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1/14日放送の「the・プロファイラー」のお題はレーニン
20世紀初頭にロシアで革命を起こし、ソ連の原型を作った人物の実像に迫る。 レーニンはロシアの下級官吏の息子。成績は優秀だったが、一番上の兄・アレクサンドルをリスペクトしていることが多かったほど尊敬していたが、皇帝暗殺計画に関わったため、アレクサンドルは死刑に。 故郷を離れたレーニンはカザン大学に入学するが、恋人ができたと手記で発言。本当に恋人ができたのではなく、マルクスとエンゲルスの主義に傾倒したことを言ってる。共産主義に傾倒したレーニンは大学で政治結社を結成するが、退学するハメに。サンクトペテルブルク大学に入って弁護士の資格を得たが、その時に帝政に不満を抱きたくなる状況が発生。ロシアで飢饉が起きたから。飢饉に対してロマノフ朝がなにもしなかったから。ロマノフ朝が末期的だったとはいえ平民に援助しないとなると不平不満が出てくるよなぁ レーニンは弁護士として働く傍らマルクス主義革命結社に入って政治活動に入るが、その時に出会ったのがナデジダ・クルプスカヤで、交際を開始することに 20代で「老人」とあだ名されていたレーニン。理由は実年齢と比べると老けていること、サークル内で討論していた時に偉そうにしていたからとのこと。それを出演者が分析するのだが、人を引っ張るために偉そうにしてなきゃだめだったのかも?と分析してた。 政治運動に情熱を傾けるレーニンは逮捕されてシベリア行きに。後でシベリアに流されたクルプスカヤと再会して結婚。彼女との間に子供は出来なかったものの秘書としてレーニンを支えることに。 ドイツ・ミュンヘンなどを転々とし、本や新聞を介して革命運動を行なっていたが、政治サークル内では同志を罵ったことも。 1904年日露戦争が勃発し、ロシアは日本に負けを喫する結果に。翌年に戦争反対を訴える民衆がクレムリンに押しかけたが軍隊が鎮圧(血の日曜日事件)。これを亡命先のスイスで知ったレーニンは革命の準備を進めることに。銀行強盗等の強引な手段に出たことも。強盗事件の そんな中レーニンには愛人が・・・・愛人となったイネッサはボルシェヴィキ構成員でレーニンの演説を聞いてるうちにファンになったみたいで愛人に。それを知ったクルプスカヤは「私の方から別れるわ。あなたとイネッサと一緒にしてあげる」と突きつけたものの、いつの間にかクルプスカヤとイネッサと親友に。妻公認の愛人がいて・・・というところはコメンテーターはありえないとコメント。等身大パネルを見て「渋い」「モテ要素がない」とコメント。 1914年に第一次世界大戦が勃発し、ロシアは連合国軍として参戦。1917年には戦争反対のデモが行われ、ロマノフ朝が滅亡。その後に設立された臨時政府は戦争継続を宣言。それをチューリッヒで知ったレーニンはロシアに帰る決心をするが弱気な発言をしている。ドイツ軍の協力でロシアに帰還。帰還の最中に土地の国有化、臨時政府に従わない、ソヴィエトに権力を集中する事などを「4月テーゼ」の中で述べており、10月革命で臨時政府を打倒して権力を手に入れた。 コメンテーターは「平和 土地 パン」とわかりやすい言葉で人心を掴んだんだとコメント。 革命が成功してから・・・土地の国有化、男女平等を掲げるが、憲法制定の選挙でボリシェビキは第一党になれず、その結果に満足が行かなかったレーニンは強引にボリシェビキの一党独裁制を実現。その強引な政策に反対した勢力は独立を宣言。外国も革命の影響を恐れて独立軍を支援。更に飢饉まで起こって国内は混乱。食料を溜め込む農民から作物を略奪したり作物の供出を拒否した農民は処刑・・・って権力を持つと残酷になれるんだよな。国を安定するには内戦してる暇はない・・・ってのはわかるが。 反革命派だけじゃなく、ニコライ2世一家を処刑するという残忍な方法もやったレーニン。王政は共産主義には邪魔だったから? 暗殺未遂事件に遭った後は健康を害し1924年に死去。今遺体はモスクワにあるレーニン廟に保存されているが、レーニンの遺体を保存したまんまにするか、埋葬するかで論争が巻き起こっているとのこと。 共産主義と一党独裁政権はロクではないところがわかるけど、国を強くするためには必要な方法だと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
Jan 29, 2021 12:16:49 AM
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