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カテゴリ:歴史・人物
写真の花は「プリムラ」
阿蘇中岳を中心にした周囲100キロの世界最大のカルデラと、雄大な外輪山からなる阿蘇は、一般の観光客が火口を覗ける世界でも珍しい活火山。中岳第一火口は、エメラルドグリーンの湯だまりを湛え、もくもくと白い噴煙をあげるダイナミックさ、生きている地球を感じられる。 直江兼続 8 謙信が没した時点で、春日山城の金蔵には、二万七千両あまりの遺産があった。兼続はいち早く金蔵を占拠させたので、景勝派は十分な資金があった。 黄金の効果もさることながら、兼続には他にも目算があった。 武田勝頼は、北条氏の勢力拡大を恐れていた。景虎が家督相続すれば、北条氏の勢力圏は越後まで達し、武田領が北と東から圧迫される。勝頼は甲斐、相模、越後の勢力が均衡することを望んでいた。 兼続はそこまで読んでいて、勝頼との講和を推し進めていたのだった。 北条氏が動いたのは九月になってからで、二万の軍勢を出陣させ、越後へ侵攻した。 樺沢城を攻略した北条氏は、ここを本拠地として坂戸城、板木城、浦沢城を攻めたが、落城までは至らなかった。 御館の乱は長期戦になり、年末には樺沢城の北条勢は大雪のために撤退した。 景勝優勢のうちに年が変わり、1579年2月、景勝軍は樺沢城奪還に成功し、北条氏は拠点を失った。 形勢は大きく変わり、景虎側だった諸城の兵は、相次いで景勝の軍門に降った。 3月17日、兼続は景勝に総攻撃を進言した。景勝自身も出陣し、御館を猛攻撃したが、上杉憲当はなおも和解を望み、景虎の一子道満丸をつれて春日山城へ行った。 だが、二人とも斬殺されてしまった。 景虎は敗北を悟り、小田原へ落ち延びようと御館を脱出し、途中で鮫ヶ尾城へ立ち寄った。城主の堀江宗親は、景虎派の武将だったが、景勝派に降っていたため、3月24日、景虎は自害した。 越後最大の危機御館の乱は、兼続の資質を大きく開花させた。 軍師として策謀をめぐらし、戦場では陣頭で果敢に采配を振るって、見事に景勝政権を誕生させた。 景勝は、兼続を全面的に信頼し、政務の全てを託した。その後、兼続は上杉家との絆を一段と深め、景勝と二人三脚で上杉執政の道を歩んでいった。 つづく 「霊界からの遺言」はこの前にあります お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.02.22 12:26:12
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