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カテゴリ:テレビ番組
今回のThe・プロファイラーのお題は宮沢賢治。
大正時代末期~昭和初期に活躍した詩人・童話作家の生涯を分析していく。 宮沢賢治は岩手県花巻市の生まれ。父は質屋を経営しており比較的裕福な家庭。小学校時代のエピソードを紹介。 学生時代に日蓮宗に帰依するが、後の作家活動に影響を与えている 高等農林学校卒業後は研究生として残り、学業の傍ら童話を書き始める。研究科修了後日蓮宗系の国柱会(満州事変の関係者・石原莞爾も入会していた)に入会するが両親と信仰のことでそりが合わなかったのか1921年突然上京し、布教の傍ら創作活動を開始。所どころで宮沢作品の朗読が入る。 同年8月に父から「トシビョウキスグカエレ」の電報が・・・故郷に帰った検事だったが1年後トシは亡くなってしまう。死因は結核だったが、当時は不治の病と言われ死亡率の原因の大半は結核だった・・・というほどだからかかると死ぬのは避けられなかったからなぁ 理解者でもあった妹が亡くなったのはショックだったのか賢治は「永訣の朝」と言う詩で妹のことを書いている また、賢治の作品の復刻版のことも紹介されていた。 稗貫郡立稗貫農学校(翌年に岩手県立花巻農学校へ改称)の教師として働いていた賢治。生徒には農業を勧めていたが生徒は安定した職業に就きたがっていた人が殆ど。そんな生徒を見た賢治は大正15年に教師を辞め、羅須地人協会を作って農業に従事するようになる。童話の読み聞かせ、演奏会を行ったり、当時珍しかったチューリップ、レタスなどを栽培して売っていたけど全く売れなかった。なんで西洋野菜を作っていたのかというと冷害の多い東北では米を作るより、冷害に強い作物を作ったほうがいいと思っていたからと研究科は分析。作品も全く売れなかった・・・ってのはこの頃の作家さんのお約束(?)ですなぁ 農業の啓発、肥料の相談、土壌の改良などで色々と飛び回っていた賢治だが1929年に病に倒れる。 この頃に「銀河鉄道の夜」を書いているが制作のきっかけはトシの死後樺太の鉄道旅行を経験したことを紹介。亡くなるまで改稿を繰り返していたことと、話の概要も紹介。 病気が快方に向かうとトランク片手に東北各地・東京と回った賢治。無理が祟ったのか1931年に倒れ、実家に帰ることに。病床でも創作・作品の改稿にあたってたけど働きすぎ。 死の間際、父・政次郎が「何か言っておくことはないか」と尋ねると、賢治は「国訳の妙法蓮華経を一千部つくってください」「私の一生の仕事はこのお経をあなたの御手許に届け、そしてあなたが仏さまの心に触れてあなたが一番よい正しい道に入られますようにということを書いておいてください」と語った。 お経を作ってくださいって父に言うのは最後まで信仰に根付いた創作、農業の従事していたことに関係していたのかな?賢治は両親に何度か日蓮宗へ帰依するするように勧めていたが信仰上の関係でそりが合わなかったが、最後の願いを受けてくれるところはそんなに仲は悪くなかった模様。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
Apr 3, 2022 07:18:07 PM
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