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カテゴリ:雑学
写真は「サイネリア」
慣用句 「腰が据わる」 気を移さず一つのことに専念する。 使い方 「また、また、また総裁を変えたいのか、腰が据わらないね、ったく」 日本の合戦 4 討ち取った敵の首は、主君に見せるために持参して、本人の首かどうか検めた。首の身分の高低、武勇の優劣で恩賞が決まった。首は手柄を示す重要な証拠品だったのだ。 しかし、首は重くて一人で複数持つ事はできないので、可児才蔵は取った首の口に笹の葉を含ませて、戦場に残しておき、後日集めに行ったという。 また、首の代わりに鼻だけ取ったこともあったが、鼻だけでは誰のか判らないので、やはり首が最重視された。 斉藤道山が戦死した時、長井忠左衛門は手柄の証拠として、道山の鼻を削いだ。 首を斬る暇があったら、一人でも多くの敵を倒せということで、信長の桶狭間の戦、北条氏康の河越の戦などでは、首は野捨てにした。 大将が出陣する場合、本陣に、馬廻り衆という側近の集団が形成された。 傍には軍師と、旗持ちなどがいて、主人の剣や弓を持って従う中間もいた。 陣地の慰めに、茶人や連歌師などが同行することもあり、家康の場合は、男装した側室を伴っていた。 所領をもらう家臣は、分限に応じた騎馬武者、徒歩武者で軍団を編成し、先陣や後詰の任務を引き受けた。 彼らは鉄砲役、弓役、槍役などの多くの足軽を伴い、小荷駄隊は陣夫役に徴集した農民を使った。 また、これはと思う武将の許に、陣借りという一匹狼の浪人たちが集り、手柄を立てて仕官を狙った。 関が原などの大きな戦では、動員人数を増やすため、傭兵を雇った。 野戦の場合、所持品などは野営地に置いていたが、戦場が不明確で、いつ戻れるか戻れないか分からない時は、所持品は馬に乗せて一緒に行軍していた。 赤坂の陣を出て関が原へ向かった東軍の兵士は、どこが戦場になるか分からず、大阪まで行くかもしれないと思って出発した。 雨が激しく、ずぶ濡れだった。やがて戦場が関が原と知らされ、慌てて近くの寺などで戦闘用の装備に着替えた。 つづく お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.12.28 13:33:23
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