週刊 読書案内 山下澄人「月の客」(集英社)
山下澄人「月の客」(集英社) 山下澄人の「月の客」(集英社)を読みました。2020年に出たときに買って、もう、何度目かです。 最初に読むときに「月の客」やし! とか思って、米くるる友を今宵の月の客 芭蕉此の秋は膝に子のない月見かな 鬼貫岩鼻やここにもひとり月の客 去来 こんな句を思い浮かべました。まあ、それぞれ江戸時代の有名な句ですが、今更でボクがいうまでもありません。どれも、イイ句ですね(笑)。ことばが描いている世界を月の光がほのかに照らしていて、ほんのり明るい、さすがです。 で、山下さんの「月の客」ですが、何度読んでも、まあ、これらの句が関係あるような、ないような、でも、作品世界を月の光が照らしていることは、確かなのですが、だからどうだといわれれば困りますが、まあ、そういう小説です。 ネットでよめる集英社の作品紹介に「小説の自由」を求める山下澄人による、「通読」の呪いを解く書。とあって、まあ、大変なのですが、続けて登場人物と物語の展開につて 父はおらず、口のきけない母に育てられたトシは、5歳で親戚にもらい子にやられた。だがその養親に放置され、実家に戻ってきたのちトシは、10歳で犬と共にほら穴住まいを始める。 そこにやってきたのは、足が少し不自由な同じ歳の少女サナ。サナも、親の元を飛び出した子どもだった―。 親からも社会からも助けの手を差し伸べられず、暴力と死に取り囲まれ、しかし犬にはつねに寄り添われ、未曽有の災害を生き抜いたすえに、老い、やがていのちの外に出た<犬少年>が体験した、生の時間とは。 という、エライ詳しい紹介までついています。なんで、こういう、ネタバレともいえる紹介が? ですが、お読みになればすぐにわかります。読み終えて、この紹介を読みなおして、問題は、それで、わかったのかどうかということなのですが、ああ、そうだったのか !? と、ようやくわかる作品だからです(笑)。 土手へ出て、下りる、草がはえている、草を踏んで下りる、砂利の道を横切り、再び草地、そしてかたい土、これは確かグラウンド、子どもが野球をする、子どもの声が聞こえて来る、聞こえてくるようだ、聞こえてはいない、足跡がいくつも、小さい足跡、いぬがにいをかいでいる、空は晴れて相変わらず大きな月が出ていて 月はな十五夜かけて満月になんねん その反対は真っ暗、新月、真っ暗 かぐや姫も、手ぇ伸ばして、見えへん見えへん、言うて み、み、水―、や、 ヘレンケラーやん 知らんの? あんた何にも知らんな (P4~P5) 最初に、空に月が出ているシーンです。 穴の前でトシが寝ている、死んでいる、横にいぬがいる、いぬはトシのにおいをかいで、横になる。腹が減ればいぬはトシを食べる大きな月 月から見えている星は、止まったりしない、音もない、時々何かが白く走っては消える、生きものは、もう見えない、見えないが、いる、たくさんの、しかし、それは、いつまで、続く、 もうしばらくは このまま、続く(P189) 最後の最後、実は、月は作品の中でくりかえし描写されますが、これが最後の最後の月です。解説によれば、主人公で、ひょっとしたら語り手だったかもしれないトシと呼ばれる少年、ひょっとしたら、最後はオジサンは、このシーンでは、もう、死んでいて、隣にいぬ、ひょっとしたら主人公だったかもしれない、いぬ、がいて、月が出ています。 ここまでやってきた小説世界のこのシーンには、ここまで、どのシーンにも、ずっと、あったのに、なくなっているものがあります。「声の響き」ですね。み、み、水―、や、ヘレンケラーやん知らんの?あんた何にも知らんな 最初の引用のシーンで、誰が誰に語りかけているのかは定かでないのですが、神戸暮らしのボクには異様にリアルな、そう、神戸弁なんですね、声が響き始めて、180ページの作品中、ずっと、響き続けています。 紹介に「犬少年」とありますが、最後まで、主人公であるらしいトシが犬少年と呼ばれていたことに、ボクは気付きませんでした。 あるのは、誰かが、作品中の誰かになのか、読み手のボクになのか、「知らんの?あんた何にも知らんな」 という声だけでした。 で、最後は、月は空にあるようで、誰の声なのか、もちろん、わからない、静かな声が響きます。もうしばらくはこのまま、続く 文字で書きつけるほかに方法がない小説に「声」を響かせん! とする荒業です。大したものです。 山下澄人が、お芝居の演出家であることは知っていましたが、どんなお芝居をやっていらっしゃるのか?ちょっと見てみたいものですね。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)