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ゴジラ老人シマクマ君の日々

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読書案内「漱石」その作品・その時代の人々・批評

2019.10.16
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​​​奥泉光「夏目漱石 読んじゃえば?」(河出文庫)​

​​ いとうせいこうさんと奥泉光さんが掛け合いで、文芸漫談をやっていらっしゃる「漱石漫談」(河出書房新社)を、以前「案内」しました。案内しながら棚を見ると、この文庫が座っていらっしゃるじゃありませんか。​​

「お、そういえば買ったっけ。」

 そう思って、手に取ってみると、ところどころにポストイットが貼られているんですね。どうも、読んでいるようなんです。奥書を見ると、2018年に出版された本ですから、購入して一年は経っていません。ポストイットの作業からは、せいぜい半年でしょう。半年前に読んだ本の中身を全く覚えていないとはこれいかに?

​ そういえば、「漱石漫談」を読みながら、どこかで聞いたことがあるような気がする言い草というのが複数回あったことに思い当たり始めると、じわじわ思い出し始めました。

 こういうことが、頻発し始めているのは不安を掻き立てますが、しようがありませんね、忘れてしまっているのは、きっとあんまりおもしろくなかったからに違いないとばかりに、「面白くなさ」の確認作業のような、もう一度読み直し作業を始めました。ホント、ヒマなんですね。

 ここから、その結果を報告しますね。

​​​​​ まずこの本は、舞台に二人が立っている漫談だった「漱石漫談」に対して、ピン芸人編とでもいうべき本ですね。奥泉光さんが一人でマイクに向かって「漱石」を紹介していらっしゃるといった風情です。
 面白いもので、当たり前のことですが、奥泉さんの主張は、漫談の時と、よく似ているんですが、いとうせいこうさんのツッコミがないせいなのでしょうね、まず、笑えない。​​​​​

​​​ その次に感じたことは、奥泉先生、おそらく根がまじめな方なんでしょうね、「語り」の口調が、少々先生くさい。要するに、ギャグも含めて「めんどくせー」って感じなんです。その上、漱石初心者に語っているにしては、少々、深すぎて、何を言っているのか実感がわかない。​​​

​あっと、「吾輩は猫である」の話をしてたらすっかり時間がたってしまったな。じゃ、ぼくはちょっと失礼してフルートの練習をしてこよう。フルートの練習だって、きっとどこかで小説の読解力につながっている。今の君たちなら、それが分かるだろう?さて、今日の練習は何の曲にしようかな・・・。​
「はあー?」って感じでしょ。授業の終わりにこれをやりたがる教員は結構いるんですが、まあ、ばかにされるのがオチなんですよね。

「ぼくの話を聞いてくれた、今の君たちなら、それが分かるだろう?」

「なんでやねん!一時間、自分が勝手にしゃべっただけやんけ。何にもわからへんわ。その上、フルートとか、自慢なん?」

​ 下の「カギかっこ」が、いとうさんのお仕事だったわけですね。もっとも、そういう突っ込みを、読者に期待しているというか、本の作り方が、おそらくそうなんでしょうね。そんな意図も透けて見えちゃうのが、二重に面倒くさいわけです。

 最後にもうひとつ。第4章「坊っちゃん」にある文章です。

 ここまでの話で、坊ちゃんに対するイメージがだいぶ変わったと思うんだけど、彼が抱えている「孤独」というのは、この作品に限らず、漱石に小説全体を貫いている大事なテーマ。

 テーマというよりも、つい出てきてしまうものと言った方がいいかな。「孤独をテーマにしよう!」と漱石が意識しているというよりもそのことを描こうと思ってなくても、つい出てしまうんだと思う。

 漱石作品では、主人公の孤独、特に他人とコミュニケーションできない孤独がいろいろな形で書かれている。​

​ ​​​​漱石理解の上で、かなり大切な指摘ですね。この後「こころ」や「門」「明暗」が引き合いに出されるのですが、「初めて漱石を手に取ろうという人」には、おそらく何のことか、全くわからないと思いますね。
 この本の中で奥泉さんが「語って」いらっしゃる内容の多くは、初めて漱石を読む高校生には意味不明といっていいことばかりなんです。
 むしろ、教室で「こころ」を読んでみたけれど、先生の解説がよくわからなかったと思いながら、「でも気になる」という具合に踏みとどまっている読者には「光明」である可能性がある本なんでしょう。そのあたりが、奥泉さんが想定していらっしゃる「入門者」のレベルというわけです。​​​​

​​ それにしても、「漱石漫談」をお読みになった方が、「こっちも読んでみようか」という感じでお読みになると、内容が案外ダブっていて新鮮さに欠けますが、と申し上げて「面白くない案内」を終わりたいと思います。じゃあまたね。
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最終更新日  2020.10.16 01:38:32
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2019.10.11
​​ ​​夏目房之介「孫が読む漱石」(実業之日本社)


 
​今年も、漱石本をあさっています。昔読んだことがあるような気もするのですが、夏目房之介「孫が読む漱石」(今は新潮文庫)を市民図書館の棚で見つけたので、借りてきて読みました。​​

​ 夏目房之介という人の本業はマンガ家、あるいは、マンガ批評家で、イラスト風のギャグマンガが、ぼくの知っている仕事なのですが・・・。
 一時よく読んだという記憶はあるのですが、具体的には忘れてしまったなあと思っていると、この本の挿絵で使われていて懐かしく思い出しました。
 そう、そう、こんな感じですね。

​​​​ 房之介さん漱石長男純一の息子さんです。1950年生まれですから、1916年に亡くなっている祖父のことを直接知っているわけではありません。祖母の鏡子については1963年まで存命だったわけですから、事情は違うでしょう。
 この本は、文豪漱石の孫が、その作品を読むというわけですから、どちらかというと覗き趣味的な興味で「売れる本」を狙ったんじゃないかと思って手にしましたが、読んでみると少々趣が違いました。​
​​​

 「プロローグ」の章ではかなり詳しく夏目家の内情と、房之介さんの父、漱石の長男純一の人柄が、息子の目から語られます。その上で、彼はこう書いています。

​​ 僕が書くものは、遺族としての距離から語る作品という興味を持って詠まれるだろう。それは、それでいい。でも、そこから先に本当はいまの時代、社会を生きる、孫であると同時に戦後大衆でもある僕が、その距離感から率直に語る漱石作品という意味があるような気がしている。​​

 個人の「読み」の変化は時代にもよるし、その時の気分にもよる。またどこからが時代的な変化によるもので、どこからが個人的な変化によるものを区別することはむずかしい。

 これが批評なら、あんまり変化していては機能しない。精度のおそろしく悪いカメラで動きながら被写体を映すような仕儀になる。けれど文芸批評でもなく、それどころか文学青年ですらなかった僕のレンズが、そんなに優秀であろうはずはない。​

  ​精度の悪いカメラの像でも、僕の「読み」の文脈の距離感を計って読んでもらえば、最後にはなにがしか僕にしかできない像を結ぶことができるかもしれない。​
​ 筆者がいう「僕の読みの文脈の距離感」が端的に表現されているのが上のイラストですね。笑えますね。笑えますが、この距離の「近さと遠さ」、「出会いに対する焦り」は、まさに「孫」が超絶的にエライ「祖父」に出会ったときにしか体験できないものじゃないでしょうか。これがまず、本書の読みどころの一つだと思います。
​​​​​ さて、ここから房之介さん、いよいよ、えらいオジーちゃんに挑戦です。なんと彼は「坊ちゃん」、「猫」に始まって、小説作品はもちろん、書簡から、おばーちゃんが書いた「漱石の思い出」まで、ついでに言うなら関川夏央・谷口ジローの「坊ちゃんの時代」はもちろん、周辺の批評作品に至るまで、ほぼ、全編読み尽くしているのです。ビビりながら『偉い』オジーちゃんに出会う孫の覚悟と心意気を感じましたね。
​​​​ ​文章は、あくまで素人らしい朴訥さをにじませたもので、時折挿入される、一こまマンガのイラストが、まあ、こちらは「プロだねヤッパリ」と思わせるようなつくりの本ですが、はたして、ホントにそうでしょうか?

 ​​「修善寺の大患」の後の漱石の様子について、こんなふうに書かれているところがあります。この文章のすこし前に

「多分、このエアポケットのような緊張の解除と、与え限り受け身になった自分からみた優位の人々への自然な感情が、漱石にとって大患の意味であった。」
と記したうえで、漱石の病後の心理的転回をこう書いています。​​
​ 大患はそれなりに漱石の観点を転回させただろうと思わせる。これは、晩年の「硝子戸の中」の境地に通じてゆくのだろう。

 そんなことを考えた挙句、漱石は自分の考えに「心細く」なり、また、「詰まらなく」なって、同じ年に亡くなった大塚楠緒子への手向けの句を記す。

   あるほどの 菊抛げ入れよ 棺の中

 まっすぐな思いを感じる、いい句だと思う。

 この病床にあって、漱石は俳句、漢詩を多く作り、「思い出すことなど」に収録している。今回初めてこの随筆を読み、僕の好きだった句なども、けっこうこの時期に残していることを知った。 

 また孫としては、このとき漱石が、解放してくれたものの最初に「妻」と書いていることは、やはり意味のあることだった。

​​​
​ ​​​​大塚楠緒子の死に際して読まれたこの句は、漱石俳句のなかでも一、二を争う有名な句ですが、病後の心理的転回を視野に入れながら「まっすぐな思い」を感じ取る批評眼は、俊逸だと思います。
 通常は漱石の隠された恋の話題で盛り上がるだけで、この句に現れている「死と向かい合った漱石」を見落としがちなのです。つづけて、祖母鏡子に対する祖父の眼差しに言及するバランス感覚はただ者ではありませんね。​​​​​

​ ​そろそろ終わろうと思いますが、折角ですから、「こころ」に関して房之介さんが何を言っているのか触れてみようと思います。

 あれこれ引くよりも、​
このイラストがすべてを語っているようですね。結局、ほかの登場人物はほったらかしにして、「自分の自殺の経緯」を誰かに語りたくいて仕方のない「先生」を書いてしまう、おじいちゃんにあきれ返っているお孫さんなのですが、何となくわかってあげたりするところが、読み手を和ませるわけですね。
 もちろん、本書はマンガではありません。ま、しかし、まじめな批評は本文をお読みいただくということで、このあたりで終りたいと思います。2019・10・10(記事中の図像は本書の記事の写真です)

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最終更新日  2020.10.16 11:04:12
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2019.09.21
​​​​​高山宏「夢十夜を十夜で」(羽鳥文庫)


​​ ​​​由良君美を以前、紹介しましたが、その時に出てきたお弟子さんで、四方田犬彦ともう一人、高山宏という人がいました。​​​​

​ もともと、イギリス文学、マニエリスムの研究者ですね。グスタフ・ホッケとか、名前を出しても、普通の人にはよくわからないかもしれません。「アリス狩り」という有名な評論シリーズで、ぼくのような素人、門外漢でも、名前を知った人です。​
​​ ​最近の仕事は羽鳥書店から「新人文感覚Ⅰ 風神の袋」「新人文感覚 II 雷神の撥」が出ていて、本の名前だけで「ほしい!」となるのですが、もちろん、装丁もかっこいい、しかし、1冊14000円となると、ちょっとビビってしまいます。0の数をお間違いにならないようにね(笑)。​​​
​ ​​同じ羽鳥書店「はとり文庫」というシリーズに、その二冊の副読本と銘うった「夢十夜を十夜で」という、しゃれた本があります。​​​
 不思議の国のアリスの達人が、漱石、それも「夢十夜」を?いや、彼なら「夢十夜」こそを、かもしれませんね。
​ ​漱石の作品の読解や、評論は、腐るほどあります。別に、書物は腐らないけど、中は腐っているといいたいようなのもあるかもしれません。
 この本は高山宏が大学の授業で漱石を取り上げた実況中継です。さすがですね、生きがよくてピチピチしていました。​​

 アジアからの留学生をどう「獲得」するかが二十一世紀初頭、日本の各大学の「生き残り」条件の一つと言って世上かまびすしい。試行錯誤がしばらく楽しくも居心地悪い過渡期の「国際系」に、このところ自分が唱え始めている「新人文学」がいきなり巻き込まれた形である。
​ 面白いじゃないか。日本文学に一定以上の知識もなく、したがって、一定以上の偏見もない、見るところ限りなくまっさらに近い二十男女にいっそ「ブンガク」とは何か、徒手空拳(のふり)、是々非々で教え、議論してみよう。いろんな領域をそれぞれ極めたと言われて閉塞気味の自分にも、なにやらん愁眉のひらかれぬでもない気もする。 ​
​ ​読者に向けた開講の辞です。自負と自信を感じますが、ここから、さすが高山宏ともいうべき展開が始まります。​
 いきなりその場で当てられたにもかかわらず、巧いバトン・リレーのようによどみなく音読する。よしよしその調子。つい書き写す気になってくれた諸君はいるかねと尋うと、残念これはいない。別に提出しろとは言わないが、次回からは書き写してみること、と改めて指示を出した。
「はなびら」を花弁でなく瓣と書く。二つの部分の間に「瓜」が入っているだろう、「実」として入っている「瓜」だろう、「うりざね」なんだよ。
この書字の遊びによって、死ぬ前の女の「瓜実顔」と女死後に化身した花の「瓣」が同じものと知れてこないだろうか。
紙の上にひろがる活字、というか文字と文字のつくる意味の世界も一方にあり得て、これはこれで面白い。
 自分で書いてみると分かるかもしれない。ただの偶然、ひょっとしたら遊びと感じられるかもしれないが、表向き言葉の各種の遊びを体系的、強迫観念のように生み出す文学をこの四半世紀、マニエリスムの文学と呼んできた。​
「百年待つというというのもこの場合にはほどよい気がする。十年現実味があって合わないし、千年では百合と相性が悪い」とか「百合の百と百年待っていてくださいがかけられていて、実際には百年も待っていなかったのではないか」という答えを紹介して、百年というのは現実に無理とする他の何人かの懐疑派の疑問に答えることをもって九十分の白熱授業は始まった。
 「百」年待って「合」うから「百合」なんだねと。
  何だ言葉遊びじゃないか、それってという感じが何人かの顔にありありだったが、実はそれこそがかの神経医学のパイオニア、ジークムント・フロイトのいわゆる「機知語」であり、二十世紀初頭のそのフロイトの「機知語」「始原語」「言い間違い」の論に絶妙によみがえった十六世紀マニエリスム(と、十八世紀末の「蘇るマニエリスム」)たるロマン主義が得意とした、見掛け上限りなく遊戯的な「文学」という表現行為の正体なのだ。 ​
​​ これが「夢十夜」第一夜第一講のさわり。​​老婆心ながら、付け加えると、漱石がイギリスで出会ったのは、講義中の十八世紀イギリスロマン主義です。
 ​ぼくが、高山宏に惹かれる理由はお分かりいただけるでしょうか。彼の博学と、ユーモアあふれる授業で素人大学生が「比較文学」の扉を開ける様子がまざまざと伝わってくるじゃないですか。そこが、何ともいえません。​
 面白いでは言い尽くせない。新人文科学の広さと奥の深さにはため息が出ますね。
 この一冊読み終えると、もう一度、高校生相手に漱石を語りたくなってしまいます。
​​​​​ ぼくなら、と、浅学菲才も顧みず、これも持ち出してみると思いついたのが、近藤ようこマンガ「夢十夜」(岩波書店)です。もちろんこのマンガは、「ヤサイクン」の断捨離ものではありません。


​​​​​
​​ 近藤ようこ「うる星やつら」高橋留美子と高校の同級生で、同じ漫研出身だそうです。独特の作品解釈をなにげなく怪しい線で描くマンガ世界。小説とは違うマンガ小説、遊技的再解釈になっているところが、じつに魅力的な人なのです。​​
​​​​​ 高山宏といい、近藤ようこといい、抜群の才能というものは、この世にはあるものなのだと、つくづく思う、今日この頃です。(S)​​​​​​
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最終更新日  2020.10.14 13:55:52
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2019.09.19
​​  ​​いとうせいこう・奥泉光「漱石漫談」(河出書房新社)


​​​掘り出し物でした。だいたい書名がふざけてるんじゃありませんか。最近、こういうお気楽な題名で、軽く紹介皆さんご購入!という本が多いですね。付き合いきれないので知らん顔してきましたが、「いとうせいこう」の名前に惹かれて、市民図書館の棚から引っ張り出しました。ちなみに「奥泉光」という名前には、「めんどくさいヤツ」という偏見のベールがかかっていて、むしろ手は引っ込む傾向にあるのですが、今回は「いとうせいこう」の勝ち。​​​

​ その場で、ページをめくってみると最初の話題が「こころ」。この章の表紙がこんな感じです。


​「遺書が長いヤツってダサイよね‼」
 ​
​はまりました!​

​​ 本書の構成は、いとうせいこう奥泉光という二人の作家が、東京あたりでやっているらしい、文芸漫談のライヴショーの書籍化らしくて、すでに「小説の聖典(バイブル)」とか「世界文学は面白い」などの姉妹編があるようです。なんか、「小説の聖典」は読んだ記憶がかすかにありますが、怪しいですね。​​

さて、とりあえず、「漫談こころ」から紹介しましょう。

奥泉結局、先生は最悪の仕方で死んじゃう。なぜ死んだかも教えず、奥さんを遺して勝手に死ぬ。

いとう奥さん、かわいそう。ほんと先生の「エゴ」!

奥泉:なぜそこまでエゴイスティックな場所まで彼は赴かざるを得なかったのか。これと比べると、「暗夜行路」の時任謙作の孤独なんて、ごく軽いものですよ。

いとう志賀直哉ね。飲んだり食ったり、芸者と遊んだりして、たまにじーと考えるだけですから(笑)胃から血が出るほど悩んでいる感じはしない。

奥泉ですね。​

 こんな感じで、ここは、もちろん、笑うところ。「いとうせいこう」のツッコミ加減が、ちょうどいい加減なんです。知識のフォローもしている。

 さて「漫談こころ」の山場はここらあたりですね。

奥泉(先生は)自分が田舎に帰省すれば、Kとお嬢さんが二人っきりになってしまう。それは耐えられない。そこで、Kをry行に連れ出すことにします。房州の方へ。

いとうまた海!冒頭の先生と「私」が出会うシーンの繰り返しといってもいい。

奥泉​Kが海を見たがって、こうなるんですね。ここでまた変なところがあるので、ちょっと読みますね。​

《私は自分のそばにこうしてじっと座っているものが、Kでなくって、御嬢さんだったらさぞ愉快だろうと思う事が能くありました。それだけならまだ可いのですが、時にはKの方でも私と同じような希望を抱いて岩の上に座っているのではないかしらと忽然疑い出すのです》

いとうまずいまずい。来てるよ、青春ノイローゼが。相手の心の中を忖度しすぎちゃう。

​奥泉:​

《ある時私は突然彼の襟首を後ろからぐいと攫みました。こうして海の中にへ突き落したらどうするといって、Kに聞きました》

いとう​先生、嫉妬とか殺意とか。次々と衝動が激しすぎます。しかも、Kも​《丁度好い、遣ってくれ》と応答してる。この二人、なんなの(笑)?ちょっと働いてみるとかしてょしいよ。

奥泉​とにかく先生はKの心を知りたい。だけどKは鈍い人なんですよ。―略―二十九章のあたまにこうありますよ。​

《私は思い切って自分のことをKに打ち明けようとしました》

この一行だけ読むと、もうわけがわからないよ。

いとう​いよいよKに、お前が好きだと告白するみたい。(笑)​

​ おわかりですね。ここで話題になっているシーンは、教科書なんかに取られている場面の前にあります。だから、高校の教科書でしか「こころ」を読んだことがない方はご存じないのですが、あの夏、先生とKが房州(千葉県ですね)の海へ出かけた時のやり取りなのです。

 先生とKの関係が、下宿暮らしだけの描写で読み取れる「友情」とは少し違うと思いませんか。いとうさん奥泉さんは「ボーイズ・ラブ」の可能性にも触れながらこんなふうにまとめます。

いとう奥泉さんの指摘してくれたところを読むと、ようやくこの小説が「こころ」というタイトルである意味が分かります。行き場のない心のことを言っているんですね。

奥泉​心の空回り。​

​ ​心の中でコミュニケーションの絶対的不可能性の中に浸りながら、一方の心で、身近な他者を支配したい欲望とでもいうのでしょうか、そういう「不可解なもの」が描かれているのですね。​

​​​ ご存知のように、この後「先生」はKを出し抜いてお嬢さんを手に入れます。ほかの批評家も書いている説ですが、そこには「Kをとられないために、自分がお嬢さんを手に入れる」という、両方ほしいという願望があったのではないかということが、奥泉光から指摘されると、いとうせいこうがこう続けます。​​​

いとうKとお嬢さんとの三角関係の構造は簡単ではないです。先生には、両方の項を押さえておきたいという欲望がある。

奥泉そうした潜在的な無意識の策謀は、確かにありますよね。

いとう書生である「私」との関係もそう。「私」は先生の死後、妻と結婚するという読みも、しばしば批評家の間で語られますが、先生は奥さんと「私」の両方をしはいしているといえる。

奥泉​なるほど。つまり「不可思議な恐ろしい力」「倒錯した生のエネルギー」と呼んでもいいし、そこに限定せず、彼のどうしようもなく「不可解な欲動」のはたらきと呼んでもいい。​

​ この後、先生の自殺をめぐって語り合われる内容捨てておけませね。「明治精神」というありがちな解釈に対して、「近代社会」がもたらした孤独を指摘するあたりも、なかなかスルドイ。​

 ライブショーで笑いを取って遊んでいるというような内容ではありませんね。興味はあるけど、まだ読んでいないなあという人から、漱石は一応読んでいますという、まあ、高等学校の先生のような人まで、飽きさせないし、話もうまい。前編問答ですか読みやすい。

偶然の出会いですが、掘り出し物でした。おすすめですね。S

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最終更新日  2020.10.29 22:58:24
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2019.09.13
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​​​​​​中勘助「銀の匙」(ちくま日本文学全集)


 江藤淳「漱石とその時代 第五部」を読んでいます。その中に「銀の匙」という章立てがあることに、はっとしました。​

​​​ どうして、中勘助が?というのがぼくの驚きの理由でしたが、実は中勘助のデビュー作にして、永遠の名作「銀の匙」は、漱石「行人」中断の埋め草原稿だったというのです。​​​​​​​​

​​​​​​ 夏目漱石は後期三部作と呼ばれることになる連作長編の、第二作、「行人」1912年(大正2年)12月に連載を始めますが、胃病の悪化のために3月で中断します。その際、漱石が朝日新聞に推薦したのが「銀の匙」だったのだそうです。これが、まず一つ目の「そうだったのか」ですね。​​​​​​

​​ ところで、推薦にあたって、漱石中勘助宛に手紙を書いています。その中に、こんな一節があるそうです。(もちろん孫引きです) ​​​

追白 あれは新聞に出るやう一回毎に段落をつけて書き直し可然候(しかるべくそうろう)。ことに字違多く候故御注意専一に候、夫から無闇と仮名をつづけて読みみくくも候夫には字とかなと当分によろしく御混交可然か、
​ ​この手紙の内容をめぐって江藤淳はこう言っています。​
​ 彼(漱石)の「銀の匙」への打ち込み方はなかなか尋常一様のものとは思われない。段落の漬け方の支持といい、一回分の分量の見当を教えているところといい、いたれり尽くせりで、ほとんどよく書けた自作に対してと等しい愛着を、漱石が無名の新人のこの処女作に注ぎ込んでいるように感じられるからである。​
​ 手紙で、「無闇と仮名をつづけて読みみくくも候夫には字とかなと当分によろしく御混交可然か」という苦言を呈している漱石は、実は、「銀の匙」の作者が多用する仮名の効果に、少なからずたじろいでいたのかもしれない。「字とかな」とを等分にした方がよいという漱石の考えは、当然小説記者の常識であったに違いないが、次のような箇所に示されている仮名の力は、おそらく漱石の想像を絶するものがあったに相違ないのである。​
​​​​ こう書いた江藤淳「銀の匙」から、次のような引用を行っています。​​​
「ひいらいた、ひいらいた、なんのはなひいらいた、れんげのはなひいらいた・・・・」

小さな輪がそろそろ廻りはじめたのをみて伯母さんはすかさず囃したてる。謡の声がだんだん高くなって輪がだんだんはやく廻ってくる。平生ろくに歩いたことのない私は動悸がして眼がまわりさうなのでもう手がはなしたいのだが、みんな夢中になってぐんぐん人を引きずりまわす。

そのうちに

「ひいらいたとおもったらやつとこさつうぼんだ」

といって子どもたちは伯母さんのまはりへいちどきにつぼんでいったもので伯母さんは

「あやまつた あやまつた」といつて輪からぬけだした。「つうぼんだ つうぼんだ、なんのはなつうぼんだ、れんげのはなつうぼんだ・・・」

つないだままつきだしてる手を拍子につれてゆりながらうたふ。

​「つうぼんだとおもつたらやつとこさとひいらいた」​


​​​​ 「銀の匙」を見出した漱石の手紙の中に、江藤漱石の「驚き」と「たじろぎ」のようなものを読み取ったようです。「銀の匙」という作品の、珠玉ともいうべきこのシーンを引用しているのは江藤淳です。​​​​
​​​ 江藤漱石「銀の匙」への評価の理由を、​

​「漱石は『銀の匙』の世界が、おそらく裏返された『坊ちゃん』の世界であることに気付いていたかもしれない」​

 ​と喝破したうえで、この愛と安らぎの小宇宙が、「仮名」によって成立していることにたじろいでいる小説家漱石を描いています。
 これが、ぼくにとっての二つ目の「そうか、そう読むか」という驚きです。舌を巻くのは、何よりも、引用部分のすばらしさです。​​​
 なにげない、師匠と弟子のやり取りの中から、それぞれの文学の本質に迫ろうとする批評家江藤淳の、こういう手つきが、ぼくは好きです。ただ、これには、好き嫌いのあることでしょう。

​​ それならば、どうでしょう。まず、中勘助「銀の匙」。お読みになっては。がっかりすることのない作品だと思います。「仮名」書きの秘密に触れてみませんか。​​

S​※投稿の「中勘助」(ちくま日本文学全集)は蔵書の写真です。​

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最終更新日  2020.10.14 21:32:09
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2019.07.29
​​​​​​​​​​​​和田茂樹編「漱石・子規往復書簡」岩波文庫​​

 ぼくが時々お邪魔する「女の園」の図書館には「岩波文庫」とか「岩波現代文庫」が、きちんとそろっている。時々棚の前に立つと、何だかわくわくする。若いときから、この文庫は、マジに教養だった。
 もっとも、ぼくにとって岩波文庫は図書館で借りる本ではなくて、なけなしの小遣いで買う本だった。今でも、新刊書の本屋さんに行くと棚を探す。ところが、例えば神戸では、これをきちんとそろえている本屋は多分、サンパルのジュンク堂だけだと思う。
 
​​​​​​​​もっとも、いまどき岩波文庫なんて読んでる人は珍しいのかもしれない。女子大の棚がすっきり、何の乱れもない風情なのも、当然といえば当然かもしれない。
 とは言うものの、この文庫はなかなか捨てがたい。たと​えば​「夏目漱石」​を読もうと思うと、この文庫でたいてい読むことが出来る。
 代表作、高校の教科書にも、その一部が載っている「こころ」とか「それから」とかだけでなく、親友正岡子規との手紙のやりとりを全部集めた「漱石・子規 往復書簡集」とか「漱石俳句集」まである。
今日「案内」しようと持ち出だしてきたのは​​​​​​​​和田茂樹編「漱石・子規往復書簡」岩波文庫​​だ。
 ​​こんな本は大学の日本文学科に​でも行って、漱石の研究をする人が読めばいいなんて考える人が多いだろうけれど、本当は高校生とか、ちょっとした漱石好きの人が読めば、ちょっとお得な、イイ本のようにぼくは思う。​
​​ なにせ手紙のやり取りなのだから、少々、読みづらい面もあるけれど、読み続けてゆくと漱石子規もただの人であったことがわかる。それが、うれしくもあり、哀しくもある。​​

「明治34年11月6日()子規・正岡常規より在ロンドン漱石へ
 僕ハモーダメニナッテシマッタ、毎日ワケモ無ク号泣シテ居ルヨウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雑誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。ソレダカラ御無沙汰シテスマヌ。今夜ハフト思イツイテ特別ニ手紙ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カッタ。近頃僕ヲ喜バセタ物ノ随一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガッテ居タノハ君モ知ッテルダロー
   ―中略―
 僕ハトテモ君ニ再会スルコトハ出来ヌト思ウ。万一出来タトシテモソノ時ハ話モ出来ナクナッテイルダロー。実ハ僕ハ生キテイルノガクルシイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰来(古白曰く、来たれり)」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。
 書キタキコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉エ。
 明治三十四年十一月六日 燈下ニ書ス。 東京 子規拝
 倫敦ニテ  
   
​漱石兄(註 古白とは、先年自殺した、二人の共通の友人、藤野古白のこと。)​

​​ この手紙を書いた正岡子規という人が短歌・俳句の革新という近代日本文学史に残る歌人で、相手がロンドン留学中の漱石・夏目金之助​​
 子規はこの手紙の十ヶ月後の明治三十五年九月十九日、

糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな
​ ​​と詠んで、永眠しました。享年35歳でした。彼の命日は「糸瓜忌」「獺祭忌」とも呼ばれています。今、思えば、若い、あまりにも若いですね。
 ​​
この句は、彼が社員だった「日本」という新聞に載ったらしいのですが、「絶筆三句」と呼ばれています。残りがこの二句。
痰一斗糸瓜の水も間に合わず    ​
​をとヽひのへちまの水も取らざりき​
​​ 漱石が倫敦で、子規の訃報を聞いて詠んだのが次の句。 ​​​​

 倫敦にて子規の訃を聞きて

   筒袖や 秋の棺に したがわず
   
手向くべき 線香もなくて 暮れの秋
   
霧黄なる 市に動くや 影法師
   
きりぎりすの 昔を忍び 帰るべし
   
招かざる 薄(すすき)に帰り 来る人ぞ
​​ 何とも言いようがない哀しい句ですね。ちなみに「きりぎりす」は、野原で野球に戯れていた子規の若かりし日の風情の表現と取るのが、一般のようです。
 
二人は明治と同い年の同級生。話が、横にそれたっきりですが、こういう事もこの岩波文庫でみんなわかる。どうぞ手に取ってみてください。ただ、子規の辞世の句は、「病床六尺」(岩波文庫)にはないようです。

 ちなみに、正岡子規は本名常規、通称升(のぼる)、号が子規。獺祭書屋主人とも名乗りました。また、漱石の命日は1916年、大正5年12月9日。こちらは「漱石忌」と呼ばれているようですね。
 岩波文庫についておすすめを書くつもりが横道にそれました。あしからず、ご容赦ください。(S)

​追記2019・07・31
​ 伊集院静「ノボさん(上・下)」(講談社文庫)は、正岡子規の伝記小説といっていいと思いますが、出色の出来栄えです。彼の世話を、献身的に続けて、最後を看取った母「八重」と妹「律」を描いたところがこの作品の肝でした。八重が子規の臨終の場で発する、最後のセリフは、ここには書きませんが、今思い浮かべても涙が出ます。​
 この母と妹あっての、子規だったことを、つくづくと感じさせられました。気になれた方はどうぞ、お読みください。
 
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最終更新日  2020.10.26 01:58:06
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2019.07.03
​​​​芥川龍之介「地獄変、その他」(芥川龍之介全集 ・ちくま文庫)

​​

​ ​高校一年生の国語の教科書に『絵仏師良秀』(宇治拾遺物語)という説話が出てきます。​
 ​​​自分の家が燃えるのを目の当たりにして「あはれしつるせうとこかな」、つまり「ああ、もうけ「所得」たものだ」と嘯(うそぶ)いた絵描きの話ですね。「こいつ、ちょっと、大丈夫かいな。」と言いたいところなのですが、「宇治拾遺物語」(新潮古典集成ほか)の中では、​
​「そののちにや、良秀がよぢり不動とて、今に人々愛で合へり」​
 ​と、まあ、かなり好意的なニュアンスの結論になっています。​​​
 お不動さんの絵を上手に書けることが、何より優先する価値だと信じているこの絵描きのことを、当時の語り手はそんなに悪くは言っていません。
 そこの所は現在の「人間観」と比べてどうでしょうね。「宇治拾遺物語」の編者の世界観にもかかわるのでしょうか、ぼくには面白いのですが。

​​ ところで、今から千年ほども昔の世間で語り伝えられていたらしいこの人物に興味を持って、小説まで書いている作家がいます。御存知、芥川龍之介ですね。​​
​ 彼は「地獄変」(ちくま文庫・芥川龍之介全集)という短編小説で、実に「人間的」な良秀を描いています。「その後の良秀」とでもいうべき物語ですね。
 リアルな現実の直視こそが「芸術の肥やし」と信じたこの「絵描き」は地獄を描くためにこの世の地獄を見る事を願うのです。
 結果、誰もが驚嘆する屏風絵「地獄変」を描きあげた絵仏師は・・・・・。

​ その結末が実に「人間的」なのですね。つまり鎌倉時代の「良秀像」とは違うのです。まあ、そこに近代人である芥川龍之介がいるのだと思いますが、あとは読んでのお楽しみということにしますね。​
​ ​ところで、教科書に出てくるといえば、彼の「羅生門」という小説は高校現代文の定番教材ですね。​​
​ ​​​お話は皆さんよくご存じだと思いますが、同名の映画もあることはご存知でしょうか。
 名画の誉れ高い作品で、黒沢明が監督し、三船敏郎が主演しています。おそらく見たことのない皆さんに、こんな言い草もなんですが、この頃の三船敏郎はホントによかったなあ、と思いますね。(長いこと見てないけど)​​​​

​ ​高校の授業とかで、小説「羅生門」をお読みになった若い皆さんにも、是非ご覧になっていただきたい作品です。
 こう紹介すると、小説に登場する「下人」と「老婆の」の醜悪な対決のシーンとかを思い浮かべる方がいらっしゃるかもしれませんね。「老婆」は誰がやっているのかとかね。​​

​​​ ​申し訳ありません。じつはこの映画「羅生門」のストーリーは小説「羅生門」とは違うんです。同じ芥川の「藪の中」という別の小説を原作にした映画でした。事件の犯人は調べれば調べるほど「藪の中」というお話しで、「下人」の行方の話ではありません。​​​​
 ​​​​そういえば、この映画で殺された旅の武士を演じた森雅之という俳優は、ひょっとしたら、みなさんが教科書で出会っているかもしれない「生まれいづる悩み」「小さき者へ」の作家、有島武郎の息子ですね。​​​​
​ 有島武郎芥川龍之介といえば、ともに、自ら命を絶った作家ということで有名ですが、なぜか教科書は自殺したり、病気で早死にした文学者が好きですね。太宰治しかり、梶井基次郎、中島敦しかり。​
 話がどうも変なほうに行っていますが、「死」をめぐる感じ方というのは、その昔と明治時代以後の社会とでは異なっている面があるようです。
 それは裏返して言えば、「生きる」という事をめぐる考え方も時代や社会によって異なっているということでしょう。
​ 自我や自意識について執拗に問いかけることを作品群のテーマの一つとして小説を書き、若死にした作家がいます。
 人が存在することや、他者との関係についてこだわりつづける軌跡を小説として残した芥川龍之介有島武郎のことです。
 彼らは大正から昭和の前半に生きた作家ですが、彼らが、「生きること」よりも「死ぬこと」と親しかったように見えるのはなぜでしょうね。ぼくにはそこがわからないところです。​
 
生き続けることが、上手だったとはいえなかった彼らの作品が、「人間について」真摯に問い掛けているスタンダードとして教科書には載っていて、高校生になって初めて出会う近代ブンガクとして君臨しています。別にいやみを言いたいわけではありませんが、いかがなものでしょうね。
 
​​たとえば「羅生門」という作品について、物語の歴史的背景、平安時代の風俗や門の形に拘泥してしまいがちな作品解釈が教室の普通の風景だと思います。
 しかし、有島武郎の場合はほぼ定説ですが、「生真面目」一方に見える芥川にしても姦通罪を恐れて命を絶った可能性を否定しきれません。
 そういう時代の、そういう作家の作品であるというコトも頭の片隅に置いておく事は、教室での仕事を目指すみなさんには無意味ではないかもしれませんね。​​
なんか偉そうですみませんね。

追記2020・07・05

 この文章は、国語の教員を目指している大学生の皆さんに向けて書きました。今年も同じような出会いをしています。
 「良秀」についてなら、「芸術至上主義!」、「羅生門」に下人については、それぞれの経験とてらしあわせてでしょうか、「理解できない境遇」と言い切る若い人が増えました。
 学校の「国語」も近代小説も危機ですね。

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最終更新日  2020.10.27 22:07:17
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2019.06.12
​​​​​​​​​​​​​​「芥川龍之介の死」をめぐって ー 大村彦次郎「文士の生きかた」(ちくま新書)


​​​  春から夏にかけての季節が巡ってくると、何だか疲れた気分がやってきます。今年は、長い連休が明けて、忙しく活動する若い人たちが疲れるのはわかるがどうして何もしない老人がこんなに疲れなければならないのかというほど草臥れています。もう年でしょうか?
 ​時々でかけている女子大では、授業の練習で高校一年生の定番教材「羅生門」を読んでいます。二十歳になるかならないかの女子学生さんが「下人の行方は?」なんて言葉を口にするのを耳にして、40年前の高校生もこの作品を教室で読んだことを思い出しました。​
​​ 同級生の一人が放課後の教室で「ある阿呆の一生」「侏儒の言葉」という作品について、なんというか、文庫本を振り回しながら言っていたことばを覚えています。
​侏儒というのは小人のことだ。君は知っているか。芥川は自分を小人のようにつまらないヤツだと考えていたんだ。​
​ ぼくは、みんなより一歩前にいるような話し方をするこの男がなんとなく嫌いだったのでしょう。癪に障ったに違いありません。​
​​芥川なんていう作家に興味はない。​​
​ そう、いい捨てて教室を出て行った記憶があります。​
​​ その出来事がきっかけだったに違いありません。その後、図書館で借り出した全集版で話題にされた作品だけでなく、芥川の作品のほとんど全部を読んだ記憶があります。
 理由はともあれ、立て続けに読み継ぐことが出来たのだから面白かったに違いありません。
 その結果なのでしょうか。​
「将来に対するただぼんやりとした不安」
​ この「ことば」が高校生だったぼくの頭のなかを占領してしまったのかもしれません。この言葉を残して睡眠薬で自殺した作家というイメージが、その後もずっと心に残りました。
 いったい、何故、こころを奪われたのか定かではないのですが、自分の事を侏儒だと意識した作家が自殺することで人生を終えたことに、少年だったぼくは、かなり強い「納得」を感じたのかもしれません。
 あれから、何年たったのでしょう。最近、大村彦次郎という講談社で文芸雑誌の編集者をしていた人の「文士の生きかた」(ちくま新書)という本を読んでいると、芥川の自殺は、実は、青酸カリによる服毒自殺であって、原因も女性問題と書かれていて驚きました。​​​​
 芥川は年下の友人である画家の小穴隆一に自殺の決意を一年以上前に告げていた。その頃には神経衰弱が極度に昂進し、いつ死んでもおかしくない状態で、自殺の方法や場所についていろいろ模索していた。
 芥川を自殺に追いやった理由については、創作上のゆき詰まりや健康上の問題の他に、さまざまな世俗の事情があげられる。
 たとえば、小穴に残された遺書から、秀しげ子という人妻との姦通が死の一因ではないかといった説があり、当の小穴自身もそう信じていた。友人の作家江口渙も同じくその説だった。 -略- 
​​ まだ姦通罪があった時代で、北原白秋はその罪で刑に服し、有島武郎はそれを怖れて波多野秋子と心中した。」​​​​
​ これを読んで感じた感想を一言でいえば「なんだそうだったのか」ということになります。芥川は「侏儒の言葉」という箴言集の中にあまりにも有名な、こんなことばを残しています。
 人生はマッチに似てゐる。重大に扱ふには莫迦々々しい。重大に扱はなければ危険である。

​​ 異性関係という人生のマッチ棒のひとつをどのように扱った結果、どのように翻弄されたのでしょうね。このページにのせたスケッチは、引用に出てきた小穴隆一という画家による芥川のデスマスクだそうです。
 死顔というものは苦しみからの解放というふうにみられる場合が多いように思いますが、この絵は「マッチ一本」の危険に疲れ果てた顔というべきではないでしょうか。​ぼくにはそう見えるのですが。
 こんなふうなことを考えながら、ちくま文庫版「芥川龍之介全集」(全6巻)を、パラパラしていて、巻末にある、作家中村真一郎の解説でこんな文章に出会いました。
 彼の全作品を、或いは彼の自選の一冊の小説集を続けて読む時、僕らの眼下に展開するのは、正しく西洋の二十世紀の作家たちの照明してくれた複雑な内面世界に近いものである。
 読者は彼の作品を読み進めながら、十九世紀の長編小説を読むときのように、世は様々、という感想を持つ代わりに、世を眺める人の目は様々だ、世の姿を受け入れる人間の心には様々な状態があるものだ、という感想を抱く。
​​ これが芥川の作品の現代の読者を誘惑する、最も深い魅力の秘密であるに相違ない。」​​​
​ 後世の読者達の一人であるぼくもまた、彼の死の理由までもを、あたかも発表された一つの作品であるかのように「様々な理由があるものだ」と受け取ってきました。
 中村の論は十九世紀小説と、二十世紀小説の構造的変化を基底にした、まっとうな芥川評価です。ぼくの感想は単なる覗き趣味にしれないでしょう。相手が有名人であったとしても、他人の死を覗き見して笑う権利は誰にも無いことを危うく忘れるところでした。
水洟(みづぱな)や 鼻の先だけ 暮れ残る
​  芥川は最後に、こんな句を残して自ら命を絶ったそうです。三十五年の短い生涯でした。命の最後の灯りを、それでも、諧謔を忘れることができない眼で見つめている、三十五歳の青年のことを「しみじみ」と受け取る年齢にぼくはなってしまったようですね。(S)

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最終更新日  2020.10.25 02:45:29
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2019.05.12
丸谷才一「闊歩する漱石」(講談社文庫)​​


​​​ この案内で、蘊蓄ふうに書いている内容のほとんどは、独創ではないことを吉本隆明の案内で書いた。​​​

​​​​​ たとえば、「三四郎」を「都市小説」、あるいは、新しい社会との「出会い小説」として読んで案内しているのは、丸谷才一の評論集「闊歩する漱石」(講談社文庫)の中に「三四郎と東京と富士山」というエッセイがあって、それに教えられていることは明らかだ。​​​
 手元に2000年の初版がある。出版されたときに読んだことは間違いない。それ以来、高校生相手のおしゃべりの場面においても、「案内」のような内容をしゃべってきたことを、今、思いかえしている。
 もっとも、もう20年近く昔の読書だから、確たる記憶があるというわけではない。その結果、ぼくがそう考えているということになってきたのだろう。​

 こう書くと、人間の言葉を口真似する鸚鵡や九官鳥のように、永遠に意味にはたどり着けないようだが、そうだろうか。

 口真似を続けた結果、口から出てくる言葉の意味を分かっていると思い込む鸚鵡を想像すると異様だが、人間にとっての様々な解釈や理解は、基本、そういうプロセスのものではないだろうか。

 独創とかにたどり着くのは生半可なことではないし、知っていると思っていることでも、本当は、どこでどう知ったかということが処世のモラルとしても大切だと思うのだが、最近は、それを忘れ始めていることに気づくことが多い。
 
​​特に、丸谷才一のように学識の広さと深さが超絶していて、その上、おしゃべりな人から受け取った知識や納得は、時には立ち戻ることがないと、自分自身の空回りに気づかない、ただの鸚鵡ということになってしまうので要注意ということだ。​​​
 
​​今回、案内をもくろんでいる、「闊歩する漱石」には、ほかに「忘れられない小説のために」、「あの有名な名前のない猫」という二つのエッセイが収められているが、それぞれ、漱石の「坊ちゃん」と「吾輩は猫である」という小説を主題にしながら、丸谷一流の博覧強記がさく裂していて、痛快、かつ、超ペダンティックな文学論だ。​​
 
​面白いこと限りなしなのだが、「坊ちゃん」を俎上に挙げて、あざやかに料理して見せる丸谷は、あらゆる食材を知り尽くした、フランス料理の腕利きシェフの趣だ。​

​​​​​​​​​​​​​​ 「あだ名の効用」に始まって、「もの尽くし」、「擬英雄譚的乱闘」、「典型としての人物描写」と料理の種類も多彩な中、しょっぱな、「綽名文学」の代表として、ラブレーの「ガルガンチュア物語」出てきたところで、ミハイル・バフチンを思い出すグルメがいればとりあえず拍手!で済めばいいのだが、「源氏物語」へすすみ、「平家物語」、「千夜一夜物語」と話を広げて澄ましている。
 次にやってくる「流謫の文学」の皿には、小樽の啄木隠岐の小野篁まで、彩も鮮やかに盛り付けられ、味わいの変化が用意され、決して飽きさせない。​​​​​​​​​

​​​​ ​​​​​​メイン・ディッシュにはイギリス18世紀のの大河小説、フィールディングの「トムジョーンズ」が筋、解説付きで差し出される。もちろん漱石が倫敦でこの作品を読んだことが間違いないことに加えて、創作のインスピレーションを得たに違いないという、丸谷の独創的見解がソースとなってかかっている。​​​​​​​​​
 
​​今、こうして案内している丸谷のコース料理の現在位置は、ほんのとっかかりに過ぎない。ここから、いったい何がでてくるのか、テーブルに着いて、味わっていただくほかはないが、最後のデザートを口にしながら、迂闊な客は、このテーブルで、ジョイス、プルーストへ続く、反19世紀小説、モダニズム文学へのコースを堪能したことに、ようやく気づくという趣向になっている。​​

​​​​​​​ そこでは「カーニバル論」のミハイル・バフチン「もの尽くし論」のジャクリーヌ・ピジョーが、この料理の味の決め手。抜群の切れ味の包丁だが、本書「闊歩する漱石」の一つ目のテーブルに過ぎない。​​​​​​​

 残りの二つのテーブルも、様々な食材とソースが用意されていて、素人グルメには蘊蓄の山なのだが、そこはそれ、あのナイフが、とか、あの食材がと、料理人の後を追いかけたくなるのがミーハーの常。

 その結果、図書館とか、本屋さんとか、あれこれ忙しいことになる。それもまた、鸚鵡の口真似から人間の口真似への進化のプロセスなのかもしれない。

​​​​ まあ、しかし、丸谷才一の場合、料理の口当たりは抜群なのだが、口真似をするのは、少々、忙しすぎるし、骨が折れる。困ったものである。(S)2018/10/29​
​追記2019・10・16​​
 ​​​​​​​漱石関連に限らず、丸谷才一には「案内」したい評論が多い。小説では「笹まくら」(新潮文庫)が代表作なのだろうが、ぼくには「樹影譚」(文春文庫)が印象深い。新聞の書評欄も工夫とか、対談の面白さも読んでほしい。大野晋との「光る源氏の物語」(中公文庫)「日本語で一番大事なもの」(中公文庫)も読み逃すわけにはいかない。
 先日、丸谷才一が愛した​イラストレイターの和田誠の訃報が伝えられた。「ああまた一人、好きだった人が」と思いながら、丸谷才一の一冊、一冊の本を棚から引っ張り出して手に取って、才能を認め合っていたに違いない二人を思い出した。
 丸谷才一の新刊に出会えなくなって何年経つのだろう、「お楽しみはこれからだ」というわけで、向こうで再会し、二人のコラボが本となってこの世に届けられたら、どんなに嬉しいだろう。和田誠、「軽妙で批評にみちた大才」がこの世を去ったことを心から哀しいと思う。​​​​​​​





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最終更新日  2020.10.06 22:17:12
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2019.05.11
​​​​​​三浦雅士 「漱石 母に愛されなかった子」(岩波新書)
​​​​​​​​
 先生は「おい静」といつでも襖の方を振り向いた。その呼びかたが私には優しく聞こえた。返事をして出て来る奥さんの様子も甚だ素直であった。ときたまご馳走になって、奥さんが席へ現われる場合などには、この関係が一層明らかに二人の間に描き出されるようであった。― 中略 ―
 
当時の私の眼に映った先生と奥さんの間柄はまずこんなものであった。そのうちにたった一つの例外があった。ある日私がいつもの通り、先生の玄関から案内を頼もうとすると、座敷の方でだれかの話し声がした。よく聞くと、それが尋常の談話でなくって、どうも言逆いらしかった。先生の宅は玄関の次がすぐ座敷になっているので、格子の前に立っていた私の耳にその言逆いの調子だけはほぼ分った。
 
​​​ そうしてそのうちの一人が先生だという事も、時々高まって来る男の方の声で解った。相手は先生よりも低い音なので、誰だか判然しなかったが、どうも奥さんらしく感ぜられた。泣いているようでもあった。私はどうしたものだろうと思って玄関先で迷ったが、すぐ決心をしてそのまま下宿へ帰った。(夏目漱石「こころ」)​​
​​​​​​​​ ​​​ 高校の教室で出会うことがある夏目漱石「こころ」(新潮文庫)の一節ですが、教科書には載っていない「先生と私」のはじめの頃に出てくる描写です。


 評論「漱石」(岩波新書)の中で三浦雅士「こころ」のこの部分を取り上げてこういっています。​​​​​​​​

​ 『心』は冒頭、語り手の学生が、先生の淋しさ、奥さんの美しさを強調し、先生と奥さんは仲のよい夫婦の一対であったと断言するために、夫婦の危機などおよそ感じられないのだが、将にその断言と同時に、先生と奥さんの喧嘩もまた報告されるのである。玄関先で言い争う声を聞き、奥さんが泣いているようでもあったので語り手は遠慮して下宿に帰るのだが、約一時間後に先生がわざわざ呼び出しに出てきて一緒に散歩に出ることになる。
 妻と喧嘩して神経を昂ぶらせたのだというのです。
 どうして、という語り手の問いに、先生は、妻が自分を誤解する、それを誤解だといっても承知しないので、つい腹を立てたと答える。
 この経緯は、後に、奥さんの口からも語られます。先生は世間が嫌いだ、人間が嫌いだ、従ってその一人である自分のことも嫌いだ、そうとしか思えないというのです。
 私はとうとう辛抱しきれなくなって聞きました、と奥さんは続けます、私に悪い所があるのなら遠慮なくいってください、改められる欠点なら改めるからって、すると先生は、お前に欠点なんかありゃしない、欠点は俺の方にあるだけだというんです、そう言われると私、悲しくなってしようがないんです、涙が出てなおのこと自分の悪い所を聞きたくなるんです、と奥さんはそう物語るのである。
​ ​ 先生夫婦を危機に陥れているのいったい何か。なぞめいているその謎に気を取られてしまうために、この若くして引退したとでも言うほかない淋しい夫婦の溝は薄められるだけ薄められてしまっているのだが、しかし、危機にあることに変わりはない。​(​三浦雅士「漱石」)​
 一人の女性をめぐって、三角関係に陥った二人の男性が、自殺することで自らの生き方の筋を通そうとする。そこのところを、たとえば教科書を作っている人たちは高校生に読ませたがる。そういう、いわば教養小説として「こころ」は読まれ続けてきました。
 しかし、この小説の面白さ、本当の悲劇性は、そのような男たちの傍らに「悲しくなってしようがない」奥さんを描いているところにあるのではないでしょうか。
 現代社会に生きているぼくから見て、先生やKのような男性にさほどのリアリティを感じることは出来ません。現代にも通じる普遍的な悲しみは、むしろ、この奥さんの悲しみの方にこそ、真実があるのではないでしょうか。
 愛し合って暮らし始めたはずの二人の人間は、互いを本当に知り合うことは出来るのでしょうか。

「こころ」の解釈をめぐって、妻のお静が先生とKとの間にあったことに最後まで気付かないのは不自然だという考え方があります。​そうでしょうか。ぼくにはそうは思えないのです。
 親子であることの「愛」を信じ切れなかった漱石が書いたから言うわけではありません。我々は、親子であるとか、夫婦であるとかという関係によって、何かをより深く知るという契機を、本当に、与えられているのでしょうか。むしろ、信じるとか、悪くいえば分かったつもりになることによって、相手を見失っているのではないでしょうか。
 ぼくには、単なる他人ではなく、夫婦だからこそ、お静に先生が抱えもっている謎を解く方法があるとは思えないのです。
 一方で、人は心の奥底にある「ほんとうの姿」を誰かに伝えることができるのかと考えれば、先生の沈黙は自然だとも思います。そのような、夫の不機嫌な沈黙の謎に、妻であるお静はどうすれば近づくことができるのでしょう。

 相手の心に寄り添い続けている人間だからと言って、相手の心の謎を解くことができるのでしょうか。
 解くためには、ひょっとすると、寄り添うことをやめるしかないのではないかとぼくには思えます。

 迂闊とも見えるお静の「気付かなさ」は、むしろ「自然」と呼ぶべきではないでしょうか。そして、その「気付かなさ」中にこそ人間の普遍的な哀しさがあることを小説は描いているのではないでしょうか。
 実は、先生にもお静の哀しさが見えていないことがそれを証していると思うのです。

​​ 三浦雅士は、評論「漱石」の中で、作家漱石​「母の愛を疑い続けながら、その疑いを隠し続けた人間」​として捉え、彼のすべての作品の底には、その〈心の癖〉が流れていると論じています。​​
​ ​たとえば、ユーモア小説として名高い「坊ちゃん」の下女「おきよ」に対する、偏執的とも言える坊ちゃんの甘え方は、その具体例であるという具合に。​
​​​​ 三浦の論に、誰もが納得できるかどうかはわかりません。しかし、ぼくには先生とお静のこの場面を引用し、ここに漱石の〈心の癖〉が露見しているという三浦の指摘はかなり納得のいくものに思えます。先程いいましたが、この場面にこそ、漱石のこの作品の「凄さ」があると思うからです。
​​​​
​​​​​ 先生はKのまなざしを、おそらく死ぬまで怖れ続けますが、一方で奥さんの悲しい愛のまなざしが注がれ続けていることには気付けません。それは、確かに母の愛を信じられなかった男性の宿命のようなものかもしれませんが、ひょっとすると、それは人間というものの他者との出会いの宿命であるともいえるかもしれません。
 しかし漱石は、先生の「心の謎」も含めて、全てを受け入れようとする「お静」の姿をこそ描いているのです。ここが、漱石のすごいところだと言えないでしょうか。
 良い評論というのは、論点の面白さはもちろんですが、引用の上手さに、唸るような面白さを持っているものです。三浦雅士「漱石」は随所に目からうろこの引用の山です。この評論をガイドにして漱石を通読してみるなんていうのはいかがでしょうか。(S)​2018/10/04​​​​​


​​追記2019・05・11
​​ 以前の記事をかなり書き直しました。三浦雅士の紹介というより、ぼく自身の「こころ」に対する感想というニュアンスの方が強くなりましたが、読んでいただけると嬉しいです。​​​​​​​​​​​​​

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最終更新日  2020.10.08 02:32:55
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