カン・スンヨン「1980 僕たちの光州事件」シネリーブル神戸no309
カン・スンヨン「1980 僕たちの光州事件」シネリーブル神戸 映画は血まみれの一人の青年が、闇の町を銃を引きずるようにし、ヨロヨロと歩いてくる姿を映しだし、突如、暗転して「1980」のタイトルが映し出され、花輪が飾られた食堂でジャージャー麺という料理をする、店主のオジイサンの様子が明るく映し出されます。 1980年、5月17日ですね。中華屋さんを新規開店してご機嫌のおじいさんは、お店を継いでくれるかもしれない孫の小学生チョルス君が可愛くてしようがないのですが、チョルス君にはお店を継ぐ気持ちはありません。もっと、かっこいいお仕事がしたい。お母さんは妊娠中ですが、お店の手伝いを頑張っています。お父さんはソウルの大学を出た秀才ですが、なんか、ちょっと、人には言えない活動家らしいですね。でも、開店の、この日にはチンドン屋のピエロの格好で、一緒に記念写真に写っています。お父さんの弟、だから叔父さんは、陽気な呑気者で、お店の出前持ちです。お母さんの妹の叔母さんも同居しています。チョルス君の仲良しはヨンヒちゃん、隣のパーマ屋さんの娘です。ヨンヒちゃんのお父さんは軍隊で働いています。 で、映画はこの日から10日間、5月27日までの間に、光州市の下町で、平凡に暮らしていたこの家族に起こった出来事を、あれから40年以上たって、1980年の、あの日におじいさんも、叔父さんも、叔母さんも、おそらく、お父さんも失ってしまったチョルス君の記憶をたどるようにして描かれた作品でした。 あの時、小学生だったチョルス君は、今、50歳を越えているはずです。10年ほど前だったとおもいますが、チョルス君と、ほとんど同い年で、光州生まれのハンガンという女性作家が「少年が来る」(クオン)という、あの時死んだ少年や少女たちのことを小説に書きました。彼女はその後、ノーベル文学首で讃えられましたが、この映画の監督カン・ズンヨンがチョルス君の体験を映画にしようと考えた気持ちの奥底には、ハンガンという作家が、あの作品を書いた気持ちとつながるものがあると思いました。 映画のはじまりで、銃を引きずって歩いていたのは、成り行きで民主化運動に加わることになった、呑気な出前持ちの叔父さんでした。叔父さんは市民虐殺の現場から、自宅の中華食堂のお隣の、パーマ屋さんのご亭主、チョルス君の仲よしのヨンヒちゃんのお父さんが仲良く暮らしていたはずの隣人たちを拷問し、銃を向け、情け容赦なく皆殺しにした悪い軍人の一人だったことを知り、「一矢、報いん!」 まあ、そういう気もちでしょうね。瀕死の姿で街を歩き、自宅を通り過ぎ、パーマ屋さんまでたどり着きます。一旦は、銃を、お隣の家族に向け引き金に指をかけますが、幼いヨンヒちゃんの姿に思いとどまり、銃を自らに向けて引き金を引きます。 彼が、最後にヨンヒちゃんに残した言葉は「チョルスとヨンヒは仲良くしてほしい。」 でした。 韓国の現代史において、人びとが追い求めてきた「希望のことば・祈りのことば」 ですね。胸を打たれました。 この映画を観た前後に、全く、偶然ですが、気鋭の翻訳者、斎藤真理子の「韓国文学の中心にあるもの」(イースト・プレス)を読みました。ボク自身が韓国の現代小説や映画を読んだり見たりするうえで、何も知らないことを思い知らされた本でしたが、この作品のメッセージの深さを思い知る、絶好の読書でしたよ(笑)。 何はともあれ監督に拍手!でした。監督・脚本 カン・スンヨンキャストソン・ミンジェ(チョルス 少年)カン・シニル(祖父)キム・ギュリ(母)イ・ジョンウ(父)ペク・ソンヒョン(叔父)キム・ミンソ(叔母)ハン・スヨン(ヨンヒの母)チョン・スジン(アモーレおばさん)2024年・99分・G・韓国原題「1980」2025・04・14・no059・シネリーブル神戸no309追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)