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カテゴリ:江戸・東京の話
イチリンソウ 大名は徳川幕府から言いがかりをつけられると、転封させられるので、つまり左遷させられるので、どの大名も落ち度がないように気を使っていた。それが幕府の大名統制策の一環であった。 その頃遠州(静岡)では、白波五人男のモデルとなった大泥棒が居て、小笠原長恭はそれを取り締まらなかったという理由で、温暖な遠州から北国の棚倉へ転封されてしまった。棚倉はその頃から、懲罰的転封地になった。 1817年、井上正甫が棚倉へ追われた。正甫は人妻に手を出して大騒動になったのだった。しかし正甫は、棚倉などへは行かぬと病気を理由にして家督を息子に譲って隠居してしまった。 1836年には、松平康爵が棚倉行きを命じられた。康爵は財政難のため、朝鮮と密貿易をしたのがバレて、康爵は転封、その父は蟄居処分になった。 天保の改革の立役者水野忠邦は、備前唐津6万石の藩主だったが、老中に昇進したいがために、出世城といわれた遠州浜松へ転封を願い出て許された。首尾良く老中に出世できたが、天保の改革は失敗して罷免され、息子の忠精は山形の出羽へ転封された。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.03.21 17:24:46
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