次郎長生家の復活を目指して(2)
こんにちは。改めて清水次郎長について調べた静岡の畳屋の姉さんです。 清水次郎長(本名 山本長五郎。文政3(1820)年~明治26(1893)年)は、浪曲、映画で「海道一の親分」として取り上げられました。講談の「清水次郎長伝」も有名で、大政、小政、森の石松等「清水二十八人衆」という屈強な子分もいたそうです。 次郎長は清水の船持ち船頭、海運業者である高木三右衛門の次男として生まれ、米穀商の叔父である山本次郎八の養子になりました。 やがて次郎長は妻帯し家業に従事しましたが、一方では賭博や喧嘩を繰り返し、天保14(1843)年、喧嘩の果てに人を斬ると、妻を離別して家業を姉夫婦に譲り、出奔してしまいます。その後諸国を旅して修行を積み、交際を広げて人間的に成長した次郎長は、清水湊に一家を構えました。 慶応4(1868)年1月の「鳥羽・伏見の戦い」から,、旧幕府軍と新政府軍との内戦である「戊辰戦争」が勃発します。 旧幕府軍を乗せた「かん臨丸」は8月、銚子沖で暴風雨に遭い下田港に漂着、その後清水港に入港し、修理をします。しかし修理が遅れた「かん臨丸」は新政府軍に追いつかれ敗北、乗組員の多くは戦死または捕虜になりました。(「かん臨丸事件」) その時、逆賊として駿河湾に放置されていた遺体を次郎長は小船を出して収容して埋葬し、翌年には「壮士墓」を建立、1887(明治20)年には清水市興津の清見寺に「かん臨丸乗組員殉難碑」を建立しました。 次郎長は、清水港の発展のために茶の販路を拡大することに着目し、蒸気船が入港できるように清水の外港の整備を訴え、横浜との定期航路線を営業する「静隆社」を設立しました。 また、静岡刑務所にいた囚徒を督励して富士市大渕の開墾に携わったり、東京大学医学部卒の植木重敏を招聘して清水町に済衆医院を開設したり、私塾の英語教育を熱心に後援したと伝えられています。 次郎長の死後は梅蔭禅寺に銅像が作られました。このお寺には、次郎長の他、子分の大政、小政のお墓もあります。 さて、この次郎長さんの生家に先週畳を収めさせていただきました。 今週末、いよいよオープンです