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今回の「にっぽん歴史鑑定」のお題は徳川家光と保科正之。
小督は秀忠に側室を持つことをよしとしなかったほどだったのだが、侍女に手をつけて生まれた「ご落胤」として生まれ、家光が彼の存在を知ったことから重臣として重用されたのだが彼の名君ぶり、家光との絆を紹介する内容 ・秀忠との「ご落胤」として生まれ、浪人の子供として育てられた正之は長じてからは保科家の養子になったが、義父は正之に徹底した教育を受けたのだが、目黒のお寺に休憩に来た家光が弟の存在を知り、正之に対面したところ将軍の弟だが、臣下とわきまえたり、将軍家の縁者か功績のある家臣に許された松平姓を下賜すると言われたが正之は固辞したりと謙虚な態度を取ったので家光は正之を一層気に入った。忠長よりも正之を可愛がったのは謙虚な態度を取ったし、自分自身病弱だったため秀忠と小督からは愛情を受けなかったところと重ね合わせてたのでは?と専門家は評価された ・以来将軍家を支えることになり、領地に帰ることはなかったが、会津に領地替えになった折、領国経営に乗り出し、領民を優先した政策(米を飢饉などに備えて備蓄)を取ったため、飢饉が起こった時は餓死者を出さなかった。 ・家光が亡くなる寸前、将軍が着用する着物を譲り受けたが、将軍と同格ということを暗に示していた(後継ぎの家綱が幼かったため) 幕府の政策を武断政治から文治政治に変えたのは正之が中心となっており、 ・末期養子の解禁=今までは後継ぎがいなかったら改易・・だったが、藩主が末期に備えて養子を取ることを許した ・殉死の禁止=殉死は以前は美徳とされていたが、有能な人材が亡くなるのは惜しいということで廃止。 ・明暦の大火の時、被災者に対して粥をふるまった、幕府の御金蔵を江戸復興のために使った。 ・江戸城に天守閣がないのは正之が言い出した。もう戦はないので天守なぞ無用の長物だといったため 晩年に家訓を残しており、その中に「「大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。」とあるが、徳川に忠誠を誓うようにということで、幕末まで徳川に対する忠誠を誓ったわけですね。 保科正之については「逆説の日本史」でも取り上げられていたんですが、触れられていないところも知るところが出来ました お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
Jul 24, 2019 01:23:14 AM
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