2013/03/19(火)12:02
百人一首 11番歌 わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣り舟
百人一首 11番歌
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣り舟
わたのはら やそしまかけて こぎいでぬと ひとにはつげよ あまのつりふね
作者:参議篁(さんぎたかむら)
本名は小野 篁(おの の たかむら、延暦21年(802年) - 仁寿2年12月22日(853年2月3日))は、平安時代前期の公卿・文人。 参議・小野岑守の長男。
官位は従三位・参議。異名は野相公、野宰相、その反骨精神から野狂とも称された。
陸奥守在任中の承和9年(842年)に竹駒神社(宮城県岩沼市)を創建している。
承和元年(834年)遣唐副使に任ぜられる。
承和3年(836年)と翌承和4年(837年)の2回に亘り出帆するが、いずれも渡唐に失敗する。
承和5年(838年)三度目の航海にあたって、遣唐大使・藤原常嗣の乗船する第一船が損傷して漏水したために、常嗣の上奏により、篁の乗る第二船を第一船とし常嗣が乗船した。
これに対して篁は、己の利得のために他人に損害を押し付けるような道理に逆らった方法がまかり通るなら、面目なくて部下を率いることなど到底できないと抗議し、さらに自身の病気や老母の世話が必要であることを理由に乗船を拒否した(遣唐使は篁を残して6月に渡海)。
のちに、篁は恨みの気持ちを含んだまま『西道謡』という遣唐使の事業を(ひいては朝廷を)風刺する漢詩を作るが、その内容は本来忌むべき表現を興に任せて多用したものであった。
そのため、この漢詩を読んだ嵯峨上皇は激怒して、篁の罪状を審議させ、同年12月に官位剥奪の上で隠岐への流罪に処した。なお、配流の道中に篁が制作した『謫行吟』七言十韻は、文章が美しく、趣きが優美深遠で、漢詩に通じた者で吟誦しない者はいなかったという。