物のことを気にかけ続けるような生活がしたいなあと、心に刻まれた本になりました。植物好きが嵩じた一因かもしれません。
 話は私自身のことになりますが、学校では「国語」よりも「生物」の方が好きだったのに、数学も物理も化学もダメで理系をあきらめて、当時は、女子は文学部でしょみたいな感じで大学は文学部に進んだけれど、クラブやサークルではせめて「園芸」をと思っていました。でもなかなか見つからなくて、やっと「ENGEI」というポスターを見つけてお部屋に行ったら、ひげもじゃの年齢不詳の男性がいて、ちょっと不気味だったけれど親切な応対で「ここは演芸で、園芸ではありません。」「園芸のことは分かりません。」と説明してくれました。それが中国文学の松浦さんだったとは、あとで知りました。その後とうとう「園芸サークル」を発見。集まりに出席したら、5名いらした先輩方はみなさん農学部の方で、(当然といえば当然ですが、それまで全然気が付きませんでした。中年になってから、その時に農学部に転学することを思いつくべきだったのに と思うことしきり です。)その日は夏休みの水やり当番を決める会議でした。肥料や薬など、聞きなれない言葉に、場違いな文学部生であることや、夏休みに水やりのためだけに片道2時間近くかけて通うなんて嫌気がして、次回の集まりで退会してしまいました。その後、学生時代に花屋で2年間アルバイトもしました。卒業後、非常勤講師をしながらも、教師よりも花屋になれたらいいな なんてことを思ったりもしていました。(花屋も、重い水桶を動かすから腰を痛めやすいし、花の持ちがいいように店は低温にしているので冷えるし、水や農薬で指は荒れっぱなし。 で 怠け者の私には無理ですが。)
​ 『夕べの雲』に戻ります。今Wikipediaを調べて、読売文学賞を受賞している有名な本だったと改めて知りました。もとは新聞連載小説だったそうです。​
 昭和39年(1964年)9月から昭和40年(1965年)1月まで日本経済新聞夕刊に連載された小説で、同年3月に講談社が単行本化しています。同年の野間文学賞候補となり、翌年1966年には毎日文学賞候補、読売文学賞を受賞しています。私の持っている講談社の文庫本は昭和46年7月発行で第7刷。もう一冊講談社文芸文庫を夫が持っていました。それは、1988年4月第1刷発行で、2005年8月第28刷発行と奥付にありました。こんなに売れていたとは知りませんでした。
 丘の上の一軒家で自然と親しみながら暮らす大浦家(中年夫婦と3人の子どもたち)の日常生活を描いた「家庭小説」です。普通なら、家族にふりかかる事件や家族間の確執が描かれて、その危機や葛藤あるいはそれを乗り越える展開が描かれるところですが、それら一切のない季節感豊かで理想的な家族の単調で幸せな「家庭小説」です。『アンナ・カレーニナ』の冒頭​
​​「幸福な家庭はみな同じように似ているが、不幸な家庭は不幸なさまもそれぞれ違うものだ。」​​
 を思い出します。「幸福な家庭」の物語は読者に読む気を起こさせないというのが常套でしょうが、どうしてこの単調な小説がこれほど売れたのか。それでも、今となってはもう読む気をそそらなくなっているのか。そんなことも気になりました。
​​​ その土地のことをよく知らないよそ者が丘の上に一軒家を建てるが(作中の大浦作家庄野潤三の分身でしょう。庄野は大阪出身で、30歳で東京に転勤。40歳のときに、川崎市生田の「海抜90メートル」の山のてっぺんに転居しています。それから新展開の「家庭小説」を書くようになったと、小沼丹が文庫本の解説で書いています。今も「山の上の家」はあるそうですね?2019年までは年に一度一般公開もされているようです。)風が強くて、始終風よけになる木のことを気にしているといったたわいのない話とか、子どものこと、害虫のこと、など13篇まとめられています。ここに書かれているのは、季節と家族とその知り合いの話だけです。外の社会のことには触れられていません。周辺の多摩丘陵が一気に「開発」され、自然が失われていくことに多少触れられてはいますが、批判する気はなさそうです。無常観というのか、すべては変わっていく、失われていくといくものだ。だからこそ、失われゆくものを哀惜し、ユーモアをもって書き記していこうとしているように感じられます。​​​
 ​目次  
 萩 / 終りと始まり / ピアノの上 / コヨーテの歌 / 金木犀 / 大きな甕 / ムカデ / 山茶花 / 松のたんこぶ / 山芋 / 雷 / 期末テスト / 春蘭
 ​​巻頭の「萩」より一部抜き出してみます。風当りの強い家に引越した当座の困惑を他人事のような余裕とユーモアで書いています。​
​​ 何しろ新しい彼等の家は丘の頂上にあるので、見晴らしもいいかわり、風当りも相当なものであった。360度そっくり見渡すことが出来るということは、東西南北、どっちの方角から風が吹いてきても、まともに彼等の家に当るわけで、隠れ場所というものがなかった。
 前からこのあたりに住んでいる農家をみれば、どういう場所が人間が住むのにいいか、ひと目で分る。丘のいちばん上にいるような家はどこを探してもない。往還から引っ込んだところに丘や藪を背にして、いかにも風当りの心配なんかなさそうな、おだやかな様子で、彼等の藁葺の屋根が見える。
 農家の人たちがそういう場所を選んで住んでいるということは、この人たちの先祖がみんなそうして来たことを物語っている。多分、それは人間が本能的にもっていた知恵なのであろう。丘がいいか、ふもとがいいかということで迷ったりする者はいなかったのだろう。
 こういうことを大浦が考えるようになったのは、この家を建ててしまって、家族5人が引越して来て少し経ってからであった。今更どこへまた移ることが出来るだろう。キャンプをしているのではないのだから、ここで具合がよくないから、あっちは変ろうというわけにはゆかないのだ。
 古代人が持っていた知恵を持ち合わせていないことが分って、大浦はがっかりした。これでは、古代人以下ということになる。
 しかし、そんなことを恥じていても始まらないから、何とかこの家を大風で吹き飛ばされないようにしなくてはならない。自衛の手段を講じなくてはいけない。大風で、というのは台風のことで、それを大風でというのは、台風が来た時のことをあからさまに考えたくないからである。
 家ごと空に舞い上がって、その中には寝間着をきた彼と細君と子供がいて、
「やられた!」
と叫んでいる。
そういう場面を空想するのなら大風の方がよく似合う。台風では、そうはゆかない。​​​
​ 強い風に悩まされているのかいないのか、目線が自他や時代や状況をあちこち行き来するユーモア、それと、自然におかれた状況が理解できる文体が読みやすかったです。  
​​ また、周辺の人の描き方にも惹かれました。​「大浦」​が頼みにしている一徹な植木屋「小沢」の描き方も挙げてみます。ちょっと長くなりますが、落語のような対話です。「山芋」の一部より​​​
​ 大浦はどちらかというと、せっかちな人間であったが、小沢と話をしている間は、自分がせっかちであるということは暫く棚上げにした。何の木を植えたらいいか、相談をするには、暇がかかる。だが、結論を急いではならない。
 こちらがほしがっている木でも、小沢は、
「それはいい。それにしなさい」
 とはいわなかった。そういってくれれば助かるのだが、決してそういわないのであった。まるで小沢のいうのを聞いていると、買わせまい、買わせまいとしているような話しぶりなのであった。
 (中略)
「夏蜜柑(の木)、ほしいですね」と細君がいった。
「ああ、あれは、この辺では、どうですか。冬蜜柑は、寒がりますから、無理ですが、夏蜜柑の方も、やっぱり、この辺では苗木を育てるのが、無理、なようですね。うちでも前に買って、鉢に植えたのが、一本あったんですが、二年くらいは、まあ、育っていましたが、そのうち花が咲かなくなって、どうも、これが、到頭、駄目になっちまって、抜いてしまいました。あれは、育てるのになかなか辛抱の要る木で、一人前になるのは、五十年と言います」
「それなら」と大浦はいった。
「一人前になったころには、こっちがもういなくなってる」
 みんな、一緒に笑った。
  (中略)
 紅梅の話が出ると、小沢はこんな風にいう。
「どうも、紅梅は、大きいものは少なくて。あれは植替えが弱いんです。うちの紅梅も、年々小さくなってゆきます」
 何だか心細いことをいう。それで、聞いている方では笑ってしまう。小沢も笑う。
  (中略)
「おかめ笹は、どうですか」と大浦の細君が尋ねる。
「そう、あれも先から先へひろがるからね」
 小沢がそういうと、おかめ笹は止めた方がいいという気持になる。
「桃は?」と大浦がいうと、
「桃も、あぶら虫がついちゃってね。」
  (中略)
「かりんっていうのは、どうですか」と大浦は尋ねた。
「あれもねえ、えらい棘の木でね」
  (中略)
 小沢はおしまいに、
「木はいろいろあるけれど、さてこんもりしたので手頃な、いい木となると、なかなかないもので」と言った。
 そういうことをいわれると、せっかく意気込んでいる大浦は、がっかりしてしまう。この人は、植木が商売でありながら、なぜこっちの気分に水を差すようなことをいうのだろう。つい、そういいたくなる。
 だが、小沢に植木を頼むようになってからもう三年になる。大浦や細君が「あの木、ほしい」
 と思って、小沢も反対意見を述べないで、すっときまった木は、これまでにもう植えてしまってある。小沢が「手頃な、いい木がない」というのも、無理はなかった。
 それに、何でも向こうでほしいというのなら、持って来て植えてしまえばいいという植木屋なら(そういう植木屋がいるか、どうかは知らない)、事は簡単であろう。小沢は、そうゆかないのであった。小沢は、自分がお金を出して買って、この家に植えるような気でいるのではないか。それで、「あの木はまずい、この木もまずい」といっては、思案しているのではないか。そんな気がするほどであった。​​
 こんなふうに偶然の出来事や出会いを淡々と穏やかなおかしみをもってつづられています。ここでは書きませんが子どものことを書いているところも、とても細やかな慈しみが感じられます。そして、そこから大浦自身の子どものころを思い出して、丁寧に語ってゆきます。自分にとってもかけがえのない子どもの時代があったことを目の前の子どもによって思い出すことになり、再び記憶で経験します。自分は「今」から「過去」を思い出すと同時に、子どものことを「未来」から「今」を見て、かけがえのない子どもの時代を慈しみ、「今」のできごとを書き記しているようです。「今」が過ぎ去ることを知っている大人が、未来からの目線で子どもたちの「今」を、かけがえのない偶然の重なる今を書き留めている感じがします。たわいもない偶然こそが大事なことを知ってしまった大人の記録のような小説ではないでしょうか。それを感じさせるのが季節の廻り、植物や虫や天候や、時にはそのときのTV番組も。切なさを内に抱いて、過ぎ去る自然を楽しめる小説でした。
 SIMAKUMAさん 御無沙汰しております。おあとをよろしくお願いいたします。E・DEGUTI・2021・05・31




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最終更新日  2022.04.05 00:57:52
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2022.03.15
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​100days100bookcovers no68 68日目
​​ 星野博美『のりたまと煙突』 (文春文庫)​​
 SODEOKAさんが選んだ『USムービー・ホットサンド 2010年代アメリカ映画ガイド』からどう引き継ぐかに関して、今回はなかなか決まらなかった。
 まずは、素直に映画関連を思いつくままに何冊かピックアップしていくらかぱらぱらと読んでみた。程度の差はあれど、どれもおもしろい。そういう意味ではどれを選んでもよかったのだが、実際に各々について何が書けるかということになると、いささか心もとなくなる。

 私が「おもしろい」と感じたのが、主にそこで採り上げられた各々の「映画」の分析や解釈あるいは感想であり、「書く」とするとそれを紹介することになるわけだが、その映画自体が映像を旨としたものだけに、伝え方が難しい。そもそも私が観ていない映画も含まれていた。
 ということで、そちらは断念。選んだ1冊は、実際はほとんどつながっていないので、その点はご勘弁を願うことになるのであるが。
​星野博美『のりたまと煙突』文春文庫​
 親本は2006年、文庫が2009年に出たエッセイ集。
 映画関係以外では「ホットサンド」から「食」関連を考えたのだが、そういう意味では、唯一「のりたま」だけが掠っているにすぎない。
 ただ、ここで「のりたま」は、著者の実家にいた「兄妹猫」のことなのだが、その命名の理由が、​
​​「たまは、白地に黄色い模様がまるで卵のようだったので『たま』、のりは、そこに黒をプラスした三毛猫模様だったので『のり』と命名した。白いごはんの上にふりかけられた『のりたま』のように、いつまでも仲良く離れず暮らしてほしい、という願いをこめた名前だった。もともとふりかけの『のりたま』が好きだったからのりたまという名前を付けた」​​
 ​ということなので、お許し願うことにする。
 とりあえず、最近読んだ中で印象度はかなり高い。
 星野博美は、写真家/作家で、写真集、ノンフィクションやエッセイの著作も数多い。もとは写真家の橋口譲二のアシスタントだったという。
 20世紀の終わりに数年間香港で暮らしていた経験をまとめた『転がる香港に苔は生えない』では大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
 著者を知ったのは、たぶんこの2、3年のうちで、きっかけは例によって忘却の彼方だが、どこかで文章に接する機会があったのだろう、その文体に惹かれるものがあっていつか読んでみようと思っていたところ、運良くブックオフの110円棚で本作を発見、入手。一読、期待を超える感を覚える。
 現時点で読んだのは、その後手に入れた『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫。長編エッセイ。こちらもおもしろい。解説は高橋源一郎)と併せて2冊だが、今回は印象度で勝るこちらを取り上げる。
 365ページの厚めの文庫本編は、都合12の章に分かれていて、それぞれの植物の名前がついている。 
 「第一章 木春菊(マーガレット)」「第7章 彼岸花」「第十一章 雪柳」とか。なかなか風情がある。
 一編は長くても10ページほどで、さほど癖のない文体なので読みやすい。猫のこと(本編の前に「しろ一族」と命名された「本書に登場する猫の系図」が掲載されている)、著者の体験、家族や友人関係、近隣の知人の話が中心だが、「ノンフィクション」に近い読み物もある。
 まず冒頭の一編「人が暮らす場所」からいい。著者は東京生まれだそうで、その著者の祖父が千葉から東京に移り住んできたところから始まる短い文章だが、土地と歴史と人の暮らしの偶然の邂逅が感じられて読ませる。
 たぶんこれでああ、この人は「信用」できそうだと思ったはず。
 さらに「名前」で、猫未経験で猫嫌いだった20代の著者が、越してきたアパートで最終的に猫に「籠絡」されるまでが描かれる。この後、猫については楽しいことも悲しいことも含めて所々で登場する。
ただ、おそらく私が好感をもった要因は随所で読み取れる著者の内省的なところだ。
 たとえば、「割れたグラス」
 カフェで遭遇したバイトの女子高生風のウェイトレスがそそっかしいミスを繰り返すのを見咎めて著者は、彼女のせいで自分のグラスが割れたことに抗議する。せっかくの日曜日、友人とランチを摂っていたのに、あまりいい気がしない。ちょっと腹を立てる。数日後、近所のファミレスでのこと、この店で時折見る男性客が追加で「白玉あずき」を注文する。ウェイトレスが運んできたときに、スプーンが「白玉あずき」に落下し、グラスが割れる。慌てるウェイトレス。男性は「俺の人生、今日で終わっちゃったりして」とつぶやく。ウェイトレスのひきつりかけていた表情はみるみる明るくなり、「そんなことありませんよ。明日もまた来てくださいね」と言う。その情景を見て著者もほほえむ。そしてカフェでの一件を思い出す。
​ まったく同じことが目の前で起きた時、私はわけもなく腹を立てて相手の非を責め、彼は相手を救った。その一瞬の反応に、彼と私の人生が凝縮されていた。落ち込んだ。どうしようもなく、落ち込んだ。​​
 ​最後の一文がどれほど本気なのか測りかねるところもあるが、これでこの一遍が終わるところを考えると本気だろう。ちょっと大げさに思う向きもあるやもしれないが、気持ちはわかる。
 あるいは、「ディープ・インパクト」
 一か月のインド旅行から帰ったばかり著者は、旅の記憶をついつい追体験しようとして日本での日常が戻らない。こうした旅の「余韻」は年々長くなる。香港に住み、久しぶりに日本に帰ったときに感じた、情報の多さに対する驚きと「うるさい」という不快感を思い出す。実際は、香港のほうがずっと騒音に満ち、日本はそうではない。要は、日本では「理解」できる情報が外国より圧倒的に多いということだ。当時のインドは様々な問題を抱えていた。国境地域のカシミールではインドとパキスタンが緊迫した状況にあり、アヨーディアでのムスリムとヒンドゥーの対立激化に端を発してインド全土で400人超の死者も出た。しかし一旅行者の著者にとっては「ひとごと」だった。そのため、「旅の間じゅう私は終始上機嫌で、比較的ハッピーだった。」そして母国に戻り、情報の洪水にさらされただけで「不機嫌になり、ハッピーでなくなった」。ではどうすればいいのか。
​ 極論を言ってしまえば、情報によって憂鬱になる人間がハッピーでいたいと思うなら、旅をし続けるしかないのかもしれない。
 でもそんなハッピーに、どれほどの意味があるのだろう?私は自分の場所でハッピーになりたい。どうしたらそうなれるのか、庭で日向ぼっこをしながら今日も考えている。
​ さらに「中央線ののろい」
 約束の時間に寝坊して遅刻した著者は、自転車に乗って最寄り駅の三鷹駅まで疾走し、ホームに駆け下りたところでアナウンスを聞く。「阿佐ヶ谷駅で人身事故が発生し、運転再開に見込みはついていない」。これは私(KOBAYASI)武蔵小金井国立で併せて20年ほど中央線の駅を最寄り駅として利用していたからよくわかる。しかも、著者の場合、その一週間で3度中央線に乗り、3度人身事故で止まるという憂き目にあっている。舌打ちをしながら、総武線ホームに移動し、発車予定時刻を延長して停車している東西線に乗り込む。そこで、どういうルートで行けば、早くしかも安価に到着できるかを考える。もちろん今のようにスマートフォンですぐにルートが割り出せるわけではない。電車は事故のあった阿佐ヶ谷駅に着く。車内アナウンスでは「回収」作業が終わり、現場検証が行われていると伝えている。さらに現場検証終了のもよう、とも。著者は、賭けに出る。中野で運転再開するであろうと予測して中央線に乗り換える。予測は的中、著者は、ふつうなら混雑しているはずのガラガラの電車に乗って「今日はなかなか冴えてるな」と思う。
​ その瞬間、背中がすうっと寒くなった。
 一人の人が命を絶ったというのに。
 ​著者はその後、自らに「おぞましさ」と感じる。
 たしかにわかるといえばわかる。でもたぶん私なら著者ほどは気にしない。でもそういう気持ちを抱く著者については好感をもつ。
 こういうところは随所に窺える。
 「内省」とはいくぶん異なるが、圧巻は「東伏見」だろう。
 まるで短編小説だ。しかもフィクションとしてなら、わざとらしくて書かないような。
 著者は武蔵野市の端に住んでいるのだが、ある時散歩の途中、旧保谷市(現在の行政区画では西東京市)に入る。西武新宿線東伏見が近いことを知る。歩いている内に大きな鳥居が現れる。東伏見稲荷の鳥居である。鳥居の背後には線路が走り、土手には彼岸花が群生している。夕陽が差し込んでいる。何だか霊的な存在を感じ、神秘的な気持ちになる。ふと気がつく。「東伏見」に一度だけ来たことがあるのを思い出す。
 話は、ここから中高一貫校に通っていたときの友人関係や恋愛の話が語られ、友人、知人の死が語られる。そこには御巣鷹山に墜落した日航機や9.11の世界貿易センタービルの名前も出てくるが詳細は省く。
​ 西武新宿行き急行列車が通りすぎ、彼岸花がまた狂ったように頭を揺らせていた。私はそこから立ち去ることができなかった。
 お彼岸だから?彼岸花に誘われ、長い間しまいこんでいた死者の記憶が舞い降りてきたようだった。
 この風景に出会わなければ、そもそも東伏見に行ってみようなんて考えを起こさなければ、私は友人たちの死を、抽斗の奥深くにしまいこんだままにしていただろう。
 風景は、時々こういういたずらをする。​​
​ あまりの展開にちょっと唖然とした覚えがある。
 でもそういうことはあるのだ、きっと。
 こういう個人的な記憶ではなく、土地の持っている歴史的記憶についての「過去の残り香」もある。
詳しくは書かないが、近所の公園の風景から、零戦を造っていた航空機工場、空襲、著者の母校である国際基督教大学へとつながる様は、私たちの、そしてその土地の記憶は往々にしてばらばらの点として散らばっているだけで、あえて結ばなければ、決してひとつのイメージを現さないことを教えてくれる。私たちは、そして私たちの国は、放っておけば何でも忘れてしまうのだ。
 様々な点が思わぬところで結ばれつながっている。そのことを私たちは普段忘れている。忘れたがっているのかもしれない。
 著者は最後に問いかける。
​すべてを忘れて、私たちは幸せに近づいたのだろうか。​
 他にも皮肉とユーモアの効いた「質問の多い料理店」や子どもの頃にはトランプより花札を先に覚えたという記憶や祖父の親戚・知人を語る「赤おにと青おに」、実家に預けた猫の「のり」の小屋で死んだ野良猫を最後に「養子」にする「猫養子」、幸せな時の花ではなく、何かを失いそうな時の、失ってしまった何かへの償いの、その不在感を埋めるための花を知ったという「花のある生活」等々、今回のために再読拾い読みしてみたらいくつも印象深いものが見つかった。
 読後感が比較的重いのは、やはりここに描き出されているのが、解説で角田光代も言っているように、死と喪失だからだ。
 私たちは喪失と死とともに生きていく。失ったものの記憶が私たちを形作る。忘れられたものが私たちに結ばれ、私たちを支えている。生者はむろん、死者とも生きるのが私たちであることを改めて知ることになった。
たぶんこの先も、この作家は読んでいくことになると思う。


 一枚だけ掲載されていた著者が撮った写真も併せて掲げておく。
 では、DWGUTIさん、次をお願いします。T・KOBAYASI・20210507​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​

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最終更新日  2022.03.19 23:26:34
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2022.02.27
​100days100bookcovers no67(67日目)
​​『USムービー・ホットサンド 2010年代アメリカ映画ガイド』(グッチーズ・フリースクール編:フィルムアート社)
​ 忙しい1週間が終わり、早く行かないと見逃しそうな映画に足を運んでいるうちに、ふと気がつくと、前回のYAMAMOTOさんからすでに2週間が過ぎようとしていました。すみません。「ぼーっと生きてんじゃないよ!」と5歳児に叱られそうです。​

 YAMAMOTOさんは、ご自身で編集に携わられた『高等学校における外国につながる生徒支援ハンドブック~すべての生徒が輝くために~』をご紹介下さいました。日本の高校で学ぶ外国人生徒を支援するために実践できることをまとめたこのハンドブックは、実際にそうした学生たちと接する教育現場の先生方のために編まれていて、大きな助けになるものと思います。可愛らしいイラストもふんだんに使われていて親しみやすく、門外漢の私も、外国人生徒たちに関わる教育現場の方々の一端を知ることができました。
 さて、次は何を、と考えました。「教育」というくくりで繋ぐことはできそうにありません。ですが、「ハンドブック」ならいけるのではないだろうか。ハンドブック、すなわち案内書、「ガイドブック」ならば。
 ​『USムービー・ホットサンド 2010年代アメリカ映画ガイド』(グッチーズ・フリースクール編:フィルムアート社)​
 「ホットサンド」とはなんぞや?というのはとりあえず置いといて。
 この本に出会ったのは、昨年の12月末、下高井戸シネマケリー・ライヒャルト監督『ミークス・カットオフ』というアメリカ映画を観に行ったときです。劇場の売店で売っていて、そのときは買わなかったのですが、先月、やっぱり買おうと思い立ちネットで購入しました。
 ご存じのように(って誰に話しかけているのか自分でも謎ですが)私はとても偏った映画ファンで、日本で公開された話題作をまんべんなく観ているわけではありません。アメリカ映画も、2010年以降はクリント・イーストウッドクリストファー・ノーランしか観ていないといっても過言ではなく(いやまあ、過言ですが)、名前も知らない若い映画監督や俳優がたくさんいます。最近よく目にするA24が、話題作を世に出している新しい製作会社だということぐらいは知っていますが、どんな映画を製作配給しているのか、そんなことも、もう少し詳しく知りたいと思ったわけです。
 まだ買って間もない本で、じつはすべてを読んだわけではありません。ですが、この本は頭から順番に読んでいくようなタイプの本ではなく、毎日目次を開いて「あ、今日はここを読もう」という読み方でOKな本です。というか、そういう読み方をするように編まれている本なのです。
​​ 編者であるグッチーズ・フリースクール降矢聡さん「はじめに」でこう書いています。
​​(前略)年間何百本と作られるアメリカ映画の10年間を一冊の本で網羅するなど到底無理なお話です。そして現在では配信ドラマやバラエティ・ショーなど、アメリカ産の様々な映像コンテンツを世界中の誰もがほぼリアルタイムで体感できる環境が整ったこともあり、映画という伝統的なジャンル観がどれほど意味を持つものなのか……等々、議論は幾度となく平行線を辿りました。
やがて時間が経ち、明確な解決策が浮かばないまま、とにかく本を作ることを始めることになりました。アメリカ映画というものの定義(基準)を明確にして綿密な計算のもとで中身を充実させる方法ではなく、気になったもの、目に入ったものを片っ端から寄せ集め、見て、書いて、合わせてみるという工程を、私たちは選んだということです。(後略)
​ ​こうした成り立ち、体裁が「ホットサンド」というタイトルに反映されたのだと思います。でも、映画ファンにとってはそれでいいのです。「映画を定義する場所」からは、映画を教授する学者や映画評論家は生まれても、映画ファンは生まれないからです。そして映画は、映画を観る人のためのものです。​
 この本を手にしたとき、私はかつて愛読した『シティロード』という情報誌を思い出しました。あの雑誌には、映画だけでなく音楽や演劇など、東京で触れることのできるあらゆる文化芸術の情報が溢れていましたが、『ぴあ』と比べると内容がよりマニアックで、書き手の好みも強く反映されていて、それによって、読者が映画ファンになり、好きな監督を見つけ、映画を発見し、映画を支えてゆくという潮流をつくったと思っています。とことん「ファン」と共にある雑誌でした。私はあの雑誌で中野翠さんの文章に出会い、以来、彼女の映画評はとても信頼しています。
 話を戻しましょう。この本には何が書いてあるのか、とりあえず目次を書きます。
CHAPTER 01 ライフ/エンタメ/ヒストリー
――テーマから見る2010年代アメリカ映画
CHAPTER 02 アメリカン・フィルムメイカーズ
――2010年代の映画監督たち
CHAPTER 03 シチュエーション/プロダクション
――アメリカ映画のバックグラウンド
CHAPTER 04 カルチャー&ムービーズ
――アメリカ文化とアメリカ映画
CHAPTER 05 トーク・アバウト・ムービーズ
――2010年代アメリカ映画について語ろう
CHAPTER 06 ムービーズ・ディテール
――より深くアメリカ映画を知るための雑学
​ 以上のようになっていますが、それぞれの章の中に多数の細かい情報が投じられ、用語の説明もあれば対談もある、映画に出てくる犯罪者の目録、年表、監督へのインタビュー、撮影監督や俳優の紹介など、どこを開いても異なるページ構成で、2010年代のアメリカ社会と映画を論じた真面目なページもあります。
 具体的に紹介しましょう。
​​ CHAPTER 01の扉をめくると、まず最初に出てくるのが「Town Movies2010-19 2010年代アメリカ大陸はどのように横断されたのかを検証。」という見開きページです。アメリカ合衆国の地図が印刷され、そこに地名と2010年代のロードムービーの行程が書き込まれています。『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』や『グリーンブック』など、観た映画のタイトルはその行程を指でなぞり、風景を思い出してワクワクしてしまいます。最新オスカー映画『ノマドランド』も、こんなふうに地図上で行程を見てみると、さらに感じることがあるかもしれません。映画にとっての「地理」は、案外大切なものです。​​
​ 実際に見ていただくのがいちばん早いのですが、CHAPTER 01はこんなふうに、イラスト、表、地図、スチール写真などをふんだんに使い、記事ごとに段組を変え、構成を工夫し、カラフルにポップに、つまり、毎日ふとページを開いて昨日と違う記事を読む楽しさに満ちています。​
​ CHAPTER 02の章では何人かの監督と作品が紹介されていて、私的にはとても役立ちそうです。「2010年代の開拓者たち」「2010年代の新星たち」「2010年代の巨匠たち」と3項目あるのですが、「開拓者」に名前が上がっている監督が私はなんとひとりも分からず、作品に当たって、かろうじて『ア・ゴースト・ストーリー』デヴィッド・ロウリーを認識できました。​
 「新星」では『ミッド・サマー』アリ・アスター『ストーリー・オブ・マイ・ライフ/わたしの若草物語』グレタ・ガーウィグを知っていましたが、アリ・アスターは名前を知っているだけで、映画は観たことがありません。うーん。
 「巨匠」を見ると、ロバート・ゼメキス、クエンティン・タランティーノ、デヴィッド・O・ラッセル、デヴィッド・フィンチャー、M・ナイト・シャマラン、フレデリック・ワイズマン、クリストファー・ノーラン。ああよかった、知ってる。この人選が妥当かどうか、いろいろなご意見はあると思いますが、それはここでは触れません。ただ私は、ディビッド・O・ラッセル「巨匠扱い」にちょっと驚きました。彼の映画は3本しか観ていませんが(『スリー・キングス』『世界にひとつのプレイブック』『アメリカン・ハッスル』)、最近のアメリカの社会事情を踏まえた映画で、ここんところよく撮っている人、という気がしていたのです。でも年齢は私と同じなので、もう十分すぎるくらいベテランなのでした。
​ CHAPTER 03以降は論や対談が多く、まだほとんど読めていませんが、映画周辺の文化事情などにも話は及んで、かなり読み応えがありそうです。ことに対談は、見逃している映画を発掘する上で、かなり威力を発揮してくれると思います。​
 ただ、残念な点がふたつあります。ひとつは、文字が小さいこと。老眼鏡を手放せない身には、細かくぎっしりと組まれた文字を読むのはとても大変なのですが、つらつら考えてみると、私のような老人をいまさら映画ファンに仕立てる必要はなく、若い人のための本だと思えば、それでいいのかもしれません。『シティロード』だって文字は小さかった。しかし若い人は「紙の本」を手に取ってくれるのかなあ。情報だけならネット上にゴロゴロ転がっているし。この本がうれしいのは、やっぱり中高年なのかもしれない。そこは気になるところです。
 もうひとつは、索引がないこと。映画本ならば、映画タイトルと監督、俳優の索引はぜひあって欲しかった。もし改訂することがあればお願いしたいところです。
​ また長くなりました。本書の「ホットサンド」的な特徴に合わせたわけではありませんが、紹介もホットサンド状態です。どうぞお見逃し下さい。​
​ 編者の「グッチーズ・フリースクール」について少しだけ書きますと、日本未公開の洋画(主としてアメリカ映画)の上映会を開いたり、ソフト化したり、配給したりしている団体です。ケリー・ライヒャルトも、この団体のおかげで日本での上映がかないました。​
 紹介してくれる配給会社がないと、アメリカ映画に限らず、永遠に知ることも観ることもできない素晴らしい洋画が地球上にはたくさんあります。それを忘れたことはありません。が、いい映画を見つけたけれどどこも配給してくれないときは、フィルムを借りて、自分たちで上映会を開くこともできるんだ、そういうことがメールでやりとりできる時代がきているんだ、ということが「はじめに」に書かれていて、映画を巡るフレキシブルな考え方に、目を開かれる思いでした。
それではKOBAYASIさん、お願い致します。K・SODEOKA・2021・04・28​​​

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最終更新日  2022.03.06 19:23:34
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