「乱れる」のラストについて
成瀬巳喜男の「乱れる」と「流れる」を見直してみたが、「乱れる」は「1回の映画体験」を大事にすべき作品だった。それに比べて「流れる」は、3度見ることになったが、その度に、発見があり、感動も深くなる。 その違いは、どちらが傑作か?ということでもないと思われる。「流れる」が様々な人々と出来事の織りなす映画だとすれば「乱れる」はストーリーが勢いよくラストに向かって突き進む映画である。「乱れる」のラストは、義弟の死体が運ばれていくのを高峰秀子が必死で追うが力つきたかのように、突然立ち止まる。担架は坂道にかかっても速度を落とさずに、知らぬどこかへと運ばれて行く。そのラストがあまりに衝撃的であった。だが、もし姉が追いついたらどうなるだろう?弟の名前を呼んで泣き崩れるのだろうか。今回は冷静にそんなことを考える。成瀬監督と高峰秀子の二人は他のたくさんの映画で、「ここは要らないね」と台本をどんどん削っていったという。「乱れる」は、その主演女優の夫の脚本だから、そうもいかなかったのだろうか。言葉が観念的というかステレオタイプで気になってしまう。 それは仕方がないとして、個人商店を経営する夫が自殺して中北千枝子が「スーパーがうちの人を殺したのよ」と夫の亡骸のそばで号泣するという信じがたいシーンがあった。中北千枝子が泣くなんて?成瀬映画でこんな泣き方があるなんて? ラストで高峰秀子を止まらせたのは映画の冒頭の中北千枝子慟哭シーンに似せてしまうことは避けたいという成瀬監督の「抵抗」ではなかったのだろうか?映画の始まり頃の何かぎくしゃくした、運びが電車のシーンあたりから俄かに成瀬監督らしい詩的で鋭利で抒情的な世界へと変貌していく。これは多くの人が指摘している。撮影の現場で、ラストは脚本通りに撮影されたのだろうか?その点を知りたいものです。エドワード ヤンは、「乱れる」ラストについて「これほどのさりげない優しさはあるだろうか?」と書く。メロドラマ的なシーンを回避したということならば、単に「さりげない優しさ」だったとは思われないのだが?