オンリーワン理念は、思いや志を文字にて表現してまとめたものです。言葉のチカラです。

2009/06/06(土)10:36

野口英世の生家と野口英世記念館

紹介します(635)

思い立ったが吉日。 左に猪苗代湖をのぞみ国道49号線を会津に走りますと左側に野口英世記念館があるのに気づいたのは30年以上も前でした。いつでも入れるだろう位に考えていましたら30年余の年月が経過していました。あと30年たったら87歳なってしまうわけです。こりゃ~まずい。近くの「野口英世の里郵便局」にて野口英世切手展のなかに英世の母、シカの手紙のレプリカがありました。話には聞いておりましたが実物をこの目でみてみたいと思ったので30年を経て野口英世記念館を見学してきました。 誰もが読んだことがあるだろう「野口英世物語」。記憶では貧しい家に生まれと書いてあったように思います。私の貧しいイメージは我が家と同じ位かなという尺度があったものだから、初めて49号線から見えた野口英世生家の屋根の大きさから、私の子供のころ住んでいたわが家の2~3倍はあるようだ、とても貧しいとは思えないので抵抗感があったので足を踏み入れるのを躊躇したのかもしれません。わが家はクラスでも1、2を争う貧乏だったので、私の家がそうとうに貧しかったのかもしれません。物語としては貧しいとしたほうがさまになるのでそうしたのか、物語を書いた作者からみてそう思えたのか。実際に作者は生家に足を運んで書いたのだろうか。約50年前に読んだ小学校の図書館の本だから・・・。私は家の周囲を目測で計ってみた、東西8間半(15m)、南北4間半(8m)。馬小屋まであるのだから並の暮らし向きと云えるだろう。会津若松市の造り酒屋の末廣酒造さんでは、野口シカさんが猪苗代から歩いてよく行商に立ち寄ったと説明を聞いたことがありました。生家の縁側に川海老が干してあったのでそれらを行商して歩いたのだろう。 野口英世の生家・室内 庭に野口シカさんの植えたという桑の木があった。もうかなり老木なっていました。 「野口英世1歳半の時に落ちた囲炉裏」という表示があります。当時の生活は、どこの家でも囲炉裏のある家では目を離せない危険と隣り合わせの生活だったのでしょう。 野口英世生家の縁側です。私の子供のころは農家はどこの家も縁側があり近所の人が茶飲み話をしていたものです。縁側の材木が当時のものなら、きっと野口英世もこの縁側に座ったこともあるだろうと・・・。 「柱に刻みこんだ決意文」というのを本の中に書いてあった記憶はありましたが、床柱だとは恐れ入りました。大黒柱と床柱はわが家ではとても考えられない場所です。とび職の父には、大黒柱と床柱は神聖な冒してならない場所ですから、清作青年にとっても、なみなみならぬ覚悟であったことが改めてわかりましたが、家族の許可をとって彫り込んだのだろうか、無許可でやったのだろうなとは思いますが、故郷を離れるときの想いが伝わりますよね。 私達の住む郡山市の子ども達は修学旅行でこの野口記念館のこの地を訪れているのだろうか。感性豊かな少年少女にはここ野口英世記念館は、志という授業を受けたあとに、ここを訪れたならよいだろう。 野口英世記念館 福島県耶麻郡猪苗代町大字三ッ和字前田81(三城潟) 肖像画が千円札に採用されていますが感想は? (動画はこちらへ) なぜ医学の道を歩むようになったのか?野口英世博士が答えます。(精巧な人形ロボット) (動画はこちらへ) 野口英世博士がモットーとした「目的・正直・忍耐」 母シカ自筆の手紙 野口英世がアメリカに渡ってふるさとに長く帰っていなかったので、母シカが英世に宛てた手紙です。手紙の中でも実直に心情が伝わる一級品の手紙と云われています。この自筆の手紙をみると伝わってくるものがありますね。文字のうまい下手ではないのです。何を伝えるか、何が伝わるか。手紙の目的が伝わることです。 それにしても当時、アメリカに手紙を送ったシカさんは、打つ手無限の発想を実践できる人だったのですね。あの親があってこそあの息子があったとも言えるでしょう。

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