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日本経済新聞のラストページに「私の履歴書」があります。現在、キッコーマン名誉会長の茂木友三郎氏が掲載されています。「当時、近くを流れる江戸川やその支流の川遊びで命を落とす子どもが少なくなかった。私は水泳禁止を両親から言い渡された。だから今でも泳げない。」この一文を読み、50年前の光景が思い出されました。 私の子供のころは、まだ学校にプールがなかったのです。ですから夏は近所の用水掘りである新掘川で泳ぐわけです。たしか学校では用水掘りで泳ぐことは禁止していたはずですが、大半の子供は無視して泳いでいました。知り合いも泳いでいてのが姿見えなくなったことがありました。 水の流れに吸い込まれて橋げたの下から下流に流されたのです。下流10m位のところに浮かび上がりました。友人たちに助けあげられ、しばらくしたら息を吹き返し一命を取り戻しました。現在でも交通事故の危険がありますが、当時のこどもは命を落とす危険と隣り合わせの遊びがありました。 私が泳げるようになったのは中3の夏でした。県中学総合体育大会が前橋の敷島総合グランドでおこなわれました。私は邑楽郡の代表選手と走り高跳びと走り幅跳びの2種目で出場したのです。 試合の前の日だったろうか、夕方プールにさそわれて行ったわけです。深いプールで身長が立ちませんのでプールのふちにず~っといるわけにもいきません。プールのコーナーで呼吸が楽にできる横泳ぎと平泳ぎを教えてもらいその日から泳げるようになったわけです。陸上の県大会に行って、まがりなりにも泳げるようになったというわけです。 水泳パンツはどうしたのか記憶がありませんが、たぶん持参していかないはずだから、陸上の短パンで泳いだのかもしれません。さそってくれたのは柔道をやっていた彼は海パン持参で県大会に行ったのだろうか。 新聞記事ひとつで小中生だったころがフラッシュバックしたわけですが、記憶の構造ってなかなか面白いものであり又なつかしいものです。 また記事の中に「群馬の太田や千葉の流山に爆弾が落ちると野田の地面もゆれた」とありました。そんなにも広範囲に揺れたものなのだろうか、地図を広げて位置関係を確認してみよう。 野田市から流山市までは直線距離で約10kmだからわかるが、野田市から太田市までは直線距離で約60kmある。60kmも離れても地響きがあったものだろうか。 ※関心ある方には検索で見つけた茂木友三郎氏名言集 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012/07/20 12:47:51 PM
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