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カテゴリ:江戸・東京の話
ハクモクレン 江戸時代の価値観は、質素倹約、近隣互いに助け合うのを美徳としていた。 金持ちを見ると、裏で何か悪いことでもしてるんじゃないかと思った。 昭和には『名もなく 貧しく 美しく』という憧れの言葉があったが、銭儲けというと卑しい根性みたいに感じる。 武士は食わねど高楊枝などと、本当は腹ペコなのに今美味しい物を腹一杯食べたかのように楊枝をくわえてふんぞり返って歩く、それが武士の美徳だった。 そんな貧乏武士は浪人だけかと思えば、そうではなく、将軍に仕えていた旗本も、大名に仕えていた家来も皆貧乏だった。 どうしてそんなことになってしまったのだろう。 旗本や御家人は幕府から給料(禄)をもらい、藩士は藩から給料をもらっていた。 江戸幕府が成立した時に、諸大名の給料(禄高)が決められた。 大名はその収入の中から、藩士の給料を払っていた。 その給料は世襲制で、子から孫へ受け継がれていったが、昇給などは一部の例外を除くと全くなかった。 大名の給料が上らないのに、部下の給料が上るわけはなく、約250年間も変わらなかった。 しかし、生活は贅沢になるし、物価はどんどん上るし、武士の生活は苦しくなる一方だった。 戦国時代なら、敵の領地を奪って収入を増やせたが、平和な世の中で固定給になってしまい、一見子々孫々まで生活が保障されているかのように思えるが、貧乏も世襲していった。 その上大名は、藩士の給料を「借り上げ」と称して支給を減らし始めた。 借りとはいえ、返すことなどなかったので、実質的賃金カットと同じことで、それが何度も繰り返されたのだから、たまったもんじゃない。 その日暮らしの下級武士や足軽などは暮らしが立たなくなってしまい、松代藩などでは足軽が職場放棄、つまりストライキをした。 仕方なく管理職である上級武士が、門番や便所掃除までしなければならなくなった。 そんな状況下では、主君に対する忠誠心なんかどうだって良くなってしまい、藩主よりも藩そのものを守るようになって、藩主なんか死んだって、どうせ親類筋から次の藩主が来るだろうし、藩さえ存続していれば給料はたとえ僅かでも保証されると考えていた。 現代でも、社長が逮捕されても株式会社が潰れなければ、とりあえず給料は支払われるので、社長なんかどうだって良いと思ってる社員が居るのでは? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.03.21 16:34:41
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