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ゴジラ老人シマクマ君の日々

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「BookCoverChallenge」2020・05

2020.11.30
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「100days100bookcovers no36」(36日目)
 ​水原紫苑「桜は本当に美しいのか」(平凡社新書)​


​​あだなりと名にこそたてれ桜花年にまれなる人も待ちけり​​
​ ​​​​謡曲の「井筒」紀有常女が謡う(これでいいのかな?)和歌はこんな短歌でしたね。「古今和歌集」巻1、春の部に 「さくらの花のさかりに、ひさしくとはざりける人のきたりける時によみける」と詞書があって「読み人知らず」として載っていて、これに対する返歌が下の和歌です。​​​​
​​けふ来ずはあすは雪とぞ降りなまし消えずはありとも花と見ましや​​
​ ​​​面白いことに、こっちには在原業平という読み手の名前が出てきます。「伊勢物語」の十七段に、二つの和歌の「詞書」も、まんま出ていますから、そっちが先でしょうか。​​​
​​​​​​ 謡曲の「井筒」というのは世阿弥の作ですね。そもそも、「伊勢物語」ネタで、二十三段「筒井筒」に登場した少女が思い出に浸るとでもいう「物語」だったと思いますが、世阿弥の天才は、待ち続ける、こういうお面をつけた女性が「井筒」を覗くところにあると思うのですね。
「井筒」というのは井戸のことですが、その井戸をのぞきこむと、まあ、そこに何が映るかというところに「ドラマ」があるわけです。​​​​​​

 なんていうふうに書くと、シマクマ君「お能」について知っているに違いないと「生徒さん」達は騙され続けた30数年だったわけですが、実は、ぼくは「お能」なんて100%知りません。どこかの神社の能舞台で現代演劇をやっているのを見たことはありますが、「お能」体験は皆無です。
 というわけで、DEGUTIさんの紹介を読んで、ただ、ひたすら「どうしようかな?」だったのです。
 白洲正子は食わず嫌いやし、松岡心平はちゃんと読んでないし、そういえば観世寿夫「世阿弥がどうたら」というのがあったけど、ああ、多田富雄「免疫の意味論」はどこにあったっけ。まあ、「お能」がらみのなけなしの知識の周辺を、そういう調子でウロウロしていたんです。
​ でも、まあ、偶然というのはあるものなのですね。最初に書いた「あだなり」の和歌が、コロナ騒ぎのステイホームで読んでいた一冊にジャストミートしていたのです。「井筒」と聞いて、そこだけ、なんか知ってるぞと思いだしたのがこの本です。​
 ​水原紫苑「桜は本当に美しいのか」(平凡社新書)​
​うすべにの けだものなりし いにしへの さくらおもへば なみだしながる​
​ ​なんていう現代短歌の歌人で、三島由紀夫に見出されたということが妙に有名な春日井健という歌人のお弟子さんです。
 登場以来、若い若いと思っていたら、今や還暦だそうで、新古典派の、何といっても名前がいい、水原紫苑「桜論」です。​
 「古今和歌集」から現代の「歌謡曲」まで、「桜」の毀誉褒貶を、まさに縦横無尽に論じている評論ですが、メインは「梅」から「桜」へと移り変わる「平安王朝400年」の時代と歌人の「詩意識」の変遷を100首以上の和歌に注釈を施しながら、紀貫之の「古今集」から、「新古今」、西行、定家へと辿る前半150ページでした。
 後半は、能から、江戸文芸を経て、近代文学の「桜」を話題にしています。たとえば、本居宣長にこんな和歌がありますね。
​​しき嶋のやまとこころを人とはは、朝日ににほふ山さくら花​​
​ 彼女に言わせればこうなります。
​​「ここには『枕の山』のような無邪気さが無い。これ見よがしな、いやなうたである。」​​
​ ときっぱりと切って捨て、こう言い加えます。
​​「まして、宣長のあずかり知らぬこととはいえ、太平洋戦争末期の1944年10月、最初の特攻隊が、この歌から「敷島隊」、「朝日隊」、「山桜隊」と命名されことを思うと、やり場のない憤怒を一体どうしたらいいのだろう。」​​
​ ぼくは、彼女の歌には当然漂っているわけですが、このナイーブな言い切りの、気っぷのよさのようなものが好きなのですが、現代口語短歌に対する評価も、シャープだと思います。
さくらさくらさくら咲き始め咲き終わりなにもなかったような公園 
                          俵万智
​ ​例えば俵万智のこの歌についても、こんなふうにいっています。​
「文体こそ口語だが、内容は王朝和歌そのままで、桜の加齢と空虚を簡潔に言い当てている。」
俵万智については、只者ではない実力はわかったが、基本的に健康な世界観が、死や破滅が大好きだった私とはあわなかった。」
​「キバ」「キバ」とふたり八重歯をむき出せば花降りかかる髪に背中に                         穂村弘​
​ 人気の現代歌人、​穂村弘​のこの歌に対してはこうです。
​「もうすぐ私たちは死んでしまうのに、こんな子供みたいなことを言ってどうするのだろう、と思った。」​​
​ ね、この視点です、ぼくが好きなのは。
​ もっとも、最後の疑問に穂村弘はこう答えたそうです。​
​​「僕たちは死なないかもしれないじゃないか。」​​
​ というわけで、今回も「ネタ本」系なのですが、最近の読書報告ということでバトンを引き継ぎます。YMAMOTOさんよろしくね。​(Simakuma・2020・08・17​)


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最終更新日  2020.11.30 00:03:37
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2020.11.19
​​​​「100days100bookcovers no35」(35日目)
​安田登『異界を旅する能―ワキという存在』 ちくま文庫​


 SODEOKAさんおすすめの吉田秋生『BANANA FISH』のあとを、KOBAYASIさんはどんな本を選ぶのでしょうか。『BANANA FISH』のネタ元はサリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』とのこと。それなら、次の舞台はアメリカか、帰還兵のトラウマというテーマも?とぼんやり思っていました。だからKOBAYASIさん『キッチン』を選ばれたのを見て「んっ?なんで?」と思ってしまいまいた。「バナナ」とか「芭蕉」とか、全然思いつかず。このところ頭が固くなってきているなあと、また思った次第です。ハハハ。
 吉本ばなな『キッチン』とはなんと懐かしい。筆者はわたしより5歳下で、たぶん同じ時代の空気を吸って生きてると思う気安さで気楽に読み、読んだ後は心が澄むような気持になった気がしてけっこう好きでした。でもそのあとはさっぱり読んでいないし、映画も全く見ていません。内容も忘れていました。今回久し振りに読むことができてよかったです。ちょっと若返った気分。
 実は今回の選書は最初から千々に迷っています。4日ほどあれやこれや悩んでしまい大変遅くなってすみません。まず、『キッチン』つながりで、二冊の本を思いつきました。どちらも私には思い出深い本です。でも一冊はナチスがらみなので、この話題は最近やったばかりなので繰り返しになってしまいますね。もう一冊は、下町の江戸っ子の生活や食べ物の話題で風情があり、いつかまた。
 吉本ばなな『TUGUMI』が連載されていた懐かしの雑誌『マリ・クレール』の話もしたいし。2年分のバックナンバーを引っ越しを繰り返すうちに処分してしまったことが悔やんでも悔やみきれない。
 文芸誌『海』から『マリ・クレール』に移籍してファッションだけでなく海外文芸を紹介する稀有な女性誌に変身させた異色の編集者、安原顕のことを書いている本を今回見つけたので、候補にしておきます。

 でも、もう一度、KOBAYASIさん『ムーンライト・シャドウ』の紹介文を読んでいてどうしても気になったのが、「橋」のそばに「亡くなった人」が現れるイメージです。
 「橋」は彼岸と此岸をつなぐものですが、このイメージは「お能」じゃないかと思ったのです。能では、舞台の正面左手にある廊下を「橋掛かり」といい、主人公の亡霊はこの「橋掛かり」から舞台に出てきます。源平の戦いで無残に散っていった若武者や、実らなかった恋に苦しみ死んでしまった恋人たちが、成仏できずに現れて、無念や執心を述べ、舞うことで思いを晴らそうとする作品がたくさんあります。ちょうどお盆なので、お能の話にします。
 でも、本を紹介する前にもう少ししんぼうしてくださいね。『ムーンライト・シャドウ』と能の『井筒』にいくつかの似たところがあって気になったので、触れさせてくださいね。
​​​​​​​ 世阿弥『井筒』は、『伊勢物語』を題材にして、恋人への恋慕を主題とした複式夢幻能です。簡単に内容紹介します。
 諸国一見の僧が、旅の途中に立ち寄った業平ゆかりの在原寺で、塚に水をかけて回向をしている里の女を見て声をかけると、「業平夫婦が昔ここにいたらしいので、業平を弔っている。」と答える。なおも尋ねると、女は業平について話しはじめ、いつしか、実は自分は業平の妻の「紀有常女(むすめ)」であり「井筒の女」の霊だと明かして姿を消す。
 その晩、僧の夢に、業平の妻の幽霊が現れる。その幽霊は業平の形見の冠直衣を身に着けて業平への恋慕を語り、舞いながら井戸で自分の姿を水鏡に映し見る。そこに映るのは、業平その人である。その舞い方も柔らかい女であったが、業平が憑依したかのような強い舞い方になるときもある。ここは見た目は男で意識は女。一人の女の身体に恋しい男の身体を取り込んだイメージです。(『ムーンライト・シャドウ』「柊がゆみこの形見のセーラー服を着て登校している」ところを思い出します)そして世が明け僧の夢が覚めるというお話です。
 最初に『ムーンライト・シャドウ』を読んだときは、生き残った者の苦しみと再生の話だなと思っていたのですが、「能」を重ねてみると、成仏しきれない死者の思いとそれを受け容れようとする生者の姿も表現されていたのだなと感じました。
 「さつき」「等」「あの幼い私の面影だけが、いつもあなたのそばにいることを、切に祈る。」と語るところに。​​​​​​​

 今回の本は、松岡正剛内田樹とも交際があって、最近は講演などでも名前を見かけるワキ方能楽師です。
『異界を旅する能―ワキという存在』安田登著 ちくま文庫 をあげたいと思います。​
 能には「シテ」と「ワキ」があります。そして「シテ方」の家と、「ワキ方」の家が決まっていて、「シテ方」の家に属する者は一生「シテ」側の役しかしません。また、「ワキ方」の家に属する者も「ワキ」側の役しかしません。
 「シテ」が主人公です。亡霊や異界からやってくる者を演じ、舞い、跳ね、縦横無尽に活躍します。面(おもて)も能装束も見どころがあります。
 一方、「ワキ」は面(おもて)はつけない。装束は地味。目立った活躍はしない。「シテ」と話はするけれど、「シテ」の語りを引きだしてしまうと、舞台のわきの方で木偶(でく)のようにひたすら座っているだけになってしまいます。
 「ワキ」は諸国一見の僧とか、天皇や権力者の使いのものと役もだいたい決まっています。他の演劇で考えれば、「シテ」役を一生できない「ワキ方」の者は面白みがないように思えます。
​​ しかし、安田登は、ワキの必然性やその特徴や魅力をこの『異界を旅する能』の中にわかりやすく書いています。​​
――彼(ワキ)は無力ということをよく知っている。聴くことしかできないということを、身に沁みて知っている。  
――いつまでも浮かぶことができない魂の救済を求めて、再びこの世に出現するシテと、それをただ黙って受け止めることしかできない無力なワキ。その関係の中だからこそ、シテは残恨の思いをあるいは「語り」、あるいは「舞い」、そしてその行為を通して、最後には自分自身の力で、残恨の思いを昇華させていくことができるのだ。
――そんなワキは無力だが、幽霊はほかの人々には己の姿を見せないが、ただワキにだけその姿を見せて魂の救済を求める。
――換言すれば、無力なワキのみが異界と出会い、そしてシテの新たな生を生き直させる機会を得ると言える。さらに言葉を換えれば、ワキは無力だからこそ、異界と出会うことができるのだ
​ ワキとは、シテが本心を語るに足る相手、ともに苦しむことのできる「無力」の「力」を持っていると、黙っていても、感じさせる力量が必要な役だというのですね。
 自分を深く無力だと思いなしたものこそが、どうしても晴らしようもない恨みや悲しみを抱えた魂の語りを聴いてその痛苦を「晴らす」あるいは「祓う」ことができると書いています。まるで、心療内科のカウンセラーのようですね。
 かつての私は死後のことは考えないようにしていましたが、最近は、突然思いもかけぬ災難で命を失ったり、まだ死に切れない思いでこの世から去っていってしまった人の魂が、語るにふさわしい者に出会いその無念を晴らすことができるという観念を形象化している芸能が生き残っていることをありがたいと感じています。
 遅くなり申し訳ありません。毎日暑いですが、SIMAKUMAさんはお元気そうで何よりです。またあとよそりくお願いいたします。(​E・DEGUTI・2020・08・14​​)


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最終更新日  2020.11.23 11:10:59
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2020.11.18
​​​​「100days100bookcovers no34」(34日目)
 ​吉本ばなな『キッチン』福武書店​


 遅くなりました。仕事の都合でなかなか時間が取れませんでした。申し訳ないです。
 SODEOKAさんの採り上げた吉田秋生『BANANA FISH』のタイトルは、記事でも触れられていたように、サリンジャーの短編集『ナイン・ストーリーズ』(野崎孝訳 新潮文庫)の冒頭に収められた『バナナフィッシュにうってつけの日』("A Perfect Day for Bananafish")に由来する。
 次を考えるに当たって、とりあえずその短編を読んでみた。おもしろい。非常に洗練された短編に思える。ラストが強烈だ。
 主人公はシーモア・グラースサリンジャーが「長大な連作の完成に没頭すると言明した」(野崎孝の「あとがき」から)いわゆる「グラース・サーガ」(グラース家の誰かを主人公とする連作物語)の登場人物でもある。
 他に思いつかなければこのまま『ナイン・ストーリーズ』でもいいかと思っていたのだが、つらつら考えているうちに思い当たった。
 ​吉本ばなな『キッチン』福武書店​
​ 要は単純な話で、「ばなな」つながりである。​
​ 実は他にも、吉田秋生「バナナフィッシュ」が麻薬の名前であることから、「薬」に関連する某学者の著作何冊かも候補として考えていて、それなりに迷いもしたのだが、今回はこちらにする。​
​ 1988年出版。作家のデビュー作。表題作以外に『満月-キッチン2』・『ムーンライト・シャドウ』所収。​
 表題作は、第六回「海燕」新人文学賞受賞作。
​ 『ムーンライト・シャドウ』は、日大芸術学部1986年度卒業制作作品で、芸術学部長賞受賞、さらに第16回泉鏡花賞受賞。​
​​ 『満月-キッチン2』は、サブタイトルが示すように『キッチン』の続編。​​
 きっかけは忘却の彼方だが、ある時期に何冊かまとめて読んだ彼女の小説の中で、たぶん最初に読んだのがこれだった。
​​​ 『キッチン』は、森田芳光監督川原亜矢子主演で映画化されて、私も劇場で鑑賞した記憶がある。​​​
​ 今回、これを選んだのは、ここの収められた『ムーンライト・シャドウ』に強い印象が残っていたからだ。​
 当時、初めてこの小説を読んで、ぼろぼろ涙が出てきたのである。話の細部は忘れてもそういうことは覚えている。
 年齢的には31歳。まだ涙腺が緩む年齢ではない。今回はどうなるかという自分に対する興味もあった。
 今回、記事を書くにあたって、3編とも再読してみた。
 まず読書中に率直に思ったのは「下手だな」ということ。身も蓋もない言い方だが、そう思った。
 何だか「小説」を読んでいる気がしないのだ。SNSやブログの記事に近い印象。言葉も平板に感じる。
 たとえば、「孤独」「淋しい」「なつかしい」「悲しい」というストレートな感情表現も、小説家がそれをそのまま表現してどないするねんと突っ込みたくなることも。
​ あるいは、「2人がとても大好きだった。」(『満月-キッチン2』)というような妙なフレーズが出てきたときも。まぁ気分としてはわかるのだけれど。​
​​ 単行本に付いていた帯に、「海燕」新人文学賞選評として、中村真一郎富岡多恵子のコメントが出ている。​​
​​ 中村の評は​
​「旧世代の人間には想像もつかないような感覚と思考を、伝統的文学教養をまったく無視して、奔放に描いた作品で、旧来の観念からして、文学の枠にはまろうがはまるまいが勝手にしろ、という無邪気な開き直りに、新しい文学を感じた。」​​
 ​とどう考えてもけなしている、あるいは私の理解外だから好きにしろと言っているとしか思えない選評だし、富岡のコメントは中村ほどではないにしろ、​
​​「その文章のすすみ具合が、昔のひとから見れば頼りなげにうつるとしたら、それは吉本さんにとっての文学が昔のひとのレシピでは料理できなかったからであろう」​​
 ​と「新世代」の文学だから、「旧世代」にはわからん、と、やんわりというよりはっきり言っている。​​
 3つの作品とも、肉親や身近な人の「死」が物語のきっかけや中心に据えられている設定といい、文体や言葉遣いといいこれだけ、若者的にカジュアルでわかりやすければ「受ける」かも、といういくぶん意地の悪いことも考えたかもしれない。
​しかし、実際に『キッチン』、『満月-キッチン2』をそれぞれ読み終えたときに感じたことは、先述したような「感想」とはいくぶん異なっていた。​
 悪くないかも、と思っていた。
 下手だとか稚拙だとかいう感想は変わらなかったし、これが新人賞に値する作品かどうかはよくわからなかったが、それでも、だから読めないとは思わなかった。
 意図的に戦略的にこういう文体を採用したのかどうかは本当のところはむろんわからない。が、読んでいてあまりそういう風には感じなかったのだ。素直に書きたいことを書きたいように書いた、というのに近いのではないか。
 登場人物は二十歳くらいで、したがって子供っぽいふるまいや感情も描かれ、面倒くさいと思うこともなくはなかったが、主人公の一人称語りで語られる心情吐露も、良くも悪くも「まっすぐ」で真剣で、したがって「不器用」な人間しか出てこない。嘘がない。
 また、ところどころに出てくる清水のような一節が、文字を最後まで追うことにつなぎとめてくれたということもあるかもしれない。
「しかし私は台所を信じた。それに、似ていないこの親子には共通点があった。笑った顔が神仏みたいに輝くのだ。私は、そこがとてもいいと思っていたのだ。」​
「いつか必ず、だれもが時の闇の中へちりぢりになって消えていってしまう。そのことを体にしみこませた目をして歩いている。」​
「闇の中、切り立った崖っぷちをじりじり歩き、国道に出てほっと息をつく。もうたくさんだと思いながら見上げる月明かりの、心にしみいるような美しさを、私は知っている。」​
「冬のつんと澄んだ青空の下で、やり切れない。私までどうしていいかわからなくなる。空が青い、青い。枯れた木々のシルエットが濃く切り抜かれて、冷たい風が吹きわたってゆく。」
​ こういう、散文というより、詩の一節みたいな箇所がもしかしたら作家の「書く意志」に直接結びついているのではないか。
 作家は「あとがき」で​
​​「私は昔からたったひとつのことを言いたくて小説を書き、そのことをもう言いたくなくなるまでは何が何でも書き続けたい。この本は、そのしつこい歴史の基本形です。」​​
 ​と書く。
​ 「たったひとつのこと」はここでは、身近な人の「死」によってもたらされる苦しみとそれにどう耐えるか、である。逃げようがない状況と言っていいかもしれない。どうして作家はデビュー作にこうした「苦しい」テーマを選んだのだろうか。​
​ その苦しみが最も直截描かれたのが最後に収められたのは『ムーンライト・シャドウ』である。​
​ タイトルは、マイク・オールドフィールドというミュージシャン/コンポーザーの楽曲に由来する。その詞を含めた楽曲が小説の「原案」だと「あとがき」で述べられている。​
 簡単に話の設定と展開を記す。
 さつきは高校2年のときに知り合った等と4年つきあうが、交通事故で彼を失う。
等にはちょっと変わった柊という弟がいた。弟にはゆみこというガールフレンドがいた。柊のところに遊びにきていたゆみこを等が車で駅まで送る途中で二人は事故に遭った。
 即死だった。
 柊はゆみこが死んでから、私服の高校にゆみこの形見のセーラー服を着て登校している(ゆみこは小柄だそうだからサイズが合わないんじゃないかと思うが)。双方の親はスカートをはく彼を止めたが、「気持ちがしゃんとする」と言って、彼はきかなかった。
 さつきは苦しみを何とかしようと夜明けにジョギングを始める。
 ジョギングの折返し点の川にかかった橋で、あるとき、うららという女性に出会う。彼女は、もうすぐ100年に一度の見ものがあるという。
 うららから連絡があり、「あさっての早朝に、あの橋で何かが見えるかもしれない」という。
 その当日、さつきはうららとともに橋にいた。それから、彼に出会う。
 同じころ、柊は自宅で彼女に出会っていたことがわかる。
「等。
 私はもうここにいられない。刻々と足を進める。それはとめることのできない時間の流れだから、仕方ない。私は行きます。
 ひとつのキャラバンが終わり、また次が始まる。また会える人がいる。2度と会えない人もいる。いつの間にか去る人、すれちがうだけの人。私はあいさつを交わしながら、どんどん澄んでゆくような気がします。流れる川を見つめながら、生きねばなりません。
 あの幼い私の面影だけが、いつもあなたのそばにいることを、切に祈る。
 手を振ってくれて、ありがとう。何度も、何度も手を振ってくれたこと、ありがとう。」
​ ということで30年経っても、やはり涙が出てしまった。
 こういう文体の、こういう物語ゆえに届く感情や情緒がきっとあるのだ。
あるいは死による別れは、いつもそうした感情をもたらすのだろうか。
 では、DEGUTIさん、次回、お願いします。​(T・KOBAYASI・2020・08・06)​
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最終更新日  2020.11.23 00:07:48
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2020.11.11
100days100bookcovers no33」(33日目)
 吉田秋生『BANANA FISH』(小学館・全19巻)


  YAMAMOTOさんご紹介の『夜と霧』は、ナチスの強制収容所での体験について書かれた古典的名著です。私は思春期のまっただ中でこの本を読みましたが、いま読んだら、あのときとはまた違ったことが見えてくるのは間違いないでしょう。命のあるうちに、もういちど読んでみたい。この本を思い出させて下さったYAMAMOTOさんに感謝です。
 さて次は、私がこの本に出会うきっかけになった『夜と霧の隅で』の作者・北杜夫へ行こうか、どうしようか、と考えましたが、人間の極限状態を描いた作品、ということで、これが頭に浮かびました。
 BANANA FISH』吉田秋生(小学館・全19巻)
 マンガかい!と思われた方、すみません。このリレーで私が勝手に設けているセルフ・ルールがあって、それはできる限り「エンタメ」で繋ぐ、ということです。どうしてかというと、私の中身がエンタメで構成されているからです(笑)。私だけのルールですので、どうぞどなたもお気になさることなく。
​​ 昨年フレデリック・ワイズマンの映画『ニューヨーク公共図書館』が公開されたとき、まず頭に浮かんだのは『​​BANANA FISHのラストシーンでした。このリレーでご一緒しているKOBAYASIさんに、FB​​でそのことを話したところ、
 「バナナフィッシュ?サリンジャーですか?」
 と言われて私も「は?」という状態に。サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』という短編があることをそのとき初めて知り、さっそく読んでみたのですが、大いに関係がありました。
 今回『​​
BANANA FISHを久しぶりに再読してみると、サリンジャーへの言及、ちゃんとあります。読み落としていたんです。​
 BANANA FISH1985年に別冊少女コミックで連載が始まり、9​年かかって完結した吉田秋生の長編マンガです。とにかく面白い。今回も全​19巻を一気読みでした。すでに評価が定まっているので、ご存じの方も多いでしょう。長期間の連載なので、途中でだんだん絵も変化していきます。
​ ニューヨークを舞台に、主人公アッシュを中心としたストリートキッズの世界を描いているのですが、この​17​歳の少年・アッシュが​IQ200の美貌の天才(少女マンガです)という設定ゆえ、話は不良少年たちの抗争におさまらず、イタリアン・マフィアや中国の財閥一族、FBIまで巻き込んで、ハリウッドも顔負けのサスペンス活劇に発展してゆきます。
​​​​​ かれらの抗争の中心にあるのが(ブラックボックスでもあるのですが)「バナナフィッシュ」、催眠作用を伴う麻薬の名前です。その麻薬を権力の道具にしようとする大人たちが、バナナフィッシュの秘密を知ってしまったアッシュとその周辺の少年たちを追い詰め、秘密を入手しようとするのですが、いつもすんでのところで、少年たちの情報網と結束力、アッシュの頭脳とリーダーシップに阻まれます。
 しかし、話の中盤からは、アッシュという存在そのものがまるで麻薬のように(本人が意図しないという意味でもまさに)権力者たちを翻弄してゆくことになります。​​​​​ 
​このマンガではさまざまな大人たちが描かれますが、少年たちも多様です。白人、黒人、スパニッシュ、メキシカン、チャイニーズなど多数のグループがあり、それぞれに民族特有のルールや考え方、死生観があります。
 吉田秋生は日本在住の日本人ですので、リアリティを期待してはいけないでしょうが、おそらくかなりのリサーチを行ったでしょうし、彼女の興味や考え方は十分に反映されていると思います。
 いずれにしろ、ニューヨークのダークサイドは、「多民族の軋みを体感したことのない日本人」のいない世界なのです。​
​​​​​​​ そんな世界へ、ひとりの何も知らない日本人少年・英二が、たまたま巻き込まれてゆく。そこが、このマンガの肝です。
 アッシュの住む世界では、人を疑うことをしない英二は「異物」です。でも、異物はときに「窓」になります。窓を開けると、風が吹き抜けます。アッシュ英二を通して、これまで体験したくてもできなかった世界を知ることになるのです。
 が、反面、英二アッシュにとってのトリガーにもなります。異物はどこまでも異物であり、融合することはできないのです。それを悲劇と捉えるかどうか、それは読者次第です。人が人と出逢う喜びを否定するものは、この世にはないと私は思いたいのです。​​​​​​​
 これは、今回再読した私の読み方で、これ以外にもいろいろな読み方ができると思います。それが名作っちゅうもんでしょう。
 おっと、ニューヨーク公共図書館を置き去りにしてしまいました。ラストシーンだけではなく、BANANA FISHには、アッシュニューヨーク公共図書館を利用するシーンがいくつも描かれています。家も蔵書も持たない​IQ200​の少年アッシュにとって、そこはひとりで思索する自宅であり本棚だったというわけです。​
​ 映画の話題繋がりで、吉田秋生原作の映画についても少し。記憶に新しいのは是枝裕和監督『海街ダイアリー』(​2015年)、古いところでは中原俊監督『櫻の園』1990年)が印象的でした。
 
BANANA FISHは少年を描いていますが、上記2作のマンガは少女の心情を克明に、豊かに描いています。中原監督『櫻の園』は原作とは肌合いが違っていますが、少女映画としては出色だったと思います。
 それではKOBAYASIさん、お願いします。KSODEOKA20200729



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最終更新日  2020.11.13 10:30:16
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2020.11.05
「100days100bookcovers no32」(32日目)
​ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧 新版』(みすず書房)​

​​
 資本主義、経済学から文学へと、DEGUTIさんが1冊で収まらず5冊もの書籍を紹介した後、SIMAKUMAさんは1冊ですべての領域を網羅する「狐が選んだ入門書」(山村修著、ちくま新書)を選びました。
 「言葉の居ずまい」、「古典文芸への道しるべ」、「歴史への着地」、「思想史の組み立て」、「美術のインパルス」という興味深い5章立てで構成されたこの本は、本棚に置きたい1冊ですね。山村修さんの大学図書館司書というお勤めや、勤務の傍ら「狐の書評」という匿名書評を連載されていたことなど、書物だけでなく著者にも興味が湧きました。まるで大学で教鞭を執りながらあちこち徘徊し、精力的にブログで発信されるゴジラ老人さんのようです。
​​
 さて、私自身がさまざまな評論に主体的にかかわり始めたのはそんなに昔のことではありません。仕事の必要性からかじった本や入門書は少しありますが、自分が生きている「今」や「日本」という国を時間軸でとらえる必要があると考え、まず歴史について、そして「日本」を客観的に捉えるためにアイヌや朝鮮、中国、台湾などのアジアから世界へと関心が広がりました。
 専門的な知識や研究ではなく、あくまでも私の理解ができる範囲でご縁のあるところからスタートしました。そのうえでようやく経済や政治、メディアにリンクしてきたところです。SIMAKUMAさんに間口を広くしてもらったところで、ご縁のあった次の1冊を選びました。
 ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧 新版』(池田香代子訳 みすず書房)
​​​​​ 実はDEGUTIさんの選んだ山本七平『「空気」の研究』は、今お風呂タイムに読んでいる『別冊100分で名著 メディアと私たち』にも収められています。(他に『世論』(リップマン)、『イスラム報道』(サイード)、『1984年』(オーウェル)また、日曜夜のお楽しみのNHK『美の壺』の時間帯に放映された『ズームバック×オチアイ』でもオススメで紹介されたんです。
 立て続けに山本七平『「空気」の研究』が重なって気になっていたところ、もう1冊ビビビっと来たのが『夜と霧』です。
 先週日曜日の『ズームバック×オチアイ』のテーマは「教育の半歩先」。休校、分散登校、リモート授業と、コロナ禍で問い直された教育。ほんの少し前に英語民間テスト活用や記述式の共通テスト見送りが決定したところ、まだ教育は迷走が続いています。
 大学入試の新システム「JAPAN e-Portfolio」も 運営許可を取り消すようです。大手企業であるBenesseの企業利益に振り回されるような経済主導の教育はまっぴらです。
 そもそもどのような「学び」が必要なのでしょうか。そんな考察の中で、「豊かさ」についての示唆を与える書として紹介されたわけです。
​​​​​
​​​​​ 『夜と霧』は日本だけでなく世界でも大変有名ですが、このたびは新訳の池田香代子さんの本を挙げます。「心理学者、強制収容所を体験する」とあるように、精神医学をまなぶフランクルは、第二次世界大戦中、ナチスにより強制収容所に送られた体験を著しました。
 表紙のフランクルの被収容者「番号」の「11910」は、持ち物や経歴といったその人個人の属性はもちろん、かけがえのない「名前」も、人間の尊厳も奪われ、労働者というモノとして扱われた象徴と言えます。そして、裏表紙には作中の次の箇所が紹介されています。
 わたしたちは、おそらくこれまでのどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。
 では、この人間とはなにものか。
 人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。
 人間とは、ガス室を発明した存在だ。
 しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。
 本当に、想像を絶する収容所生活です。シベリア抑留者の方のお話も直接取材しましたし、本も読みました。昨年の南京フィールドワークのあと、多くの戦争関連(特に日中戦争)の記録や本、講演や映画、証言に触れてきました。いつも戦争の中では個人の人間性は抹殺されます。労働に適さない被収容者は移送されてガス室送りか火葬場へ、そんな選別の連続の中、筆者は生還するのですが…。
​ 被収容者の心の反応は、施設に収容される段階、収容所生活そのものの段階、収容所からの出所または解放の段階と3つの段階に分けて記録されています。その中の収容所生活の段階は、今の日本の状況と重なるようで、そこにもぞっとしました。
 もちろん絶望的な収容所の生活と今の日本の状況は異なるのですが、まあ日本については話がそれるので『夜と霧』における人々の変化に戻ります。
 飢餓と重労働、暴力による懲罰や仲間の死という生活が見慣れた光景になり、嫌悪や恐怖、同情や憤りという感動が消滅し、無関心になること。精神的に追い詰められた状態の中で、精神生活全般が幼稚なレベルに落ち込むということ。風前の灯火の自分の命を長らえさせることのみを意識し、非情になること。(これらのいわゆる「極限状況」の中で人間はいかに生きるか…というのが多くの文学作品の中でも主要なテーマになっているのですが。)
 そんな悲惨な極限状況の中で、人間の尊厳ともいえる以下の本質も明らかにします。
 すべてに無関心となる中で、政治へと宗教への関心は例外だったということ。
 精神的な生活を営んでいた感受性の強い人たちは、愛や詩や思想の真実によって至福を得、内面的に深まったこと。
 夕焼けの茜色に照り映える山並みなどの自然の美しさに感動し、うっとりすること。ささやかな収容所の中での芸術やユーモアに心が震え、喜びをかんじること。
 孤独の中で思索にふけりたいという渇望を失わないこと。

​ 心理学者フランクルは、収容所生活の中でも「精神の自由」はありうると、苦しむことも生きることの一部であり、苦悩と死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになると記録しました。
 ともかく、苦悩を客観的にとらえ、描写する(言語化)中で、超然と見なすことができる境地に至ると述べています。日々私たちに向けられた問いに、行動、適切な態度によって応えていくことが生きることの意味だと。​

 たやすいことではありません。努力してそんな域に近づくことができるものではないと思うのですが、思うに人間性の高みや生きる意味とは、苦悩をどのように受け止め、自分自身がどんな態度でどう行動するかと葛藤するなかで到達できる境地なのでしょう。
 そのような高みは崇高すぎて畏れ多いので、せめて私としては自然の美しさに感動したり本を読んでうっとりしたりする喜びを感じるひとときを大事にしたいものです。
 お金や名誉、偏差値のように数値で表現できないものこそが「豊かさ」だと思うからです。
 教育の話に戻りますが、新型コロナ対策も日本の教育も瀕死状態です。必要なのは模範解答を選択することではなく、社会の矛盾や不条理に向き合い、無関心から脱して対話し思考するというための時間なのですが、教師も生徒もそんな余裕がますます失われているようで…。
 ステイホームの期間中は、「豊かさ」について思いをめぐらせた人も少なくなかったと思ったのですが、どうなんでしょうか。
​ あちらこちらに話が飛び、とりとめのない紹介になってしまいました。ではSODEOKAさん、よろしくお願いします。(N・YAMAMOTO・2020・07・25)​​


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最終更新日  2020.11.12 01:05:28
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2020.10.31
「100days100bookcovers no31」(31日目)

 山村修「狐が選んだ入門書」ちくま新書)​​


 100daays 100bookcovers challengeの30日目に、DEGUTIさんが紹介された数冊の本のラインアップを見ながらぼくが印象深く感じたのは、彼女が「お仕事の現場」で必要を感じた結果の読書だったことです。
 教科書や入試問題の読解の必要からでしょうか、アダム・スミス、ケインズ、ハイエクと経済学のビッグ・ネームが並び、一方に、この国の近代化の過程で、軍隊や政治家の集まりに限らず、ぼくたちがやっているこういう小さな集まりにいたるまで、人が集まるところでは必ず醸成される「空気」に対する関心が読書の領域を広げ、最後は、いま最も新しい作家のひとりが、新しい通貨「ビット・コイン」に果敢に挑んだ芥川賞受賞作「ニムロッド」
 いってみれば最も新しい「経済」小説にたどり着くさまは、少々大げさかもしれませんが「感嘆」するほかありませんでした。
 「そういえば、経済学どころか、『ニムロッド』にもついていけなかったなあ・・・」などとボンヤリ「思案六法」にふけりながら、思いついたのが「入門書」でした。
 昔の「お仕事の現場」では、教科書はともかく、入試問題なんかにかかずらわっていると突如でてくる新しい分野の評論とかに、お手上げという事態はしょっちゅうありました。
 まあ、生徒が持ってくる現物に対するその場しのぎというのは、実は間に合いませんから、日ごろからの「山かけ」として、あれこれ興味のあるなしにかかわらず手に取るということはよくありました。
 「地球温暖化」、「グローバリズム」、「フェミニズム」、「高齢化社会」、エトセトラ、エトセトラ…。
 書き手によって「空振り」とか「敬遠気味のクソボール」というしかない文章に付き合わされると、その分野そのものに対する関心も失せてしまいます。出来れば打率を上げたい。
 そこでお世話になるのは「入門書」の「入門書」、「この本を読め!」の類だったのですが、「
100分でわかる」とか銘打たれると「バカか!」と思ってしまう性分に加えて、畏敬する柄谷行人なんかが「入門書は読むな」とかいったりするのを目にしたりすると、思わず手がとまったりもします。
 出来れば、あまりにも守備範囲が狭い高校生諸君にも勧められる「入門書」を紹介している内容で、という欲を掻いた気分もありましたが、そんな本は中々ありません。
 「まあ、あるわけないわな」と手がとまりかけた時に出会ったのがこの本でした。もう、十五年ほども昔のことです。
​ 山村修「狐が選んだ入門書」(ちくま新書)です。
​ 著者の山村修という人についてですが、御存知の方には必要ないでしょうが、少し紹介します。
 彼は「日刊ゲンダイ」というタブロイド紙に​
1981年から20​年以上にわたって、毎週水曜日、「狐の書評」という匿名書評を連載していた書評家でした。​
 2004​​年当時、「狐の書評」(本の雑誌社)に始まって「水曜日は狐の書評」(ちくま文庫)まで、洋泉社からも二冊、逐次、書籍化されていた人気の書評でしたが、新聞のコラム書評ということもあり、​​800字という長さの制約が、ぼくには少し食い足りない印象でしたが読み続けていました。
 2006​年の秋の終わり、その「狐」が正体をあらわしたのです。​のちに朝日文庫に入った「禁煙の愉しみ」や、筑摩書房で文庫化された「遅読のすすめ」、趣味のお能の愉しみを綴った「花のほかには松ばかり」(檜書店)のエッセイストとして読んでいた山村修こそが、あの「狐」であることを明かしたこの本と偶然出会ったのでした。​​​​​

というわけで、まあ、その当時のぼくにとっては衝撃の一冊がだったのですが、衝撃は一撃ではなかったのです。
​ ぼくはこの本を書店の棚で見つけて、「えっ?おお、あの『狐』が本名をあかしている」と早速買い込んだのですが、​2006年の10月に二刷だった新書のカヴァーには「20068月、死去」の文字があったのです。
​​​ 死を覚悟した「狐」こと山村修が、青山学院大学図書館司書の勤めを早期退職し、「狐の書評」の集大成、​山村修​の最後の仕事として読者に残して逝ったのが、​​​この、25冊の「入門書」の書評だったのでした。
​​​ 本書の「はじめに」において「入門書こそが究極の読み物である。」と筆を起こし、「私と狐と読書生活と」と題された「あとがき」では​

​「世の職業人でいちばん自由に読書できるのは、もしかすると、研究者でもなく、評論家でもなく、勤め人かもしれません。」​​​

 ​と、ぼくもその一人であったサラリーマン読者をもう一度励まし、​

​​「本書に取り上げた二十五冊の入門書には、それぞれに質が異なるとはいえ、読み手を見知らぬ界域へと導く誘引力が、時には危ういともいえる魅力が、秘められています。」​​

​ と、筆をおいた書評家の「覚悟」が本書全体に漲っています。
​​​
​​​​​ 「言葉の居ずまい」、「古典文芸への道しるべ」「歴史への着地「思想史の組み立て」、「美術のインパルス」と​​​​​5章立てで構成され、それぞれ5冊づつ書評されていますが、残念ながら、「科学」の分野はありません。
 当時、この
25冊が「ボンクラ教員」の、新たな指標となり、そのほとんどが生徒向けの「読書案内」のネタになったわけです。
 取り上げられているラインアップは本書を手に取ってお探しいただくとして、ぼくにとっては藤井貞和「古典の読み方」(講談社学術文庫)岡田英弘「世界史の誕生」(ちくま文庫)、岩田靖夫「ヨーロッパ思想入門」(岩波ジュニア新書)、辻惟雄「奇想の系譜」(ちくま学芸文庫)あたりが、今思えば、あきらかにその後の読書の流れを新たに作り出す、まさに「入門書」として初登場、あるいは、再登場したわけです。
 ちなみに「経済学」では、アダム・スミス、カール・マルクスの研究者で稀有なモラリストというべき内田義彦「社会認識の歩み」(岩波新書)にこの本で再会したのも思い出深いですね。

 さて、本書に戻ります。

​​「だが、突然、私は読書のことを考えた。読書がもたらしてくれるあの微妙・繊細な幸福のことを。それで充分だった、歳月を経ても鈍ることのない喜び、あの洗練された、罰せられざる悪徳、エゴイストで清澄な、しかも永続する陶酔があれば、あれで充分だった。」(「慰め」ローガン・ピーアソール・スミス)​​

「はじめに」の中にこんな詩句の引用がありました。30​年にわたるサラリーマン生活を「匿名書評家」として生きた「狐」の「白鳥の歌」が聞こえてくるようです。それぞれの書評はこの主旋律の、いわば、オブリガート(対旋律)だったということを感慨深く思う今日この頃です。​

それではYMAMOTOさん、よろしくお願いします。20200719・SIMAKUMA)



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最終更新日  2020.10.31 11:39:26
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2020.10.30
100days100bookcovers no30-4」(30日目その4
 ​上田岳弘『ニムロッド』(講談社)​

​​5、5冊目が上田岳弘の小説『ニムロッド』(講談社)です。​​
 KOBAYASIさんは、現実世界に周辺=地理的フロンティアが亡くなった今、資本主義は終わるという趣旨の文を引用されていましたね。
 ところが、もうすでに、人間の想像力と欲望は地球外フロンティアにも仮想世界にも手を伸ばしているのではないでしょうか。
 宇宙も仮想世界も無限大。人間がどこまで欲望の翼を広げるかというところにきているのかな。現実世界でも、コロナで世界の実態経済は参っているはずなのに、日経平均とかの株価は実体経済と乖離しているらしい。こんな時も人々の欲望は経済システムのエネルギーになっているのでしょうか。
 この本を今回選んだのは、主人公が「ビットコインを掘る」仕事をしているからです。「資本主義におけるシステムサポートそのものだからだよ。ビットコインを掘る作業は。」と上司に言われ、「他者が欲しがるからより欲しくなる。自然な欲望」のシステムサポートをしているのです。
​​ あとは二人の人物が登場します。一人は外資系の証券会社で高収入を得ている主人公の恋人。もう一人は、現在は名古屋にいるので、主人公(東京にいる)とはもっぱらメールで繋がっている「ニムロッド」と自称する元同僚の男性。
 前半はニムロッドが​​
Wikipedia​​そのままの「駄目な飛行機コレクション」を主人公にメールしてきて、​

​​「だめな飛行機があったからこそ、駄目じゃない飛行機が今あるんだね。」
「ところで今の僕たちは駄目な人間なんだろうか?いつか駄目じゃなくなるんだろうか?人間全体としてだめじゃなくなったとしたら、それまでの人間たちが駄目だったということになるんだろうか?でも駄目じゃない、完全な人間ってなんだろう?」​

 ​とか言って、いくつも哀しいほど馬鹿げた飛行機を紹介していきます。
 恋人は以前妊娠中に胎児の染色体異常のために中絶し離婚しています。彼女は駄目な胎児を生まないことを選び、まだ細胞段階の胎児を殺しました。それは、駄目じゃない胎児を望む欲望があったからではなかったかと私は考えました。
 しかし、彼女は子どもを殺したら、もはや駄目じゃない子どもを望む欲望もなくなってしまっていました。
 人間は駄目じゃなくて、欲望もなくなったらどうなるんだろう。
 それは、ニムロッドが後半に書くSF小説に表現されているようです。
 この小説内小説「ニムロッド」という旧約聖書の中の人物名と大きく関わっていて、その神話の意味するところこそ人間の未来を指し示しているように感じました。​​ 
大変遅くなってすみません。思いつくまま書き散らかしてしまいました。次がSIMAKUMAさんだとつい甘えて勝手しましたが、よろしくお願いいたします。
E・DEGUTI・20200714

(これにて、DEGUTIさんによる「100日100カバー30日目​​」は終了です。長いので分割して掲載しました。前後に関心をお持ちの方は​「その1」​・​「その2」​・​「その3​をクリックしてください。)

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最終更新日  2020.10.30 00:10:17
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2020.10.28
​​​「100days100bookcovers no30-3」(30日目その3)
戸部良一他『失敗の本質―日本軍の組織論的研究』(中公文庫)
山本七平『「空気」の研究』(文春文庫)


​3、3冊目は『失敗の本質―日本軍の組織論的研究』(中公文庫)です。 ​
 有名ですので、概要は割愛します。個人的感想は、大きな事件や悲劇で責任主体を明らかにすることができても、上は責任を取らない。そのままほうっておいても人々も忘れていく。そして同じ失敗が繰り返されると思いました。
 例えば、辻正信という軍人です。ノモンハン事件の責任を取るべき彼は、部下に責任を押し付け、自らの経歴に傷もつけずに南部戦線に配置転換され、マレー作戦でも実情を無視した作戦計画を立て作戦部隊を混乱させ失敗しています。
 その後も参謀として派手な動きをいろいろしますが、とうとう軍組織は彼の責任を深く問わないままでした。敗戦直前に機密書類を焼却することに躍起になっている軍は、彼の責任を問えないほど、組織ぐるみでやむを得なかったと無責任を決め込むしかなかったのでしょうか。
 軍略の天才とも悪魔とも言われて、未だに彼の著書は某新聞社の広告欄に大きく載っています。


​4、4冊目は山本七平『「空気」の研究』(文春文庫)です。​
 ちなみに、戦争が泥沼化しても、もう何が何でも戦争を終わらせるという声を上げられない、もう無理だろと思っていてもその場の「空気」で反対できない、という日本社会の特徴については、この本で厳しく取り上げています。
 空気のせいにして誰も反対できない。誰も責任を取らない。どうしても空気が許さないなら、スケープゴートを見つけて詰め腹を切らせて終わりにしようとしてきたのは、多くの人が見聞きし経験してきたことではないでしょうか。
 しかし、「リスク社会」と言われる現在、このままのやり方でこれからもしのいでいけるのでしょうか。経済も、原発も、感染症も、基地も、顔の見えない慣例化したやり方に任せていて、ひとたび何か起きたらリスクが大きすぎて誰も責任の取りようがない。それでもこのままいくしかないという状態は不安でしかたがありません。

(ここまでが、『失敗の本質―日本軍の組織論的研究』と
『「空気」の研究』の紹介です。この記事「100日100カバー30日目​​」は「その4」に続きます。長いので分割して掲載しています。前後に関心をお持ちの方は​「その1」​・​「その2」・「その4」をクリックしてください。)
E・DEGUTI・20200714

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最終更新日  2020.10.28 00:12:16
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2020.10.27
100days100bookcovers no30-2」(30日目その2)
松尾匡
『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』(PHP新書


​2、2冊目は松尾匡『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』(PHP新書)です。​
 「リーマンショック」や「東日本大震災後の復興経済政策」、「アベノミクス3本の矢」とか、「日本人一人当たりの借金1000万円」とか騒がれるとちょっとくらいは勉強しないとと数年前に手に取った本です。
​​​ ご周知でしょうが、「ケインズ」は、「不況」のときには公的介入の必要を唱えた人で、「ハイエク」は市場経済の働きをすばらしいとし、公的な介入に強く反対し続けた人です。
 どっちも一長一短、現実には、あっちに行ったりこっちに行ったりしてバランスを取ろうときたのでしょうか。
 著者松尾匡に言わせれば、あっちからこっちに行くべきものと、行ってはならないものを見分けなければならない。今までの政策は間違っている。一番の主張をザックリといえば、​

​​「どちらの政策をとるにしても、『リスク・決定・責任の一致が必要だ』」​​

​ということです。 ​

​「本当に社会のニーズに合うかどうかわからないリスクのある決定をする人は、本来そのリスクに応じて責任をとるべきである。」​​

​ もし、その責任をとる必要がなく、うまく行った場合のメリットばかりがあるならば、管理者はいくらでも冒険的な決定をすることになる。ソ連型システムが崩壊したのも、「そごう百貨店」が破綻したのも、同じ理由だと書いています。
 「福島第一原発」事故でも、東電は国に助けてもらい(国民の電気代から)、被災者への賠償をするために絶対倒産しない会社になっています。大きすぎる責任はとらなくていいという見本ですね。
 原発のコスト、経済的メリットも市場に任せるのなら、原発を動かしている主体が廃棄物処理迄考えてリスク決定責任を取るべきです。
 もちろんうまく処理できるのならその主体が得る報酬は多くて当然だと思いますが、リスクが大きすぎて責任主体を引き受けられないのなら、(そもそも1万年生きるものがない以上は、責任はとれないのですが)原発は撤退するビジョンをもつべきではないでしょうか。
(ここまでが、「ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼」の紹介です。この記事「100日100カバー30日目​​」は「その3」に続きます。長いので分割して掲載しています。前後に関心をお持ちの方は「その1」・「その3」をクリックしてください。)

E・DEGUTI・20200714



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最終更新日  2020.10.27 01:29:47
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100days100bookcovers no30-1」(30日目その1)
​​ニコラス・フィリップソン『アダム・スミスとその時代』(訳永井大輔 白水社 )​


 『愛の手紙』が繰り返
されていたとき、古き時代のロマンに浸って紙魚の匂いのする本棚の前でKOBAYASIさんのアップを期待していました。ところが、ところが、話は「縁もゆかりもない」『資本主義という謎 「成長なき時代」をどう生きるか』、『資本主義の終焉と歴史の危機』に変えられてしまいました。それはないよ。KOBAYASIさん
 私こと、昭和どっぷりの大阪のおばちゃんは、1円でも安いものをと見えにくくなった眼を凝らし、ボケ始めた頭をはげましつつ自分の財布の中身とケチケチ相談しながら買い物しています。それも1000円単位までの話で、1万円超えるともうあんまり実感がありません。
 親類の結婚祝いでも、3万円か5万円かどっちと聞かれても気持ちが大きいのか実感がないのか、どっちでもいいわという気になります。
 1 円でも損したくないけれど、大きいお金はわからない。この感覚で還暦まで生きて来られたけれど、人生の最終コーナーで『資本主義の終焉』という大きな転換が起きるのでしょうか?訳がわからないけれどダラダラと思いつく本を並べてみます。

1、1冊目はニコラス・フィリップソン『アダム・スミスとその時代』(訳永井大輔 白水社 です。

​​​​ 日本の代表的経済学者岩井克人(この人もシェイクピア好きかな)が2001年に朝日新聞へ寄稿した「未来世代への責任」という文章(国語教科書の定番教材の一つです)の中の一節が気になって読んだ本です。
 岩井氏のこのエッセイでの主張は、環境問題は未来世代のために責任を持って行動することが要請されているということです。彼はアダム・スミスが「倫理」を否定したかのようなことを書いています。​​​​

​​―― 経済学は「倫理」を否定することから出発したのです。 経済学の父アダム・スミスはこう述べています。「通常、個人は自分の安全と利得だけを意図している。だが、彼は見えざる手に導かれて、自分の意図しなかった〈公共の〉目的を促進することになる」。ここでスミスが「見えざる手」と呼んだのは、資本主義を律する市場機構のことです。資本主義社会においては、自己利益の追求こそが社会全体の利益を増進するのだと言っているのです。――​​

​​​​​ 今さら長々と教科書からの引用を引っ張り出してすみません。でもスミスがどうしてこんなことを書いたのだろう。彼がこういうことを考えるようになった生い立ちとか、時代ってどんなふうだったのかしら?と気になって探してみたら、今日の、この本と出逢ったのです。
 経済学は、彼(スミス)にとって、取り組んだものの一部に過ぎませんでした。彼の著作は『道徳感情論』『国富論(諸国民の富)』ですので、今さら驚かれないかもしれませんが、修辞学、芸術学、法学、倫理学、天文学、幾何学など、極めて幅の広い研究をしていたそうです。グラスゴー大学では道徳哲学の教授となって、法学博士を授与され、後年、名誉総長にもなっていますが、彼が成し遂げようとしたのは、

​​「人間の本性と歴史を観察することで、真の人間学を創り出すこと」​​

​ にあったそうです。
 人間の感情、(今から言えば心理)を観察、分析し、矛盾した存在であると考え、そんな人間が、豊かに、社会秩序を安定させていくことを考えたのが経済だったようです。​​​​​
​​ どうやら、アダム・スミスは「利己心」のみで社会秩序が安定するなどということは言っていないのですね。
 工業生産が盛んになり、市場で多くのものの交換が可能ななら、そこでは努力して倫理を促すことをしなくても自然に秩序は安定するし、人間の感情も納得する。ということなのでしょうか。
 それなのに、後の人々は彼の『国富論』だけをありがたがったのですね。あちらの世界でどう思ってらっしゃるでしょうね。
(ここまでが、「アダム・スミスとその時代」の紹介ですが、この記事「100日100カバー30日目​​」は「その2」に続きます。長いので分割して掲載しています。「その2」をクリックしてください。)

E・DEGUTI・20200714

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