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2019/09/14
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カテゴリ:郷土の歴史
ふるさとの名物・名所を検索してみましたら、実家から約1km範囲内で知らなかった名所を見つけました。

子どもの頃の行動順路でなかったこともあり、親などからもその話を聞いたことがなかった。関心もなければその存在を知らなかったわけです。まずシラカシの巨木です。そして南朝の武将細谷右馬助秀国の墓所である五位堂。

シラカシの全国各地の巨木

まず。武将細谷右馬助秀国とはどんな人物であったのだろうか。

細谷右馬助秀国は泉福寺を建てたとあったので検索してみたら、火事で燃えてしまったとの記述があった。その火事を現場で箪笥など運び出すさまを見物していたことを思い出した。民家だと思っていたがあれが泉福寺だったのか。53年前の記憶です。


1966年(昭和41年)2月11日(金)泉福寺は焼失しましたが神社は難をのがれ寺跡には現在の集会所が建設され古来変りなく坪谷、水立、大黒中の人々のふれ合いの場となり伝統的文化と信仰が受け継がれています。その泉福寺と稲荷神社は細谷館から見て鬼門の方角に細谷右馬助秀国が1348年(正平3年)に籠宮山観音院泉福寺を建立して戦乱に散った一族家人の冥福を祈ったとあります。




五位堂のシラカシについて
南朝の武将細谷右馬助秀国の墓所が五位堂です。この墓所を覆うシラカシの巨木は、樹高18.5m、幹は4本に分かれ、幹周りはそれぞれ2.6m、1.6m、0.6m、0.9m、枝張り東西16.5m、南北18.1m、根回り6.6mです。
境内には千一体仏が安置され、子授け仏として信仰を集めてきました。現在でも、木製の小さな仏像を借り受け、子宝に恵まれると返す習わしがあります。

南朝の武将・細谷右馬助秀国とは
1347年(正平2年・室町時代に入りまもなく、672年前)、新田義貞一族の武将細谷右馬助秀国はこの地に居住するにあたり丹後国与謝郡府中にある籠神社(伊勢神宮・豊受大神の本宮)から分霊を祭って鎮守として群馬県邑楽町篠塚に細谷館(ほそややかた)を築城した城主。

1773年(江戸時代の安永2年)正月に京都から伏見稲荷を泉福寺へ勧請して農民生活の守護神と仰ぎにぎやかな祭礼が行なわれて来ました。明治維新の神佛分離令によって稲荷神社は泉福寺から離れて西隣の籠宮神社に移され社屋は青年集会所となりました。1938年(昭和13年)に現在の社殿を新築して社号を稲荷神社とし奥殿に籠宮大明神と稲荷大明神を安置奉祭したとありますが、近在の人は皆、稲荷神社と呼んでいました。

 
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細谷館の他にその北に「篠塚館」があった。

大字篠塚の、県道152号線沿い「馬場」という地名の所に篠塚館があった。

この付近には『太平記』でよく知られた豪傑篠塚伊賀守重広の供養塔や案内板が立てられているのだが、篠塚屋敷は、この篠塚伊賀守の居城であったと云われる。
 
篠塚館の所在地は、 群馬県邑楽郡邑楽町篠塚馬場2796 
現在新井氏宅が元弘の頃(1331-33)篠塚伊賀守重弘の館跡と云われている。方70m程の二重堀の塁であったらしいが、今はその堀跡も辿る事が困難と言う。
西部に毘沙門堂があり、西南外に八幡社が見られる。重弘の墓は大信寺にある。

県道を挟んで東側には「陣屋」という地名が広がっていて、江戸時代中期に松平忠恒(まつだいら ただつね)の陣屋がおかれていた場所であるという。

松平 忠恒は、享保5年(1720年)、桑折藩第2代藩主松平忠暁の次男として生まれる。陸奥桑折藩の第3代藩主、のち上野篠塚藩、上野上里見藩を経て上野小幡藩の初代藩主。忠尚系奥平松平家3代。






最終更新日  2019/09/19 01:01:56 PM
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