ヴェネツィア と パラディオ
10年前にヴェネツィア と パラディオについて、面白い論文を読んだ。「a+u」81年7月号「コルナーロとパラディオとカナル・グランデ」マンフレード・タフーリ (訳 須賀敦子)1981年の雑誌なので、現在ではどう評価されているのかと思ったら下記の通り貴重な文章があった。書き留めて置きたい。>古代風にこだわるパラーディオがこのように茶化されたことからもわかるように,ヴェネツィアでは 彼は厳格すぎる古典主義様式の建築家として煙たがられた形跡が濃厚である。16世紀はヴェネツィアの骨格が完成した重要な時代であるが,都市形成に深く関わったサンソヴィーノやサンミケーリなどと比べるとパラーディオは影が薄く孤立した存在であったことを実感する。ラグーナ越しに遠く見られる一連の教会などを別にすると,パラーディオはヴェネツィアの中心部には入り込めず,大運河沿いの貴族の館(パラッツォ)は一つも設計することができなかった。(2005年12月地中海学会月報より 渡辺真弓) >実はヴェネツィアにいる間に敏感になったのは,世界情勢と政治のことである。パラーディオの活動がヴェネツィアでは宗教建築に偏っていたことについても,これまでは厳格すぎる作風が世俗的には受けなかったという論調が強かったが,最近は パトロンや人脈の研究が進んで,教会関係者が多かったことなどが解明されている。建築が政治と密接な関係にあるのは当然かもしれない。(2006年10月地中海学会月報より 渡辺真弓) 「これまでは厳格すぎる作風が世俗的には受けなかったという論調が強かったが」この部分が、タフーリの論文とその後を指す。さて、パラディオがその内部に受け入れらなかった大運河をヴィスコンティは、ゆったりと撮影し、パラディオの傑作、二つの教会も効果的にとらえている。映画『ベニスに死す』である。タジュウーに会えるという、喜びに満ちた幸せな表情、時には喜びに震える、という繊細きわまりない名演技のダーク・ボガート。さて今夜はそのダーク・ボガードに想いを馳せて眠ることにしましょう。