妖怪学3
オダマキカッパの初登場は日本書紀で、仁徳天皇の時代である。仁徳天皇といえば、民が貧しいのを見て悲しく思い、税金を無くし、やがて香具山から民が暮らす里を眺めると、あちこちから竈(かまど)の煙が上がっているのを見つけて、民の暮らしが豊かになったと喜んだという優しい天皇である。その仁徳天皇が難波(大阪)に堤を築いたが、堤の二か所がすぐに壊れ、直してもまた壊れてしまった。すると天皇の夢に神が現れ、武蔵(関東)の強頸(こわくび)という人と、河内の衫子(ころものこ)という人を探して、河伯(かはく=河童)に奉れば壊れなくなると教えた。さっそく二人を探し出して人身御供に差し出した。強頸は泣く泣く水に入れられたが、衫子はヒサゴ(ひょうたん)を二つ取り出し、「もし本当の神ならヒサゴを沈めて浮き上がらないようにせよ、沈められないなら偽物の神だ」と言って、ヒサゴを水に入れた。ひょうたんが沈むわけはなく、衫子は死なずにすんだ。河伯とは朝廷の高級官僚であり、強頸とか衫子というのは地方の豪族だったという。熊本県には、「河童渡来の碑」というのがある。中国に河童族というのがいて、食糧難のため外国へ移住することになった。9千の河童族が、揚子江から黄海に出て、玄界灘を渡って熊本の徳淵に上陸した。今から1600年ほど前のことで、9千の河童族を率いて来たのは河童大将の九千坊といった。悪い河童が捕らえられた時、大きな石がすり減るまで二度と悪さはしないと約束し、その代り年に一度は祭りを行ってほしいと村人に頼んだ。村人は現在でも、「オレオレデーライダー」という祭りを行っている。このオレオレデーライダーという言葉の意味は、「呉人呉人的来多」で、呉は古代中国を指していて、中国から人々が大勢やってきたという意味である。徳川家康が江戸に入ったのは天正18年(1590)だった。秀吉は小田原攻めで大活躍した家康に、小田原城を与えようと一度は思ったものの、「待てよ、小田原は近すぎて厭だな」と、まだ芦が生い茂る湿地帯だった江戸へ追い払った。江戸城といっても、城らしき建物はなく、雨漏りのする小屋があるくらいだった。家康はこの未開の地に、ゼロから城と街を造営しなければならなかった。土地を埋め立て、水道を引き、大坂や伊勢から商人を呼び寄せなければならなかった。家康は幕府を開くと、天下普請といって全国の大名に担当を割り当てた。千石夫といって、石高千石に対して一人の人夫を差し出させた。人工的大都市の建設にはそれでも足りず、完成までの70年間には大勢の人夫が江戸へ流れ込んだ。その人夫たちは、江戸が完成してしまうと、帰るところもなく、住むところもなくなってしまった。そこで、それらの人々をまだ江戸ではなかった隅田川の東側に住まわせた。そしてその人たちを河童と呼んだのだった。こうして見ると、河童とは渡来人や無宿者、ならず者などを指す差別用語だったようだ。川や沼に棲息すると言われている背中に甲羅のあるアレは、昔は実在していて、今は絶滅してしまった動物ではないかと考えられる。